山羊の名 1
ヨハネスがパン職人ルールマンの徒弟になってから、約半年が過ぎた。
パン職人の一日は、真夜中に始まる。
窯に火を入れ、湯を沸かし、練りおけでパン生地を練る。
生地を切り分けて形を整え、発酵させる。
その間に窯が十分に熱せられると、おき火と灰をかき出し、焼き床を掃除する。
窯に残った熱でパンを焼き上げる頃には、夜が明けていた。
午前中は、第二陣のパンを焼いたり、店先でパンを売ったりする。得意先への届け物もあり、ヨハネスは毎日、かごにパンを山積みにして施療院へ運び込んだ。
施療院に着くと、ヨハネスは真っ先に老ドロテーアのもとへ、パンを届けに行った。
この頃、老ドロテーアはだいぶ衰えており、今では聖具を保管する小部屋の掃除だけを任されていた。
部屋は一間四方ほどしかなく、掃除といっても大してすることはない。老ドロテーアは、ほとんど一日中、椅子に腰掛けてうつらうつらしていた。
声をかければ受け答えはするし、口もまだまだ達者であった。しかし、次第に人の言葉を聞かないことが増え、話がかみ合わなくなっていた。
たまに顔を合わせたときなど、ヨハネスの顔を見ても、誰であったか思い出すまでに、わずかな間が空いた。
ヨハネスは、なるべく毎日、老ドロテーアの部屋へ顔を出すよう心がけていた。
午後になると、小麦の仕入れや翌日使う粉のふるい分け、道具の手入れなどに時間を費やした。夕刻には早めの夕食を取り、夜半から始まる仕事に備えて床に就く。
パン職人の仕事は重労働であったが、ルールマンは厳しくも公正な親方だった。忙しい日々の中でも剣を振る時間は取ることができ、休日には郊外にあるパウルス・カルの道場へ通うこともできた。
小麦と水の配合やパン種の作り方など、職人としての本質的な技術はまだ教えられていなかったが、下働きの仕事にはだいぶ慣れてきていた。
ルールマン夫人は、初めのうちヨハネスを怖がっていた。ことに、人並み外れて太い彼のふくらはぎを、気味悪く思っていたようである。
だが、ある日、ルールマン夫人が屋根裏にしまってある上等な粉を取ろうとして、急なはしごの前でためらっていると、ヨハネスが代わりに上った。粉袋を肩に担いだまま、危なげなくはしごを下りてくる。
それ以来、彼女はヨハネスを見直したようだった。今では、ヨハネスの裾の広い長靴下にほつれを見つけると、すぐに繕ってくれるようになった。
アポロニアからは、月に一度ほど手紙が届いた。彼女もルールマンも読み書きができないため、手紙は人に代筆を頼み、届いたものも文字の読める者に読み聞かせてもらっていた。
アポロニアからの手紙は、穏やかで当たり障りのないものだった。間に他人を挟んでいるのだから、無理もないことである。
ただ、もう少し踏み込んだ話がしたい。自分とアポロニアだけで言葉を交わしたい。
いったい何故、彼女が世間から隔離されなければいけないのか。
その理不尽に対する怒りは、おき火のようにヨハネスの腹の底でくすぶっていた。
そんなある日、アポロニアの便りとともに、フラウエン・アウラハ女子修道院長からルールマン宛ての手紙が届いた。
それは奇妙な手紙だった。手紙にはライ麦の穂と、麦の粉が一袋添えられており、それでパンを焼いてみてほしいと記されていた。そして、焼き上がったパンの出来栄えや味、あるいは麦の穂そのものに何か異常があれば、知らせてほしいという依頼だった。
どうやらフラウエン・アウラハ近郊の農家で、豚をはじめとする家畜に病が広がっているらしい。修道院では、その原因がこの麦にあるのではないかと疑っていた。
ルールマンは送られてきた麦をじっと見つめた。それから、その粉をふるいにもかけず、そのまま使ったパンを一つ作り、その日の売り物と一緒に焼き上げた。
いわゆるライ麦の全粒粉パンで、出来上がったそれは、濃い色をしていた。
親方は、一口ずつ、確かめるように味わう。
「ふすまや芽のもとが多い。良い粉をふるい落とした残りだろう。しかも、かなり古い麦だ。俺だったら、二級品のパンにも使わない。だが、別に腐っているわけじゃない」
ルールマン親方はヨハネスを見て言った。
「どうだ、お前。俺の見立てをフラウエン・アウラハの女子修道院長へ伝えに行ってくれないか」
ヨハネスはそれを聞いて、少し疑問に思った。――返事の手紙を書けばいいのに、なぜわざわざ俺に行かせるのだろう、と。
フラウエン・アウラハ女子修道院は、ニュルンベルクから北西へ二十キロあまり、アウラハ川沿いの村にあった。ドミニコ会の尼僧院で、歩けばほぼ一日、馬なら半日ほどの道のりである。
修道院であるからには、余人がみだりに立ち入ることはできないだろう。それでも、一目なりともアポロニアに会えるかもしれない。
ヨハネスはそう考えた。そして、ルールマン親方も同じことを考えたのではないかと思い至った。
ルールマンには、アポロニアのほかに子はいない。先の一件以来、彼女には何の落ち度もないというのに、世間では心ないうわさが立ち、縁談も望みにくくなっていた。
ルールマンはヨハネスを高く買ってくれている。いずれアポロニアと二人でパン屋を継いでほしいと願っているらしかった。
今回の使いも、二人を会わせようという親方なりの計らいなのかもしれない。
「わかりました。行きます!」
ヨハネスは答えた。
その声に明らかな喜色が混じっているのが、自分でもわかった。




