山羊の名 5
「ご挨拶だね。豚の病気のことで、手を貸してやろうかと思ってたのに」
ヴィーは腕を組み、あごを上げてマルガレータという老女を見下ろした。
「はっ、お前に助けてもらう必要なんか、ないね。あんなもの、あの黒い粒まじりの麦を捨てちまえばいいんだ」
マルガレータは、ねじれた撞木杖で何度も地面を小突いた。
「それ、ちゃんと村の衆に説明したのかい?」
「聞き分けの良い奴には、教えてやったよ。安物買いの銭失いどもは、どうせ言っても聞きやしない」
確認するヴィーに向かって、マルガレータは憎々しげに吐き捨てた。
ヴィーは、わざとらしくこめかみを押さえて、ため息をついた。
「エリーザベトは、あんたを心配している。村の衆は、市認定の宣誓産婆を雇えないか考え始めているよ」
「あの恩知らずどもめ! あいつらほとんど、あたしが取り上げてやったんだぞ!」
老女は怒り狂った。村人たちを呪い、悪態をついた。
おそらく長年、身内同然に付き合ってきた人間に向けられる悪意は、路地裏育ちのヨハネスさえ寒気を覚えるほどだった。
耐えがたくなったヨハネスは、少し離れた所に杭につながれている黒い山羊を見つけ、そちらへ向かった。
老女が飼っているのだろう。その山羊も年老いていた。
背中をなでてやると、手をなめてくる。主には似ない、愛想の良い奴だった。
ここまで離れれば、老女の悪態は耳に届いても、何を言っているのかまでは分からない。
ヨハネスは、ここで話が終わるのを待つことにした。
「でも、取り上げられなかったやつも、いるだろ」
ヴィーは、悪態の隙間に口を挟んだ。
「あたしらは、どうしたって恨みを買いやすい。なのに、あんたみたいに相手によって扱いを変えていたら、どう思われる? 心得がない素人だって、真剣にやってくれてるかどうかぐらいはわかるんだよ」
老女はあごをかみしめ、歯がギチッとかすかな音を立てた。
「じゃあ五月祭りの祭祀は誰がやるんだい? ああ? まさかあたしにそんな扱いしておいて、祭祀だけやってくれって言うのかい?」
マルガレータは、まるでヴィーが村人であるかのように問い詰めた。
「村の連中は、もう来年は、祭祀はやらなくていいんじゃないかって話し合ってるよ」
「は? 代々受け継いできた、大事な伝統じゃないか!?」
さらに興奮した老女は、撞木杖を振り上げるような仕草をした。
ヴィーは、つい、と一歩さがった。
「代々も何も、もう村の半分近くはよそから来た連中じゃないか。何度も疫病が流行って、人が入れ替わっちまったんだから」
ヴィーは言った。
「それにエリーザベトは寛容だけど、町の司祭は良い顔をしないからね。そんな古いしきたり、やめちまえって人間も多いのさ」
老女は、何か言い返そうとしていたようだが、息が続かなくって、黙り込んだ。
「あんたは、大勢の命を救ってきた。でもここで短気を起こすと、その功徳も水の泡だよ。これからの振る舞いを、よく考えるんだね」
ヴィーはそう言うと、話はそれで終わりだとばかりに、背を向けて立ち去った。
ヴィーが話を切り上げて、帰途についたのが見えた。
あわてて、彼女を追った。
「あの婆さんとは、産婆さんの兄弟会とか、そういうつながり?」
ヨハネスは、ヴィーの背中に尋ねた。
「そこまで、ちゃんとしたものじゃないね。昔から知ってるってだけさ」
ヴィーは、そう答えた。
「やっぱり、あの麦を疑ってた」
「そうだね。あとは、エリーザベトの仕事かね。修道院にはニュルンベルクのお偉方の身内もたくさんいるからね。くだんの仲買商は、後悔することになるだろう」
「じゃあ、俺はもう、お役御免ってことでいいかな?」
「そうだね。助かったよ。ただ、明日は五月祭だから、混ざって楽しんでいきな。ごほうびだよ」
次の日。
五月祭りに華やぐ村を、ヨハネスは眺めていた。
——街の五月祭りとは、ちょっと様子が違うな。
五月柱が立つのは同じだが、バイオリン弾きなどの芸人はいなかった。輪舞はやっていたが、太鼓の拍子に合わせて踊る素朴なものだった。
村人の興味は、主に飲み食いのようだった。男も女も、ともかくよく酒を飲んでいた。
ヨハネスも、振る舞われた麦酒を飲んだ。
青空の下、そよ風の吹く原っぱで飲む酒は格別だった。
酒で陽気になった村人たちも、気軽に声をかけてくる。
特に三人組の若者たちと、ヨハネスは意気投合した。
「俺は、ニュルンベルクのパン屋で徒弟をやってる。親方の使いで修道院に用があったんだ」
「そうかい。俺はクンツ。ここで豚飼ったり、畑やったりしてる。なあ、ニュルンベルクさ行ったら、うまい麦酒飲める酒場ってあるんけ?」
ヨハネスは、田舎の村人が訪れても不快な思いをせずに済みそうな酒場を、いくつか教えてやった。
「麦酒はうまいんだけど、少し腹が減ってさ。何か食べるもの、どこかでもらえないかな」
「んじゃ、俺も今からもらいに行ぐべ。いっしょに来いよ」
そう声をかけてきたのは、ハインツと名乗った若者だった。
ハインツに連れられて、ヨハネスは広場の一角に張られた日除けへ向かった。そこでは焼いた腸詰が振る舞われていた。
ヨハネスはさっそく一本もらって舌鼓を打った。
「これ、うまいなあ」
「んだべ、んだべ。うちの村の豚は評判がいいんだ」
ハインツはヨハネスの反応に満足したように笑った。
クンツのところへ戻ってみると、もう一人の村の若者が何やらぶつぶつとつぶやいていた。
ヨハネスがクンツに目を向けると、
「こいつ、イェルクっていうんだけど、今から娘っ子を踊りに誘おうとしてるんだ」
と教えてくれた。
イェルクは、すでにしかめ面を真っ赤にしていた。
「そんな面してたら、娘っ子に逃げられちまうど」
ハインツがいかにもおかしそうに言うので、クンツもヨハネスも笑ってしまった。
それで、イェルクも少し肩の力が抜けたようだった。




