夏
朝が来る
九月の最初の日だった。
夏が終わりかけていた。
窓の外では、蝉の声が遠くなっている。
代わりに、秋の虫の音が混ざり始めていた。
季節は変わる。
遼がいなくなっても、きっと何度でも。
*
その朝、遼はほとんど目を開けられなかった。
呼吸は浅く、小さい。
酸素マスクの音だけが静かに続いている。
朝倉が病室へ入る。
「おはようございます」
返事はない。
でも、遼の指が少しだけ動いた。
朝倉はベッド脇の椅子に座る。
向日葵は少し萎れていた。
折り紙の星は、その隣にまだ置かれている。
高橋が来たのは昼頃だった。
息を切らして病室へ入ってくる。
「……間に合った」
その声に、遼はゆっくり目を開けた。
薄く笑う。
「おう」
掠れた声。
それだけで、高橋は泣きそうな顔になる。
「そんな顔すんな」
遼が言う。
「お前が泣くと、なんかマジっぽいだろ」
高橋は笑いながら目を押さえた。
「十分マジだろ、バカ」
病室に静かな空気が流れる。
少しして、母と父も来た。
母は最初から泣いていた。
父はずっと唇を噛んでいる。
遼はぼんやり三人を見る。
自分の人生に、人がいる。
昔は、一人だと思っていた。
誰にも必要とされていないと思っていた。
でも違った。
気づけなかっただけだった。
遼はゆっくり息を吸う。
苦しい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「……なあ」
皆が顔を上げる。
遼は途切れ途切れに言った。
「俺さ」
声が掠れる。
高橋が身を乗り出す。
遼は少し笑った。
「最初……死ぬつもりだったんだよ」
母が泣く。
父が目を閉じる。
「でも」
遼は窓の外を見る。
青空だった。
九月なのに、まだ夏の色が残っている。
「死ぬって分かってから」
息を吸う。
細い呼吸。
「生きるの、ちょっと分かった」
病室が静かになる。
誰も何も言えない。
遼は目を細める。
海を思い出していた。
あの日の風。
波の音。
眩しい光。
向日葵。
折り紙。
プリン。
全部、小さなものだった。
でも、その小さなものたちが、自分を最後まで人間にしてくれた。
*
夕方。
空が赤く染まり始める。
遼の意識は途切れ途切れだった。
朝倉が手を握っている。
母も。
父も。
高橋もいた。
遼はぼんやり思う。
寂しくないな、と。
昔、死にたかった頃。
自分は世界から切り離されている気がしていた。
透明で、空っぽで、誰にも見えていないと思っていた。
でも本当は違った。
ちゃんとここにいた。
失敗しても。
弱くても。
うまく生きられなくても。
それでも、自分の人生だった。
遼は最後に、ゆっくり目を開ける。
窓の向こう。
夕焼けの空。
綺麗だった。
本当に。
「……海」
小さく呟く。
高橋が涙声で笑った。
「今度また行こうぜ」
遼も少し笑った気がした。
そして。
静かに呼吸が止まった。
まるで眠るみたいに。
苦しそうではなかった。
ただ、長い旅が終わった人の顔だった。
*
葬儀の日。
空は晴れていた。
高橋は、遼のスマホを母親から受け取った。
「これ……あなたにって」
中にはメモ帳が残っていた。
何百もの短い文章。
『空が青かった』
『海、また見たい』
『高橋、プリン買いすぎ』
『母親のおにぎり、塩強い』
『怖い』
『でも、生きてよかった』
高橋はしばらく画面を見つめる。
それから、小さく笑った。
涙が落ちる。
空を見上げる。
夏が終わっていく。
でも、遼が見た空は、これからも世界に残り続ける。
人は死ぬ。
けれど、生きた時間までは消えない。
誰かが覚えている限り。
そして誰かの人生を、少しだけ変えた限り。
遼は確かに、ここにいたのだ。




