山羊の名 2
フラウエン・アウラハの女子修道院は、水堀と水車用の水路に囲まれていた。
広大な敷地には農場が広がり、宿泊所、製粉所、パン焼き場、穀物倉、きゅう舎、羊小屋、鍛冶場、醸造所、それらを管理する在俗の使用人たちの家があった。
そして、塀に囲まれた一画があり、そこが修道女たちの生活区域だった。こちらは原則的に外界には閉ざされている。
この区画は修道内郭と呼ばれ、そこで暮らす修道女たちは、地方貴族や都市門閥、裕福な市民の出身が多かった。
一四四〇年頃に作成された修道院の財産台帳には、修道院に対して何らかの地代・給付義務を負う場所として、四十六の地所が記載されていたそうである。
清貧な自給自足の共同体という思い描かれがちな姿とは異なり、実際には地域社会に影響力をもつ貴族の領地のような存在であった。
少なくとも、修道内郭に隣接する修道院長の執務室に通されたヨハネスにとって、そこはまるで貴族の館のように感じられた。
彼は自らの取るに足らない身分を痛いほど意識しながら、緊張に身を強ばらせ、修道院長が姿を現すのをひたすら待っていた。
そうして待っていると、二人の女が現れた。
一人は尼僧の装いをしていた。白と黒の単調な色合いだが、生地は厚く、見るからに上等そうだった。
もう一人の女は灰色の長衣をまとい、頭巾を深くかぶっていた。
ヨハネスは立ち上がり、二人に向かって礼をした。尼僧はおうようにうなずいて自分の椅子に座ると、ヨハネスにも来客用の椅子に座るよう促した。灰色の女は、その隣へどかりと腰を下ろした。
灰色の女がヨハネスの顔を見るなり、少し驚いたように言った。
「おや、ヘンゼルじゃないか。こんなところでどうしたんだい」
ヘンゼルとは、ヨハネスの短縮形であるハンスを、さらに縮めた呼び名である。意味合いとしては、「小さなヨハネス坊や」といったところだ。
女が頭巾を後ろへ下ろすと、ヨハネスはその顔を見て驚いた。
ニュルンベルクの警吏ピーター・フォン・ダンツヒの奥方だった。
「ヴィーさん、俺ァ、ルールマン親方の使いで来たんだよ。こちらの修道院から送られてきたライ麦粉を、何か調べてくれ……っていう話でさ」
「へえ、そうかい」
ヴィーはそう言って唇の片端をつり上げると、椅子の背もたれに寄りかかった。
ヨハネスは、ヘンゼルという、なれなれしい呼び方に引っかかりを覚えた。
「あと、あんたにそんな呼ばれ方をするいわれはねえと思うんだけどな」
「忘れたのかい? あたしが、溺れたあんたを死のふちから引きずり上げてやったんだよ。言ってみりゃ、あたしはあんたの産婆みたいなものさ。であるからにゃ、どう呼ぼうとあたしの勝手だね」
ヴィーは小馬鹿にしたように、にやにやと笑いながら言った。
そう言われれば、その件については恩義がある。ヨハネスも黙るしかなかった。
そこで、修道院長が口を挟んだ。
「じゃあ、話を始めていいかい。私はエリーザベト・アウアー。ここの修道院長だ」
引き結ばれた大きな口。てきぱきとした話し方。
尼僧というよりは、聖霊施療院の病舎を預かる古参女中のようだ――ヨハネスはそんな印象を受けた。
「早速だけど、ルールマン親方は、この麦についてどう思ってる?」
彼女はヨハネスに尋ねた。
ヨハネスは、ルールマン親方の見立てをそのまま伝えた。
それを聞いたエリーザベト院長とヴィーは、低くうなって顔を見合わせた。
「具体的には、どれくらい被害が出てるんだい」
ヴィーが尋ねると、エリーザベト院長はため息をついた。
「うちの農場では、豚が何匹も病み、子豚が死に、雌豚の乳が出なくなった。周りの村でも同じような感じね。マルガレータの呪いだといううわさがね、広まってて。ちょっとまずい」
「あの婆さん、まだ生きてるのか」
ヴィーが驚いたように言った。
「言っておきますけど、世間では、あなたも私もそろそろ、そう言われる年なんですからね」
エリーザベト院長がたしなめるように言うと、ヴィーは肩をすくめて、へっと笑った。
「まあ、おおよそのところはわかったよ。少し調べてみる」
ヴィーがそう言うと、エリーザベト院長はうなずいた。
話が一区切りしたようだったので、ヨハネスは口を挟んだ。
「あの、アポロニアに手紙を持ってきたんス。できれば直接会って渡したいんだけど……だめっスか?」
それを聞いて、エリーザベト院長は残念そうな表情をヨハネスに向けた。
「ごめんなさいね。規則だから、俗人に会わせるわけにはいかないの」
ヨハネスは肩を落とした。
「部屋を用意するから、今晩は泊まって、明日の朝帰るといいわ。ゆっくりしていってね」
エリーザベト院長はそう言って、部屋を出ていった。
ヴィーもそれに続いて立ち上がったが、ヨハネスのそばを通り過ぎるとき、声を落として告げた。
「修道内郭のいちばん西の端、角の窓の下で待ってな。日が沈む時だ。いいね」
ヨハネスはわけが分からぬながらも、うなずいた。
それを見て、ヴィーも部屋を出ていった。




