残された過ごし方
目を覚ました時、外は朝だった。
白いカーテンが風もないのにわずかに揺れて見える。
遼は酸素マスクの息苦しさに顔をしかめた。
肺が焼けるように痛い。
喉には鉄の味が残っていた。
「あ、起きた」
朝倉がベッド脇にいた。
夜勤明けなのか、少し目の下に隈がある。
「……俺、生きてます?」
「残念ながら」
彼女は淡々と言った。
遼は少し笑った。
笑った瞬間に胸が痛み、顔をしかめる。
「無理して笑わないでください」
「笑っとかないと怖いんで」
朝倉は少し黙った。
それから椅子に座り直す。
「かなり危なかったですよ」
「そうなんだ」
「血中酸素、だいぶ下がってました」
遼は天井を見つめた。
死ぬ瞬間というのは、もっと劇的なものだと思っていた。
走馬灯とか。
人生を振り返るとか。
でも実際は違った。
苦しくて、怖くて、「まだ死にたくない」と思っただけだった。
それが妙に情けなかった。
「俺、自殺しようとしてたのに」
ぽつりと漏れる。
朝倉は答えなかった。
沈黙が続く。
やがて彼女は静かに言った。
「人間、矛盾してるくらいで普通ですよ」
遼は目を閉じた。
矛盾。
本当にそうだった。
死にたい。
でも死ぬのは怖い。
消えたい。
でも忘れられたくない。
一人でいたい。
でも誰かに気づいてほしい。
そんなものばかりだった。
*
数日後、遼は病室を移った。
終末期患者が多い静かなフロアだった。
廊下には花の絵が飾られている。
たぶん少しでも「病院らしさ」を消したいのだろう。
けれど空気は違った。
ここには、“治るため”ではなく、“終わるため”にいる人が多かった。
夜になると、時々どこかで泣き声が聞こえた。
家族の声だったり、本人の声だったりした。
遼はそのたび、毛布を少し強く握った。
ある夕方。
工藤が車椅子で現れた。
「引っ越したって聞いて」
「どうも」
工藤は遼の顔を見るなり眉をひそめた。
「ひでえ顔」
「元からですよ」
「違う違う。死ぬ前の顔してる」
遼は苦笑した。
「ここ来ると、嫌でも考えるんですよ」
「何を?」
「終わるんだなって」
工藤は窓の外を見た。
夕日が赤い。
「まあ終わるよ」
あまりにも普通に言うので、遼は拍子抜けした。
「怖くないんですか」
「怖いに決まってる」
工藤は即答した。
「俺なんか毎晩ビビってる」
「そう見えませんけど」
「演技だよ」
工藤は笑う。
その笑顔は少し弱かった。
「でもな、怖がっても終わるし、怖がらなくても終わる」
「……」
「だったら、最後くらい好きにしたい」
好きに。
その言葉が遼の中に残る。
今まで、自分は好きに生きただろうか。
会社の期待。
親の期待。
世間の普通。
全部に合わせようとして、結局どこにも行けなかった。
工藤が言う。
「お前、やりたいことないの?」
遼は答えに詰まった。
本当に、なかった。
夢も。
趣味も。
人生を続ける理由も。
工藤は呆れた顔をした。
「海とか見たいとか、寿司食いたいとか、そんなんでもいいんだよ」
海。
その言葉に、なぜか少し胸が動いた。
子供の頃、一度だけ父親に連れて行ってもらった海を思い出した。
波の音。
潮の匂い。
遠くの水平線。
「……海、見たいかもです」
工藤は頷いた。
「じゃあ行け」
「外出許可、出ますかね」
「死ぬ奴の頼みは案外通る」
そう言って笑った。
*
数日後。
遼は電車に乗っていた。
外出許可をもらい、一人で海へ向かっていた。
平日の昼。
車内は空いている。
窓の外では住宅街が流れていく。
普通の景色だった。
洗濯物。
自転車。
コンビニ。
学生。
世界は変わらない。
自分が死にかけていても。
そのことが少し寂しくて、少し安心した。
小さな港町に着いたのは午後だった。
潮風が強い。
遼はゆっくり歩く。
肺が痛む。
息が上がる。
それでも歩いた。
やがて海が見えた。
青かった。
どこまでも広かった。
遼は防波堤に座る。
波の音。
カモメの声。
遠くを進む漁船。
ただ、それだけ。
でも涙が出そうだった。
「なんでだよ……」
自分でも分からない。
生きてきた三十二年で、こんなふうに景色を見たことがあっただろうか。
たぶん、一度もなかった。
いつも頭の中がうるさかった。
仕事。
失敗。
将来。
他人の目。
自分への嫌悪。
そればかりだった。
けれど今は、波の音しか聞こえない。
遼はポケットに手を入れた。
そこには、以前用意していた睡眠薬がまだ入っていた。
退院準備の荷物に紛れていたものだ。
手のひらに乗せる。
これを飲めば、たぶん終われる。
苦しまずに。
怖い未来も、孤独も、全部。
風が吹く。
潮の匂いがした。
遼は長い間、薬を見つめていた。
やがて。
小さく息を吐く。
薬をポケットに戻した。
捨てはしなかった。
でも、飲まなかった。
その違いだけで、今は十分な気がした。




