第10話 戻ってこいと言われても、俺はもう聖女のゴーレムなので遅い
「ガルムさん、お客様です」
「帰ってもらえ」
「まだ誰か言っていません」
「リリアがその顔をする時点で、ろくな客じゃない」
人間側の砦、その中庭。
俺は石材の上に座り、昨日折れた魔王軍幹部グラゼルの戦斧を見ていた。
なぜ俺の前に置かれているのか。
騎士団長いわく「戦利品としてガルム殿に預けるのがふさわしい」らしい。
ふさわしくない。
俺の部屋は処刑斧の保管庫ではない。
リリアは少し困った顔で俺の前に立っている。
「魔王軍から使者が来ています」
「ほら見ろ」
俺は頭を抱えた。
「退職後の元職場連絡だ。絶対面倒なやつだ」
「使者というより……ご本人です」
「本人?」
「ヴァルザさんです」
俺は固まった。
胸の核が、嫌な音を立てる。
ヴァルザ。
魔王軍幹部。
新型魔導ゴーレム部隊の推進者。
俺を石くずと呼び、追放した張本人。
そして、退職金を払わなかった未払い上司である。
「……帰ってもらえ」
「会わなくていいんですか?」
「会う理由がない。請求書だけ渡してくれ」
「請求書、用意していたんですね」
「三百年分だ。厚いぞ」
俺は足元の木箱を叩いた。
中には、退職金請求書、未払い手当一覧、契約外労働申立書、魔獣餌やり業務に関する労災意見書が入っている。
書いているうちに腹が立ってきて、量が増えた。
アルダが横から口を挟む。
「ガルム殿。会うかどうかはあなたに任せる。だが、ヴァルザは単身で来ている。魔王軍の部隊は同行していない」
「単身?」
「ああ。門の外で待っている」
「怪しい。単身の上司ほど怪しいものはない」
リリアが静かに言った。
「ガルムさんが嫌なら、私が断ります」
その声は柔らかかった。
だが、背筋が伸びるような芯がある。
リリアはいつもそうだ。
俺を兵器ではなく、名前で呼ぶ。
魔王軍の所有物ではなく、俺として扱う。
だからこそ、選ばせようとする。
困る。
逃げ道を塞がれるより、逃げ道を残される方が困る時もある。
「……会うだけだ」
俺は立ち上がった。
「戻るわけじゃない。請求書も渡す。場合によっては利息も付ける」
「はい」
「あと、俺が逃げそうになったら止めるな」
「分かりました」
「そこは止めろ」
リリアは少し笑った。
俺はため息をつき、砦の門へ向かった。
◇
ヴァルザは砦の外に立っていた。
黒い軍服を、一分の隙もなく着こなしている。
相変わらず整った顔。
相変わらず冷たい目。
相変わらず、現場を知らない上官の立ち方。
だが、以前とは少し違っていた。
目元に疲労がある。
頬が少しこけている。
そして、俺を見るなり、ほんの一瞬だけ表情が揺れた。
俺の体の石外殻は、かなり剥がれている。
腕、胸、肩。
そこから覗く虹色のオリハルコン装甲。
もう、ただの石くずには見えないのだろう。
「ガルム」
ヴァルザが言った。
「久しぶりだな」
「そうでもない。俺の体感では、退職後すぐに元職場トラブルが連続している」
「相変わらず口が減らんな」
「これでも三百年勤務の貴重な意見だ」
ヴァルザの眉がわずかに動いた。
門の内側には、リリアと騎士団長が立っている。
街の人々も、少し離れた場所から様子を見ていた。
俺は門の前に立つ。
昔と同じだ。
ただし、今回は魔王城の門ではない。
俺の背後にいるのは、魔王軍ではない。
「用件は何だ」
「単刀直入に言おう」
ヴァルザは胸を張った。
「ガルム。貴様に、魔王軍へ戻る名誉を与える」
沈黙。
風が吹いた。
俺はヴァルザを見た。
リリアも見た。
アルダも見た。
街の人々も見た。
「……名誉?」
俺はゆっくり聞き返した。
「そうだ。貴様は魔王軍所有の旧式ゴーレムだ。本来ならば、人間側に与した時点で処分対象となる」
「俺を追放したのはそっちだぞ」
「その処分は一時的な措置だ」
「一時的に荒野で朽ちろと言われた記憶がある」
「言葉のあやだ」
「便利だな、言葉のあや!」
俺は思わず叫んだ。
ヴァルザは顔をしかめる。
「貴様の価値について、再評価が行われた。よって、特例として魔王軍への復帰を認める」
「再評価」
俺は自分の腕を見た。
虹色のオリハルコンが光っている。
「磨いたら高級素材が出てきたから、やっぱり戻れってことか」
「そうは言っていない」
「そうとしか聞こえない」
ヴァルザのこめかみが動く。
だが、彼は怒鳴らなかった。
怒鳴れないのだろう。
後ろめたいからか。
必要だからか。
その両方か。
「ガルム。貴様が戻れば、第七城門の守備を再編できる。防衛線も安定する。新型魔導ゴーレム部隊との併用により、魔王軍はさらに」
「待て」
俺は手を上げた。
「戻ったら、俺はまた城門前か?」
「当然だ。貴様の適性は長期防衛にある」
「三百年立った場所に戻って、また立てと?」
「そうだ」
「退職金は?」
ヴァルザが黙った。
「未払い手当は?」
「……それは」
「契約外労働だった魔獣の餌やり手当は?」
「今、その話は」
「今する話だろ!」
俺は一歩前に出た。
「三百年だぞ。三百年、城門前に立たされて、石くず呼ばわりされて、最後は廃棄だ。で、中身がオリハルコンだと分かったら『戻る名誉を与える』? 魔王軍の人事部、岩より硬いな!」
アルダが小さく咳をした。
リリアは何も言わず、俺の背後に立っている。
それだけで、不思議と足が引かなかった。
ヴァルザの表情が険しくなる。
「調子に乗るな、ガルム。貴様は魔王軍で作られ、魔王軍に配置された兵器だ」
「俺は廃棄された兵器だろ」
「だから、それを取り消すと言っている」
「俺の側が取り消したいんだが?」
「何?」
「石くず扱いされた記憶を取り消したい。退職金なしで放り出された事実を取り消したい。荒野で朽ちろと言われたのを取り消したい」
ヴァルザは言葉に詰まった。
俺は自分でも驚いていた。
こんなに言うつもりはなかった。
謝罪文を読む予定だった。
できれば丸く収める予定だった。
だが、口が止まらない。
「ガルム」
リリアの声がした。
さん付けではなかった。
静かに、名前だけ。
俺は一瞬だけ振り返る。
リリアは心配そうではなく、ただ見守っていた。
俺が何を言うのか。
俺がどこに立つのか。
それを、待っている顔だった。
俺はまたヴァルザに向き直る。
「ヴァルザ。俺はもう魔王軍には戻らん」
ヴァルザの目が細くなる。
「本気で言っているのか」
「本気だ」
「人間どもがお前を本当に受け入れると思うか? 今は物珍しさと戦力として利用しているだけだ。いずれ恐れ、封じ、解体する」
街の人々がざわつく。
騎士たちが表情を険しくする。
リリアが一歩前へ出ようとした。
俺は手で制した。
「その可能性はあるな」
「ならば」
「でも、少なくとも今、あいつらは俺を石くずとは呼んでない」
ヴァルザの言葉が止まる。
「怖がられてる。警戒もされてる。守護神とかいう重すぎる呼び方もされてる。正直、全部困る」
俺は背後を少し見た。
街の子どもが、母親の後ろからこちらを見ている。
この前、ありがとうと言った子だ。
「でも、あいつらは俺に礼を言った。リリアは俺を名前で呼んだ。騎士たちは俺を、少しずつでも信じようとしている」
胸の核が鳴る。
今度は嫌な音ではなかった。
「だから、戻らん」
ヴァルザの顔から、余裕が消えた。
「ガルム。状況を理解しろ。貴様が戻らなければ、魔王軍の防衛線はさらに乱れる」
「知らん」
「第七城門も不安定だ」
「前に言った。左側が軋むってな」
「補給路も遅れている」
「旧式を減らすなとも言った」
「兵たちも不満を」
「石くずって笑ってた連中か?」
ヴァルザの口が閉じた。
俺は小さくため息をつく。
「俺は三百年、言われたことはやった。誰にも褒められなくても、城門前に立った。雨でも雪でも、魔物の襲撃でも立った」
自分で言うと、少し胸が痛い。
「でも、捨てたのはそっちだ」
ヴァルザの喉が動く。
「ガルム」
声が変わった。
さっきまでの高圧的な響きが、少し薄れている。
「戻れ。今なら、以前より良い待遇を用意できる」
「待遇?」
「専用整備班をつける。魔力供給も優先する。新型部隊との連携指揮も任せる」
「仕事が増えてる」
「必要なら、名誉称号も」
「責任も増えてる」
「貴様の望む退職金も、再計算する」
そこで俺は少し止まった。
退職金。
三百年分。
魅力的な響きだ。
いや、俺は食わないし寝ないし金の使い道もよく分からない。
だが、払われるべきものは払われるべきだ。
社会の基本である。
リリアが少しだけ不安そうに俺を見た。
俺は腕を組んだ。
「退職金は受け取る」
ヴァルザの顔に、わずかに安堵が浮かぶ。
「なら」
「戻らん」
「何?」
「退職金は受け取る。戻らん。これは別問題だ」
「貴様……!」
「未払いを人質に復職を迫るな。ブラック企業の末期だぞ」
騎士たちの間から、かすかに笑いが漏れた。
ヴァルザの顔が赤くなり、次に青ざめる。
彼は拳を握った。
「ガルム。貴様に選択権があると思うな」
空気が一気に重くなる。
騎士たちが剣に手をかける。
リリアが俺の隣に並んだ。
「ヴァルザさん」
リリアの声は静かだった。
「ガルムさんは、あなたの所有物ではありません」
「聖女。貴様には関係ない」
「あります」
リリアは一歩も引かなかった。
「ガルムさんは、私たちを守ってくれました。けれど、私はガルムさんを戦力としてここに置いているのではありません」
「綺麗事を」
「名前を呼んでいます」
ヴァルザが黙る。
「石くずではなく、旧式でもなく、兵器でもなく、ガルムさんと呼んでいます」
俺はリリアを見た。
やめろ。
そういうことを正面から言うな。
核が鳴る。
すごく鳴る。
「ガルムさんがどこにいるかは、ガルムさんが決めることです」
「……リリア」
「はい」
「今、かなり恥ずかしい」
「すみません」
「謝られると余計困る」
リリアは少しだけ微笑んだ。
ヴァルザはそのやり取りを見て、表情を歪めた。
「くだらん。聖女に懐柔されたか、ガルム」
「懐柔?」
「優しい言葉をかけられ、利用されているだけだと分からんのか」
「優しい言葉をかけられたことがないから、判断材料が少ないのは認める」
「ならば」
「でもな」
俺は言った。
「少なくとも、リリアは俺を磨いてから価値を知ったんじゃない」
ヴァルザの目が揺れる。
「価値を知らない時から、俺を拾った。俺を名前で呼んだ。石くずじゃないと言った」
荒野でのことを思い出す。
白い外套。
青い瞳。
ひび割れた俺の腕を、汚いとも言わずに拭いた手。
「お前とは逆だ」
ヴァルザの顔から血の気が引いた。
その一言は、魔導砲より効いたらしい。
「……ガルム」
声が、さらに変わる。
怒りではない。
焦り。
いや、ほとんど懇願に近い。
「戻ってこい」
砦の前が静まり返った。
ヴァルザは唇を噛む。
「魔王軍には、お前が必要だ。第七城門も、補給路も、前線も、お前がいた頃のようには回らん。新型だけでは駄目だ。認める。お前の働きは、必要だった」
初めて聞いた。
必要だった。
三百年で、一度も聞かなかった言葉。
俺は黙った。
「待遇は改善する。石くずとも呼ばせん。整備も行う。だから戻れ。いや」
ヴァルザの喉が震えた。
「戻ってきてくれ」
それは、魔王軍幹部ヴァルザの口から出たとは思えない言葉だった。
周囲の騎士たちも、街の人々も、息をのんでいる。
俺は少しだけ、胸の奥が重くなった。
戻れば、魔王軍の兵士たちは助かるかもしれない。
第七城門も安定するかもしれない。
俺が三百年立っていた場所だ。
気にならないわけではない。
だが。
俺は背後を見た。
リリアがいる。
俺を信じようとしてくれた騎士たちがいる。
ありがとうと言った子どもがいる。
俺の木彫り人形を作った街の子どもたちがいる。
この場所で、俺は初めて名前を呼ばれた。
初めて、石くずではないと言われた。
「ヴァルザ」
俺は言った。
「遅い」
ヴァルザの目が見開かれる。
「俺はもう、魔王軍のガルムじゃない」
うまい言葉は出てこない。
格好つけるつもりもない。
ただ、今の俺に言えるのは、それだけだった。
「俺は、リリアの……いや」
リリアが少しだけこちらを見る。
俺は慌てて言い直す。
「この砦の、仮所属の、契約書未整備の、非常勤門番だ」
「長いです」
リリアが小さく言った。
「うるさい。大事なところだ」
俺はヴァルザを見た。
その時、ほんの一瞬だけ、関節の奥がゆるんだ。
三百年、文句を言いながらも、慣れた場所だった。
黙って門に立てば、また誰も俺を見ない代わりに、誰も俺に期待もしない。
核が、こつん、と鳴る。
……でも、それだけだ。
俺は胸の核に、自分で軽く拳をぶつけた。
「だから、戻ってこいと言われても、もう遅い」
言ってから、自分の声が少しだけ震えていたことに気づいた。
風が吹いた。
ヴァルザの黒い軍服の裾が揺れる。
彼はしばらく何も言わなかった。
やがて、顔を歪める。
「……後悔するぞ」
「もうしてる」
「何?」
「もっと早く退職金を請求しておけばよかった」
「貴様!」
ヴァルザの手に魔力が集まる。
騎士たちが動く。
リリアが結界を張ろうとする。
だが、ヴァルザは撃たなかった。
撃てなかったのかもしれない。
俺に魔法を撃てば反射されると知っているからだ。
それが、さらに彼の屈辱を深めているようだった。
「ガルム。これで終わりではない」
「終わりにしてくれ。手続きが面倒だ」
「魔王軍は、お前を諦めん」
「困る」
「私は必ず、お前を」
「その前に退職金だ」
ヴァルザは怒りに震えながら、踵を返した。
黒い軍服の背中が遠ざかる。
彼の歩き方には、来た時のような余裕はなかった。
砦の門前に、静けさが戻る。
◇
「ガルムさん」
リリアが隣に来た。
「何だ」
「よかったんですか?」
「何が」
「魔王軍に戻らなくて」
「戻った方がよかったと思うか?」
「いいえ」
即答だった。
俺は少し驚いた。
リリアは静かに続ける。
「でも、ガルムさんが決めることです」
「……決めた」
「はい」
「戻らん」
「はい」
「ただし退職金は請求する」
「はい」
「そこは譲らない」
「はい」
リリアは笑った。
その笑顔を見ると、胸の核が鳴った。
もう、故障とは言い切れない。
だが、まだ認めたくもない。
「リリア」
「はい」
「俺は、ここにいていいのか」
言ってから、しまったと思った。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
だが、リリアはすぐに答えた。
「はい。いてください」
静かな声だった。
強い声だった。
「ガルムさんが、ここにいたいと思うなら」
「……責任が重い」
「少しずつで大丈夫です」
「またそれだ」
俺は目の光をそらした。
門の向こうでは、街の人々がほっとしたように見ている。
騎士団長が頭を下げる。
子どもが小さく手を振る。
俺はぎこちなく指を一本上げた。
今度は、男の子が笑った。
「やってらんねえ……」
そうつぶやいた声は、前ほど嫌ではなかった。
◇
魔王城へ戻ったヴァルザは、軍務室の扉を乱暴に閉めた。
机の上には報告書が積み上がっている。
防衛線の不調。
新型部隊の損耗。
兵士たちの不満。
そして、ガルム帰還交渉失敗。
若い参謀が青ざめた顔で立っている。
「ヴァルザ様……ガルムは」
「戻らん」
短い返答。
部屋の空気が重く沈む。
「では、上層部へ」
「まだだ」
「しかし」
「黙れ!」
ヴァルザは机を叩いた。
だが、その怒声には、もう以前の威圧はなかった。
焦り。
屈辱。
恐怖。
それらが混ざっている。
「ガルムは聖女に惑わされているだけだ」
彼は自分に言い聞かせるように言った。
「人間どもが、あの旧式を守護神などと持ち上げているからだ」
古代文献の写しが、机の上に広がっている。
神鉱守護兵。
防衛対象を認識した場合、命令なしに守護行動を開始。
ヴァルザはその文字を睨んだ。
「ならば」
彼は低くつぶやいた。
「ガルムの防衛対象ごと、消せばいい」
若い参謀の顔色が変わる。
「ヴァルザ様、それは」
「私が判断することではない」
ヴァルザは窓の外、魔王城の最上層を見上げた。
「四天王に報告する」
その言葉に、部屋の空気が凍った。
魔王軍四天王。
魔王軍の中でも、別格の力を持つ存在。
彼らが動けば、砦や街ごと消える。
ヴァルザは拳を握りしめた。
ガルムが戻らないなら。
聖女を選ぶというのなら。
その選択ごと、破壊する。
そうしなければ、自分の失敗が消えない。
だが、彼はまだ気づいていなかった。
その選択こそが、ガルムを魔王軍からさらに遠ざけることに。




