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生きていた 証明

七月に入る頃には、遼はほとんど病室から出られなくなっていた。

少し歩くだけで息が切れる。

酸素の量も増えた。

痛み止めのせいで頭がぼんやりする時間も長い。

窓の外では夏が始まっていた。

青空。

入道雲。

遠くで鳴く蝉。

季節だけが先へ進んでいく。

遼はベッドの上で天井を見つめる。

「暇そうですね」

朝倉がカーテンを開けながら言った。

「もう寝るのも飽きました」

「贅沢な悩み」

遼は少し笑う。

最近、自分でも驚くくらい自然に笑うようになっていた。

もちろん苦しい。

怖い。

夜になると死を考える。

呼吸が浅くなるたび、「このまま止まるんじゃないか」と怯える。

でも以前みたいに、「今すぐ全部終わればいい」とは思わなくなっていた。

朝倉は窓を少し開ける。

夏の空気が入ってくる。

「蝉うるさいですね」

「生き急いでる感じしますね」

「一週間くらいしかないですからね」

その言葉に、遼は少し黙った。

蝉。

短い命。

毎年うるさいほど鳴いて、すぐ死ぬ。

昔はただの雑音だった。

でも今は少し違って聞こえる。

「……必死なんですね」

遼が呟くと、朝倉は頷いた。

「たぶん、人間よりちゃんと生きてます」

高橋は週に一度来るようになった。

仕事帰りらしく、いつも少し疲れた顔をしている。

その日はコンビニ袋を提げていた。

「差し入れ」

「またプリン?」

「病人ってプリン好きだろ」

「偏見だ」

でも遼は笑いながら受け取った。

高橋は椅子に座る。

以前みたいな気まずさはもうなかった。

二人とも、変に取り繕わなくなっていた。

「会社辞めたい」

突然、高橋が言った。

「急だな」

「部長がゴミ」

遼は吹き出す。

「相変わらず口悪いな」

「でも家のローンあるし、子供いるし」

高橋はため息をつく。

「人生って自由じゃねえな」

遼は少し考える。

以前の自分なら、「そうだな」としか思わなかった。

でも今は少し違った。

「自由じゃないけど」

「?」

「全部終わってるわけでもないだろ」

高橋が遼を見る。

「……なんか、お前変わったな」

遼は苦笑する。

「死にかけるとな」

「説得力ありすぎる」

高橋は笑った。

しばらくして、ふと真面目な顔になる。

「なあ」

「ん?」

「怖い?」

遼は窓の外を見る。

青空だった。

「怖いよ」

素直に言う。

「毎日」

「……そっか」

「でも」

遼は少し息を吐く。

「前より、惜しい」

高橋は何も言わなかった。

でも、その目が少しだけ揺れた。

夜。

眠れなかった。

痛み止めを使っても、身体の奥がずっと重い。

遼はスマホを開く。

メモ帳アプリ。

以前、自殺の遺書を書いていた場所だ。

『申し訳ありませんでした』

その文章はまだ残っていた。

遼はしばらく見つめる。

それから、全部消した。

白い画面になる。

遼は新しく文字を打ち始めた。

『今日は蝉がうるさかった』

少し考える。

続ける。

『でも夏って感じがした』

さらに書く。

『工藤さんが死んでから、時間が変な感じだ』

『高橋がまたプリン持ってきた』

『母親が昨日送ってきたゼリー、甘すぎた』

『海、また見たかった』

指が止まらなかった。

気づけば一時間くらい書いていた。

特別なことじゃない。

立派な人生でもない。

でも確かに、自分がここにいた記録だった。

生きていた証明だった。

遼はスマホを胸の上に置く。

涙が少し出た。

昔の自分は、「価値のある人生じゃないと意味がない」と思っていた。

でも違うのかもしれない。

大きな成功も、誰かに誇れる何かもなくていい。

腹が減る。

空が綺麗だと思う。

誰かと笑う。

怖いと思う。

まだ死にたくないと思う。

それだけで、人間はちゃんと生きているのかもしれなかった。

数日後。

母がまた来た。

今日は小さな花を持っている。

向日葵だった。

「夏だから」

母は照れくさそうに言う。

遼は花を見る。

鮮やかな黄色。

眩しいくらいだった。

「派手だな」

「あなた、昔向日葵好きだったでしょ」

「覚えてない」

「私は覚えてる」

その言葉に、遼は少し黙る。

母は椅子に座り、しばらく窓の外を見ていた。

やがて小さく言う。

「ねえ」

「ん?」

「生まれてきて、嫌だった?」

遼は息を止めた。

母は俯いたまま続ける。

「あなた、ずっと苦しそうだったから」

病室が静かになる。

遠くでナースコールが鳴っている。

遼はすぐには答えられなかった。

昔なら、即答していたかもしれない。

生まれてこなければよかった、と。

でも今は違った。

遼は向日葵を見る。

窓から入る夏の光を見る。

そしてゆっくり答えた。

「……分かんない」

母は顔を上げる。

遼は少し笑った。

「でも」

「?」

「海は綺麗だった」

その瞬間、母は泣いた。

声を殺すみたいに、小さく。

遼は初めて思った。

ああ、自分が生きていたことは、ちゃんと誰かの人生の中に残っていたんだ、と。

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