山羊の名 7
「なんと、恐ろしいことでしょう。あるいは、悪魔その人がこの裏にいるのかもしれません」
ハルトリープは恐れ慄くように言った。
当時のキリスト教徒にとって、悪魔は物語の中だけにいる怪物ではない。人を誘惑し、惑わせ、現世に災いをもたらし得る、実在の脅威だった。
『あの婆さんがやっぱり怪しいんだ』
『早く始末しなければ』
村人たちが口々に言い合った。気の早い若者たちが、どこかへ向かって走り出す。
村人たちの様子に、エリーザベト修道院長は慌てて声を張り上げた。
「落ち着いてください、落ち着いてください。まだ何もはっきりしたことは分かっていません。軽はずみな行動に出ないでください」
修道院長は声を張り上げたが、村人の不穏な空気は収まらない。
「まずいね」
ヴィーはそう言って、ゆっくりとエリーザベト院長の背後を守るように近寄った。
ヨハネスはエリーザベト院長を挟んでヴィーと反対側に立ち、周囲の人間に鋭い視線を向けた。
やがて、村の若い衆がマルガレータを引きずるように連れてきた。
『縄を持ってこい!』
『つるせ! つるせ!』
今や、村人たちは熱に浮かされたように興奮していた。
ヴィーが進み出ようとする腕をとって、エリーザベト院長が首を振って止めていた。
「あたし、あの婆さん大嫌いだったの。ゲジゲジみたいで気持ち悪い」
悲鳴を上げるマルガレータを、中年女が嘲笑った。
ヨハネスには、いやにはっきりと、その言葉が聞こえた。
一歩、前に踏み出していた。
ヴィーが驚いたような顔をしているのが見えた。
「おいてめえら、ちょっと待て!!」
自分の腹から飛び出した大声に、ヨハネスは自分が激怒していることに、初めて気づいた。
マルガレータに駆け寄って、長包丁を抜き払う。
白刃を見て、村人たちが後退った。
その隙に、ヨハネスは老婆と村人の間に立ちふさがった。
若者の何人かが、手近にあった三つ又の農具やくわを手に取って駆け寄ってきて、にらみ合いになる。
いつの間にか、ヴィーが片手剣と小盾を構えて、隣に立っていた。
「あんた、どうやってこの場をおさめるのか、考えがあるんだろうね?」
鋭くヴィーに尋ねられたが、答えない。
『なんだ小僧! 魔女をかばい立てするのか!』
村人たちが怒声をあげた。
「俺ぁ、そういう、魔女とかなんとかわかんねぇけどよぉ」
ヨハネスは、呼吸を整え、努めて落ち着いた声を出した。
「勢いでやっちまってから、あとで違ってたなんて言っても取り返しつかねぇんじゃないか?」
それから、得物を構えて立つ若者の背後に、知った顔を見つけて、声をかけた。
「なあクンツ。お前、マルガレータ婆さんをやるのか?」
「えっ!? いや、んだども……」
酒好きの人懐こい若者が、口ごもった。
「イェルク。あんたが暗がりでやってた事は、そういう、悪魔とか関係あるのかよ?」
「……」
誘い文句を考えている時以上に、彼の顔が赤くなり、しかめ面になった。
「でも、豚が死んでるんだど! おら、許せねぇだよ!」
ハインツが、ヨハネスに叫んだ。
「ちょっと待てよ。婆さんが黒い粒を麦に混ぜてるって言ってるのは、誰だよ」
ヨハネスが問うと、村人たちは視線を交わすだけで、はっきりした返事を寄こさなかった。
それでヨハネスは息を吸うと、一際大きな声を出した。
「悪魔ってのは、ずいぶん商売に詳しいんだなあ。赤い升の袋だけを選んで入り込み、別の麦には手も出さない。餌を変えれば、祈とうもなしに出て行くとくらぁ!」
村人たちに、たしかにどよめきが走った。
少なくとも、内心疑っていた者はそれなりにいたのだろう。
「しょ、証拠はあるのかよ……」
ハインツは、いくぶん弱々しくなった声で、ヨハネスに尋ねた。
「だから、餌に使う麦を変えてみろよ。それで病気になる豚はいなくなるぜ」
『そんなん、お前が勝手に言っとるだけだろうが! おらが村の問題に口出すんじゃねぇ!』
村人の誰かが、言った。
「嫌だ。何の罪もねぇ婆さんをつるしちまって、あとで違ったなんてことになったら、寝覚めが悪くてしようがねぇ」
『皆で決めた事だど!』
「みんなって、誰だよ? なあ、クルツ、お前もその中に入ってるのか?」
ヨハネスは、再び最初の若者に話を振った。
彼は、分別のある人物だと見込んでいる。
「あ、ああ、いやおらは、う~ん、どうだろう……。もう少し考えたほうがええかもしれん……」
果たして、望み通りの反応が返って来た。
クルツの振るまいを見て、周りの村人たちも少し考えはじめたのが、見てとれた。
「なあ、今ならまだ、間違いで済む。でもつるしちまったら、人殺しだ。まだあんたら選べるんだ。よく考えてくれ」
ヨハネスは、声の調子を変えて、乞うように呼びかけた。
村人たちは、お互いの顔を見合わせている。
その時、村人の中から、女が声をあげた。
「マルガレータは、あの麦を食わせるなって言ってたよ」
結婚している女性の身なりだったが、まだ娘と言っていいぐらいに若い女性に注目が集まった。
この緊迫した場に似合わない、のんびりした声を出す婦人だった。
すこし、頭が足りないのかもしれない。そう思わせる舌足らずな話し方。
「赤い升の袋は、豚に食わせてもあたしが食べてもダメって、マルガレータは言ってた。それに、グレーテルにも、ぜったい食べさせなかった」
周囲の視線に臆する事もなく、婦人はそう言った。
『グレーテルって誰?』
誰かが尋ねた。グレーテル、はマルガレータの短縮形で、小さな可愛いマルガレータ、ぐらいの意味合いだ。
「あの黒い山羊だよ! マルガレータが飼ってる」
婦人が答えた。
魔女の疑いをかけられた老女は、自分の名を山羊に与えていたらしい。
ヨハネスの後ろでへたり込んでいた老女に、皆の視線が集まった。
誰も笑ったりはしない。ただ一瞬、沈黙が流れた。
マルガレータが、居心地が悪そうに咳払いをした。
村人たちの気勢が削がれたのを、ヨハネスは感じた。
『兄弟全員、婆さんに取り上げてもらったらしいしな……』
『去年、うちの子の熱を下げてくれたのは、マルガレータだよ』
そんな声が、徐々に聞こえて来た。
よし、よし、とヨハネスは内心つぶやきながら、背後を振り返った。
エリーザベト修道院長と目があったので、念じる気持ちでうなずいた。
一瞬、はっとしたような表情を見せた修道院長だが、ひとつ深呼吸をして、前に出た。
「マルガレータは、調べが終わるまで修道院の保護下に置きます。すべて、こちらで調べます。修道院領での私刑は決して認められません」
修道院長の毅然とした声は、よく通った。
前列で、農具を構えていた若者たちの腕が、ゆっくりと下がっていった。




