山羊の名 3
修道院には、巡礼や来客を泊めるための宿坊があった。
日が暮れる直前、ヨハネスは宛てがわれた部屋を抜け出し、ヴィーに指示された場所へ人目を忍んで向かった。
そこは、修道院の外縁に立つ建物の裏手だった。壁には小さな窓がひとつあり、木戸で固く塞がれている。立てばヨハネスの頭ほどの高さにくるその窓の下に身を沈め、彼は息を潜めて待った。胸の奥で、心の臓が激しく脈打っていた。
やがて、木戸ががたがたと揺れた。
ヨハネスが顔を上げると、木戸を外したアポロニアと目が合った。
「アポロニア」
思わず声を上げかけたヨハネスに、彼女は唇へ指を当てて見せた。それから背後を振り返り、誰もいないことを確かめる。
彼女もまた、人目を忍んでここへ来たのだ。それが分かると、ヨハネスの胸は熱くなり、慌てて口をつぐんだ。
「これ……」
ヨハネスが手紙を差し出そうとすると、木格子の向こうから伸びてきたアポロニアの手が、その手をぐいとつかんだ。
「来てくれたんだね……」
小さな声には、隠しきれない感情がにじんでいた。彼女の瞳には差し込む夕日が映り、ゆらゆらと揺れている。
つかまれた手を通して、ヨハネスはアポロニアの手のなめらかさと、小ささと、温かさを意識した。
「俺さ。五年くらいがんばったら、一人前の職人になれるらしいんだ」
アポロニアは、うんうんとうなずいた。
「だからさ、俺……その、待ってるからさ……」
ヨハネスが口ごもると、アポロニアはくすくすと笑った。
それから二人は、互いがどのような日々を送り、そのなかで何を感じているのかを、夢中になって話した。
うまく言い表せず、何度も言い直しながら、それでも伝えようとした。
聞く方もまた、拙い言葉の奥にあるものを、読み取ろうとした。
「それでね、パン窯がちゃんと熱くなったかどうかを見極めるのが、まだ難しいんだ……」
ヨハネスがそんな話をすると、アポロニアは目を細めて聞いていた。
「私ね、最近、剣を習っているの。片手剣と小盾。修道院に教えてくれる人がいて、教本もあるの。あんなことがあったから、私も自分の身を守れるようになりたいって。それで……」
話の途中で、アポロニアの声が沈んだ。
「じゃあ、家に戻ってきたら、一緒にけいこをしよう」
ヨハネスがそう言うと、アポロニアはうつむいた。
異変を感じたヨハネスは、そっと自分の手を彼女の手に重ねた。
みるみるうちに、少女のまなじりに涙がたまり、頬へとこぼれた。
「家に、帰りたい……」
その悲痛な響きを聞いた途端、ヨハネスは彼女を今すぐ家へ連れて帰りたくなった。
歩いて一日の距離だ。できないわけじゃない。
しかし、親方や奥さんが恐れていることから、自分はアポロニアを守れるのだろうか?
ヨハネスは、木格子のすき間から伸ばした指先で、彼女の柔らかな頬を伝う涙をぬぐうことしかできなかった。
翌朝、振る舞われた朝食を済ませて農場の建物の外へ出ると、ヴィーが待っていた。
「アポロニアには会えたかい」
そう問われ、ヨハネスは黙ってうなずいた。
「じゃあ、これで貸し一つだ。あんたには、一つ頼みたいことがある」
ヨハネスは、灰色の衣をまとったヴィーをうさんくさそうに眺めた。
「俺、もう帰らないといけないんだけど」
「ルールマン親方には、あんたを借りるって手紙を出しておいてやるよ」
誘拐されたアポロニアを助けるために、警吏とその奥方は尽力してくれた。
この修道院を紹介したのも彼らだと聞いている。親方は彼らにとても感謝しており、おそらく彼女の頼みは断らないだろう。そうヨハネスも思った。
「そもそも、あんた、ここで何してんの?」
「私はここの修道院長と古い付き合いでね。困りごとがあるというから、相談に乗ってるってわけさ」
ヨハネスは昨日の二人の様子を思い返した。
たしかに、修道院長はヴィーを客として扱うというより、気心の知れた友人のように接していた。
アポロニアとの密会まで手引きできるのだから、ただの知り合いというわけでもないだろう。
「わかった。で、俺は何をすればいいんだい」
「あんたには、豚の病気の出どころを調べてほしいんだよ。あたしはやっぱり、ライ麦が怪しいんじゃないかと思ってる」
「俺は豚のことなんか、なんもわかんねぇぜ」
「豚のことは知らなくても、麦なら少しは分かるだろ。パン屋の徒弟なんだから」
そう言われて、ヨハネスは口をつぐんだ。
「農場の使用人たちには話をつけてある。家畜小屋を見て回って、餌や麦を見ておくれ。何か気付いたら、教えてくれればいい」
ヨハネスは頭をかき、少し考えた。
「……それでいいんなら、やるけどよ」
豚小屋は、納屋に付け足された屋根の低い囲いだった。柵の外側には、木の飼い葉おけが置かれている。
健康な豚は朝から外へ連れ出されていたが、病気の豚だけが囲いの中に残されていた。ヨハネスが行くと、豚たちはわらの上にうずくまり、飼い葉おけの中の餌にもほとんど口をつけていなかった。
ヨハネスは餌の中に指を突っ込み、手触りを確かめた。ふすまに、脱穀くずや短いわらくずなどを混ぜたものだった。鼻を近づけると、かすかに酸っぱいような、かび臭いような匂いがした。ヨハネスは顔をしかめた。
「これ、いつひいた麦だ?」
近くにいた使用人に声をかけると、使用人は肩をすくめた。
ヨハネスは再び飼料をかき回した。すると、その中に小さな黒い欠片が時折混じっていることに気づいた。
そのひとつを指でつまみ、しげしげと眺める。製粉くずにはさまざまなものが混じるのが当たり前だったが、それでも、ヨハネスはその黒い欠片が気になった。
ヨハネスは使用人に尋ね、まだひいていない麦の保管庫へ案内してもらった。
木造の小屋の中には、粗い亜麻布の袋に入ったライ麦が山と積まれていた。ヨハネスは使用人に断り、袋のひとつを開けた。
黄褐色のライ麦の粒。たまに短いわらや、よくわからないゴミが混じっている。
よく見ると、しなびた粒のような黒いゴミが混ざっていた。普通の粒よりは細長く、脱穀の時に折れたようなものも多い。
ヨハネスは保管庫の中の麦袋を見上げた。どの袋にも、赤い四角形を組み合わせた升形の紋が描かれていた。
それは、ニュルンベルクの麦の仲買商、コンラート・ラーベナウアーのものだ。
ルールマン親方は、その仲買商をまともな取引相手とみなしていなかった。
「あいつのところの麦は品質が悪いし、どこで仕入れてきたのか分からないような、怪しいものが多い」
そう言っていたのを、ヨハネスは聞いた覚えがあった。




