声
八月の半ばを過ぎた頃、遼は自力で歩けなくなった。
移動は車椅子になり、酸素も常につけるようになった。
身体は正直だった。
命が尽きる準備を、静かに始めていた。
それでも朝は来る。
窓の外では蝉が鳴き、夕方には赤い光が病室を染める。
世界は何も変わらない。
遼だけが、少しずつ終わりへ近づいていた。
*
「苦しくないですか」
朝倉が聞く。
遼は少し考えてから答えた。
「苦しいです」
「正直」
「でも、前より怖くないかも」
朝倉は点滴を調整しながら、小さく頷いた。
「慣れました?」
「……覚悟、ですかね」
遼は窓を見る。
以前は、「死」は真っ黒な穴みたいなものだった。
全部を奪うもの。
無意味にするもの。
でも今は少し違う。
怖いことに変わりはない。
ただ、人生の最後にある“自然な終わり”にも見え始めていた。
それは諦めとは少し違った。
長い一日が終わる時みたいな感覚だった。
*
その日の午後、母が来た。
今日は少し元気がない。
座る前から、遼には分かった。
「どうした」
母は少し迷ってから言う。
「お父さんが……来たいって」
遼は黙った。
父。
もう何年まともに話していないだろう。
厳しい人だった。
怒鳴るわけではない。
でも、いつも正しいことばかり言う人だった。
「男なんだから頑張れ」
「仕事は続けろ」
「甘えるな」
その言葉たちに、遼はずっと押し潰されてきた気がしていた。
だから実家から離れた。
連絡もしなくなった。
「……無理に来なくていい」
遼が言うと、母は小さく首を振った。
「でもね」
「?」
「お父さん、最近ずっと泣いてるの」
遼は息を止めた。
父が泣く。
想像できなかった。
あの人は鉄みたいな人間だと思っていた。
感情なんて見せない人だと。
母は目を伏せる。
「“何も知らなかった”って」
病室が静かになる。
遼は何も言えなかった。
本当は、自分も分かっていた。
父なりに、不器用に、自分を心配していたこと。
でも、自分たちは似すぎていた。
弱さを言葉にできないところが。
*
次の日。
父は病室に来た。
一気に老けて見えた。
背中が少し丸くなっている。
髪も白い。
遼はその姿を見て、妙に現実感を失った。
親も歳を取る。
当たり前なのに、今さら気づく。
父は椅子に座る。
しばらく何も言わない。
沈黙。
昔からそうだった。
やがて父が言った。
「……すまなかった」
遼は目を見開く。
父は俯いたまま続ける。
「お前が苦しんでるの、気づかなかった」
声が震えていた。
遼は言葉を失う。
父はずっと、“強い側”の人間だと思っていた。
でも違った。
この人もただの人間だった。
間違えるし、後悔する。
怖がる。
「俺」
父は拳を握る。
「ちゃんと父親できてたと思ってた」
遼は喉が熱くなる。
「仕事して、飯食わせて、大学出して」
「……」
「それで十分だと思ってた」
遼はゆっくり息を吐いた。
「十分だったよ」
父が顔を上げる。
「ほんとに」
遼は少し笑う。
「俺が勝手に、うまく生きれなかっただけ」
父は首を振った。
「違う」
その声は、今まで聞いたことがないくらい弱かった。
「助けてやれなかった」
遼は父を見る。
涙を堪えている顔だった。
その瞬間、遼は気づく。
自分はずっと、“理解されなかった”と思っていた。
でも違った。
誰も、どうしていいか分からなかっただけなのだ。
自分も。
父も。
母も。
皆、不器用だっただけだ。
*
父が帰る前。
病室の扉のところで振り返った。
「遼」
「ん」
父は数秒迷う。
それから、小さく言った。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
遼は息を止めた。
今まで一度も聞いたことのない言葉だった。
遼は笑おうとした。
でも先に涙が出た。
声にならない。
父はそれを見て、少しだけ笑った。
そして静かに病室を出ていった。
*
夜。
遼は眠れずにいた。
呼吸が浅い。
身体が重い。
でも心は妙に静かだった。
スマホを開く。
メモ帳。
遼はゆっくり文字を打つ。
『父親がありがとうって言った』
少し考える。
続ける。
『あの人でも泣くんだと思った』
さらに書く。
『人生、全部無駄だったわけじゃないのかもしれない』
指が止まる。
窓の外では、夜風が木を揺らしている。
遼は目を閉じた。
死ぬのは怖い。
まだ怖い。
でも今、自分は少しだけ思っていた。
――生まれてきてしまったことは、そんなに悪いことじゃなかったのかもしれない。




