三~四
三
深井静香は三年前に社会部から異動してきた。
女性ながら警視庁や裁判所も担当したことのあるいわゆる事件屋だった。文化部にやって来たのは、四十歳を超えて体力に限界を感じたからではない。いずれは芸能関係の取材にかかわりたいと異動希望調査票に書いていたのだ。だからレザージャケットに破れたジーンズというパンクロッカー並みのいでたちながら、仕事に対する粘り強さは男である良一なんかよりずっと勝っていた。独身だから仕事いちずになれる。そんなことを言う同僚もいたが、地方支局から本社にあがって以来、ずっと文化部でぬくぬくとしている良一たちとは、根本的に記者としての鍛えがちがった。お気楽な読み物としての記事を提供するのが文化部のおもな仕事だった。そんなところにどっぷりと浸かっていると、いつしかジャーナリストのたたずまいも変化してくる。
鈍感になるのだ。
深井の目にはそれが情けなく映った。
記者とは思えない。
良一のことを指摘されたわけではないが、前に口走ったことがある。そんな深井を良一は好ましく思っていなかった。しかし表だって批判すると、負け犬の遠吠えのように聞こえる。かかわりを持たぬよう仕事を分担しながら、無視をきめこむほかなかった。
良一をはじめとするプロパーの文化部員だって、自分たちが取材部門の記者連中から蔑まれていることは自覚していた。そんななかで唯一、文化部員の真骨頂と自負できるものがあった。
亡者だ。
ライバル紙の新日ではそれを「死人」と呼ぶ。まさしく死んだ人間。その訃報記事のことだ。著名な作家や俳優が他界したことはれっきとしたニュースなのである。それさえ落とさなければ、とやかく言われることもないし、逆に抜かれると、これほど手痛いものはなかった。大物になれば一面にどんと出る。他紙の朝刊にそれを見つけたときのやるせなさは、言葉を超越している。二か月前、くだんの作家の亡者を新日に抜かれたとき、良一の携帯は午前三時に鳴った。泊まり勤務の若い社会部員が新日の早刷りを見て、いやみのように通報してきたのである。
だから文化部では大量の予定稿をつくる。訃報の連絡を締め切り直前に受けても即応できるよう、その人物の業績や人となりをあらかじめ記事にまとめておくのである。良一もすでに五十人以上を予定稿であの世に送りこんでいる。じっさいに紙面になったのはまだ十人にも満たない。しかし予定稿の準備なんかより、対象者が体調を崩していく過程を確実にフォローするほうが、取材活動の本質だった。だから著名人の近況を関係者に真剣に取材しているようで、内心では嬉々として彼らがくたばるのを待っているのである。
良一を岬の別荘に駆りたてたのもこの理由からである。新聞社の文化部員はいまや死神そのものだった。そんなことばかりしていると、いずれしっぺ返しがくる。部員のだれもがうすうすそう感じていた。事実、体調を崩す者が増えていた。人が亡くなるのをメシの種にし、会社の廊下のまんなかを歩くための免罪符としていることへの天罰なのだろうか。真顔でそんな話をする者もいた。
その延長線上に深井静香の失踪はある。鼻もちならないパンク女がいなくなって人知れず清々している一方で、良一はそうも思うようになっていた。
四
「深井さんも先生のようすを訊ねにいらしたのですよ。一般紙の記者さんにしては、目だつ格好をされていたので覚えております」
礼奈は懐かしむようだった。
「いつごろの話です?」
「ひと月ほど前でしょうか。あのときは先生は腰を痛めて、お医者さまに診てもらったのです。それでうわさが広がったのだと思います」
「それで……深井は?」
「納得されて引きあげていかれました。でもなんだか心配されていましたよ。社会部風を吹かせて、あんまりガツガツと取材に回るものだから、部内で顰蹙を買っているんじゃないかって。とくに同期の人の目が厳しいとおっしゃっておりました」
深井の消息は気になったが、やつのそんなもの言いは心外だった。それではまるでこっちが妬んでいるみたいじゃないか。良一は自分こそが同期入社の部員であることは伝えなかったが、これだけは言っておくことにした。
「記者にもいろいろタイプがあるんです。そのへんはわきまえて、おたがいに尊重していますよ」
「そうですよね。わたくしもあの方はユニークな記者さんだと思いましたし。松原さんのほうが取材を受けやすい感じがします」
そう言われ、良一は安心した。暖炉の炎が礼奈の頬を艶やかに染めあげていた。深井に似ているように見えたのは、小さくとがった下顎と、目元の隈のせいだった。でもそれに気づいた途端、見れば見るほどまったくの別人であることがわかってきた。だいいち礼奈には、あの勘違い女に決定的に欠ける品の良さと無邪気さがある。そこに目がいけばいくほど、良一は礼奈に吸い寄せられた。深井の話なんてこの際どうでもいい。この広い屋敷には、いるのかさえわからぬ老人のほか、良一と礼奈のふたりしかいないようだった。いつしか波の音も聞こえなくなっていた。霧に包まれた静寂のなか、良一はいつになく奔放な想像をめぐらせた。仕事を忘れてしまいそうだった。
礼奈はそんな良一の気持を察していた。もういちど立ちあがると、こんどは盆に入れた皿を持ってきた。やわらかそうな赤黒い肉片がのっていた。
「自家製でございます。召しあがってみてくださいませ」
粗茶が気になったようだが、それならクッキーかなにかの茶菓子でいいのに、よりによって目の前に出てきたのはしっとりと脂ののった生ハムだった。これなら赤ワインでもほしいところだった。
「こちらでお作りになっているのですか」
「はい。先生の二十年来の趣味でございます」
「生ハム作りがですか」
「庭の向こうに燻製小屋があるのです。冷燻と申しまして、薪を燃やした煙をいったん冷まして、それでいぶすのです。冬のこの時期は毎年せっせと作っては、お世話になっている方々に送るようにしております。さあ、どうぞ、召しあがってください」
良一は極薄の一片を指でつまんだ。独特の香りがあったが、コクと酸味のバランスは秀でていた。
「味が濃いですね。いまもされているのですか?」
さりげなく訊ねてみたが、またしてもはぐらかされた。
「燻製小屋のことばかりいつも気にかけております」
「毎日ようすを見なければならないのですか」
「本来ならばそうしなければなりません。陶芸品を焼くのとおなじだといつも話しております」
「ぜひともそのあたりのこともうかがいたいものです」
「どうでしょう……燻製小屋のくわしい話を先生はなさらないのです」
「しかしこんなに美味なものをいただいておいて質問ひとつしなかったら、新聞記者として失格です。それにその燻製小屋がどんなところかひと目見たいものです」
「申し訳ございません。わたくしが話しすぎたのでございます。お忘れになってください。もしどこかで先生にお会いになられても、わたくしがそのようなことをぺらぺらと話していたなんて言いつけないでください。だいいち――」
礼奈ははっとして居間のドアに目をやった。開け放したままだった。礼奈はドアのところへ行き、暗い廊下に顔を出してようすをうかがったのち、そっと閉めた。
それでも礼奈は声をひそめた。深井はここまでの話を聞いたのだろうか。それともおれだけが踏みこんだ未知の領域なのだろうか。礼奈のなかに自分への好意が増していくのを肌で感じつつも、良一は戸惑いを隠せなかった。
「わたくしが男の人といっしょにこうして話しているところを先生に見つかったら、それこそたいへんなことになります。ごぞんじかもしれませんが、先生はとても嫉妬深いのです」
「しかしそれなら先生は、立ち聞きができるほどお元気ということになる」
そう言ってのけると、礼奈はぱっと明るい顔になった。
「先生が本当にそばにいるのなら、わたしだってこんなふうに記者さんを部屋のなかにまで招き入れませんよ」
「でもドアまでお閉めになったじゃないですか。声を聞かれたくないのでしょう」
「ドアを閉めたのは万が一のためでございます。だれがやってくるか知れたものではありませんからね」
やはり三沢は施設に入っていてこの屋敷には不在なのか。そう思ったら残念な反面、さっきまで喉のあたりでびくついていたものが、すっと解消した気分となった。良一は三沢達男の私生活を訊ねてみたくなった。
「九十四歳で嫉妬深いというのはどういうことなのでしょう」
礼奈は突き放すように言った。
「人間変わらないものですよ。先生は三十代で日本ばかりか世界にその名をとどろかせてしまった。いまも先生の出演作は、海外のどこかの映画館でかかっている。いまどきのドラマに顔を出す役者もどきとはちがうのです」
「それは理解しております」
生ハムを噛みしめるうちに口のなかが脂っこくなってきた。良一は紅茶用に小瓶に入ったスコッチをそのままあおりたくなった。
「だから劇団に入ってくる者たちはだれもが先生を尊敬し、その言葉に聞き入る。偉大な俳優として崇めるわけです。だけど先生だって人間なのです。以前、週刊誌に書きたてられたことを考えればおわかりになると思いますが、人間の部分をどうしても捨てられない。逆にいくらでも自由になる信徒が目の前にいるぶん、自分を抑えられなくなってしまう。先生自身、悩まれている部分です」
「どうして結婚されなかったのでしょうか」
「その必要がなかったからでしょう。身の回りの世話をする者はつねにいたし、さびしさをまぎらわす相手にも事欠かなかった。私生活がどんなだったか、みなさんのほうがよくごぞんじでしょう」
隠し子のことは訊ねなかった。いまは本人の生存確認がだいいちだった。
「そばにいらっしゃる方よりもわかるなんてことはありませんよ」
「俳優業のほうは七十歳できっぱり引退したのですが、その後は劇団が先生の宇宙でした」
紅茶は飲みほしていた。良一はこっそり小瓶の中身をカップに注ぎ、ちびちびやりながら香りを楽しみだしていた。暖炉の炎がいちだんと明るくなっている。外は真っ暗だった。もうひと息だ。良一は自信を持った。足を使って取材に来てよかった。礼奈は完全に打ち解けてくれている。
「つまりそこの女優さんたちは――」
「先生の指導方針にこのようなものがあります。わたしも以前はそのように思っておりました」
芹礼奈は背筋をのばした。
「舞台では共演者の存在を奪い取るつもりであるべきだ。同時に自らもすべてを奪われる覚悟がなければならない。それにより役者どうしの完全なる関係性、一体化が生まれる――」
礼奈は良一を見つめた。その覚悟があるかどうか、女優たちは三沢からためされたにちがいない。
「すべては先生がきめるのです。それは強い嫉妬心の裏返しなのでございます。ご自身でもそれが若いころの原動力であったと申しております。自分が持たざるものに対して、激しい敵意と妬みにとらわれるのです」
「とすると劇団の方、とくにこの別荘に出入りされる方は気をつかわれるわけですね」
「いっさいの秘密を持てないのでございます」
「とりわけ礼奈さんはたいへんだ」
「はい。部屋に鍵もつけさせてもらえません」
礼奈は夜な夜などんな思いで床に就いているのだろう。良一は近い将来載るはずの三沢の訃報記事のことを思った。そうした秘話のいっさいが切り落とされ、大スターの虚像だけが賛美される。思わずに口をついて出てしまった。
「まるで専制君主みたいですね」
「いえ、そのようなことはございません。これも自分で選んだ道ですから」
その言葉には、三沢達男への畏敬とそれとは裏腹の憎悪のようなものが入り混じっていた。それらがじわじわと腐敗を重ねたすえに漏れてきた静かなる絶叫のようだった。
廊下で足音がした。
良一は総毛だった。引きずるような足音が居間のドアの前でとまった。なかのようすをうかがっているようだった。礼奈の顔がこわばるのをゆらめく炎が照らしだした。すっとドアが開き、若い男が顔を出した。
「お客さまよ」
軽く叱責すると男はあわてて頭をさげた。陰鬱な感じのやせぎすの男だった。
「なにか用かしら」
男はうつろな目でものを言い、礼奈はソファから腰をあげた。ふたりは廊下に消え、秘密を聞かせまいとするようにドアが閉まった。それでも断片的に聞こえた。礼奈の声だった。
「……あとでかけ直すと言って……こっちに来られても……新日さんも困ったもの……」
新日さん……?
電話をかけ直し、なにを話すというのだ。良一は鉛を飲んだような気分になった。
礼奈が恐縮してもどってきた。
「あれは先生の運転手兼付き人のタカノでございます」
「するとこの屋敷では、礼奈さんと彼が先生の身の回りの世話を?」
「はい、さようでございます。ええと、松原さん……」
礼奈はそわそわしているようすだった。良一は腕時計に目をやった。もう一時間も話しこんでいた。
「つい長居をしてしまいました。申し訳ありません。あのぅ……先生は本当にお変わりないのですね」
「それはもちろんです。先ほど申しあげたとおりです」
こんなところでいい子になる必要はない。新日に負けるわけにいかなかった。
「名刺には携帯電話の番号も書いてあります。なにかあったら、ご連絡いただけるとありがたいのですが。これまでは新日とのお付き合いが深かったかと思いますが、うちも負けてはいられません。先生の作品は今後も紙面で積極的に紹介していくつもりです。とにかく今後ともなにとぞよろしく」
最後の部分を強調したが、礼奈は会釈を返しただけだった。
こっちに来られても――。
ドアの向こうから聞こえたその言葉が頭のなかでぐるぐると回った。死が間近であることがわかっているから新日の記者は電話をしてきたのだし、この別宅を訪ねてこようというのである。そして死期の迫った人間は、果たしてどこで最期を迎えたいと考えるだろう。
三沢達男の体はこの地にある。
確信が良一の胸に広がった。




