十一
十一
燻製小屋の出火から二週間がすぎた。
初日を迎えた今夜の舞台「黒の王子たち」は、ファムケシュ役の西村鋼がすばらしかった。国王らしい風格あふれる演技だった。とくに永遠の命を得るための生け贄として捧げたはずの息子を取り返すクライマックスでは、弱き人間としての葛藤がよくあらわれていた。亡くなった劇団主宰者への最高の追悼として、カーテンコールは万雷の拍手に包まれた。だが良一の視線は観客席の後方に向けられていた。
幕が開いたあとに入ってきたのだろう。ドアに近い席に深井静香は座っていた。二度目のカーテンコールが終わったとき、良一は席を立った。静香がドアの向こうに消えたからだ。
ログハウスが燃えあがったのは、良一が松林のなかに潜んだあの日から三度目の夜、未明の出来事だった。燻製施設の過熱が原因らしく、一気に燃え広がった。消防車が入れる場所ではない。建物が焼きつくされるまで手のほどこしようがなかった。そこに寝泊まりして作業をつづけていたという三沢達男は、落ちてきた梁に頭蓋骨を砕かれたうえ、見分けもつかぬほどの焼死体となって見つかった。
地元署に運ばれた遺体を確認したのはタカノだった。歯形も合致した。それが午後一時すぎのこと。良一は副署長に取材し、三沢達男の訃報原稿を夕刊の最終版に突っこんだ。
新日とは同着だった。
山崎鞠子の何倍も苦労しながらこの結果だったが、抜かれるよりずっといい。天と地ほどの違いがあった。それよりも良一はもっとべつのことが気になっていた。舞台では生け贄は取り返されたが、現実はそうでなかったからだ。戯曲を書いた三沢達男は悩める国王なんかより、はるかに本能に忠実だった。
深井は三日前、ひと月半ぶりに会社に姿をあらわした。良一はその場にいなかったが、いきなり部長に辞表を出したという。一身上の都合だった。プライベートでなにか起きたらしく、人が変わったようだったが、肝心な質問には口を閉ざした。取り急ぎ捜索願は取り下げられた。あとは人事部がどこまで話を聞きだせるかだが、深井は独身だし、両親はすでに他界し、兄弟もなかった。この先どうなるか良一には察しがついた。案の定、深井はふたたび連絡が取れなくなった。それであたりをつけて、良一は初日となる今夜の舞台に足を運んだのだ。
深井は劇場ロビーを出て、下りのエレベーターに乗りこんだ。良一は胸の前でバッグを抱え、階段を駆け降りた。トラバサミに食いつかれたときの傷が鈍く痛んだ。
地下一階に深井の姿があった。駐車場だった。師走の冷気もここまでは侵入してこない。暖房がきき、蒸し暑いくらいだった。深井は無人の駐車場にパンプスの音を響かせ、車の間をすり抜けていった。そういえばあいつのスカート姿なんてはじめてかもしれない。
いちばん奥のブロックにとめたワンボックスカーから、毛糸の帽子をかぶった男が足を引きずりながら降りてきた。良一は柱の陰に隠れた。タカノだった。深井は三沢のお抱え運転手だった男がスライドさせたドアの内側に吸いこまれた。
「ちょっと待って」
恋人を追いかけてきたかのように良一は声をかけた。
「めずらしいな、スカートなんて……おっと失礼。こんなこと言うとセクハラで訴えられるか……いや、もう関係ないのかな」
良一はバッグからICレコーダーを取りだした。
「これを返さなきゃいけないと思って……物証は残さないほうがいい」
シートに腰を落ちつけたまま深井はじっとこちらを見た。その目は良一のなかの罪の意識をひりつかせた。良一は本題をきりだした。元同僚の奥に潜む存在に向かって。
「そうですよ。わたしが見殺しにしたんです。だけどそれについては、あなたも共犯のはずだ。出火前に遺体の頭を砕いて歯を取り除いたあと、使い慣れた入れ歯をはめこんだ」
優美なカーブを描く少女のような額とは対照的に、鼻筋は高く、あごのラインはシャープだ。もう同僚でないと思うと、妙に魅力的な女に見えた。新日の山崎鞠子でなく、深井が選ばれたのもわかる気がする。タカノは良一をひとにらみし、スライドドアを閉めようとした。それを深井がとめた。良一はひとり言のようにつぶやいた。
「永遠の命は存在しないが、新たな命を手にすることはできる……か。ぜんぶ聞かせてもらいましたよ。いまでも信じられないけど、もうひとりの自分が、この神秘を受け容れろと言っている。それを科学で解明できるのか。ライフワークになりそうです。カギを握るのは、生け贄からつくったあの黒い汁なんですね。それこそがモクレンの幹に潜んだ黒の王子たちの恩恵というわけなんだ」
深井は顔色ひとつ変えずに、だまって良一の話に耳を傾けていた。
「ロマの伝説や土着信仰を研究するなかで、あなたはその話を聞きつけ、本気で探しもとめるようになった。そしてついにそれをルーマニア南部のトゥルゴヴィシュテで見つけてしまった」
良一はたしかめるように言ったが、深井は耳が聞こえないかのように無反応だった。
「黒の王子とは、そこに伝わる怪談に出てくるオスマン帝国軍の兵士の亡霊のことですね。むごたらしく殺された兵士たちが、死神の手によって黒の王子たちに生まれ変わり、町を彷徨うという物語ですよ。そう、兵士たちを殺したのは、ヴラド・ツェペシュ、あの串刺し公だ。ヴラドによって兵士たちが串刺しにされた街がトゥルゴヴィシュテだ。文化部の後輩が調べてくれたんです。そこから先はわたしが自力で調べました」
この二週間、かかりきりになって調べたことを良一はぶちまけた。
「黒の王子はただの怪談の主人公じゃなかった。串刺しの広場から流れだした大量の血が染みこんだ谷間が、じっさいにあるらしいじゃないですか。そこではしばしば奇怪な事件が起きていた。谷に入ったロマの若者が行方不明となり、その後、別人のようになってもどってくるというのです。モクレンの花が咲き乱れる美しい谷間ですよ。そこではてんとう虫みたいな黒い甲虫が無数に繁殖していた。あなたはその地を苦労して見つけだし、王子たちをじっさいに手に入れた。そして理想の相手、すなわち来世を託す相手があらわれるのを、あの海辺の屋敷でじっと待つことにした。そこへあいつがやって来たんだ」
暖炉の炎に照らしだされた女の頬が良一の胸をよぎった。芹礼奈なんて存在しなかった。あれはほかのだれでもなかった。三沢自身が演じる深井静香だったのだ。こんな皮肉があるだろうか。
「まさか目の前にいらっしゃったとは思いませんでしたよ。奪い、奪われることにより完全なる関係性、一体化が生まれる……。あなたは表現者としての持論を実践した。まったくの名演技だ。あのときはまだ一体化、というか変化の途中だったのですね。いまじゃ完璧に深井になりきっている。黒の王子たちが生みだしたエキスを飲みつくしたのでしょう。だけどあなたは自己顕示欲を抑えられなかった。燻製小屋の話をわたしの前で口にしてしまったのだから」
深井は微笑みを浮かべ、ゆっくりとかぶりを振った。
「そうではございません」
姿は深井だが、礼奈の口調だった。
「わたくしはただ、人間のエゴというものがどこまで深いものか確かめたかったのでございます」
「なんだって……」
「そうなのでございます。そして松原さんはわたくしが思ったとおりの行動をされた。じつにエゴイスティックでした。とにかくご自分のことを愛された。それはもう美しいほどに」
「そんなんじゃない」
口をついて出た言葉が駐車場に響いた。良一は声をひそめてくりかえした。
「そんなことじゃないんだよ」
「それではご自分に折り合いをつけられたということでしょうか」
「あなたにわかるものか」
良一はむっとしてICレコーダーを差しだした。コンビニで釣銭でも受け取るように深井は片手を広げた。
血の気がひいた。
青白い指先が良一の手の甲に触れたのだ。死体だってこんなに冷たくはない。ドライアイスのようだった。記者としての本能が良一を衝き動かした。深井の首筋にとっさに手が伸びたのだ。
おなじだった。
氷のように固まったのは良一のほうだった。そこにタカノが割って入り、良一は羽交い締めにされたまま、駐車場の床に投げ飛ばされた。
恐ろしい冷気がこんどは背中にまとわりついていた。スライドドアを荒々しく閉める運転手のうしろ姿に良一は呆然とした。
三沢だけでなかった。
黒の王子たちの恩恵をためす実験台がいたのだ。
ワンボックスカーは走り去った。良一は遠ざかるテールランプをぼんやりと見つめた。
新たな命――。
あの夜、ICレコーダーを再生したときに耳にした三沢の言葉が頭のなかでぐるぐると回った。やはり三沢達男はこの世から消えたのだ。そしてやつの言う“新たな命”とは、ロマの伝説のごとく、人知のおよばぬ深遠な存在であるにちがいない。
良一は怖々とバッグに手を入れ、ミネラルウォーターのペットボトルを取りだした。中身は空っぽで、かわりに緑の葉っぱが何枚か詰めてあった。底のほうに黒い甲虫が二匹いた。重なり合い、本能の赴くままにかすかに震えている。良一はそれを見つめた。
あの若い運転手はだれだったのか。
呪われた秘術を手に入れ、行き場を失った記者稼業から解放されたとき――そして自分に折り合いをつけながら生きるのをやめたとき――良一がそこに見るのはどんな光景だろう。ペットボトルのなかでは、オスのほうが羽を広げ、何事もなかったかのように飛びたった。
(了)




