6月の雨
工藤が亡くなったのは、その三日後だった。
朝だった。
遼は眠れずに起きていて、廊下のざわめきでなんとなく察した。
看護師たちの慌ただしい足音。
低い声。
静かに閉まる扉。
病院では、人が死ぬ時ほど音が小さい。
朝倉は昼過ぎに遼の病室へ来た。
何も言わなくても分かった。
「……そうですか」
朝倉は小さく頷いた。
「苦しまなかったそうです」
たぶん、本当かどうかは分からない。
遺族に言うための言葉かもしれない。
患者を安心させるための言葉かもしれない。
でも遼は、「そうですか」とだけ返した。
それでよかった。
*
その日の夕方、遼は一人で屋上へ行った。
六月の空は曇っていた。
雨の匂いがする。
工藤が座っていたベンチに腰を下ろす。
もうここに彼はいない。
当たり前なのに、不思議だった。
昨日まで話していた人間が、突然どこにもいなくなる。
それが死だ。
遼は缶コーヒーを開ける。
ぬるかった。
「……まだ間に合う、か」
呟いてみる。
工藤の言葉が頭から離れなかった。
まだ間に合う。
何に?
人生に?
今さら?
三十二年間、まともに生きられなかった人間が?
遼は笑う。
でも、その笑いは以前ほど空っぽじゃなかった。
雨が降り始めた。
ぽつぽつと、小さな雨。
遼は立ち上がらなかった。
濡れながら空を見る。
工藤は死んだ。
次は自分かもしれない。
怖かった。
ものすごく。
でも同時に、不思議なくらい静かな気持ちもあった。
少なくとも今、自分は「消えたい」だけではなかった。
*
その夜、遼はスマホを開いた。
連絡先を眺める。
ほとんど使われていない一覧。
会社。
宅配。
美容院。
学生時代の友人が一人だけ残っていた。
『高橋』
高校時代、一番仲が良かった男だ。
卒業後、なんとなく疎遠になった。
遼が仕事に追われ始めてから、連絡も返さなくなった。
最後のメッセージは三年前。
『今度飲もうぜ』
既読すらつけていない。
遼はしばらく画面を見つめる。
今さら何を送る?
『死にそうだから会わない?』
重すぎる。
気まずすぎる。
でも、工藤の言葉が浮かぶ。
“会いたい奴に会え”
遼は深呼吸する。
そして短く打った。
『久しぶり。時間ある?』
送信。
数秒後。
スマホが震えた。
『ある。どうした?』
早かった。
驚くほど。
遼は少し目を見開く。
指が止まる。
何を書けばいいか分からない。
結局、正直に送った。
『入院してる』
しばらく既読がつかなかった。
やっぱり変な空気になるか、と遼は思った。
だが、一分後。
『行く』
たった二文字。
なのに、なぜか泣きそうになった。
*
高橋が来たのは次の日だった。
病室に入ってきた瞬間、遼は少し笑ってしまった。
「老けたな」
「お前も」
高橋は昔より太っていた。
髭も生えている。
でも笑い方は変わっていなかった。
「マジで久しぶりだな」
「うん」
気まずくなるかと思った。
でも、不思議とならなかった。
高橋は椅子に座る。
病室を見回し、小さく息を吐く。
「……聞いていい?」
「癌」
遼は先に言った。
「余命三ヶ月」
高橋の顔が固まる。
「……そっか」
沈黙。
遼はその顔を見るのがつらくて笑った。
「そんな顔すんなよ」
「いや、するだろ普通」
高橋は頭を掻く。
「お前、急に消えるから」
「悪かった」
「ほんとだよ」
高橋は少し怒った顔をする。
「連絡しても返さねえし」
「……」
「生きてんのか死んでんのか分かんなかった」
遼は目を伏せる。
高橋は昔からこうだった。
思ったことをそのまま言う。
だから少し苦手で、少し羨ましかった。
「俺さ」
高橋が言う。
「お前、勝手に一人で沈んでくタイプだと思ってた」
遼は苦笑する。
否定できない。
「でも、連絡くらいしろよ」
高橋は続ける。
「迷惑とか気遣ってたなら、勝手すぎる」
その言葉は少し刺さった。
「人って、頼られない方が寂しい時あるんだぞ」
遼は何も言えなかった。
病室の窓の外では雨が降っていた。
六月の雨。
静かな音。
高橋はふいに笑う。
「そういや覚えてる?」
「何を」
「高校の時、お前“海の近く住みたい”とか言ってた」
遼は少し驚く。
そんなこと、自分でも忘れていた。
「言ってたっけ」
「言ってた。毎日コンビニで立ち読みしながら」
高橋は笑う。
「結局、ブラック会社員になってたけど」
「うるせえ」
遼も少し笑った。
笑いながら、思う。
自分にも、未来を話していた時代があったのだ。
忘れていただけで。
*
帰る前、高橋は病室の前で立ち止まった。
「また来るわ」
「忙しいだろ」
「来る」
即答だった。
遼は少し困ったように笑う。
高橋は真顔で言った。
「お前、一人で死ぬなよ」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。




