会いたく無かった人
海から戻った日、遼は久しぶりによく眠った。
波の音がまだ耳の奥に残っている気がした。
翌朝、病室のカーテンを開けると、空は曇っていた。
春の終わりの曖昧な色だった。
ぼんやり外を見ていると、ノックの音がした。
「神谷さん、お客様です」
朝倉が少し困った顔で立っている。
「……客?」
遼は眉をひそめた。
見舞いに来るような相手はいない。
会社の人間には入院も伝えていない。
工藤かと思ったが、朝倉の表情は少し違った。
「会います?」
その言い方で、なんとなく察した。
遼はゆっくり息を吐く。
「……母親ですか」
朝倉は小さく頷いた。
遼は天井を見た。
逃げたいと思った。
今さら何を話せばいい。
元気なふりをするのか。
かわいそうな息子を演じるのか。
それとも、三十二年間ずっと言えなかったことを吐き出すのか。
どれも疲れそうだった。
「帰ってもらっていいですか」
朝倉は少し黙る。
「できます。でも」
「でも?」
「たぶん、すごく勇気出して来てますよ」
遼は何も言えなかった。
数分後。
病室の扉が静かに開いた。
母は、遼の記憶より小さく見えた。
髪には白いものが増えている。
薄いベージュのカーディガン。
昔から変わらない控えめな化粧。
「……久しぶり」
遼は目を逸らした。
「うん」
沈黙。
気まずい。
あまりにも。
母は椅子に座る。
鞄を膝の上に置いたまま、ぎこちなく言った。
「連絡、病院からもらって……」
「誰に?」
「保証人、まだ私だったから」
遼は小さく舌打ちしそうになるのを堪えた。
そうだった。
書類上、自分はまだ「家族」を持っている。
母は遼の顔を見て、少し泣きそうな目をした。
「痩せたね」
「病人なんで」
「……そうね」
また沈黙。
遼は窓の外を見る。
会話が続かない。
昔からそうだった。
父は無口で、母は気を遣いすぎる人だった。
家の中はいつも静かだった。
怒鳴り声もない代わりに、本音もなかった。
「ごめんね」
突然、母が言った。
遼は眉をひそめる。
「何が」
「気づいてあげられなくて」
その言葉は予想外だった。
遼は思わず母を見る。
母は俯いたまま続ける。
「あなた、昔から我慢する子だったから」
「……」
「大丈夫って言う時ほど、大丈夫じゃなかったのに」
胸の奥が少し痛んだ。
遼は反射的に笑う。
「今さらですよ」
「うん……今さらなの」
母は笑った。
でも、その笑顔は崩れそうだった。
「もっとちゃんと話せばよかった」
遼は何も答えなかった。
本当は、自分にも分かっていた。
母が悪いわけではない。
ただ、自分たちは不器用だった。
互いに気を遣って、結局ずっと遠かった。
母は鞄から小さな包みを取り出した。
「これ」
開くと、おにぎりだった。
ラップに包まれた鮭のおにぎり。
遼は少し目を見開く。
「昔、好きだったでしょ」
高校生の頃、部活帰りによく食べていた。
その記憶が急に蘇る。
台所の匂い。
夕方の音。
まだ、自分が「未来は普通に続く」と思っていた頃。
遼は喉が詰まった。
「……病院、食事あるし」
「うん。でも作りたくて」
母は少し笑う。
その顔を見た瞬間、遼は気づいた。
この人も怖いのだ。
息子が死ぬことが。
どう接していいか分からないことが。
遼だけじゃない。
皆、分からないまま生きている。
*
母が帰ったあと、遼はおにぎりを食べた。
冷めていた。
少し塩が強い。
でも、美味しかった。
気づけば泣いていた。
静かに。
声もなく。
自分でも理由は分からなかった。
死ぬのが怖いのか。
優しくされるのが怖いのか。
今さら「生きたかった」と思い始めている自分が怖いのか。
全部かもしれなかった。
*
その夜。
工藤がまた病室に来た。
「なんだその顔」
「母親来たんです」
「あー」
工藤は妙に納得した顔をする。
「泣いた?」
「……なんで分かるんですか」
「分かるよ。俺も泣いたし」
工藤はベッド脇の椅子に座る。
今日は少し顔色が悪かった。
「俺さ」
珍しく工藤の声が弱い。
「若い頃、娘と全然話してなかったんだよ」
遼は黙って聞く。
「仕事ばっかして、家帰っても疲れて寝て」
工藤は笑う。
「典型的なダメ親父」
「……」
「で、癌になってから急に娘が来るようになった」
「優しいですね」
「違う違う。あいつ、俺が死ぬ前だから来てんの」
そう言って笑ったあと、少し黙る。
「でもさ、それでいいんだと思う」
遼は工藤を見る。
「死ぬって分かんないと、人間、本音出せない時あるから」
病室の外では、看護師たちの足音が聞こえる。
誰かの咳。
遠くのテレビ。
夜の病院は、生と死が静かに混ざっている。
工藤は立ち上がる。
帰る前、ふと振り返った。
「お前、少し顔変わったな」
「そうですか?」
「生きてる顔になってきた」
遼はその言葉に、すぐ返事ができなかった。




