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6月の雨

工藤が亡くなったのは、その三日後だった。

朝だった。

遼は眠れずに起きていて、廊下のざわめきでなんとなく察した。

看護師たちの慌ただしい足音。

低い声。

静かに閉まる扉。

病院では、人が死ぬ時ほど音が小さい。

朝倉は昼過ぎに遼の病室へ来た。

何も言わなくても分かった。

「……そうですか」

朝倉は小さく頷いた。

「苦しまなかったそうです」

たぶん、本当かどうかは分からない。

遺族に言うための言葉かもしれない。

患者を安心させるための言葉かもしれない。

でも遼は、「そうですか」とだけ返した。

それでよかった。

その日の夕方、遼は一人で屋上へ行った。

六月の空は曇っていた。

雨の匂いがする。

工藤が座っていたベンチに腰を下ろす。

もうここに彼はいない。

当たり前なのに、不思議だった。

昨日まで話していた人間が、突然どこにもいなくなる。

それが死だ。

遼は缶コーヒーを開ける。

ぬるかった。

「……まだ間に合う、か」

呟いてみる。

工藤の言葉が頭から離れなかった。

まだ間に合う。

何に?

人生に?

今さら?

三十二年間、まともに生きられなかった人間が?

遼は笑う。

でも、その笑いは以前ほど空っぽじゃなかった。

雨が降り始めた。

ぽつぽつと、小さな雨。

遼は立ち上がらなかった。

濡れながら空を見る。

工藤は死んだ。

次は自分かもしれない。

怖かった。

ものすごく。

でも同時に、不思議なくらい静かな気持ちもあった。

少なくとも今、自分は「消えたい」だけではなかった。

その夜、遼はスマホを開いた。

連絡先を眺める。

ほとんど使われていない一覧。

会社。

宅配。

美容院。

学生時代の友人が一人だけ残っていた。

『高橋』

高校時代、一番仲が良かった男だ。

卒業後、なんとなく疎遠になった。

遼が仕事に追われ始めてから、連絡も返さなくなった。

最後のメッセージは三年前。

『今度飲もうぜ』

既読すらつけていない。

遼はしばらく画面を見つめる。

今さら何を送る?

『死にそうだから会わない?』

重すぎる。

気まずすぎる。

でも、工藤の言葉が浮かぶ。

“会いたい奴に会え”

遼は深呼吸する。

そして短く打った。

『久しぶり。時間ある?』

送信。

数秒後。

スマホが震えた。

『ある。どうした?』

早かった。

驚くほど。

遼は少し目を見開く。

指が止まる。

何を書けばいいか分からない。

結局、正直に送った。

『入院してる』

しばらく既読がつかなかった。

やっぱり変な空気になるか、と遼は思った。

だが、一分後。

『行く』

たった二文字。

なのに、なぜか泣きそうになった。

高橋が来たのは次の日だった。

病室に入ってきた瞬間、遼は少し笑ってしまった。

「老けたな」

「お前も」

高橋は昔より太っていた。

髭も生えている。

でも笑い方は変わっていなかった。

「マジで久しぶりだな」

「うん」

気まずくなるかと思った。

でも、不思議とならなかった。

高橋は椅子に座る。

病室を見回し、小さく息を吐く。

「……聞いていい?」

「癌」

遼は先に言った。

「余命三ヶ月」

高橋の顔が固まる。

「……そっか」

沈黙。

遼はその顔を見るのがつらくて笑った。

「そんな顔すんなよ」

「いや、するだろ普通」

高橋は頭を掻く。

「お前、急に消えるから」

「悪かった」

「ほんとだよ」

高橋は少し怒った顔をする。

「連絡しても返さねえし」

「……」

「生きてんのか死んでんのか分かんなかった」

遼は目を伏せる。

高橋は昔からこうだった。

思ったことをそのまま言う。

だから少し苦手で、少し羨ましかった。

「俺さ」

高橋が言う。

「お前、勝手に一人で沈んでくタイプだと思ってた」

遼は苦笑する。

否定できない。

「でも、連絡くらいしろよ」

高橋は続ける。

「迷惑とか気遣ってたなら、勝手すぎる」

その言葉は少し刺さった。

「人って、頼られない方が寂しい時あるんだぞ」

遼は何も言えなかった。

病室の窓の外では雨が降っていた。

六月の雨。

静かな音。

高橋はふいに笑う。

「そういや覚えてる?」

「何を」

「高校の時、お前“海の近く住みたい”とか言ってた」

遼は少し驚く。

そんなこと、自分でも忘れていた。

「言ってたっけ」

「言ってた。毎日コンビニで立ち読みしながら」

高橋は笑う。

「結局、ブラック会社員になってたけど」

「うるせえ」

遼も少し笑った。

笑いながら、思う。

自分にも、未来を話していた時代があったのだ。

忘れていただけで。

帰る前、高橋は病室の前で立ち止まった。

「また来るわ」

「忙しいだろ」

「来る」

即答だった。

遼は少し困ったように笑う。

高橋は真顔で言った。

「お前、一人で死ぬなよ」

その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。

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