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夏 

朝が来る

九月の最初の日だった。

夏が終わりかけていた。


窓の外では、蝉の声が遠くなっている。


代わりに、秋の虫の音が混ざり始めていた。


季節は変わる。


遼がいなくなっても、きっと何度でも。



その朝、遼はほとんど目を開けられなかった。


呼吸は浅く、小さい。


酸素マスクの音だけが静かに続いている。


朝倉が病室へ入る。


「おはようございます」


返事はない。


でも、遼の指が少しだけ動いた。


朝倉はベッド脇の椅子に座る。


向日葵は少し萎れていた。


折り紙の星は、その隣にまだ置かれている。


高橋が来たのは昼頃だった。


息を切らして病室へ入ってくる。


「……間に合った」


その声に、遼はゆっくり目を開けた。


薄く笑う。


「おう」


掠れた声。


それだけで、高橋は泣きそうな顔になる。


「そんな顔すんな」


遼が言う。


「お前が泣くと、なんかマジっぽいだろ」


高橋は笑いながら目を押さえた。


「十分マジだろ、バカ」


病室に静かな空気が流れる。


少しして、母と父も来た。


母は最初から泣いていた。


父はずっと唇を噛んでいる。


遼はぼんやり三人を見る。


自分の人生に、人がいる。


昔は、一人だと思っていた。


誰にも必要とされていないと思っていた。


でも違った。


気づけなかっただけだった。


遼はゆっくり息を吸う。


苦しい。


でも、不思議と嫌ではなかった。


「……なあ」


皆が顔を上げる。


遼は途切れ途切れに言った。


「俺さ」


声が掠れる。


高橋が身を乗り出す。


遼は少し笑った。


「最初……死ぬつもりだったんだよ」


母が泣く。


父が目を閉じる。


「でも」


遼は窓の外を見る。


青空だった。


九月なのに、まだ夏の色が残っている。


「死ぬって分かってから」


息を吸う。


細い呼吸。


「生きるの、ちょっと分かった」


病室が静かになる。


誰も何も言えない。


遼は目を細める。


海を思い出していた。


あの日の風。


波の音。


眩しい光。


向日葵。


折り紙。


プリン。


全部、小さなものだった。


でも、その小さなものたちが、自分を最後まで人間にしてくれた。



夕方。


空が赤く染まり始める。


遼の意識は途切れ途切れだった。


朝倉が手を握っている。


母も。


父も。


高橋もいた。


遼はぼんやり思う。


寂しくないな、と。


昔、死にたかった頃。


自分は世界から切り離されている気がしていた。


透明で、空っぽで、誰にも見えていないと思っていた。


でも本当は違った。


ちゃんとここにいた。


失敗しても。


弱くても。


うまく生きられなくても。


それでも、自分の人生だった。


遼は最後に、ゆっくり目を開ける。


窓の向こう。


夕焼けの空。


綺麗だった。


本当に。


「……海」


小さく呟く。


高橋が涙声で笑った。


「今度また行こうぜ」


遼も少し笑った気がした。


そして。


静かに呼吸が止まった。


まるで眠るみたいに。


苦しそうではなかった。


ただ、長い旅が終わった人の顔だった。



葬儀の日。


空は晴れていた。


高橋は、遼のスマホを母親から受け取った。


「これ……あなたにって」


中にはメモ帳が残っていた。


何百もの短い文章。


『空が青かった』


『海、また見たい』


『高橋、プリン買いすぎ』


『母親のおにぎり、塩強い』


『怖い』


『でも、生きてよかった』


高橋はしばらく画面を見つめる。


それから、小さく笑った。


涙が落ちる。


空を見上げる。


夏が終わっていく。


でも、遼が見た空は、これからも世界に残り続ける。


人は死ぬ。


けれど、生きた時間までは消えない。


誰かが覚えている限り。


そして誰かの人生を、少しだけ変えた限り。


遼は確かに、ここにいたのだ。

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