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長剣と銀貨 十五世紀ドイツ剣客譚  作者: ビルボ
第七話 山羊の名
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山羊の名 3






 修道院には、巡礼や来客を泊めるための宿坊があった。

 

 日が暮れる直前、ヨハネスは宛てがわれた部屋を抜け出し、ヴィーに指示された場所へ人目を忍んで向かった。


 そこは、修道院の外縁に立つ建物の裏手だった。壁には小さな窓がひとつあり、木戸で固く塞がれている。立てばヨハネスの頭ほどの高さにくるその窓の下に身を沈め、彼は息を潜めて待った。胸の奥で、心の臓が激しく脈打っていた。


 やがて、木戸ががたがたと揺れた。


 ヨハネスが顔を上げると、木戸を外したアポロニアと目が合った。


「アポロニア」


 思わず声を上げかけたヨハネスに、彼女は唇へ指を当てて見せた。それから背後を振り返り、誰もいないことを確かめる。


 彼女もまた、人目を忍んでここへ来たのだ。それが分かると、ヨハネスの胸は熱くなり、慌てて口をつぐんだ。


「これ……」


 ヨハネスが手紙を差し出そうとすると、木格子の向こうから伸びてきたアポロニアの手が、その手をぐいとつかんだ。


「来てくれたんだね……」


 小さな声には、隠しきれない感情がにじんでいた。彼女の瞳には差し込む夕日が映り、ゆらゆらと揺れている。


 つかまれた手を通して、ヨハネスはアポロニアの手のなめらかさと、小ささと、温かさを意識した。


「俺さ。五年くらいがんばったら、一人前の職人になれるらしいんだ」


 アポロニアは、うんうんとうなずいた。


「だからさ、俺……その、待ってるからさ……」


 ヨハネスが口ごもると、アポロニアはくすくすと笑った。


 それから二人は、互いがどのような日々を送り、そのなかで何を感じているのかを、夢中になって話した。


 うまく言い表せず、何度も言い直しながら、それでも伝えようとした。


 聞く方もまた、拙い言葉の奥にあるものを、読み取ろうとした。


「それでね、パン窯がちゃんと熱くなったかどうかを見極めるのが、まだ難しいんだ……」


 ヨハネスがそんな話をすると、アポロニアは目を細めて聞いていた。


「私ね、最近、剣を習っているの。片手剣と小盾(バックラー)。修道院に教えてくれる人がいて、教本もあるの。あんなことがあったから、私も自分の身を守れるようになりたいって。それで……」


 話の途中で、アポロニアの声が沈んだ。


「じゃあ、家に戻ってきたら、一緒にけいこをしよう」


 ヨハネスがそう言うと、アポロニアはうつむいた。


 異変を感じたヨハネスは、そっと自分の手を彼女の手に重ねた。


 みるみるうちに、少女のまなじりに涙がたまり、頬へとこぼれた。


「家に、帰りたい……」


 その悲痛な響きを聞いた途端、ヨハネスは彼女を今すぐ家へ連れて帰りたくなった。


 歩いて一日の距離だ。できないわけじゃない。


 しかし、親方や奥さんが恐れていることから、自分はアポロニアを守れるのだろうか?


 ヨハネスは、木格子のすき間から伸ばした指先で、彼女の柔らかな頬を伝う涙をぬぐうことしかできなかった。






  

 翌朝、振る舞われた朝食を済ませて農場の建物の外へ出ると、ヴィーが待っていた。


「アポロニアには会えたかい」


 そう問われ、ヨハネスは黙ってうなずいた。


「じゃあ、これで貸し一つだ。あんたには、一つ頼みたいことがある」


 ヨハネスは、灰色の衣をまとったヴィーをうさんくさそうに眺めた。


「俺、もう帰らないといけないんだけど」


「ルールマン親方には、あんたを借りるって手紙を出しておいてやるよ」


 誘拐されたアポロニアを助けるために、警吏とその奥方は尽力してくれた。


 この修道院を紹介したのも彼らだと聞いている。親方は彼らにとても感謝しており、おそらく彼女の頼みは断らないだろう。そうヨハネスも思った。 


「そもそも、あんた、ここで何してんの?」


「私はここの修道院長と古い付き合いでね。困りごとがあるというから、相談に乗ってるってわけさ」


 ヨハネスは昨日の二人の様子を思い返した。


 たしかに、修道院長はヴィーを客として扱うというより、気心の知れた友人のように接していた。


 アポロニアとの密会まで手引きできるのだから、ただの知り合いというわけでもないだろう。


「わかった。で、俺は何をすればいいんだい」


「あんたには、豚の病気の出どころを調べてほしいんだよ。あたしはやっぱり、ライ麦が怪しいんじゃないかと思ってる」


「俺は豚のことなんか、なんもわかんねぇぜ」


「豚のことは知らなくても、麦なら少しは分かるだろ。パン屋の徒弟なんだから」


 そう言われて、ヨハネスは口をつぐんだ。


「農場の使用人たちには話をつけてある。家畜小屋を見て回って、餌や麦を見ておくれ。何か気付いたら、教えてくれればいい」


 ヨハネスは頭をかき、少し考えた。


「……それでいいんなら、やるけどよ」


 豚小屋は、納屋に付け足された屋根の低い囲いだった。柵の外側には、木の飼い葉おけが置かれている。


 健康な豚は朝から外へ連れ出されていたが、病気の豚だけが囲いの中に残されていた。ヨハネスが行くと、豚たちはわらの上にうずくまり、飼い葉おけの中の餌にもほとんど口をつけていなかった。


 ヨハネスは餌の中に指を突っ込み、手触りを確かめた。ふすまに、脱穀くずや短いわらくずなどを混ぜたものだった。鼻を近づけると、かすかに酸っぱいような、かび臭いような匂いがした。ヨハネスは顔をしかめた。


「これ、いつひいた麦だ?」


 近くにいた使用人に声をかけると、使用人は肩をすくめた。


 ヨハネスは再び飼料をかき回した。すると、その中に小さな黒い欠片(かけら)が時折混じっていることに気づいた。


 そのひとつを指でつまみ、しげしげと眺める。製粉くずにはさまざまなものが混じるのが当たり前だったが、それでも、ヨハネスはその黒い欠片(かけら)が気になった。


 ヨハネスは使用人に尋ね、まだひいていない麦の保管庫へ案内してもらった。


 木造の小屋の中には、粗い亜麻布の袋に入ったライ麦が山と積まれていた。ヨハネスは使用人に断り、袋のひとつを開けた。


 黄褐色のライ麦の粒。たまに短いわらや、よくわからないゴミが混じっている。


 よく見ると、しなびた粒のような黒いゴミが混ざっていた。普通の粒よりは細長く、脱穀の時に折れたようなものも多い。


 ヨハネスは保管庫の中の麦袋を見上げた。どの袋にも、赤い四角形を組み合わせた升形の紋が描かれていた。


 それは、ニュルンベルクの麦の仲買商、コンラート・ラーベナウアーのものだ。


 ルールマン親方は、その仲買商をまともな取引相手とみなしていなかった。


「あいつのところの麦は品質が悪いし、どこで仕入れてきたのか分からないような、怪しいものが多い」


 そう言っていたのを、ヨハネスは聞いた覚えがあった。






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― 新着の感想 ―
麦角菌ですね。 まあ知らなくてもカビ臭い物は良くないぐらい分かりそうな物ですが。
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