山羊の名 4
黒い粒とその仲買商の話を聞いたヴィーは、しばらく黙って考え込み、やがて立ち上がると、ヨハネスを促して修道院の外へと連れ出した。
行き先は、歩いて小一時間ほどの場所にある村だという。
「何しに行くんだ?」
ヨハネスはヴィーに尋ねた。
「ちょっと古い知り合いに会いに行くのさ。まあ、黙ってついてきな」
ヨハネスは舌打ちをして、ヴィーの後に従った。
やがて、小さな村が見えてきた。
広い原っぱに五月柱が立てられ、色とりどりの布や細工で飾り立てられている。五月祭の準備だ。
村の中央には、古びた酒場があり、ヴィーはそこへ向かった。ヨハネスは少し戸惑いながらも、その後に続いた。
祭りが近いせいか、店の中には昼間にもかかわらず、けっこうな数の客がいた。
ほとんどは村人で、顔見知りなのだろう。よそ者のヴィーとヨハネスに密かな視線が集まった。
「いらっしゃい。食事かい? 酒かい?」
給仕女がヴィーとヨハネスを交互に見ながら、いぶかしむように尋ねた。
ヴィーは右手を差し出し、給仕の女と握手をした。
「私には麦酒、この子には……山羊の乳とかあるかい?」
給仕の女は戸惑ったような顔をしたが、
「冗談だよ。俺にも麦酒を」
とヨハネスが言ったので、安心したように微笑んで、店の奥へ引っ込んだ。
ヴィーとヨハネスは、小さな机に向かい合って座った。
ヨハネスは、こちらから目を離そうとしない村人たちの様子をうかがいながら、ヴィーに言った。
「乳は飲まねぇよ」
「いやいや、あんた、もう少し背が欲しいから、飲んだ方がいいよ」
とヴィーはニヤニヤと言った。
その言葉にむっとして、ヨハネスが何か言い返そうとしたが、給仕が二人の前に、麦酒を満たした取っ手付きの木の杯を置いた。
「おっと、ちょっと私はお手洗いを借りてくるよ」
と言って、ヴィーは席を立った。
ヴィーが戻るのを待っているあいだ、ヨハネスは先ほどのヴィーと給仕の女の握手について考えていた。
ヴィーは相手と握手を交わす瞬間、親指を伸ばすようにして、相手の親指の付け根をもむような仕草をした。給仕の女も、それに応じるように同じ仕草を返していた。
傍目には気づかれないほどさりげない仕草だったが、あれは明らかに何らかの合図だった。
ヨハネスがその不自然さに気づいたのは、剣術の修行で、相手の手の内を見る癖が身についていたからだった。
両刃の剣には、普通に腕を振る方向へ刃を向ける「握手握り」と、親指を立て、腕を振る方向へ剣の平を向ける「親指立て握り」がある。どちらの握り方をするかによって、剣の振り方も変わってくる。
だからこそ、先ほどの握手が引っかかった。
やがて、給仕の女もヴィーを追うようにして酒場の裏手へ向かった。
その様子を見て、やはり何らかの合図だったのだと、ヨハネスは合点した。
ヴィーは、なかなか戻ってこなかった。ヨハネスは、見るともなしに酒場の客たちを眺めた。
目立ったのは、五人ほどの男が騒いでいる卓だった。
騒いでいるといっても、話しているのは主に一人の男だった。町の人間らしい、しゃれた身なりをしている。
「で、だ。あんまりだりぃことぬかすから、俺は言ってやったんだよ。ぬるいこと言ってねぇでビシっとしろってよぉ。そしたら、あいつ何も言えねぇで、ア、ハイ……みたいになってよ」
話している男が笑うと、周りの男たちが一斉に笑った。こちらは身なりからして、村人だろう。
機嫌よく武勇伝を吹聴している男の頭巾の襟に、赤い四角形を組み合わせた升形の紋が縫い取られていた。
もちろん仲買商本人ではなく、その家中の者だろう。それでも村人たちの様子を見るかぎり、ここではずいぶん幅を利かせているらしい。
横眼で見ながら、ヨハネスは、そう思った。
やがて、ヴィーが戻ってきた。
ヨハネスは視線を、ラーベナウアー商会の者と思われる男へ向けた。
ヴィーは、さりげなく横眼で彼を確認した。
「赤い升の紋」
手で口元を隠しながら、ヨハネスは小声で言った。
ヴィーはひとつうなずくと、そちらには目を向けず、彼らの話に耳を傾けはじめた。
ヨハネスは、ヴィーが何をしてきたのか尋ねなかった。
あの給仕と何か情報交換をしたのだろうと思ったが、ヨハネスは、それに気づいたことなどおくびにも出さなかった。
やがて、ヴィーは武勇伝を聞くのに飽きたようだった。
「その麦酒を飲み終わったら、もう少し面貸しな。行くところがあるんだ」
「まあ、こうなったら付き合うよ」
ヨハネスはそう言って、杯を飲み干した。
ヴィーは酒場を出ると、人けのない方へと歩いていった。
細い小道をたどって森の中を歩くこと、小一時間。うっそうとした薄暗い森の中に、古びた小屋が見えてきた。
その小屋の中から老女が現れたと思ったとたん、拳大の石を投げてきた。
狙いは大きく外れ、避けるまでもなかったが、当たれば十分に頭を砕く大きさの石だった。
ヨハネスは腰に差した長包丁の柄に手をかけた。しかしヴィーは、そのヨハネスの動きを制した。
老女は大きな鼻を持つ、醜い顔をした女だった。ぼろぼろの長衣のようなものを着ていた。
「何だい、お前ら。近づくんじゃないよ。帰れ、帰れ!」
老女は金切り声で叫んだ。
「久しぶりなのに、ずいぶんな挨拶だね、マルガレータ」
ヴィーに声をかけられて、老女は目をすがめて彼女の顔をじろじろ眺めた。
ヴィーを見ているはずなのに、片方の目だけがひどく外側を向いている。
それから、石を握って振り上げていた手を下ろした。
「なんだい、何しに来やがったんだい。あたしゃ、お前なんかの顔は見たくないんだ」
どうやら、この二人は知り合いらしいが、あまり友好的な関係には見えない。
ヨハネスは柄から手を離し、手近な木に寄りかかった。




