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まだ間に合う人生

五月の終わり。

病院の中庭の紫陽花が色づき始めていた。

遼は窓からそれを眺めていた。

入院してから、どれくらい経ったのか。

時間の感覚が曖昧になっている。

けれど確実に、身体は悪くなっていた。

少し歩くだけで息が切れる。

咳は深くなった。

夜中、肺が潰れるような痛みで目が覚めることも増えた。

死は近づいていた。

ゆっくり。

でも確実に。

「顔色悪いですね」

朝倉が点滴を確認しながら言う。

「元からです」

「最近、その返し雑になってません?」

遼は少し笑った。

以前なら、こういう軽口を返す余裕すらなかった。

朝倉はカルテを閉じる。

「今日、外すごい晴れてますよ」

「見ました」

「散歩します?」

遼は少し考えた。

身体はだるい。

でも、断りたくなかった。

「……行きます」

病院の中庭は思ったより静かだった。

ベンチ。

小さな花壇。

水のない噴水。

どこか古びている。

でも悪くなかった。

遼はベンチに座る。

風が吹く。

紫陽花が揺れる。

「ここ、嫌いじゃないんですよね」

朝倉が隣で言う。

「夜勤明けとか、たまに来ます」

「看護師って大変そうですね」

「大変ですよ」

即答だった。

「人足りないし、給料そこまでだし、患者さんに怒鳴られるし」

「辞めたいと思わないんですか」

朝倉は少し笑う。

「毎日思ってます」

「じゃあなんで」

「……なんででしょうね」

少し考えてから、彼女は空を見る。

「でも、たまに“いてよかった”って思う瞬間があるんです」

遼は黙って聞く。

「患者さんが少し笑った時とか」

「……」

「痛くて苦しくてどうしようもない人が、“今日ちょっと楽だった”って言うだけで、なんか救われるんですよね」

遼は紫陽花を見る。

自分は誰かに、そんなふうに思われたことがあるだろうか。

誰かの人生に、少しでも何か残したことは。

「神谷さん」

朝倉が不意に言った。

「死ぬの、怖いですか」

遼は苦笑した。

「今さら聞きます?」

「答え変わったかなと思って」

遼は少し考える。

以前なら即答だった。

怖い、と。

でも今は少し違った。

「……怖いです」

正直に言う。

「でも」

朝倉は待つ。

「前より、“嫌だ”って感じです」

風が吹いた。

朝倉は小さく頷く。

「それ、生きたいってことですよ」

遼は返事をしなかった。

生きたい。

その言葉はまだ、自分には重かった。

でも完全には否定できなかった。

その夜。

遼は久しぶりに夢を見た。

高校時代の夢だった。

夕暮れの教室。

窓からオレンジ色の光が入っている。

若い自分が笑っていた。

今よりずっと普通の顔で。

友達と話している。

部活帰りにコンビニへ向かう。

将来について適当なことを言い合う。

「三十くらいになったら普通に結婚してんじゃね?」

誰かが笑う。

遼も笑う。

あの頃、自分は「普通の未来」が来ると思っていた。

それが当然だと思っていた。

夢から覚めた時、涙が出ていた。

失った未来を悲しんでいるのか。

それとも、まだどこかで未来を欲しがっているのか。

自分でも分からなかった。

数日後。

工藤の病室が騒がしかった。

看護師が何人も出入りしている。

遼は嫌な予感がした。

廊下で朝倉を見つける。

「工藤さん……」

朝倉は少し困った顔をした。

「状態、かなり悪いです」

遼の胸がざわつく。

「会えますか」

「短時間なら」

病室に入ると、工藤は酸素マスクをつけていた。

以前よりずっと小さく見える。

目を閉じていたが、遼に気づくと少し笑った。

「おう」

声がかすれている。

「……大丈夫ですか」

「全然」

工藤は苦しそうに笑う。

遼は何を言えばいいか分からなかった。

励ましなんて薄っぺらい。

「神谷」

工藤が呼ぶ。

「はい」

「海、どうだった」

遼は少し驚いた。

「……よかったです」

「そうか」

工藤は目を閉じる。

呼吸が浅い。

「お前さ」

「はい」

「まだ間に合うぞ」

遼は眉をひそめる。

「何がですか」

工藤はゆっくり目を開けた。

「人生」

その言葉に、遼は息を止めた。

「俺はな」

工藤は苦しそうに息を吸う。

「ずっと、“あとで”って思ってた」

「……」

「仕事落ち着いたら、とか」

「金できたら、とか」

「退職したら、とか」

病室に機械音が響く。

「でも、そんな日来なかった」

工藤は笑った。

弱々しく。

「だから、お前は今やれ」

「……」

「食いたいもん食え」

「会いたい奴に会え」

「見たい景色見ろ」

遼の喉が熱くなる。

工藤は目を閉じながら、最後に小さく言った。

「生きろとは言わねえよ」

「でも、“死ぬまで”は生きろ」

遼は何も言えなかった。

病室を出たあと、しばらく動けなかった。

廊下の窓から夕焼けが見えていた。

赤かった。

世界は綺麗だった。

今さら気づくくらいには。

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