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モウジャ  作者: 根本起男&黒岩研


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一~二

 雨はしぶとく降りつづいた。

 タクシーの後部座席で、松原良一は不安に駆られた。侵してはならぬ境界を知らぬ間に越えてしまったような気がしてきたからだ。

 隙間風のように演劇界に流れたうわさに色めきだったのがいけなかったのだろうか。往年の大スター、三沢達男がいよいよ危ないという話だった。彼が主宰する劇団のスタッフは、鼻風邪をこじらせただけだと説明したが、三沢は九十四歳だ。記者歴二十年の良一は納得しなかった。晩秋の冷たい雨に濡れる街に飛びだしてきたのは、うわさの真偽をこの目でたしかめるためだった。

 都心から一時間ほど電車に乗り、駅前にたむろしていたタクシーで橋をいくつも渡った。岬の突端だった。霧雨に変わっていた。雨粒まじりの潮風が吹きわたる松林の奥にそっとたたずむ洋館を良一が訪ねるのははじめてだった。ベテランの運転手でさえ、そこに文化勲章受章者が暮らしているとは知らなかった。

 夕暮れ時だった。濡れたインターホンにしがみつく小さな黒い甲虫を指ではじき、良一はボタンを押した。電子音の残響が非常警報のように林じゅうに広がった。人気のないさびしい場所だった。三沢は俳優業を引退後、ずっとここで隠遁生活を送っているという話だった。

 女性の声がした。外まで出てきてくれるようだった。良一は背の高い錬鉄製の門を見あげた。おなじ高さで左右にのびる生垣をつなぎあわせ、外の者をいっさい拒絶するかのようだった。

「東邦新聞の方ですか……せっかくいらしていただいて申し訳ないのですが、ご取材なら劇団に訊ねていただきたいのですが」

 傘を差しながら門のところで応対してくれたのは、三十代後半とおぼしき女性だった。白いブラウスと紺のフレアスカートが上品さを醸しだしていた。どことなく主宰者に似ている顔つきだが、三沢達男に結婚歴はない。以前週刊誌が書きたてた隠し子であろうか。しかし堂々と新聞記者と応対するのでは、もはや隠しているとは言えまい。だったら家政婦か親類だろう。それにしてもきょうは冷える。雨がいけなかった。老人が息を引き取るにはうってつけの夜になりそうだった。

 三沢の危篤説はそもそも劇団が発信源だった。

 劇団は今月、三沢が劇作家として二十年ぶりに書き下ろした新作戯曲「黒の王子たち」の上演を計画している。三沢の輝かしい俳優人生といまの老境を重ね合わせた重厚な作品になるとの話だった。戯曲は七割方できあがったところで、上演台本として劇団員の手に渡り、都内の貸倉庫でけいこがはじまった。ところが初日の幕が開く一週間前になっても完成稿は届かなかった。そこで団員たちに不安が広がったのである。いくら霧雨にまとわりつかれても、良一はダイレクトにはそんな話を持ちださなかった。相手を刺激すまいと、この手の取材での常套文句を口にした。

「突然やってきて驚かれるかと思います。じつは元旦の別刷りで、昭和映画を振り返る特集を考えております。それがすこしばかり取材を急いでおりまして」

 それならなおのこと劇団を通せ。獲物を狙う爬虫類のような目つきで一瞬、良一はにらまれたが、すぐにどこか憂いをたたえたような湿ったまなざしに変わった。それがこんどはべつのだれかに似ていた。良一の身近にいる人のようだったが、思いだせない。

「ここではなんともこたえかねますが」

 ポニーテールの髪と尖ったあごのせいもある。ずいぶんと小さな顔だったが、すっきりとした目鼻だちは大きく、舞台映えがした。それでぴんときた。お役所のような受け答えにも合点がいく。三沢に似ているのは、その手の顔だちの人間を自ら面接して選んだからであろう。そのなかの何人かが交代で、ひとり暮らしの老人の身のまわりの世話をしているのだ。そういえば目力も強い。見つめられるとこっちが戸惑うほどだった。女優の卵ならではである。いや、待て。良一は喉の奥を締めつけられた。

 そんなにきれいな話なのだろうか。

 三沢達男の彫の深い頬と仁王のごとく爛々と輝く目つきは、エキゾチックでどこか超然とした雰囲気があったが、私生活はじつに人間的だった。スターと呼ばれる俳優にはつきものだが、三沢のスキャンダルは群を抜いていた。映画の共演女優にことごとく手をつけている。そんな話がまことしやかに流れていたのだ。だったら私費を投じて旗揚げした劇団に入ってくるうぶな娘たちの運命もおして知るべしだ。

「劇団の方ですか?」

 相手の顔つきがやわらいだ。たとえ観客がひとりしかいなくても、舞台にあがっているのが本当の自分である。それに気づいてくれてほっとしたかのようだった。

「さようでございます」

 つぶやくような声だったが、張りがあった。

「もしかして……女優……さん?」

 答えを聞かずともわかった。頬が自然と緩んでいた。まだこの年代なら、夢をくすぐられていやな気になる者はいない。

「わたしは演劇の分野も取材しています。どこかで公演を拝見しているかもしれない」

 あてずっぽうはすぐにばれた。向こうは苦笑いをし、自分が芹礼奈せり・れなという女優で、年に一、二回は舞台にあがることもあるが、ほとんどの期間をこの地で三沢のの世話をしていると話してくれた。そして訪れる客の三人にひとりから、親類と間違われるとも打ち明けた。

「記事を書くというのはうそでいらっしゃいますね」

 あっさりと見破られ、良一は門の前で立つ瀬をなくした。さっきはじき飛ばした黒い甲虫が羽を広げてふたたびインターホンに着地した。よほどそこが好きなのだろうか。てんとう虫のようだった。良一はいたたまれなくなったが、礼奈は屋敷に招き入れてくれた。冷たい雨のなかやって来た訪問者、それも全国紙の文化部員をむげにあつかっては失礼になる。主宰者の教えが行き届いているかのようだった。


 薄暗い廊下を進み、良一は毛足の長い絨毯が敷かれた応接間に通された。

 本物の暖炉で赤々とはぜる炎が心地良かった。濡れた服もすぐに乾きそうだった。芝生を張った広い庭の向こうは、うっそうとした松林だった。その奥は海のようだ。革張りの座面にムートンを敷いたソファに腰を落ち着けてみると、波が断崖に砕ける音がかすかに聞こえた。

 礼奈は向かいに座り、紅茶を淹れてくれた。良一はいっしょに出された小瓶をかたむけて手がとまった。ミルクかと思ったら、琥珀色の液体だった。

「ハイランドのシングルモルトでございます。先生も気に入っているものです。雨に打たれてお体が冷えていらっしゃるでしょうから、こちらのほうがいいかと勝手に考えまして。もしミルクのほうがよろしいようでしたら、ただいまクリームをお持ちいたしますが」

「いえ、お気づかいなく。というよりむしろこちらのほうがありがたい。察するとおり、じつに冷たい雨です。凍りつきそうです。暖炉がついているのをありがたく思っていたところです」

 良一は自分でアイリッシュティーを作り、ひと口すすった。礼奈の心づかいのとおり、たちまち体じゅうの血管が広がり、爪先がじんわりと熱を帯びてきた。しかし部屋の雰囲気自体はケルティックでもビクトリア朝的でもなかった。黄金色に輝くイコンが等間隔で壁に飾られ、マントルピースには、銀細工の王冠やブレスレットをはじめとする装身具が並んでいる。磨きあげたボヘミアン・グラスもあった。窓辺のサイドボードには、使いこんだ感じのする木のボウルなど古民具も置かれていた。

 とりわけ居間を印象づけていたのは、暖炉とは反対側の壁に広げて張られた黒い布であった。衣服のようで、首からすっぽりとかぶるだぶだぶとしたものだった。

「あれは舞台衣装かなにかでしょうか」

「いえ、ラーソという先生の収集品です。ギリシャ正教の司祭が使う本物でございます」

「ギリシャ正教……先生が東欧美術にご興味を持たれていたというのは本当だったのですね」

「七十歳を過ぎたころからです。美術にかぎらず、東欧世界全体に興味を持ちまして、何度も旅するようになりました」

「近々、行かれるご予定などはあるのですか」

「東欧諸国のなかでも、最近はルーマニアに興味を持っておりまして、新しい戯曲のヒントになるような伝説のたぐいを探そうと、年明けにめぐるつもりで楽しみにしております。ですから体調にも気を配っておりますし――」

 礼奈はふいに立ちあがり、良一の背後に目を凝らした。そこになにかが舞っていた。礼奈はティッシュを取り、良一のいるソファの裏にまわった。

 小豆大の黒い粒がソファの背に付着していた。それを礼奈は拭き取った。

「いやだわ」

 礼奈はそうつぶやき、ティッシュを丸めた。殻がつぶれるようなくぐもった音がした。良一は見逃さなかった。ティッシュに小さな赤い染みができていた。礼奈は窓辺に近づいた。

「また入ってきている」

 絨毯の途切れたフローリングにかがみ、礼奈はべつのティッシュで床をふいた。

「てんとう虫なんです。この秋に急に増えまして、寒くなってきてからは屋敷のなかに入ってこようとするのです」

「てんとう虫ですか」

 たったいま部屋のなかを舞っていたのが、あの丸っこい昆虫だとはにわかに信じられなかった。そういえば外のインターホンにも一匹たかっていた。

「はい。いくら窓を閉めてもサッシのレールの隙間から、群れでしのびこんでくるのです。工事用のパテでふさいでもみたのですが、それでも入ってきてしまう」

 寒気を覚えたかのように礼奈は両腕を抱えた。

「殺虫剤とかはどうですか。無害な顔をしててんとう虫は害虫なんですよ。せがれが言ってました。アブラムシとおなじで野菜を食い荒らす。学校で習ってきたそうです」

「ぞんじております。肉食でもあるとか。でもとても巧妙でして。薬を撒いて退治したかと放っておくと、何日かしてまた動きだす」

「何日も死んだふりを?」

「そうなのです。息子さん、小学生ぐらいですか」

「ええ、一年生です」

「じゃあ、昆虫が自分の命を守るためになにをするかなんて、学校ではまだ教えないのでしょう。命の問題を理解するには早過ぎる」

「殺虫剤が効かないのですか」

「そうなのだと思います。あの硬い甲羅には染みこまないのかもしれません」

「そんなことあるんですかね」

「生命力が強いのだと思います。このあたりではこれまで見られなかったのですが、先生が植えた木に卵がついていたようです」

「ほう、なんの木ですか」

 ソファにもどった礼奈は庭のほうに手を広げた。雨はあがりかけていた。本物の霧がうっすらと湯気のように広がりだしていた。

「ルーマニア南部の森に自生するモクレンの一種なのです。とても美しい赤い花が咲くというので去年、一本だけ輸入してあの庭に植えたのです。ところが花をつける前に幹の内側から枯れてしまった。先生はとても残念がりましたが、原因がこのてんとう虫だったようです」

「木を枯らすほどわいたのですか」

「ええ。それが庭じゅうに散りまして、いまでは手のほどこしようがありません。どうなることか、わたしたちも心配しているところです。外来種ですから、どんな悪さをするかと思うと。咬んだりもするのですよ」

 礼奈は怖がるように胸の前で抱えた両腕をさすった。良一は眉根を寄せた。

「咬む? てんとう虫が?」

「はい。咬むというより、葉っぱをかじるような感じですかね。お客さまがたかられたことがあるのです」

「駆除業者にたのんでみてはいかがですか」

「いずれはそうしようかと。屋敷のなかに妙な黴菌でも振り撒かれては、先生が困りますから」

 礼奈ははっとして言葉をつぐんだ。良一はいつしかテーブルのほうに身を乗りだしていた。礼奈はあきらめたように話しだした。

「先生は台本の執筆で疲れがたまっているのです。それにこの天気ですし。風邪気味であるのは事実です。それで仕事をいったん中断して、なんと申しますか気分転換をはかっている最中でございます」

 礼奈は、スカートの生地をそろえたひざのところで軽く握りしめるようにして話してくれた。劇団に問い合わせてもそのくらいなら教えるだろうから、二度手間にならぬようサービスしてくれたのである。もう十年以上、三沢達男の身の回りの世話をしているという。劇団の制作部員なんかよりも三沢という人間のことがわかっていた。

「このようなことはときどきあるのです。この何年かのうちに二、三度ございました」

 丁寧な口調は劇団で鍛えられたというより、元々の育ちが影響しているようだった。

「そのたびに記者さんがいらっしゃいます。はじめのうちはわたくしも呆れたり、義憤に駆られたりもしましたが、先生本人に諭されたこともあって、いまでは受け流せるようになってまいりました」

「先生に諭されたというと?」

「新聞記者はそれが仕事なのだ。むしろたとえうわさ話でも座視するようでは失格なのだ。そう教わりました」

 スコッチが全身にまわるにはいささか早かったが、良一は首筋がかっと熱くなった。向こうはこっちがやって来ることなどお見通しだったのである。他方、すこしだけ気がらくになった。

「するともう体調のほうは?」

「落ち着いております」

 つまり危篤ではないということだが、老人のことだ。鼻風邪がいつ肺炎に移行するかわからない。妙な菌でも持っていそうな昆虫の大量発生はべつとして、そんなときたいていの医者は入院をすすめる。

「それはよかった。とすると先生はいま、こちらでお休みになっているということですか」

「ご面会できるかどうか……それに劇団にも断らないと」

「いますぐ面会したいというわけではありません。いずれはそうしたいものだと。ですからじっさいに取材にうかがう際は、劇団の制作部の方にも話をとおしますが、とにかくこちらへ参上すればよろしいわけですね?」

 良一がまずは知りたいのは、いまこの屋敷内に三沢達男が生きて存在するという事実であった。自分でも気がへんになっていると思うくらい神経質になるのには理由があった。二か月前、わが国を代表する文豪の訃報記事をライバル紙の新日本新聞に朝刊一面ですっぱ抜かれたばかりなのである。良一だってもちろん警戒は怠らず、抜かれる前夜には作家周辺のようすがおかしいとの情報を得て取材に奔走していた。それでも家族の厳重なガードを破れなかったのだ。だからおなじ失敗を二度繰り返さぬためにも良一は、執拗に礼奈に食い下がらねばならなかったのである。

「先生の自宅はいまも都内です。でもここは先生がいちばん好まれている場所でございますから」

 はぐらかされるわけにいかなかった。良一は思いきって訊ねた。

「ご入院されているのですか」

 礼奈は唇をかみ、首をかしげた。白いうなじがブラウスの襟元から広がった。そこに噛み痕のようなものはないか、良一は気づかれぬよう目を這わせた。礼奈はきっと夜もいっしょに暮らしているにちがいない。生々しい痕跡が見つかるのなら、むしろ良一としては喜ばしいかぎりだ。すくなくともこないだの作家のときのように、すでに他界して密葬まですませているなんてことはなかろう。

「入院というとなにかたいへんな病気を患っているように聞こえますね。でも高齢なのは事実ですから、そういうときに相談できるよう手はずは整えております。もちろんふつうの方とはちがいますので、プライバシーには最大限配慮いたしませんと――」

 良一はぴんときた。

 施設だ。

 ふつうの病院だと、面会を装って受付で問い合わせれば、気になる人物が入院しているかなんてすぐにわかる。その点、老人介護施設となると厄介だ。こっちが身元を明かさないかぎりらちがあかない。金持ちが入る施設となればなおさらだった。それでも良一は確証がほしかった。

「つまりこちらにはいま、いらっしゃらないのですね」

 礼奈はだまって良一のことを見つめた。いつのまにか日没を過ぎていた。いくら暖炉がついていても、部屋のなかは新聞も読めぬほど暗くなっていた。それでも礼奈は明かりをつけようとしない。良一は礼奈の背後の壁に目をやった。不自然に波打っているように見えたからだ。部屋に入りこんできた小さな甲虫がそこでひしめいているのかと背筋が寒くなったが、炎が怪しく反射しているだけだった。礼奈は口もとに微笑をたたえ、こうきりだした。

「東邦の記者の方って、みなさん、とても熱心でいらっしゃいますね」

「え?」

 良一は眉をひそめた。礼奈は音もなく立ちあがり、廊下へ消えた。暖炉の炎とアイリッシュティーのせいで体は温かいはずだったが、良一は居心地の悪さに襲われた。海辺特有の粘っこい湿気が屋敷の外から押し寄せてきているかのようだった。もしかしたらルーマニアの晩秋も、こんなふうに滅入ってしまう日がつづくのだろうか。

「この方です。前にいらっしゃったのですよ」

 居間にもどってきた礼奈は一枚の名刺を手にしていた。暗くて判然としなかった。礼奈は明かりをつけるかわりに代読してくれた。

「深井さん。深井静香さん」

 良一は腹のなかに冷たい手を入れられたようにぞくりとした。同時に胸の内でずっともやもやとしていたものが霧消した。礼奈が似ている人物がいったいだれなのか、いまはっきりとわかったのだ。深井静香は同期の文化部員で、良一とともに芸能分野を担当していた。いまは彼女が受け持っていた仕事は、良一と後輩が分担している。一か月ほど前、深井は会社から取材に出かけたまま、いまなお行方知れずとなっているのである。


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