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8月の足跡

八月に入った。

病室の窓から見える空は、痛いほど青かった。

入道雲がゆっくり流れていく。

蝉の声はますます大きくなり、朝も昼も夕方も鳴き続けていた。

遼はベッドを少し起こし、窓の外を眺める。

呼吸は前よりずっと浅い。

話すだけで疲れる。

食事も半分ほどしか入らなくなっていた。

それでも、不思議と穏やかな時間が増えていた。

死が近づいているのに。

いや、近づいているからかもしれなかった。

その日、高橋は子供を連れてきた。

「え?」

病室に小さな女の子が入ってきた瞬間、遼は固まった。

「娘」

高橋が言う。

「見れば分かる」

女の子は高橋の後ろに隠れながら遼を見る。

四歳くらいだろうか。

髪を二つ結びにしている。

「ほら、挨拶」

「……こんにちは」

小さな声。

遼はぎこちなく笑う。

「こんにちは」

子供なんて何年ぶりにまともに見ただろう。

どう接していいか分からない。

高橋は苦笑する。

「妻が“お見舞い行くなら連れてけ”って」

「気を遣わせたな」

「いや、あいつも会っとけって」

娘は病室をきょろきょろ見回していた。

そしてベッド脇の向日葵を見つける。

「おはな!」

「触っていいぞ」

娘は嬉しそうに向日葵を見る。

その横顔を見て、遼は不思議な感覚になった。

命って、こうやって続いていくのかと思った。

誰かが生きて、誰かが生まれる。

自分がいなくなっても世界は続く。

昔はそれが寂しかった。

でも今は、少し安心する。

娘が突然、遼を見る。

「おにいさん、びょうき?」

高橋が焦る。

「おい」

「いいよ」

遼は少し笑った。

「病気」

娘は数秒考え込む。

それから小さな鞄を開け、何かを取り出した。

折り紙だった。

ぐしゃぐしゃの星。

「これあげる!」

遼は目を丸くする。

「……いいの?」

「げんきになる!」

その瞬間。

遼の胸の奥で、何かが静かに崩れた。

自分はずっと、「価値がない人間」だと思っていた。

仕事もできない。

誰にも必要とされない。

消えても困らない。

そう思っていた。

でも今、小さな子供が、自分に「元気になって」と言った。

ただそれだけで、涙が出そうになるくらい嬉しかった。

「……ありがとな」

娘は満足そうに頷いた。

二人が帰ったあと、遼は折り紙をずっと見ていた。

歪んでいる。

角もズレている。

でも綺麗だった。

朝倉が病室に入ってくる。

「何見てるんですか」

「宝物」

朝倉は折り紙を見て笑った。

「かわいいですね」

「うん」

遼は胸の上に星を置く。

小さい。

軽い。

でも、妙に温かかった。

夜になると熱が出た。

身体が重い。

呼吸が苦しい。

咳も止まらない。

痛み止めを入れてもらい、遼はぼんやり天井を見る。

死が近い。

それはもう、自分でも分かる。

怖かった。

やっぱり。

どれだけ受け入れた気になっても、怖いものは怖い。

消える。

自分が終わる。

世界から完全にいなくなる。

それは恐ろしかった。

「眠れませんか」

朝倉が小さな灯りの中で言う。

遼は頷く。

「……怖い」

朝倉は椅子に座った。

「うん」

「最近、前より怖い」

「うん」

「生きたいって思い始めたからかも」

朝倉は少し黙る。

それから静かに言った。

「それ、自然なことですよ」

遼は目を閉じる。

「でももう遅い」

「そうですね」

即答だった。

遼は少し笑う。

「そこ否定しないんだ」

「できないので」

朝倉はまっすぐ言う。

「でも、“遅かった”ことと、“意味がなかった”ことは別です」

病室が静かになる。

点滴の音だけが聞こえる。

「神谷さん」

「……」

「人って、長く生きたから幸せとは限りません」

遼は薄く目を開ける。

「短くても、“生きてよかった”って思える時間はあります」

遼は窓を見る。

夜だった。

暗いガラスに、自分の痩せた顔が映っている。

その顔は、昔よりずっと弱っていた。

でも同時に、昔より少しだけ人間らしく見えた。

翌朝。

遼は久しぶりに夢を見なかった。

代わりに、静かな目覚めだった。

窓から朝日が入っている。

向日葵が光を受けていた。

折り紙の星も、その隣にある。

遼はそれを見つめながら思う。

もし人生をやり直せたら。

もっと違う生き方があっただろうか。

もっと誰かを頼れただろうか。

もっと自分を嫌わずに済んだだろうか。

分からない。

でも、一つだけ確かなことがある。

自分は最後の最後で、少しだけ「生きる」ということに触れられた。

それだけは、失くしたくなかった。

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