まだ間に合う人生
五月の終わり。
病院の中庭の紫陽花が色づき始めていた。
遼は窓からそれを眺めていた。
入院してから、どれくらい経ったのか。
時間の感覚が曖昧になっている。
けれど確実に、身体は悪くなっていた。
少し歩くだけで息が切れる。
咳は深くなった。
夜中、肺が潰れるような痛みで目が覚めることも増えた。
死は近づいていた。
ゆっくり。
でも確実に。
「顔色悪いですね」
朝倉が点滴を確認しながら言う。
「元からです」
「最近、その返し雑になってません?」
遼は少し笑った。
以前なら、こういう軽口を返す余裕すらなかった。
朝倉はカルテを閉じる。
「今日、外すごい晴れてますよ」
「見ました」
「散歩します?」
遼は少し考えた。
身体はだるい。
でも、断りたくなかった。
「……行きます」
*
病院の中庭は思ったより静かだった。
ベンチ。
小さな花壇。
水のない噴水。
どこか古びている。
でも悪くなかった。
遼はベンチに座る。
風が吹く。
紫陽花が揺れる。
「ここ、嫌いじゃないんですよね」
朝倉が隣で言う。
「夜勤明けとか、たまに来ます」
「看護師って大変そうですね」
「大変ですよ」
即答だった。
「人足りないし、給料そこまでだし、患者さんに怒鳴られるし」
「辞めたいと思わないんですか」
朝倉は少し笑う。
「毎日思ってます」
「じゃあなんで」
「……なんででしょうね」
少し考えてから、彼女は空を見る。
「でも、たまに“いてよかった”って思う瞬間があるんです」
遼は黙って聞く。
「患者さんが少し笑った時とか」
「……」
「痛くて苦しくてどうしようもない人が、“今日ちょっと楽だった”って言うだけで、なんか救われるんですよね」
遼は紫陽花を見る。
自分は誰かに、そんなふうに思われたことがあるだろうか。
誰かの人生に、少しでも何か残したことは。
「神谷さん」
朝倉が不意に言った。
「死ぬの、怖いですか」
遼は苦笑した。
「今さら聞きます?」
「答え変わったかなと思って」
遼は少し考える。
以前なら即答だった。
怖い、と。
でも今は少し違った。
「……怖いです」
正直に言う。
「でも」
朝倉は待つ。
「前より、“嫌だ”って感じです」
風が吹いた。
朝倉は小さく頷く。
「それ、生きたいってことですよ」
遼は返事をしなかった。
生きたい。
その言葉はまだ、自分には重かった。
でも完全には否定できなかった。
*
その夜。
遼は久しぶりに夢を見た。
高校時代の夢だった。
夕暮れの教室。
窓からオレンジ色の光が入っている。
若い自分が笑っていた。
今よりずっと普通の顔で。
友達と話している。
部活帰りにコンビニへ向かう。
将来について適当なことを言い合う。
「三十くらいになったら普通に結婚してんじゃね?」
誰かが笑う。
遼も笑う。
あの頃、自分は「普通の未来」が来ると思っていた。
それが当然だと思っていた。
夢から覚めた時、涙が出ていた。
失った未来を悲しんでいるのか。
それとも、まだどこかで未来を欲しがっているのか。
自分でも分からなかった。
*
数日後。
工藤の病室が騒がしかった。
看護師が何人も出入りしている。
遼は嫌な予感がした。
廊下で朝倉を見つける。
「工藤さん……」
朝倉は少し困った顔をした。
「状態、かなり悪いです」
遼の胸がざわつく。
「会えますか」
「短時間なら」
病室に入ると、工藤は酸素マスクをつけていた。
以前よりずっと小さく見える。
目を閉じていたが、遼に気づくと少し笑った。
「おう」
声がかすれている。
「……大丈夫ですか」
「全然」
工藤は苦しそうに笑う。
遼は何を言えばいいか分からなかった。
励ましなんて薄っぺらい。
「神谷」
工藤が呼ぶ。
「はい」
「海、どうだった」
遼は少し驚いた。
「……よかったです」
「そうか」
工藤は目を閉じる。
呼吸が浅い。
「お前さ」
「はい」
「まだ間に合うぞ」
遼は眉をひそめる。
「何がですか」
工藤はゆっくり目を開けた。
「人生」
その言葉に、遼は息を止めた。
「俺はな」
工藤は苦しそうに息を吸う。
「ずっと、“あとで”って思ってた」
「……」
「仕事落ち着いたら、とか」
「金できたら、とか」
「退職したら、とか」
病室に機械音が響く。
「でも、そんな日来なかった」
工藤は笑った。
弱々しく。
「だから、お前は今やれ」
「……」
「食いたいもん食え」
「会いたい奴に会え」
「見たい景色見ろ」
遼の喉が熱くなる。
工藤は目を閉じながら、最後に小さく言った。
「生きろとは言わねえよ」
「でも、“死ぬまで”は生きろ」
遼は何も言えなかった。
病室を出たあと、しばらく動けなかった。
廊下の窓から夕焼けが見えていた。
赤かった。
世界は綺麗だった。
今さら気づくくらいには。




