8月の足跡
八月に入った。
病室の窓から見える空は、痛いほど青かった。
入道雲がゆっくり流れていく。
蝉の声はますます大きくなり、朝も昼も夕方も鳴き続けていた。
遼はベッドを少し起こし、窓の外を眺める。
呼吸は前よりずっと浅い。
話すだけで疲れる。
食事も半分ほどしか入らなくなっていた。
それでも、不思議と穏やかな時間が増えていた。
死が近づいているのに。
いや、近づいているからかもしれなかった。
*
その日、高橋は子供を連れてきた。
「え?」
病室に小さな女の子が入ってきた瞬間、遼は固まった。
「娘」
高橋が言う。
「見れば分かる」
女の子は高橋の後ろに隠れながら遼を見る。
四歳くらいだろうか。
髪を二つ結びにしている。
「ほら、挨拶」
「……こんにちは」
小さな声。
遼はぎこちなく笑う。
「こんにちは」
子供なんて何年ぶりにまともに見ただろう。
どう接していいか分からない。
高橋は苦笑する。
「妻が“お見舞い行くなら連れてけ”って」
「気を遣わせたな」
「いや、あいつも会っとけって」
娘は病室をきょろきょろ見回していた。
そしてベッド脇の向日葵を見つける。
「おはな!」
「触っていいぞ」
娘は嬉しそうに向日葵を見る。
その横顔を見て、遼は不思議な感覚になった。
命って、こうやって続いていくのかと思った。
誰かが生きて、誰かが生まれる。
自分がいなくなっても世界は続く。
昔はそれが寂しかった。
でも今は、少し安心する。
娘が突然、遼を見る。
「おにいさん、びょうき?」
高橋が焦る。
「おい」
「いいよ」
遼は少し笑った。
「病気」
娘は数秒考え込む。
それから小さな鞄を開け、何かを取り出した。
折り紙だった。
ぐしゃぐしゃの星。
「これあげる!」
遼は目を丸くする。
「……いいの?」
「げんきになる!」
その瞬間。
遼の胸の奥で、何かが静かに崩れた。
自分はずっと、「価値がない人間」だと思っていた。
仕事もできない。
誰にも必要とされない。
消えても困らない。
そう思っていた。
でも今、小さな子供が、自分に「元気になって」と言った。
ただそれだけで、涙が出そうになるくらい嬉しかった。
「……ありがとな」
娘は満足そうに頷いた。
*
二人が帰ったあと、遼は折り紙をずっと見ていた。
歪んでいる。
角もズレている。
でも綺麗だった。
朝倉が病室に入ってくる。
「何見てるんですか」
「宝物」
朝倉は折り紙を見て笑った。
「かわいいですね」
「うん」
遼は胸の上に星を置く。
小さい。
軽い。
でも、妙に温かかった。
*
夜になると熱が出た。
身体が重い。
呼吸が苦しい。
咳も止まらない。
痛み止めを入れてもらい、遼はぼんやり天井を見る。
死が近い。
それはもう、自分でも分かる。
怖かった。
やっぱり。
どれだけ受け入れた気になっても、怖いものは怖い。
消える。
自分が終わる。
世界から完全にいなくなる。
それは恐ろしかった。
「眠れませんか」
朝倉が小さな灯りの中で言う。
遼は頷く。
「……怖い」
朝倉は椅子に座った。
「うん」
「最近、前より怖い」
「うん」
「生きたいって思い始めたからかも」
朝倉は少し黙る。
それから静かに言った。
「それ、自然なことですよ」
遼は目を閉じる。
「でももう遅い」
「そうですね」
即答だった。
遼は少し笑う。
「そこ否定しないんだ」
「できないので」
朝倉はまっすぐ言う。
「でも、“遅かった”ことと、“意味がなかった”ことは別です」
病室が静かになる。
点滴の音だけが聞こえる。
「神谷さん」
「……」
「人って、長く生きたから幸せとは限りません」
遼は薄く目を開ける。
「短くても、“生きてよかった”って思える時間はあります」
遼は窓を見る。
夜だった。
暗いガラスに、自分の痩せた顔が映っている。
その顔は、昔よりずっと弱っていた。
でも同時に、昔より少しだけ人間らしく見えた。
*
翌朝。
遼は久しぶりに夢を見なかった。
代わりに、静かな目覚めだった。
窓から朝日が入っている。
向日葵が光を受けていた。
折り紙の星も、その隣にある。
遼はそれを見つめながら思う。
もし人生をやり直せたら。
もっと違う生き方があっただろうか。
もっと誰かを頼れただろうか。
もっと自分を嫌わずに済んだだろうか。
分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
自分は最後の最後で、少しだけ「生きる」ということに触れられた。
それだけは、失くしたくなかった。




