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モウジャ  作者: 根本起男&黒岩研


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3/5

五~七

 礼奈は頑丈そうな門の外まで見送ってくれた。まだ六時をすぎたばかりだが、外は真っ暗だ。門灯の弱い明かりが足もとをぼんやりと浮かびあがらせているだけだった。

「たいしたお話もできずに申し訳ございません。くれぐれもお足もとに気をつけてお帰りくださいませ」

 タクシーは返していた。良一は、松林のなかを抜ける路地を街灯のあるほうへとぼとぼ歩きだした。雨はおさまっていたが、霧が広がっている。森の奥の沼地にいるような冷たく湿った夜気だった。持病のひざ痛が顔を出しそうだった。

 うしろで門が閉まる音がしてからたっぷり二十秒歩いたところで、良一は足をとめ、携帯電話を取りだすふりをして背後に目をやった。礼奈の姿はなかった。錬鉄製の門が、スポットライトを浴びたように浮かびあがっているだけだった。

 すぐに帰るつもりはなかった。良一はひときわ太い黒松の陰に身をひそめ、耳をすませた。タカノという付き人が気になったのだ。礼奈と話したあと、屋敷の外に出たようだった。しかし路地はもちろん屋敷のほうからも足音ひとつ聞こえてこなかった。良一は携帯電話のディスプレイの明かりで足もとをたしかめながら松林に分け入った。体に絡みつくような霧をかき分け、屋敷を取り囲む生垣の外をめぐってみる。

 燻製小屋にいたるという小径は、庭のいちばん奥まったところからのびていた。庭と松林を隔てる生垣に幅六十センチほどの切れ間があり、そこから林の斜面にそって石段がつづいていた。良一は切れ間から屋敷をのぞいた。東欧の美術品が飾られた居間には、いまではシャンデリアの明かりが灯っていた。レースのカーテンの向こうで、礼奈が茶器を片づけている。煉瓦作りの二階建てだが、ほかのどの部屋も暗かった。良一は屋敷のほうからは死角となっている石段に腰を下ろした。直感にしたがえば三沢達男はこの屋敷にいるはずだった。もう亡くなっているのなら線香のにおいがしただろうし、危篤なら部屋の明かりを落としたりはすまい。これから永久の闇に向かっていくのだ。ぎりぎりまで光に包まれていたいはずだ。

 燻製小屋だ。

 礼奈は調子に乗ってついそこの話を口にしたが、良一が突っこむとあわてて話を変えてきた。そうだ。そこをたしかめぬわけにいくまい。波の砕ける音からして、崖はそう遠くない。小屋だってそれほど離れてはいまい。燻製小屋というと狭苦しい作業場のようだが、じっさいはログハウスのようなところなのかもしれない。

 良一ははたとひざを打った。

 よりによってこんなときに思いだすなんて。それは数年前に新日が書いた三沢のインタビュー記事だった。老境に入ったかつての大スターの言葉を記録した数少ない資料である。それを取材したのは山崎鞠子という演劇担当のベテランだった。例の大物作家の訃報をスクープした記者だ。

 (どうせ人間いつか眠りにつくんだ。だったら好きな場所で眠りたいね。おれなら断然、海を見わたす崖っぷちとかがいい)

 その場所こそが燻製小屋なのだ。良一はいてもたってもいられなくなった。石段から腰をあげるなり、小径をのぼろうとした。そのときだった。

 足音が聞こえた。

 聞き覚えのある引きずるような足音だった。小径の上のほうからこっちに下りてくる。良一はあわてて生垣の切れ間から後ずさりし、こんもりとした松葉に埋めつくされた地面に四つん這いになった。首筋がちくりとしたが、良一は息を殺した。


 あらわれたのはタカノだった。

 足が悪いというより、霧のなかで石段を踏み外さないよう慎重に下ってきていた。なにか大きなものを両手で抱えている。肩からさげる懐中電灯の光があさっての方角をせわしなく照らし、良一は見つかるのではないかとびくびくした。首のうしろがむずむずした。なにかが這っているようだった。刺されたような気もしたが、良一はがまんした。

 タカノは良一の目と鼻の先に差しかかった。抱えているのは、木のボウルのようなものだった。居間に置いてあったのとおなじものかもしれない。なかになにか入っているのだ。燻製小屋に行って、生ハムを削り取ってきたのだろうか。それとも瀕死の老人の喉から吸いだした貴重な痰でも集めてきたのか。タカノは良一には気づかずに庭に下りていき、玄関のほうへまわった。良一はすかさず首のうしろを払った。小石のようなものが指先に触れた。ぬるりとした。携帯電話のディスプレイで照らしてみた。

 血だった。

 まるでブヨに刺されたみたいだった。良一は立ちあがり、足もとにディスプレイを向けた。枯れ草の上で黒っぽい背中がぬらりと輝いたようだったが、すぐに見えなくなった。爪先で探ってみたが、どこにも見あたらなかった。礼奈の言うルーマニアの咬みつき虫だろうか。良一はもういちど首のうしろに手をやった。ただのてんとう虫とはちょっと違うようだった。甲羅をかぶったヒルのような生きものを良一は想像した。それが大量発生しているだと? 気色が悪くなったが、明かりの届くかぎり、黒い甲虫が足もとを這いまわっているようすはなかった。

 良一は屋敷に目を凝らした。タカノは居間にあらわれた。礼奈はソファに腰をおろしていた。疲れているようだった。タカノは彼女のうしろをまわり、マントルピースからワイングラスを取りだした。ボヘミアングラスの陳列品のひとつである。そこに慎重な手つきでボウルを傾けた。グラスは真っ黒に染まった。ワインとも違うようだ。どろりとした液体だった。タカノは燻製小屋に行ってきたのだろう。そこでボウルにその液体を注いでもどってきた。小屋では生ハム以外にいったいなにを作っているのだろう。

 タカノはグラスを両手で恭しく持ち、礼奈のわきに立った。国王に仕える家臣のようだった。礼奈はぞんざいな手つきでグラスを受け取った。タカノは一歩下がって彼女のようすを見守った。礼奈はグラスをじっくりと眺め、それからゆっくりと口をつけた。

 一気に飲みほした。

 良一は目をこすった。陶然としたようすでソファの背にもたれる礼奈の顔が、複雑に揺らいだように見えたのだ。なぜか深井のことが胸をよぎった。顔だちがすこしばかり似ている礼奈と対峙して、あいつは三沢の体調についてなにか重大なことをつかんだのだろうか。

 礼奈がグラスをタカノに返し、なにごとか告げた。三沢の付き人は小さく頭をさげ、窓に近づいた。カーテンを引きはじめたそのとき、おびえたような顔をしているのが見えた。

 タカノがまたやって来る恐れがあった。良一は奇怪な甲虫に注意しながら生垣の外にひそみ、携帯電話を開いた。芹礼奈のことが気になった。後輩にメールを打ち、経歴を調べるよう指示した。それにしても今夜は冷える。雨はやんだが、湿った冷気が体にまとわりついてくる。さっきのスコッチをもっと腹に入れておくんだった。

 ふいに松林の視界が開けた。雲が晴れて月が顔を出したのだ。こんな晩にはふさわしいさえざえとした満月だった。良一は携帯を握りしめたまま、いらいらと返信を待った。屋敷のほうは、カーテンが引かれた居間から明かりが漏れているほかは暗いままだった。タカノもあらわれなかった。十分たってもメールはこなかった。いったいなにをやっている。良一は怒りの電話を入れたい衝動に駆られた。やがてそれはひどい吐き気に変化した。松葉のうえに腰をおろし、しばらくじっとせねばならなかった。

 考えたくなかった。でも考えないわけにはいかなかった。

 いったいなにをやっている――。

 そう言われることをしているのは、自分のほうだった。落ち着いて考えれば、三沢本人にもっとも近い人物から、その無事を確認できたのだ。疑ったらきりがない。風邪をこじらせぬよう養生しているというのなら、なにも今夜、体調の激変が起きるわけでもなかろう。これから先、取材は継続せねばならないが、いまこうして暗がりにひそんでまでがんばる話でもあるまい。

 それでも新日は電話を入れてきた。

 そう思った途端、頭に浮かんだのは例の作家のことだ。おなじような状況で、あのときは家族から完璧にうそをつかれた。そして新日に抜かれた。おなじ失敗は二度くりかえしてはならない。それにいまは容態が安定していても、予断を許さぬ状況には変わりないのかもしれない。その意味では今夜はもう一歩、詰めるところを詰めるべきなのだろう。

 吐き気はしぶとかった。理由はひとつしかない。

 天罰なのだ。

 人の命が尽きるのを嬉々として探っていることへの。

 良一は逃げだしたい衝動に駆られた。いったいいつから自分の人生はこんなにも息苦しくなってしまったのだろう。子どものころはもっと壮大で、意義深い仕事を夢見ていたはずだ。それがこのていたらくだ。違う人生を生きられるのなら、すぐにでも乗り換えてしまいたかった。そう思ったとき返信がきた。三十分もすぎていた。メールを開くなり、後輩への怒りは消え失せた。信じられなかった。

 芹礼奈という名前の劇団員は存在しなかった。

 劇団のホームページはもちろん、後輩は演劇人名鑑も調べてくれた。そればかりか芸名を変えた可能性もあるとみて、劇団の制作担当者に電話で問い合わせていた。過去から現在まで、芹礼奈という者が三沢の劇団に所属した記録はなかった。ほかの劇団に所属しているかもしれない。そう思ってネットでも検索したが、一件もヒットしなかったという。

 なぜだ。

 そんな相手が話したことの信憑性も疑わしくなってきた。だが三沢の私生活を語ったときのあの深刻そうな顔つきは真に迫っていた。やはりいつもそばにいる者なのだろうか。

 答えをつかみかねていたとき、二件目のメールが着信した。おなじ後輩からだった。添付し忘れた資料があったという。演劇雑誌のウェブサイトに掲載された「黒の王子たち」の主演俳優・西村鋼のインタビューだった。作品の背景と見どころを丹念に解説していた。

 良一が興味をひかれたのは、三沢がロマの一部に伝わる土着信仰に関心を持っていたというくだりだった。ロマとはいわゆるジプシーと呼ばれる人々のことだ。七十歳をすぎた三沢が何度も東欧旅行、とくにルーマニアに出かけたのは、その土着信仰の研究のためであると西村は明かしていた。その信仰とは、大元はギリシャの古代宗教なのだが、特有の神秘主義が加味され、黒魔術的な色彩も帯びているという。今回の舞台は、そうしたもののエッセンスが多分に取り入れられていると、西村は巧妙にファンの興味をくすぐっていた。

 西村は、ロマの民話をもとにしたという作品のあらすじをこう語っていた。

「隣国をつぎつぎと併合して強国となったゾラゴニアの王、ファムケシュは、三人の息子たちに領土を分割してあたえたのち、自らは宗教に帰依しようと考えた。そこに墓守の老女があらわれて、王にささやく。『永遠の命を欲するのならば、呪われた谷に暮らす“黒の王子”に会うがよい』その言葉にファムケシュは、息子たちのなかでもっとも知力と武勇に優れた長男を従者として旅に出る。そして苦難の果てに黒の王子と面会したファムケシュは、ある生け贄を差しだし、かわりに月の女神セレナの涙をボウルに受ける」

 ボウルに受ける――。

 良一は恐ろしい考えにとらわれた。三沢は虚構と現実の区別がつかなくなっているのではないか。それで土着信仰に出てくる秘儀かなにかを実践しようと燻製小屋にこもっている。それを付き人たちは、だまって見守っている……。いずれにしろ小屋をちょっとのぞくだけで疑問は解消される。良一は小径をのぼりはじめた。


 黒松の林は思ったより深く、月明かりがありがたかった。

 だんだんと傾斜がきつくなる斜面を石段づたいにのぼり、五分ほど歩いたところで視界が開けた。日中なら絶景だろう。絶壁のうえに良一は立っていた。でも月夜もなかなかいける。霧も晴れ、東の空から降り注ぐ月光が漆黒の海面に銀色の道をつくっていた。こんな宵にお気に入りの場所で天に召されるなんて、望んだところで容易にはかなうまい。

 燻製小屋はそこにひっそりと建っていた。

 案の定、丸太を組んだ小屋だった。ウッドデッキのような張りだし部分があり、小ぢんまりとしているが、居住には十分耐えうる。しかし内部全体が燻製作りの作業場になっているのかもしれない。

 海に面する側に大きな窓があり、そこからオレンジ色の明かりが漏れている。良一は耳をすませたが、物音は聞こえない。もし三沢がなかにいるのなら、勝手に入るわけにはいくまい。良一はウッドデッキにあがり、窓に顔を寄せてみたが、カーテンがひかれていてなかのようすはわからない。

 足音をしのばせて小屋をひとまわりした。裏手の壁からはL字形に煙突が突きだし、わずかながら煙があがっていた。なかに入るには、正面の窓のわきにある木のドアを使うほかなさそうだ。良一はドアノブをつかみ、音をたてぬようゆっくりと回転させたが、びくともしなかった。鍵がかかっている。もういちど良一は耳をすませた。せめてなかにだれかいるかどうかたしかめたかった。波の轟音にいらだった。耳のなかに海が広がっているみたいだった。

 あきらめかけたとき、聴覚がなにかをとらえた。良一は唾を飲みこみたくなるのをがまんした。ドアの内側からだった。だれかが咳きこんだようだった。ついに三沢達男の居場所を見つけたのだろうか。だが咳きこんだのは女であるような気もした。

 足音が聞こえた。

 小屋のなかからではなかった。小径の石段を踏みしめる音だった。懐中電灯の明かりが近づいてきた。湿気でひざが悲鳴をあげるのをこらえ、良一は猫のようなすばしこさで闇に隠れた。

 礼奈とタカノだった。

 石段をあがってきたのだ。礼奈がドアに近づき、鍵を取りだした。良一はそれが開くのを待った。三沢の姿が確認できればいいのだ。ところが礼奈はドアをわずかしか開けてくれなかったし、なかは燻製作りに使うらしい煙が広がっていてよく見えなかった。ふたりはドアの内側に消えた。良一はもういちどウッドデッキにあがり、ノブに手をかけた。内側から鍵がかかっていた。

 五分たってふたりが出てきた。良一はデッキの下にもぐった。頭上でドアが施錠される音がした。これでは窓をたたき割りでもしないと、なかのようすはわからない。

「どんな感じですか」

 だしぬけに女の声があがった。礼奈ではない。声は石段のほうからした。べつのだれかが上がってきていたのだ。

「今夜どうこうということはございませんから」

 良一の頭上で礼奈が返事をした。

「なにかお話はなさったのですか」

「ずっと眠ったような状態ですから」

 良一は喉の奥に苦いものがせり上がってくるのを感じた。口調は変わらないが、話している中身は良一に教えた事柄よりもずっと直接的で具体的である。それが近親者に対するものなら納得もできた。しかしそうではなかった。礼奈が話しているのは、取材にやって来た記者のようだ。それも良一が知っている人物だった。

 山崎鞠子。

 ライバル紙である新日本新聞文化部の演劇記者だ。例の作家の訃報記事をスクープした張本人だ。さっき電話をかけてきて、それでも納得できずに足を運んだのだろう。それを礼奈は追い返すどころか、ここまでいっしょに上がってきた。

 どういうことだ?

 フラッシュバックに吐き気がぶりかえした。あのとき良一は作家の自宅に押しかけ、深夜まで家族と押し問答をしたあげく、その場を引きあげた。他社の記者の影は見られなかった。それでも新日に抜かれたのである。鞠子がどんなパイプを駆使したのか想像もつかないし、考えるのも悔しかった。ウッドデッキの下で丸くなりながら、良一は嫉妬した。鞠子と礼奈の間には一朝一夕では築けない確たる人間関係があるようだった。

「お変わりないということですか」

 良一とおなじく鞠子も見極めをつけようとしていた。それに対する礼奈の返事を良一はある意味、聞きたくなかった。

「徐々に弱っているようです。今晩……遅くともあすには――」

 良一の質問はのらりくらりとかわしていたのに、礼奈は鞠子には率直に答えている。禁断の小径を堂々とあがってきた鞠子は、三沢達男がこの小屋のなかにいて、しかも危篤に近い状態であることまでいともたやすく知ることができた。

「お茶でも飲んでいってください、山崎さん」

 礼奈はまるで最後のお別れにやって来た親類に接するような態度でそう言うと、鞠子と並んで石段を下りていった。そのあとにタカノがつづいた。良一は、鞠子と礼奈の会話をデスクに伝えるべきだったが、メールは打てなかった。プライドがじゃましてきたのだ。はっきりしているのは、良一は今夜は帰れないということだった。

 小屋の土台部分に四角い鉄板のようなものがあった。人がひとり通り抜けられそうだった。床下設備の点検で使うハッチのようだった。


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