生きる練習
翌朝、遼は病院の食堂で味噌汁を飲んでいた。
驚くほど薄い味だった。
なのに、不思議と嫌じゃなかった。
窓際の席では老夫婦がテレビを見ている。
点滴を引きながら歩く老人。
パンを喉に詰まらせて看護師に怒られている中年男性。
病院には、「死」が近い人間が大勢いる。
けれど、誰も映画みたいに深刻な顔ばかりしているわけではなかった。
笑っている人もいる。
テレビで野球を見て怒鳴る人もいる。
カップ麺を隠れて食べて看護師に叱られる人もいる。
遼はそれが少し意外だった。
もっと皆、絶望していると思っていた。
「そこ、いいですか?」
顔を上げると、痩せた男がトレーを持って立っていた。
六十代くらい。
頭はほとんど禿げている。
点滴スタンドを引きずっている。
「どうぞ」
男は向かいに座った。
「新入り?」
「まあ」
「癌?」
「肺癌です」
「あー、一緒一緒」
まるで「出身地どこ?」くらい軽い調子だった。
男は勝手に話し始める。
「俺は肝臓。ステージ4。余命半年だったけど二年生きてる」
「二年……」
「医者の言う余命なんて天気予報みたいなもんだよ」
男は笑った。
「名前は?」
「神谷です」
「俺は工藤」
そう言って味噌汁をすすった。
遼は少し戸惑った。
こんなふうに普通に話しかけられると思わなかった。
病人同士はもっと暗く、静かなものだと思っていた。
工藤は焼き魚をほぐしながら言った。
「死ぬの怖い?」
遼は箸を止めた。
「……怖いです」
「そりゃ正常だ」
工藤は即答した。
「怖くない奴なんかいねえよ」
「でも俺、自殺しようとしてたんですよ」
工藤の箸が止まる。
遼はなぜか、そのまま全部話した。
仕事のこと。
眠れない夜。
誰にも必要とされてない感覚。
屋上で飛び降りようとしたこと。
話し終わる頃には、味噌汁は冷めていた。
工藤はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「じゃあ、お前ラッキーじゃん」
「……は?」
「普通、自殺する奴って、“死ぬ前に人生見直す時間”ないだろ」
遼は眉をひそめた。
工藤は続ける。
「お前には三ヶ月ある」
「……」
「嫌でも考えられる。自分が何だったのか。何したかったのか」
遼は反射的に言った。
「そんな立派な人生じゃないです」
「立派じゃなくていいんだよ」
工藤は笑った。
「コンビニのプリンが美味いとか、晴れてるとか、そういうのでいい」
遼は返事をしなかった。
けれど、その言葉はどこかに残った。
*
数日後。
遼は病院の屋上にいた。
立入禁止ギリギリの古びたスペース。
自販機が一台だけ置いてある。
春風が吹いていた。
遼は缶コーヒーを開ける。
空を見上げる。
青かった。
そんな当たり前のことに、なぜか少し驚く。
以前の自分は、空なんて見ていただろうか。
毎日、会社と家の往復だった。
朝は満員電車。
夜はコンビニ弁当。
休日は布団。
それだけ。
生きているというより、停止していただけだった。
「サボり?」
声。
朝倉だった。
看護師服のまま缶コーヒーを持っている。
「屋上で休憩すると怒られますよ」
「じゃあ戻ります?」
「私もいるのでセーフです」
朝倉は隣に座った。
沈黙。
風の音だけがする。
やがて遼が言った。
「俺、なんで生きてたんでしょうね」
朝倉は少し考える。
「難しいこと聞きますね」
「三十二年間、何もなかった気がするんです」
「そんなことないでしょ」
「いや、本当に」
遼は笑った。
乾いた笑いだった。
「彼女もいない。友達もいない。仕事もダメ。何か残したわけでもない」
朝倉は缶コーヒーを見つめながら言った。
「じゃあ、“何か残した人”しか生きる価値ないんですか?」
遼は答えられなかった。
「うちの父、普通のスーパー店員でしたよ」
朝倉は続ける。
「毎日同じことして、定年迎えて、癌で死にました」
「……」
「でも、私は父が好きでした」
風が吹く。
朝倉の髪が揺れる。
「価値って、本人が決めるものじゃないのかもしれません」
遼は空を見る。
雲が流れていた。
あんなふうに、自分もどこかへ流れていけたらいいのにと思った。
*
その夜、遼は日記を書き始めた。
『空が青かった』
それだけ。
次の日。
『工藤さんがプリン二個食べて看護師に怒られてた』
その次の日。
『桜が散り始めてた』
小学生みたいな文章だった。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
遼は初めて、自分の今日を見ていた。
今までは、明日が来ることが苦痛だった。
だから今日を記憶しなかった。
ただ時間を潰していた。
けれど三ヶ月しかないと分かった瞬間、一日が急に輪郭を持ち始めた。
皮肉だった。
死が近づいて、初めて生き始めるなんて。
*
ある夜。
遼は再び血を吐いた。
激しい咳。
息ができない。
看護師たちが慌ただしく動く。
酸素。
点滴。
遠ざかる意識。
恐怖が襲う。
死ぬ。
本当に。
その瞬間、遼は思った。
まだ嫌だ。
まだ、少し。
もう少しだけ。
意識が沈む直前、誰かが手を握っていた。
朝倉だった。
「大丈夫です」
その声だけが、暗闇の中に残っていた。




