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八月の半ばを過ぎた頃、遼は自力で歩けなくなった。

移動は車椅子になり、酸素も常につけるようになった。

身体は正直だった。

命が尽きる準備を、静かに始めていた。

それでも朝は来る。

窓の外では蝉が鳴き、夕方には赤い光が病室を染める。

世界は何も変わらない。

遼だけが、少しずつ終わりへ近づいていた。

「苦しくないですか」

朝倉が聞く。

遼は少し考えてから答えた。

「苦しいです」

「正直」

「でも、前より怖くないかも」

朝倉は点滴を調整しながら、小さく頷いた。

「慣れました?」

「……覚悟、ですかね」

遼は窓を見る。

以前は、「死」は真っ黒な穴みたいなものだった。

全部を奪うもの。

無意味にするもの。

でも今は少し違う。

怖いことに変わりはない。

ただ、人生の最後にある“自然な終わり”にも見え始めていた。

それは諦めとは少し違った。

長い一日が終わる時みたいな感覚だった。

その日の午後、母が来た。

今日は少し元気がない。

座る前から、遼には分かった。

「どうした」

母は少し迷ってから言う。

「お父さんが……来たいって」

遼は黙った。

父。

もう何年まともに話していないだろう。

厳しい人だった。

怒鳴るわけではない。

でも、いつも正しいことばかり言う人だった。

「男なんだから頑張れ」

「仕事は続けろ」

「甘えるな」

その言葉たちに、遼はずっと押し潰されてきた気がしていた。

だから実家から離れた。

連絡もしなくなった。

「……無理に来なくていい」

遼が言うと、母は小さく首を振った。

「でもね」

「?」

「お父さん、最近ずっと泣いてるの」

遼は息を止めた。

父が泣く。

想像できなかった。

あの人は鉄みたいな人間だと思っていた。

感情なんて見せない人だと。

母は目を伏せる。

「“何も知らなかった”って」

病室が静かになる。

遼は何も言えなかった。

本当は、自分も分かっていた。

父なりに、不器用に、自分を心配していたこと。

でも、自分たちは似すぎていた。

弱さを言葉にできないところが。

次の日。

父は病室に来た。

一気に老けて見えた。

背中が少し丸くなっている。

髪も白い。

遼はその姿を見て、妙に現実感を失った。

親も歳を取る。

当たり前なのに、今さら気づく。

父は椅子に座る。

しばらく何も言わない。

沈黙。

昔からそうだった。

やがて父が言った。

「……すまなかった」

遼は目を見開く。

父は俯いたまま続ける。

「お前が苦しんでるの、気づかなかった」

声が震えていた。

遼は言葉を失う。

父はずっと、“強い側”の人間だと思っていた。

でも違った。

この人もただの人間だった。

間違えるし、後悔する。

怖がる。

「俺」

父は拳を握る。

「ちゃんと父親できてたと思ってた」

遼は喉が熱くなる。

「仕事して、飯食わせて、大学出して」

「……」

「それで十分だと思ってた」

遼はゆっくり息を吐いた。

「十分だったよ」

父が顔を上げる。

「ほんとに」

遼は少し笑う。

「俺が勝手に、うまく生きれなかっただけ」

父は首を振った。

「違う」

その声は、今まで聞いたことがないくらい弱かった。

「助けてやれなかった」

遼は父を見る。

涙を堪えている顔だった。

その瞬間、遼は気づく。

自分はずっと、“理解されなかった”と思っていた。

でも違った。

誰も、どうしていいか分からなかっただけなのだ。

自分も。

父も。

母も。

皆、不器用だっただけだ。

父が帰る前。

病室の扉のところで振り返った。

「遼」

「ん」

父は数秒迷う。

それから、小さく言った。

「生まれてきてくれて、ありがとう」

遼は息を止めた。

今まで一度も聞いたことのない言葉だった。

遼は笑おうとした。

でも先に涙が出た。

声にならない。

父はそれを見て、少しだけ笑った。

そして静かに病室を出ていった。

夜。

遼は眠れずにいた。

呼吸が浅い。

身体が重い。

でも心は妙に静かだった。

スマホを開く。

メモ帳。

遼はゆっくり文字を打つ。

『父親がありがとうって言った』

少し考える。

続ける。

『あの人でも泣くんだと思った』

さらに書く。

『人生、全部無駄だったわけじゃないのかもしれない』

指が止まる。

窓の外では、夜風が木を揺らしている。

遼は目を閉じた。

死ぬのは怖い。

まだ怖い。

でも今、自分は少しだけ思っていた。

――生まれてきてしまったことは、そんなに悪いことじゃなかったのかもしれない。

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