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関東軍参謀副長

 支那駐屯軍は昭和十二年七月二十八日に攻撃を開始し、支那軍を撃破、掃蕩し、七月三十日までに平津地方を平定し、八月八日には北京城に入城しました。支那駐屯軍司令官香月清司中将は、参謀本部に対して、

呉佩孚(ごはいふ)をして北支を支配せしめるべし」

 との意見具申をしています。呉佩孚は支那の軍閥ですが、日本側になびいており、これに北支を支配させれば日本軍の負担は軽くなり、日本政府の不拡大方針にも適います。香月中将は不拡大方針に忠実だったと言えます。しかし、参謀本部は同案を却下しました。参謀本部作戦課は、北京の南西およそ百五十キロに位置する保定までの南下進出を考えており、北上してくるであろう支那軍と保定で会戦することを想定し、北支那方面軍の編成と三個師団の増派を推進していました。作戦部長の石原莞爾少将もこれには反対していません。

「保定の線まで一挙に叩き、さっと山海関まで退く」

 というのが石原少将の考案だったからです。また、石原少将は、盧溝橋事件の直後から上海で必ず事変が起こると言いつづけました。

「上海できっと事が起こる。その場合、陸軍は派兵しない方針である。やむを得ない状況が起きても、居留民保護のためせいぜい二個師団の派遣に止める。とにかく居留民を引き揚げさせろ」

 これは難しい予想ではありません。満洲事変の際、蒋介石は第一次上海事変を起こしています。北支で紛争が起これば、蒋介石は上海で反撃に出てきます。第一次上海事変の際には上海派遣軍が三日間の戦闘で支那軍を上海から駆逐し、直ぐに停戦を成立させています。石原少将は、この再現を願っていました。

「居留民を早く引き揚げさせろ。引き揚げに伴う損害は政府が補償しろ。その方が戦争するよりも安い」

 石原少将の意見は採用され、八月一日以降、居留民の引き揚げが始まりました。重慶、宜昌、沙市、長沙、漢口、九江、蕪湖、大治、南京、鎮江、済南、福州、広東などから続々と居留邦人が引き揚げることになりました。

 そして、案の定、上海の情勢が悪化しました。八月九日、大山勇夫海軍中尉が射殺される事件が発生しました。以後、上海租界は蒋介石の大軍に包囲されていきます。日本海軍第三艦隊の海軍陸戦隊が上海租界を守備していましたが、極度に情勢が悪化したため、八月十二日、海軍は陸軍に派兵を要請しました。同夜、四相会議が開かれ、陸軍動員の方針が決められました。

 その夜、参謀本部作戦課で作戦課員井本熊男大尉と海軍軍令部の木阪義胤少佐が打ち合わせをしていました。そこへ石原作戦部長がやってきて、木阪少佐を驚かせます。

「上海の現状では陸軍の上陸はとてもできない。すでに上海の北部、呉淞(ウースン)から江湾にかけて支那軍が配置についている。無理な敵前上陸はできないし、揚子江から上陸するとなれば戦面が広がって二個師団では不足する」

 これに反論したのは作戦課長の武藤章大佐です。

「海軍は今まで陸軍の大陸政策に必要な援助を与えるという態度でした。今さらそんなことを言ってはおれない。陸海軍一致協力して当面の敵に徹底的打撃を与えなければ事変は片付かない」

 確かに戦術的には武藤大佐に一理あります。しかし、石原少将は不拡大方針から諸事を考えています。居留民さえ保護したら、あとは撤退してしまうつもりです。これに対して武藤大佐は拡大方針であり、蒋介石に鉄槌を下すつもりです。石原少将は日満支の東亜連盟という長期構想を考えているのに対し、武藤大佐は眼前の戦術的勝利を考えていました。両者の議論はかみ合わず、すれ違うばかりです。

 翌十三日朝、石原少将は海軍軍令部を訪ね、作戦部長の近藤信竹少将と折衝しました。

「支那軍はすでに上海を包囲しており、しかもクリーク地帯に堅固な要塞を築いている。陸軍としては無理な上陸作戦はできない。また、揚子江岸から上陸をすれば戦面が大きくなりすぎる」

 これに対して近藤少将は、海軍陸戦隊の苦境を訴えます。

「この状況では、とにかく陸軍を派遣しなくては他に処置がない。海軍としては爆撃その他、可能な限りの手段を尽くして陸軍に協力し、陸軍だけを困難な状況にはさせない」

 石原少将は、ようやく二個師団による上陸作戦の実行を決断しました。

 同日、閣議において上海への二個師団派兵が決められました。上海派遣軍司令官には松井石根大将が任命されました。松井大将は、大アジア主義者で日支提携論者です。支那事情に精通しており、蒋介石とも面識があります。その松井大将が支那軍と戦わねばならないという事態は、皮肉というより悲劇です。

そして、上海の兵要地誌に詳しい松井大将は五個師団が必要だと主張しました。

「二個師団足らずの兵力では戦闘困難である。かえって犠牲のみが多くなり、居留民の保護さえ容易ではない。せめて五個師団は必要である」

 結果的には松井大将の判断こそ正しかったのですが、不拡大にこだわる石原少将は二個師団にこだわりました。しかし、石原少将の不拡大方針をあざ笑うかのように日支両国政府は、全面戦争へと向かいます。蒋介石は、八月五日、全軍に動員令を発し、翌日には南京において全国国防会議を開いて対日開戦を決議しました。日本政府も八月十七日に不拡大方針を放棄しました。これに伴い、海軍航空隊は、上海、広徳、杭州、南昌などへの渡洋爆撃を開始します。

 海軍は一刻も早い上海派兵を望み、戦艦をはじめとする軍艦を動員して上海派遣軍の輸送任務にあたりました。第三師団は熱田で、第十一師団は小松島でそれぞれ乗艦し、八月二十日に出港、八月二十三日から敵前上陸を開始しました。第三師団は黄埔江(こうほこう)に上陸しましたが、敵の攻撃が激しく、激戦となりました。第十一師団は揚子江岸の川沙付近に上陸し、南下して上海を目指しました。しかし、両師団共に苦戦し、死傷が累積し、戦線は容易に推進しません。支那軍は総勢三十万、複雑なクリーク地形と堅固な近代陣地に加え、ソ連製飛行機、ドイツ製高射砲、チェコ製機関銃、アメリカ製カービン銃を備えています。第三師団と第十一師団は精鋭でしたが、総勢五万に過ぎず、火力に劣っていました。この苦しい戦況は九月中旬まで続きます。

 参謀本部作戦課では毎朝、作戦部長、作戦課長、作戦課員が集まって、床に張られた二万五千分の一地図を囲んで戦況報告が行われました。膠着する戦況のため課内の雰囲気は重苦しいものでした。報告が終わると、石原少将は地図の上に屈み込み、目をつぶって指先で図上をコツコツと叩きながら移動させていき、その指を止めると、

「今日はここで引っかかって進捗しない」

 などとつぶやきました。石原少将が去ると、武藤大佐が罵ります。

「バカな。あんな(まじな)いをしたところで現場の戦況がわかるものか」


 八月三十一日、北支那方面軍が編成されました。北支那方面軍は第一軍(第六、第十四、第二十師団基幹)と第二軍(第十、第十六、第百八師団基幹)からなる大部隊であり、保定における支那軍との会戦を想定しています。

 

 九月五日、近衛文麿総理大臣は施政方針演説を行い、政府の方針を明らかにしました。

「今や断固として積極的かつ全面的に支那軍に大打撃を与えて、これを膺懲するのほか途なきに至る」

 盧溝橋事件以来、圧倒的多数派である拡大派、支那一撃論者、南進論者と舌戦を繰り広げて孤軍奮闘してきた石原莞爾少将ですが、もはや不拡大方針は完全に敗北したと言えます。


 九月六日、武藤章大佐は、「参法本部機構改正案」を起案して稟議に回しました。その内容は、戦争指導課を戦争指導班に格下げするものであり、あからさまな石原少将への挑戦です。これに対して戦争指導課は、「戦争指導」の必要性を主張して反対しました。

 九月九日、武藤章大佐の起案した「参法本部機構改正案」をめぐり、戦争指導課と作戦課とのあいだで会議が開かれました。議論の応酬には決着が付きませんでした。とはいえ、作戦部内に発生したこの軋轢(あつれき)は、石原作戦部長の面目をつぶすには十分です。また、戦争指導課長の河辺虎四郎大佐は、武藤大佐の激しい舌鋒に曝され、真剣に辞表を出すべきか否かを考えるまでに至ります。

 この問題は、参謀次長の多田駿中将によって常識的に処理されます。多田中将は石原少将に次のように伝えました。

「参謀本部の編制改正問題は、保定会戦終了まで実行しない。また、実行するかどうか決めていない。総長にはまだ申し上げてない」


 九月十日、第九、第百一、第十三師団の上海への追加派遣が発令されました。こうして日本軍は、北支に六個師団、上海に五個師団を派遣する状況となりました。合計十一個師団が支那大陸で戦うという状況です。しかも、日支両国の首脳は徹底的な戦いを表明しており、不拡大方針はもはや消し飛び、日支間の全面戦争へと発展してしまいました。


 九月十四日、北支那方面軍司令官は攻撃開始を命令し、保定会戦が始まりました。第一軍と第二軍は平津地方を出発して南下併進し、九月二十四日に保定を占領しました。

 同じ頃、正確な日時は不明ですが、石原莞爾少将は作戦部長の罷免を願い出ていました。そして、関東軍への転出を希望したらしく思えます。石原少将は、支那との戦争を防ぐために様々な策を打ってきましたが、いずれも頓挫し、ついに日支全面戦争が始まってしまいました。もはや日満支の提携による東亜連盟構想は破綻です。この状況は日本の敗戦を意味します。石原少将は、せめて満洲国に協和主義を復活させて、満洲だけでも残そうと考え、最後の賭けに出たように思われます。

 石原莞爾少将は、九月二十七日、関東軍参謀副長を命ぜられ、転出することになりました。翌日、戦争指導課の高島辰彦少佐に、

「俺もとうとう追い出されたよ。あとのことはくれぐれもよろしく頼む」

 と言って参謀本部を去りました。


 この頃、山口重次は満洲視察から帰国していました。報告のために石原莞爾少将の自宅を訪ねると、石原少将は清清したような顔をして言いました。

「もう覚悟がついた。日本は大八島に追い込まれる。しかし、敗戦をしても滅びない。かえって肇国(しょうこく)精神に合致する新日本の建設ができると思う。その自信がついた。しかし、満洲だけでも残せたら残すことにしよう。そのために関東軍へ行きます。協力してください。あなたは満洲国の改造綱領、ことに協和会の建設計画を研究してください」

 山口重次も語ります。

「満洲事変は六年前のことでしたが、変われば変わるものです。満洲では、鉄道網は完成し、関東軍は充実し、治安はよく、農産物は増産し、鋼工業は建設され、まさに隆々と発展しています。しかし、残念ながら満洲国の発展は日本の権益主義の反映であり、協和主義はすっかり影を潜めています。政治は日系官吏の専制状態です。鋼工業、金融、商業は日本の資本家が独占しています。満洲国の民衆に不平不満の声が高まり、怨嗟(えんさ)の影がはびこっています。板垣征四郎中将が一時的に権益主義を排除し、建国の根本精神を発布し、協和服を普及させて国家国民全体が協和化した時期もありましたが、それは春の霞のようなものでした。板垣中将が満洲を去り、東條英機中将が参謀長となったときから、政治は憲兵政治となり、協和会は権益主義に支配されてしまいました。

 そして、日本も変わりました。今の日本は、財界、政界、官界、さらには左翼まで、国民こぞって対支戦争論に躍り上がり、支那征服の欲に浮かれているようです。かつて満洲事変の際、満洲青年連盟は日本遊説隊を組織し、事変完遂と増兵を訴えて日本各地を巡りましたが、どこへ行っても白眼視され、非難されたものです。『帝国主義的侵略』だの『軍閥の手先』だのと罵られ、遊説隊の弁士たちは、あまりの非難にある者は卒倒し、ある者は腹を斬りました。それが今では支那事変に万歳、万歳を連呼しています。満洲をとり、今度は支那全体を支配することになったら、一躍世界一だ、などと言っている。わずかな犠牲で満洲を奪ったその結果、日本の経済界は大膨張をした。この調子で支那を奪ったら大儲けができると思い込んでいる」

 石原と山口にとって、この事態は皮肉と言えば、皮肉です。満洲事変の大成功が日本人を変えてしまったのです。満洲事変の成功がなければ、日本人が対支戦争にこれほどの自信を持つはずがありません。支那一撃論や南進論などの言説が説得力を持つ理由は、満洲事変の成功があったからです。

「満洲事変のことを誰もろくすっぽ理解していないのだ」

 石原が言います。山口は同意して、事情を説明します。

「そのとおりです。実は、満洲国政府ができたとき、関東軍の書類が満洲国政府へ引継ぎされませんでした。石原さんが関東軍を去った後、新任参謀長の小磯国昭少将は、旧弊を打破すると豪語して、満洲事変当時の書類を一括して書庫に投げ込んでしまい、誰にも見せませんでした。だから、参謀本部には戦闘詳報しか資料がありません。ですから参謀本部が編纂した『満洲事変史』には戦闘のことしか書かれておらず、外交、政治、財政、経済、思想に関しては記述がありません。これでは満洲事変を理解できるはずがない。満洲事変は決して侵略ではなかった。むしろ張軍閥の悪政から三千万民衆を解放する戦いでした。だからこそ在満の全民族が歓迎したのです。それゆえにこそ満洲事変はわずかに五ヶ月で解決した。しかし、支那事変はどうか。武力侵略に支那人は屈しないでしょう。道義協和ならば支那人は協調する。そこが解っていないのです」

 そのとおりでしたが、石原にも山口にも為す術がありません。

 石原莞爾少将は昭和十二年十月七日に東京を出発し、新潟、羅津を経て、十月十三日に満洲の新京に到着し、関東軍司令部に着任しました。一方、山口重次は郷里の千葉県に帰り、「満洲帝国協和会指導要綱案」の執筆に没頭しました。


 石原莞爾少将が関東軍に赴任した昭和十二年十月、関東軍司令官は植田謙吉大将、参謀長は東條英機中将、参謀には富永恭二大佐、綾部橘樹中佐、片倉衷少佐などがいました。関東軍の兵力は五個師団であるのに対し、極東ソ連軍は二十個師団です。

 東條英機中将は、支那事変が始まって以来、参謀長でありながら自ら三個旅団を率いてチャハル、蒙彊(もうきょう)方面に作戦していましたが、石原少将が赴任して数日後、新京に戻りました。そして、石原参謀副長を迎えての最初の部長会議が開かれました。東條参謀長が言います。

「石原副長を迎えて、わたくしは参謀長と副長との職務担任を次のように定めた。石原参謀副長には作戦、兵站関係業務の参謀長の補佐役を専心やっていただく。満洲国関係の業務は参謀長の専管事項としてわたくし自らが処理する」

 東條中将も()る者で、石原少将の心中を見抜いており、満洲国関係の政務に石原少将が介入することを封じました。石原少将は逆らいませんでした。

「参謀長の指示どおり、満洲国軍関係は作戦に関係があるのでタッチするが、その他の治安、交通、政務に関係することにはタッチしない」

 しかしながら、満洲国民の方が石原莞爾を放っておきませんでした。満洲事変はわずか六年前の出来事です。満洲国民の中には当時の協和主義運動に参加した者や石原莞爾の謦咳(けいがい)に接した者が少なくありません。日系官僚による民意を無視した政策や関東軍の内面指導に不満を抱く満洲国民は、石原莞爾少将の関東軍赴任を喜び、満洲国を協和主義に戻してくれるのではないかと期待しました。このため関東軍司令部に石原莞爾参謀副長を訪ねてくる満洲国民が後を絶たず、「石原詣で」と言われるほどの盛況ぶりとなりました。石原少将は訪問者の話を聞き、依頼されれば出かけて行って講演などを行いました。これらは公務ではないので石原少将は平気です。しかし、東條英機中将は苦々しく眺め、憲兵に監視させました。

 満州国の現状は確かに協和主義の理想から程遠く、日本の権益が最優先されていました。たとえば、満洲国政府内では日系官吏に限って毎朝夕に公用車による送迎がありました。下級官吏でさえそうでした。しかし、満系や鮮系の官吏には、たとえ上級官吏でも、そのような待遇はありません。腹を立てた石原少将は、病身を推して軍司令部まで徒歩で通いました。

 俸給についても日系官吏だけが優遇されていました。地位が同じであっても日系官吏だけが数倍の俸給を得ていました。日系官吏は、満洲の国民性や慣習を理解しないままに、日本の法律や規則を持ち込み、ただ翻訳して満洲国に適応しました。満洲国政府の公文は、建国当初こそ漢語でしたが、今では日本語になっています。日系官吏は優越的な態度で満洲国民に対応したため、満洲国民は法匪と呼んで嫌悪しました。

 石原少将は植田軍司令官を説き、各人の能力に応じて平等な報酬を支給すべきであると訴えましたが、植田軍司令官は「考えておく」というのみでした。立腹した石原少将は、軍司令官官舎を指さして、

「泥棒の親分の住宅を見ろ。あの豪奢な建物は関東軍司令官という泥棒の親方の住宅だ。満洲は独立国のはずだ。それを彼らは泥棒した。満州国皇帝の住居は国民の現状から、住居の修築を遠慮しているのに、泥棒根性の日本人はこれを不思議とも思っていないのだ」

 と言いました。

 日本の農民を満洲へ移民させる政策は、かつて石原莞爾が推奨したものです。しかし、「既墾地には入れずに未墾地に入れる」という原則がいつしか破られ、ドシドシ既墾地に日本移民が入っていました。これは、満洲拓殖会社が満洲人から強引に安値で土地を買収し、日本移民に提供していたからです。このため満系離農者が増え、憤慨のあまり匪賊に身を投じる者さえ現れていました。石原少将は、満洲拓殖会社を「土地泥棒会社」とか「匪賊製造会社」と呼び、罵りました。

 建国当時に謳われた五族協和や協和主義といった理想は関東軍の内面指導によって無残に打ち砕かれ、全満に不平不満の声と泣訴が広がっています。石原少将は、満洲国の政治に大改革を加え、建国当時の理想たる協和主義の独立国家に建て直すべく研究し、満洲国の革新綱領を練り続けます。

 一方、東條英機中将は、小磯国昭参謀長以来の慣行と陸軍中央の方針に忠実に従っています。その意味において東條中将に落ち度はありません。また、確かに満洲国では日本人が優遇されているものの、かつて欧米列強がアジアやアフリカの植民地で繰り広げた残虐かつ凄惨な非人道的統治に比べれば、満洲国の統治は当時としては十分に穏健なものでした。

 東條と石原の満洲国に対する認識は根本的なところで食い違っており、両者が対立するのは時間の問題でした。


 昭和十二年十二月末、山口重次は「満洲帝国協和会指導要綱案」を完成させて満洲へ渡りました。山口は関東軍司令部に石原少将を訪ね、その原稿を渡しました。原稿に目を通した石原少将は、うれし気に顔を上げ、

「これで満洲国の革新綱領は半分できました。まずは、これを広くみんなに知らせましょう」

 山口は「満洲帝国協和会指導要綱案」を謄写版にして知人に配布しました。石原少将は、その一部を東京に送り、単行本として出版しました。単行本は二万部作製されました。ところが、東條英機の手先になっていた甘粕正彦は、その単行本を買いとって焼却してしまいました。満洲事変のときには同志だった甘粕が、今では敵となっていました。

 石原少将は、自身が概成させていた満洲国の革新綱領を山口重次に見せ、「意見を聴かせてください」と依頼しました。山口は三日間をかけてそれを読み続けます。それは「満洲国内面指導撤回要綱」として後に成文化されるものです。その内容は、関東軍による内面指導を撤廃し、国民組織である協和会を国策決定機関とし、一国一党の体制を構築することを大方針としています。そして、直近の重要課題について論じています。それは土地問題、警務問題、経済企画統制機関の整備、教育制度、行政機構の簡素化などです。そして、日本の責務として、満鉄を満洲国有鉄道とし、関東州を満洲国に譲与し、日満間の協議機関を東京に設置することを上げています。

 石原莞爾は、満洲事変の当時から、日本の満洲権益を満洲国に譲渡するのが日本の責務だと主張し続けてきました。その理由を石原は次のように述べています。

「いま中国をはじめ、アジアの諸国民族の求めているものは、欧米人による侵略からの解放であり、不平等条約、侵略権益、各種の圧迫からの解放である。日本が真にアジア諸民族の解放に寄与するならば、まず日本が既得権益を開放し、不平等条約を撤廃すべきである。もし、日本が既得権益を温存して、欧米人の権益だけを獲りあげようとするならば、それはアジアの侵略である。したがって、中国との親善もアジア大同もできない。日本が自国の永遠の繁栄とアジアの復興を望むならば、満洲の既得権益から解放していかねばならぬ」


 年が明けて昭和十三年一月、革新綱領の添削に没頭していた山口重次に辞令が届きます。

「牡丹江省次長を命ず」

 とあります。山口は、

(俺を石原さんから離そうという魂胆だな)

 と思いました。そう邪推して、山口は関東軍司令部の第四課を訪ねました。すると辻政信大尉が立ち上がって、丁寧に事情を説明し、「お願いします」と頭を下げます。

(どうも勝手が違う)

 と思いつつ、参謀副長室に石原少将を訪ねると、やはり正式な辞令でした。

「地方も大切ですから、行ってみてください」

 こうして山口重次は一月十日、飛行機で新京を発ち、牡丹江へ向かいました。

 山口を送り出した石原莞爾少将はいよいよ内面指導の廃止に向けて動き出します。日支全面戦争のために軌道を外れてしまった国防国家構想と東亜連盟構想を軌道修正し、日本の滅亡を防ぐためです。石原少将がとった手段は謀略でも陰謀でもなく、折伏(しゃくぶく)です。ほかに方法はありませんでした。

 折伏とは折破摧伏(しゃくはさいぶく)とも言い、相手を議論によって破り、迷いから相手の目を覚まさせ、誤りを悟らせることです。かつて日蓮が重視した布教法です。そして、石原少将が折伏すべき相手は東條英機参謀長であり、植田謙吉軍司令官です。

 石原少将は東條中将を説得しようと真正面から舌戦を挑みました。関東軍は満洲国への内面指導をやめ、協和会を政策決定機関として整え、満洲国を真の独立国家たらしめるべきだと説きます。そうしてこそ蒋介石との和解も成立し得、支那事変を収束させる可能性が出てくる。また、日本が保有している満洲の権益を放棄して満洲国に移譲せよと訴えます。その大胆過ぎる石原少将の提案を東條中将は否定せざるを得ません。

「関東軍の内面指導は、今の段階では一度にやめるわけにはいかない」

 実務的には東條中将の意見にこそ説得力がありました。石原は遠い将来を見通しているのに対し、東條は現実を見ています。石原は理想を論じ、東條は官僚道を論じます。両者の議論は根本からかみ合いません。石原が「東亜連盟」といえば、東條は「興亜同盟」という。石原が「民族協和」といえば、東條は「民族秩序」という。石原が「五族協和」といえば、東條は「日本はアジアの指導民族だ」という。石原が「世界最終戦論」をいえば、東條は「戦争永久不滅論」をいいます。東條と石原の議論は全くの平行線でしたが、東條が押しまくる場面もありました。

「東亜連盟論は、足が地についていないひとつの理想論である」

「実効性のない空論である」

「超国家主義である」

 これに対して石原も反論します。

「実務ばかりで思想がない」

「近視眼的で将来を見ていない」

 結局、同じような議論が毎日のように繰り返された挙句、ふたりは感情的にも軋轢を深めてしまい、互いに顔を見ても口さえ利かない間柄になってしまいます。

 石原少将の舌鋒は、協和会中央本部長である橋本虎之助中将にも向かいました。協和会主催の講演会において橋本中将の眼前で石原少将は次のように発言しました。

「本部長橋本閣下は、軍人として立派な方であり、社会的地位は満洲国参議府の副議長であられる最高の方であるが、こと協和運動に関する限り、何の経験も主義主張もない全くの素人である。その素人が協和運動の最高指導者になっている。これほど間違ったことはない」

 橋本中将の面子は丸つぶれです。また、国務院に日系官吏を集めた講演会では、次のように発言し、日系官吏の反感を買ってしまいます。

「満洲国は独立国である。満洲国の政治は三千万国民の総意に依るべきである。しかるに、現実はどうか。大臣、省長、県長、市長、すべての満人をロボットにして日本人官吏が中央でも地方でも専制し、横暴に振舞い、王道と協和はどこにもない。満洲国は精神的、思想的にはすでに破壊されている」

 満洲国政府の日系官吏や協和会の日系職員は、石原少将の協和主義に反対しました。自分たちが現に得ている権益や特権を手放したくはありません。満鉄幹部や満鉄社員は、満鉄を満洲国政府に譲渡する主張に反対しました。関東軍司令部内には石原少将の意見に賛成する者はおらず、むしろ東條参謀長の顔色を窺うようになりました。

 すでに満洲の日系企業は十分に巨大化しており、関東軍参謀副長の意見にも動じることはありませんでした。これは石原莞爾が満洲の経済発展を推進した結果でもあり、その意味においては皮肉なことです。もはや関東軍司令官でさえ日系企業群の意向を無下に無視することはできません。このため石原少将は軍司令部の中で孤立していきます。

 他方、満洲国の支那要人や協和主義の日本人は、満洲国を真の独立国たらしめようとする石原少将の言動に感激し、歓迎しました。彼らは石原少将の官舎を頻繁に訪問して懇談し、まさに門前市を成すかのごとき状況となりました。そして、この状況は憲兵によって東條参謀長に逐一報告されました。

 石原参謀副長に対する東條参謀長の態度は険悪化し、あからさまな排斥姿勢になりました。石原少将も負けずに東條中将を罵倒しました。

「東條軍曹になにができる」

「東條上等兵の部屋はそこだよ」

 東條中将の思想の無さを石原少将はこんな表現で揶揄しました。石原少将は、植田謙吉軍司令官にも意見具申し、内面指導の中止などを訴えました。植田軍司令官は、石原少将の意見を聴きはしましたが、「聞き置く」と言うにとどめました。それにしても、参謀長と参謀副長が犬猿の仲になってしまった軍司令部の状況は、軍司令官にとって頭の痛いことでした。

 そのような頃、朝鮮総督の南次郎大将の使者が石原少将に対して抗議を申し入れてきました。

「満洲国内における朝鮮人に対する態度は、民族協和ではなく、民族秩序とすべきです。改めてください」

 石原少将は傲然と反論します。

「南という大将は頭の悪いバカ大将だと、この石原が言ったと伝えろ。朝鮮人で日本人としての待遇を要求する者には、日本人としての待遇を与える。しかし、民族としての自覚があって朝鮮人としての待遇を要求する者には無理に日本人であれと強いることはない。満洲は民族協和であって、民族の対立を生むことはない。南の馬鹿野郎にはこれがわからないのだ。満洲建国は、朝鮮統治、台湾統治の大反省である」

 石原莞爾の主張は、時代の趨勢を見極め、従来の政策からの歴史的な転換を促すものでした。しかし、理解者はめったには現れません。


 このような緊張状態が五月まで続きます。石原少将にせよ、東條中将にせよ実に強情なことでした。また、植田大将も我慢強いことでした。しかし、その状況は突然に変わります。

 近衛文麿総理大臣は、収束する気配のまったく見えない支那事変を解決したいと考え、内閣改造に踏み切ります。近衛総理は、かねてより日支和平を訴えている板垣征四郎中将を陸軍大臣に要望しました。板垣中将は、このとき第五師団長として徐州会戦の戦線で指揮をとっていました。この異例の抜擢を板垣中将は固辞しましたが、再三の要請をついに受け入れます。その際、ひとつの注文を付けました。

「どうしても吾輩が大臣にならなければならぬのなら、吾輩は全く陸軍省にいたこともなく、事務は皆目わからぬから、事務に堪能な東條を次官にしてもらいたい」

 こうして東條英機中将は陸軍次官として帰国することとなりました。これに伴い、関東軍参謀長は空席となり、石原少将が参謀長代理となりました。

 五月十日、石原少将は陸軍士官学校満洲国生徒に対して講演を行っています。この中で石原は、明治以来の日満支の歴史を簡潔に解説しています。

「欧米諸国は日本を子ども扱いにしていたのであるが、日本が筋骨たくましき大人となり一本立ちになるに及び、欧米の日本を見る目は変わってきた。今度は日本が黄色人種の代表となって白人から睨まれることになった。それは、子供として可愛がられた時代が過ぎて、今度は白人を向こうに回さねばならぬ状況となった。ところが西洋人を向こうに回し、支那をも頼まず、独力で東洋のために群がる西洋人諸国と戦うには、経済的にも一本立ちしなければならない。日清、日露の両役を経て、日本資本主義経済は飛躍的発達を遂げたが、そのためには市場が必要になる。ために否でも応でも支那を市場として獲得搾取しなければならぬことになった。日本人は、初めに支那を助けようとしたが、今度は搾取しなければならなくなった。しかも当時の日本は西洋を恐れなければならなかった。彼らと伍して発展しなければならなかった。その頃の日本の政策は正しいものとは言い得ない。西洋人の言うほど悪辣なものではないとはいえ、確かに良いものではなかった。西洋諸国の間に立って、東洋唯一の独立国として立っていこうとする日本としては、支那に利権を求めざるを得なかった。支那としても英米をやっつけることができず、成り上がり者の日本をいじめた。日本としてはどうしようもなかったのである。この行き方は、日本人の見地を離れても、やむを得なかったと思う。この点、支那の人も同情的に見てくれて良いのである。しかるに、いったん第一次大戦が終わって平和条約締結の時になると、支那は得意の外交手段をもって欧米と結び、日本をこっぴどくやっつけた。これも無理はない。こうして三十年前にはあった提携していこうという気持ちは忘れられ、兄弟喧嘩になり、始終ガタガタをくりかえし、ついに日本を満洲から締め出そうとして、昭和六年の満洲事変を惹起するに至った。この事変というものは、実にやむを得ざる必然的結果である。満洲はもともと蒙、満、鮮人の土地であって最近まで支那の土地ではなかった。満洲事変を契機として満洲が独立したことは、来るべきものが来るところまで来たものであると私は思う。だから満洲事変後に私は土下座をして支那に謝れといった。三十年この方、日本が支那を侵略したことを謝れ、西洋人の圧迫を恐れてやむを得ずこうなった。そうしなければ日本は西洋人に張り合っていけなかったからだ。今、満洲が独立したことについては、これを日支共同の独立国として支那人も心を平らにして見てもらいたい。そして、この建国に協力していただきたい。今や幸いにして我々は西洋を恐れる必要がなくなった。我は支那本土における政治的権益は全部返却する。白人種が言うことを聞かないなら武力で欧米の支那権益を取り上げてでも真の中国の独立を完成しよう。日本の三十年来の暴力行為を謝るがいいと私は主張した。この考えについては日本の一部分には共鳴者もあるが、八千万も九千万もある日本人の全部が、そう急速に思想を転換することは不可能であって、三十年来の侵略主義的な気持は今日といえども全く清算されるには至っていない。そして悲しむべき今日の大事件となった」

 アジア全体が欧米列強に侵略されるなかで、日本も支那も共に苦しみ、やむを得ず相せめぎ合わざるを得なかった日支の歴史を石原は簡潔に説明しました。

 つづいて五月十二日、石原少将は協和会の座談会で支那事変を論じています。

「私の目から見ると日本ほど軍事学研究のなされていない国はない。戦争の本質から言えば、武力で敵を参ったと言わせることが戦争の根本的本質です。ところが、そうならない事情がいろいろ起きてくるわけです。結局、戦争は武力だけではなく、武力及びそれ以外の力をもって敵を屈服せしめるところの行為でありますから、戦争そのものの手段である勝ちを占める武力、およびそれ以外の力がどれだけ大きいかということが戦争の本質に根本的影響を持つわけです。戦争には決戦戦争と持久戦争、短期戦争と長期戦争、殲滅戦争と消耗戦争とがあります。武力の勝ちが絶対的であれば、これが決戦戦争です。武力で参ったと簡単に言わせることができます。武力だけでは敵を屈服せしめることのできない戦争を持久戦争と我々は言っておるわけです。そこで誰も決戦戦争を希望しますが、持久戦争になるのは決戦戦争ができないからそうなるのです。それをいちいち言っておると時間が足りないから略するが、支那との戦争がどういう戦争かというと、当初、日支戦争が始まったら若干の師団を動員してパッとやって屈服させると簡単に考えておったのが日本国民の常識のようでした。しかし、これは満洲事変以後の支那の真面目な建設に対して日本国民が無知であったか、日本の力を過信して自惚れていたのであります。不幸にして私たちの心配が的中しまして、支那人はなかなか参ったといいません。よく世間では、そら広東をやれ、漢口をやれというが、だいたいにおいて政治家がそういう作戦上のことを言うのは、その国が統制力を失っておる時で、()()()がうまくいかないことです。漢口をとったとしても蒋介石政権は崩壊しない方が絶対的であろうと私は思う。仮に蒋介石が倒れたとして支那四億の人間は屈服するか、これは断じて屈服などしないと私はみております。言い換えると、この戦争は最初から私たちが言っておるように、これは持久戦争であります。去年の七月から持久戦争の決心でやらねばならんのに、南京をとったからこれから持久戦争だなんていうのは、日本の賢明なる政治家諸君が、戦争の本質に対する研究が足りないということを明瞭に証明していると私は思います。徹底的に支那を屈服するとか、強いことをおっしゃる方がありますが、それがためには数十個師団の兵を数十カ年支那にもっていって、全部抑えてグッとやるしかないんです。そこまでいってはじめて支那は屈服します。結局、それだけの決心を持たないまま中途半端にチョコチョコやってしまった。私は、支那事変が始まったとき、これはいくさを止める方がいいと言った。やるならば国家の全力を挙げて、持久戦争の準備を万端とどこおりなくしてやるべきものだと思った。しかし、どちらもやりませんでした。ズルズル何かやっています。掛け声だけです。掛け声だけで騒いでいるのが今日の状況です。私の理想からいけば、東洋で日支両民族が戦う必要はないと思う。戦うべきではないと思うが、しかし、戦争は始まっています。始まっている今は、まず少なくとも絶対的に大勝利を得なければなりません。絶対的に勝つ体制とは何か、戦争が何年長く続いても大丈夫な国民の政治経済思想上の体制を確立することであります。歪曲されつつあるところの満洲建国の精神を、もういっぺん七年前に返す。本当の協和精神を完成して理想的な満洲の再建に努力する。これが私たち満洲におる者の、この戦争に対する覚悟です」

 石原少将は六月中に自身の持論を文書として成文化しました。「現在における我が国防」、「戦争計画要綱(戦争指導方針)」、「満洲国内面指導撤回要綱」などです。これらはいずれも支那事変の早期終結と日支提携を訴え、満洲国における協和主義の推進を主張しています。


 昭和十三年七月十五日、張鼓峰(ちょうこほう)事件が起こります。張鼓峰は、ソビエト連邦と朝鮮の国境を流れる豆満江(とまんこう)に近く、ソビエト連邦、満洲国、朝鮮の国境地帯にある高地です。ソ連軍は、突然、張鼓峰を占領し、陣地を構築し始めました。このため朝鮮軍の第十九師団が応戦して張鼓峰を奪還したところ、ソ連軍の激しい砲撃に曝されました。ソ連軍は満洲国側の鉄道施設をも爆撃したため、関東軍司令部では参謀たちが張鼓峰奪回作戦を立案しようと勇み立ちます。しかし、参謀長代理の石原莞爾少将は張鼓峰への進撃を禁じます。飛行機は偵察飛行のみとし、砲兵の応射のみを許しました。そして、戦力を張鼓峰に向けることなく、むしろソ連の極東根拠地たるウラジオストクの後背地にあたる牡丹江周辺へ関東軍の主力を集結させ、ウラジオストクを一挙に攻略する陣容を形成しました。石原少将が言うには、

「スターリンの狙いは、蒋介石に恩を売り、毛沢東を勇気づける宣伝のための持久戦争だ。だからこそ張鼓峰のような大規模な用兵のできない狭い戦場を選んで挑戦してきた。いまに見ろ、そっち、こっちにちょっかいを出してくるだろうが、その手に乗るな。つまらんことで陛下の赤子の血を流すわけにはいかん。これは宣伝戦だから、そのうちに敵は引くから、見ていろ」

 石原少将の予言通り、ソ連軍はちょっかいを出すだけで本格的な戦闘にはなりませんでした。日本政府と陸軍中央も不拡大方針をとり、やがてモスクワで休戦協定が成立し、張鼓峰事件は早期に収束しました。

 その後、関東軍参謀長として磯谷廉介中将が赴任しました。石原少将は、「関東軍司令官の満洲国内面指導撤回指導について」などの文書を磯谷中将に示し、内面指導をやめるとともに、協和会を立法機関として整備するよう進言しました。しかし、功を奏しませんでした。また、石原自身の病状が極度に悪化したため、さすがの石原も観念しました。

 八月十五日、牡丹江にいた山口重次の下に呼び出し電報が届きます。翌日、山口が新京に飛ぶと、協和会の同志が待っており、石原少将の決意を知らせました。

「政治改革はできそうにない。このうえ無理に戦うことは、かえって満洲人同志を傷つけることになるから、私は帰って退役をお願いするつもりだ」

 十七日の朝、植田謙吉軍司令官が石原少将の官舎を訪れました。植田大将は石原少将に慰留を促し、病気療養するよう一時間ほどかけて説得しました。それでも、石原少将は翌日に退役願を提出しました。植田謙吉大将は、この退役願を預かり、

「ひとまず病気療養のため休暇をとって帰国せよ」

 と命じました。石原少将の帰国を知った満洲人たちは驚くとともに悲しみました。

「太陽を失ったという感じです。現在、私ども漢民族は日本と戦争をしています。この悲しい現実に明るい解決の目標を与えてくれる人は石原将軍しかいません」

 

 日本に帰った石原莞爾少将は、茨城県大洗で静養し、のちに東京大学病院に入院しました。静養は四ヶ月に及びました。静養中も石原は思索を続け、「昭和維新方略」、「外交国策に関する意見」、「日本皇国の東亜連盟国防の担任」などを書きました。

 昭和十三年十二月五日、石原莞爾少将は舞鶴要塞司令官に任命されますが、これは文字どおりの閑職です。陸軍は、石原莞爾という異能の天才をなお惜しみ、優遇していたとも言えます。舞鶴の旅館に居を定めた石原は、落ち着いた静かな生活を送り、ときに出かけては講演などをして過ごしました。しかし、心中は必ずしも落ち着いていなかったようです。二月二十五日の日記の記述には、

「満洲のことを考え眠り良好ならず。達観できぬため?」

 とあります。石原の見るところ日本は滅亡に向けて驀進しています。それなのに国民は支那事変の勝利に歓呼の声をあげている。釈迦族の滅亡を達観して眺めたといわれる釈尊のようにはなれませんでした。


 昭和十四年三月、武藤章少将は北支那方面軍参謀副長として北京にいました。石原莞爾が参謀本部から関東軍へ転出したあと、武藤章もまた参謀本部から中支那方面軍参謀副長として転出しました。武藤は杭州湾上陸作戦を成功させ、そののち南京攻略戦、杭州攻略戦、徐州攻略戦などに従軍し、実務家の参謀として辣腕を振るい勝利に貢献しました。その後、北支那方面軍に移り、北支で共産ゲリラの掃討戦に従事しています。その武藤章少将が情報主任参謀の石井秋穂中佐につぶやきます。

「どうだろうかね。いくらやってもダメだというなら、国としても考え直さなければなるまいがのう。やっぱり石原さんの言ったとおりであった」

 武藤少将は、この時点に至ってようやく持久戦争すなわち消耗戦争の意味の深刻さに気づき、戦術的な勝利を積み重ねた先には戦略的敗北が待っていることを悟ったようです。

 支那大陸に派遣された日本軍はすでに二十個師団を越え、兵員数は八十万に達していました。しかも、アメリカはすでに対日経済制裁を始めており、日米通商航海条約を破棄すると日本政府に対して通告していました。


 昭和十四年八月一日、石原莞爾は中将に進級し、同月三十日、京都第六師団長に親補されました。石原中将は、例によって形式主義と文書主義を排し、実際的な統率を行います。

 師団や連隊が最も気を使うのは師団長の随意検閲と軍中央の特命検閲ですが、石原師団長は部隊長会同において次のように宣言しました。

「私が師団長である限り、随時検閲は行わないし、このような戦時下での特命検閲も私の目の黒いうちは絶対にさせないから、安心して訓練一途に励め」

 検閲では、内務検査や書類審査の実施をやめ、演習訓練のみを検閲対象としました。おかげで各部隊は書類から解放され、戦闘訓練に多くの時間を割くことができるようになりました。検閲後の講評を石原中将は現場において即時に行い、文書での講評をやめました。その方が実際的だからです。

 三月十日の陸軍記念日に行われる検閲式は、通常なら分列行進に三時間を要する大規模な検閲ですが、石原師団長は五分で終わらせました。

 石原中将は、ノモンハン事件の教訓から新戦法を考案し、訓練をくりかえし実施させました。それは浸透戦法というもので、熾烈な敵銃砲のもとにおいて各兵は、敵兵に見つからないよう草木を利用して偽装し、水が地下に浸透するようにジリジリと地形や地物を利用して敵陣に接近し、指揮官の号令によることなく、各個に敵に向かって匍匐前進して肉薄し、突入するという戦法です。この戦法の斬新な点は「号令によることなく」というところです。つまり、指揮官の号令ではなく、各兵が各個に判断するのです。石原中将は、この戦法の有効性を確かめるために自ら一兵卒となって演習に参加し、土まみれ汗まみれになって匍匐前進しました。この新戦法は歩兵操典の原則に反していましたが、石原中将は躊躇することなく演練させ、新しく独自の操典を作成しました。


 昭和十四年秋、石原莞爾中将は参謀本部支那事変史編纂部の聴取に応じています。

「今次事変について統帥部という見地から、閣下の作戦部長として居られました時分に行われた事柄についての経緯および真相をうかがいたいと存じます」

 という竹田宮恒徳王大尉の問いかけに対して、石原中将は当時の状況を述べ、真摯な反省を語りました。その主要な点を列挙すると以下のとおりです。

「東亜連盟は満洲建国当初から満洲国の主張でありまして、思想の一元、国防の協同、経済の共通、政治の独立の四条件がだいたいの基礎観念であります。日満支の意見が一致してこの線を確保できていったならば今度の事変は起こさなくて済んだと私は考えます」

「綏遠事件は完全なる日本の失敗でこれが今次の事変の直接的原因になったのであります」

「国内的な原因としては、強い政治力のなかったことが根本です。当時、政党が地歩を失い、それに代わるべきものがなかったこと、すなわち陛下の御信任を受けて政治を指導する政治体がなかったのであります。それと、中央部が関東軍の北支に手を出すことを止め得なかったためについに天津軍を増強しましたことが今次事変の原因となったので、この点について石原は当時の責任を痛感しておる次第であります。すなわち天津軍の増強によらず、統帥の威力により関東軍に手を引かせるようにすれば良かったろうと責任者として自責の念に駆られるのであります」

「盧溝橋事件勃発の時、石原は作戦部長として自ら現地に行くべきであったと考えます。まことに申し訳ない次第でございます。結局、東亜は尊い鮮血を流さなければならぬ宿命だったと諦めを持って居ります」

「日支間というものは争うべきではなく、また、もし争ったならばすぐには済まないとの考えがあったために、ともかくこの難関を突破せねばならぬという必要から石原個人としては不拡大を以って進みましたが、その決心に重大なる関係を持つものは対ソ戦の見通しでありました。すなわち、日支間の事変が長期戦争となり、そこへソ連がやってくる場合は、目下の日本ではこれに対する準備がないのであります。しかるに責任者の中には満洲事変があっさり推移したのと同様、支那事変も片づけ得るという通念を持つ者がありました」

「不拡大主義でやれば動員を止めるべきではないかと一般は考えるようですが、結局、第一線でゴタゴタがあり、しかも派兵するには数週間かかるので、不拡大を希望しても形勢逼迫すれば万一の準備として動員を必要とすることになるわけであります」

「当時、少壮者の考えはきわめて積極的で動員即時断行の空気が支配的でありましたため、不拡大方針を持せる部長以上の決心が動揺しやすく、郎坊事件が動員を決するに十分なる衝動を与えたるものと考えます」

「いま考えますと、責任ある石原か、できれば次官かが現地に出て行って、支那側と交渉したらよかったと思うのであります。これをしなかったことは石原として真に申し訳ないことであったと思っております」

「参謀本部における石原第一部長としての統制力は甚だ不十分で、私の第二課長時代は考えの筋も通って居ると思っておりましたが、それが第一部長になってからの統制力は微弱でありまして、当時、私は知りませんでしたが、部下の内にも相当に反対の者が居たようで、この点、まったく私の至らぬためと真に責任を感じております」

「日本軍部の通弊のようでございますが、指揮官として戦術教育は磨かれておりますが、持久戦争指導の基礎知識に乏しく、つまり決戦戦争はできても持久戦争は指導し得ないのであります。日本の戦争能力と支那の抗戦能力、英米ソの極東に加うる軍事的政治的威力と、それを牽制しうるドイツとイタリアの威力などを総合的に頭に描いて統括して、日本が対支作戦にどれだけの兵力を注ぎ込み得るかを判定し、戦争指導方策を決定し得られなければなりませんのに、その判定能力のある人は参謀本部にひとりもいないと思います」

「信念のないのに意見を申すのが日本の幕僚の通弊ではないかと思うのであります。極端なる統帥部の不統一を来たしたのは個人個人の責任ではありません。誰が悪いというのではない、現実の戦争に対して陸大の教育が実際にそぐわないのではないかと思うのであります」

「一挙に片づけようとしてしても平時準備が不十分であり、輸送力がありません。動員に決心した後の軍の編成動員、集中等は最善を尽くしたのであります。徹底的にやろうと思っても軍事行動はあれ以上のことはできないのであります」

「研究がきわめて貧弱であったことが参謀本部不統一の原因となりました。私ども責任者として誠に申し訳ありません。真面目なる日支戦争が起きる可能性は参謀本部としてはほとんど考えておらず、ために対支作戦計画というものはすこぶる不徹底なものでありました」

「何と申しましても大事なこと、たとえば南京に対する交渉等のことでも生意気な石原のような者がやったから具合が悪いので、円満な十分折り合いのできる人なら良かったのでございます。大臣閣下のごときも私の申すことは大体、うん、うんと聞いておられましたが、不同意だったのでした」


 昭和十五年三月、石原莞爾中将は立命館大学で講演し、「世界最終戦論」を論じました。また、五月にも京都義方会において同じ趣旨の講演を行いました。これらの講演は評判を呼び、同年九月に「世界最終戦論」として出版されました。その内容は石原の持論です。戦闘、戦術、戦略の歴史的変遷を論じ、戦争の形態を論じ、世界の趨勢を論じつつ、東亜連盟の必要性を述べています。これは日本における軍事学の萌芽ともいうべきものでした。

 

 昭和十五年九月二十七日、日独伊三国同盟が成立します。この同盟を石原莞爾中将は次のように論評しました。

「日本がイギリスを向こうに回すことは極めて不利である。それは英国が対日策としてソ連の陸軍とアメリカの海軍、それに支那の抵抗力の三つの力を操っているからである。日本の外交は道徳的でなければならないと松岡洋右外務大臣が言っているようだが、外交に道義は要らない。あくまで駆け引きと手練手管でいくのが外交だ。ただし、支那との問題、すなわち東亜の問題に関する限りは道義的でなければならない。日支の問題は仲間同士の内輪の問題だから、あくまで誠意が大切であり、これには駆け引きは絶対禁物だ。最近の日本外交はいわゆる軍閥外交で、国民を煽動しているが、これなどは慎むべきことだ。例えば英国を撃たんとするなら、一時、英国と手を握らねばならぬかもしれない。またソ連と事を構えるためには、一時、ソ連と手を握るかもしれないというのが外交のやり方である。今の日本人は英国に対して日英同盟の誼を忘れていて不届き千万だなどというけれど、相手を利用するだけ利用して価値がなくなれば捨てるのが外交だ。今日、ドイツのヒトラーと軍事同盟でも結ばねば日本が危ないと主張する者がいるが、これくらい馬鹿げた欧米依存はない。日本は蒋介石の重慶政府に対して、英米依存はけしからんとしきりに言いながら、自らはヒトラーに依存しようとしているではないか。今日、日本の外交には重厚さが少しもない」

 昭和十五年十一月、石原莞爾中将は上京し、軍中央の将官に忠告しました。

「東條軍閥は石油が欲しいので、南方諸島をとろうとしている。石油のないことははじめからわかりきったことだ。何がない、かにがない、だから他国の領土に手を付ける、これは泥棒ではないか。石油がなくて戦争ができないなら、支那事変は即時やめるがよろしい。やめようと思えばやめられる。もうこうなっては他に方法がない。蒋介石に対して全面講和を申し込むばかりだ。もし聞き入れなかったならば、こうすれよい。それは支那の奥地から撤兵するとともに、あらゆる鉄道資材を撤去してしまう。のみならず車両や船舶なども残さず撤収する。そして我としては限られた小地域、たとえば天津付近とか青島付近とか上海付近を限定的に占拠して、大部分の軍隊は内地へひきあげてしまう。こうすると蒋介石の軍隊は進攻ができず、手も足も出なくなるから、おそらく講和を受諾するだろう。これよりほかに戦争をやめる手はない。

 ところが軍閥の奴らのやることは泥棒と同じだ。奴らは北支を宝庫だと考えて北支に手を出した。しかし、北支などは月経の干からびたお婆さんと同じだ。何があるものか。それ南支、それどこだ、とやたら手を出す。そして、国民に向かって今次事変は聖戦だと言っている。これを他民族は何と思うか。聖戦どころか泥棒の戦いとしか思わない。また、しきりに皇道宣布と声を大にして叫んでいるが、これでは皇道が侵略主義だと誤解されるではないか。支那事変が始まって以来、日本のやっていることは大家の滅びるときとそっくりである。大家の滅びるときは、あれに手を出して失敗し、これにも手を付けて損をし、といったように自信も信念もなく、やたらに手ばかり広げ、ついに倒産してしまう。軍閥の奴らはいま南方に手を出そうとしているが、日本海軍には日本本土防衛作戦計画はあるが、南方地域防衛の作戦計画はない。南だ、北だ、シナ海だといって諸方面の防衛に当たれば、本土はガラ空きだ。俺の言うことを聞かぬと、今に日本の船がなくなるぞ。そして、日本の都市は丸焼けになるぞ。必ず負けるぞ」

 

 昭和十六年一月、陸軍大臣東條英機中将は「戦陣訓」を配布しました。同書は戦陣における将兵の心構えを説いたものであり、その内容は必ずしも悪いものではありませんでした。しかし、陸軍大臣かつ中将の身をもって配布されたことを問題視した石原莞爾中将は第十六師団の将兵には読ませませんでした。

 同年三月に行われた師団長会議の席上、石原中将は次のように指摘して東條陸相に反省を促しました。

「一中将かつ陸軍大臣の身をもって、大元帥陛下はじめ総司令官以下に対して精神教育の重要訓練をなすは、軍隊統率の本義を蹂躙するものである。陸軍大臣は政治に参与するもので、全軍に精神教育などをできる身分ではない。軍人への教訓は明治天皇の『軍人勅諭』で充分である」

 戦陣訓を表立って批判する者の皆無だったときに、歯に衣着せぬ批判を東條陸相に加えたのは石原莞爾だけでした。東條中将は、関東軍で犬猿の仲となって以来、石原莞爾の言動を憲兵に調べさせていましたが、この後、さらに監視を強化させました。

 そして、同月、石原莞爾は予備役に編入されます。このとき陸軍次官の阿南惟幾中将は、東條陸相に直言して反対しました。

「石原を予備役というのは、陸軍自体の損失です。あのような有能な人を予備役に追い込めば、徒に摩擦が起きるだけではありませんか」

 阿南中将は、陸軍大学校で石原と同期だったため、石原の能力をよく知っていました。しかし、東條陸相の判断は変わりませんでした。

 石原莞爾は、過去に何度か辞表を出していたことに加え、病状が思わしくないこともあり、陸軍に未練はなかったようです。泉の湧き出るような智謀を石原はなお持ち続けていましたが、それを実現することは不可能となりました。いかなる構想も戦略も権力から離れてしまえば、実施できません。石原は陸軍幼年学校以来の友人である横山臣平に葉書を出しました。

「オレのような横着者が三十年間も現役にいたとは、自分ながら不思議でならぬ」

 

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