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支那事変

 二・二六事件の責任をとって総辞職した岡田啓介内閣のあと、広田弘毅内閣が国政を担っていました。昭和十二年一月の予算審議中、浜田国松議員と寺内寿一陸相とが激しい討論を交わします。いわゆる「腹切り問答」です。これに立腹した寺内陸相は、広田総理に衆議院の解散を要求します。しかし、解散に反対する閣僚が多く、閣内不一致となったため広田総理は総辞職を決断しました。元老の西園寺公望侯爵は次期総理に宇垣一成大将を推挙しました。大命が宇垣大将に降下しました。参謀本部では、これを認めるか否かが議論となりました。これらの事情は石原莞爾の日記にも記されています。

「朝刊にて停会を知る」(一月二十二日)

「夕刻総居残」(一月二十三日)

「夜、呼び出され徹夜」(一月二十四日)

 参謀本部では中堅層の多くが宇垣内閣に賛成でしたが、石原大佐はこれに反論して多数意見を制します。

「粛軍の途上において派閥感の強い宇垣将軍の出現は適当ではない。また、国防充実を図らんとする際、軍縮の前歴を持つ宇垣を総理に迎えることは大きな問題である」

 石原大佐は、宇垣に代わる人材として板垣征四郎中将や林銑十郎大将の名をあげ、陸軍首脳を説得して回りました。石原大佐の意見は参謀本部の意見となり、陸軍の意見となりました。

「宇垣首相から陸相入閣要請を受けた場合は陸軍大臣として部内統制の責に任じ得る者なし」

 宇垣一成大将は軍部大臣現役武官制のために組閣ができず、大命を拝辞しました。この時期の石原大佐の影響力の大きさがわかる出来事です。とはいえ、日頃から軍人の政治関与を忌避していた石原大佐が、このときばかりは大いに政治に介入しました。矛盾と言えば、矛盾です。石原大佐は、軍縮の実績を持つ宇垣大将が総理になれば、対ソ戦備を充実させられないと危惧したようです。しかし、石原大佐は後にこの判断が誤りだったことを知り、後悔します。


 昭和十二年二月、陸軍省と参謀本部の連名による「帝国航空の根本的改善案」という意見書が作成されます。ここには石原大佐の航空重視の考えが反映しています。当時、列国の航空兵力は次のとおりでした。ソ連五千機、米国一千六百五十機、英国二千機以上、仏国四千五百機、ドイツ一千九百機、イタリア千五百機、日本千機。この現状を踏まえ意見書は次のように提案しています。

「優秀なる空中武力の建設維持ならびに有事の際における十分なる能力発揮は近代国防の先決要件とす。しかしてこれが実現は特に直接強力なる国力国策の支援協力によりはじめて可能なるに鑑み、最も重要なる国策のひとつとして挙国航空の画期的発達に努力するを要す。航空軍備の飛躍的拡充ならびに整備は国軍最大の急務なり。これがため陸軍軍備充実計画に再検討を加えるはもちろんなるも、既定計画予算を昭和十四年以降においてそうとう増額せしむるの必要は必至なり」


 昭和十二年三月一日、石原莞爾は少将に昇進し、正式に参謀本部作戦部長となります。

「不戦十年、国力強化」

 作戦部長となった石原少将は持論を強調して、部下を督励しました。同日、東條英機中将が関東軍参謀長に任命されています。三月十六日の石原莞爾の日記には「東條中将と懇談」とあります。懇談内容については記録がありません。おそらく石原少将は「十年不戦」の方針や協和主義を推進すべきことを伝えたと思われます。これに対して東條中将がどのように応答したかは不明ですが、石原日記に特段の記述がないところからして、懇談は穏便に終わったものと思われます。ちなみに東條英機と石原莞爾とは両者とも皇道派に批判的だったこともあり、両者の関係に問題はありませんでした。片倉衷は戦後、次のように証言しています。

「ふたりの若かりし時代においては両者に何等の疎隔はなく、アジアの風雲を展望し、石原は東条を尊敬し、東條も石原を高く評価していた」

 また、同日付で武藤章大佐が参謀本部作戦課長に就任しています。先述したとおり、武藤は関東軍参謀として内蒙工作を進めていたところを石原から注意されましたが、「私はあなたを見習っているのです」と口答えしてみごとに石原を黙らせた男です。この人事は石原少将による抜擢人事と言われていますが、あるいは石原少将は武藤大佐のような男を関東軍に置いておくのは危ういと感じたのかもしれません。

 武藤章は実務家肌の軍事官僚として優秀であり、人望もありました。また、石原に口答えして沈黙させたことからもわかるとおり議論に強く、納得のいかない事柄については執拗かつ徹底して相手を論難しつづけるところがあり、その執念深さから「武藤は無徳」との悪評さえありました。

 武藤大佐は自他ともに認める実務家でしたが、それゆえに抽象的な議論を嫌いました。その弊害はすぐに顕在化します。武藤大佐には、石原少将の主張する壮大かつ先見的な国防国家構想や東亜連盟構想が理解できませんでした。石原大佐が導入した「戦争指導」という概念すら理解できず、作戦課のとなりにある戦争指導課の存在を露骨に嫌悪しました。戦争指導課から回されてくる稟議書には抽象的な文言が含まれていたため、武藤大佐は目くじらを立ててそれらを訂正させるのが常でした。石原少将は、やっかいな大物を部下に抱えてしまったと言えます。


 西安事件以後の蒋介石の動きは次のようでした。昭和十二年二月、国民党第三回中央全体会議を開催し、内戦の停止を確認し、反共から国共合作へと国民党の方針を変更しました。蒋介石は中国共産党の周恩来らと交渉を重ね、六月には廬山で直接交渉を行い、国民政府軍に共産党軍を組み込むことが決められました。また、蒋介石は日本軍との武力衝突を見越し、軍備強化のためにドイツ軍顧問団を招き、軍制と兵器を近代化するとともに上海と南京の要塞化を進めました。これにより上海と南京に強固な近代要塞が構築され、後に日本軍を苦しめることとなります。つまり、石原少将の日支提携の希望とは正反対の方向へと支那は驀進(ばくしん)しつつありました。


 広田弘毅内閣のあとをうけた林銑十郎内閣が短命に終わり、昭和十二年六月四日、第一次近衛文麿内閣が成立します。同月、かねてより石原莞爾少将が待望していた日満産業振興計画が日満財政経済調査会によってまとめられました。「重要産業五ヵ年計画要綱」です。その内容は、昭和十二年から昭和十六年までの重要産業振興計画であり、その方針は、

「日満及び北支において重要資源を自給し得るに至らしむるとともに平時国力の飛躍的発展を計り、東亜指導の実力を確立す」

 となっています。さらに、

「国防重要産業の振興は帝国を主体とするも、よく日満を一環とする適地適業の主義にのっとり、国防上の必要を顧慮し、所要産業を努めて大陸に進出せしめ、さらに帝国将来の長計を洞察して最も必要と認むる資源を選びて巧みに北支の経済開発に先鞭をつけ、その資源を確保するに努む」

 となっています。同計画要綱は重要産業部門として、兵器工業、飛行機工業、自動車工業、工作機械工業、鉄鋼工業、液体燃料工業、石炭鉱業、一般機械工業、アルミニウム工業、マグネシウム工業、船舶工業、電力工業、鉄道車両工業をあげています。そして、重要産業別に目標となる年間生産目標を掲げています。具体的には、飛行機一万機、自動車十万台、重油二百三十五万トン、石炭一億一千万トンなどです。

 石原莞爾少将の方針は、日満重要産業振興を十年のあいだ推進し、さらに継続することによってソ連にもアメリカにも対抗しうる国力を涵養することです。そのための「十年不戦」方針です。そこまでやってはじめて日本はソ連やアメリカに対抗しうる国力を手にすることができます。したがって、十年間は隠忍自重せねばなりません。

 石原少将は同計画要綱をまとめあげた宮崎正義の甚大な努力を称賛し、その内容に満足するとともに、これを是非とも実現せねばならないと決意を新たにします。欧米に比べて経済力が極めて貧弱で重要産業のほとんどを英米に依存している日本経済を現状から脱却させ、自給自足経済の基礎を確立することが国防上の第一の急務であると痛感した石原莞爾は、持久経済の構築こそが国防の根本であると堅く信じて来ました。そして、宮崎正義の作成した計画要綱を読むに至り、日本は断固とした経済振興によって米ソの合力に対抗し得る実力を養成し得ると確信しました。

 石原莞爾少将の国防構想は、その完整に向かってようやく進み始めるかに見えました。しかしながら、期待が膨らんでくると不安も大きくなるものです。石原少将は関東軍や支那駐屯軍の動きを気にするようになりました。

(出先が余計なことをやりはせぬか)

 石原少将は、自身が柳条溝事件の首謀者であっただけに疑心暗鬼にならざるを得ません。そんな石原少将の神経を逆なでするような風説が参謀本部に聞こえてきます。

「七夕の晩に華北で第二の柳条溝事件が起こる」

「支那駐屯軍は鵜の真似をする烏になる」

 単なる噂です。しかも支那駐屯軍はわずか二千名の兵力に過ぎません。当初は参謀本部の誰もが笑い飛ばしていましたが、石原少将は心配になってきました。戦争指導課長の河辺虎四郎大佐は、これらの噂を気にかけ、石原少将に相談しました。

「どうも民間から変な噂を聞きますが、それを止めることはできないでしょうか」

「何としても戦争はもちろん、噂も止めさせなくちゃならない」

 ふたりは相談の上、陸軍省軍務課長の柴山兼四郎大佐を北支に派遣しました。柴山大佐は北京、天津などを回り、支那側の要人にも会い、帰国して報告しました。

「日支両方面とも著しく緊張し、直ぐに一触即発の情勢にあることを感得し得たが、支那駐屯軍内部に謀略的気配ありとの感じは毫も受けなかった」

 それで一安心したものの、不穏な噂は絶えず聞こえてきます。石原少将は陸軍省軍事課長の田中新一大佐に相談します。

「盧溝橋付近の空気が怪しいから、だれか視察にやろうじゃないか」

 そこで、軍事課高級課員の岡本清福中佐を現地に派遣して真偽の程を確認させました。帰朝した岡本中佐は、

「軍司令官以下、よく東京の考えを承知しており、事を起こすようなことは断じてない。また、盧溝橋付近の駐屯小隊のところでも一泊して話したが、小隊長以下、自重しているから何も心配することはない」

 と報告しました。六月中に、二名の佐官級をわざわざ出張させて確認したのです。これで石原少将はひとまず安心しました。

 興味深いことは、参謀本部内のだれもが支那駐屯軍の謀略だけを疑い、蒋介石や中国共産党に対する疑念や警戒を口にしていないことです。支那側を完全に見くびっていたのかもしれません。それにしても怪しい噂の出どころは支那側だった可能性すらあるにもかかわらず、味方の謀略ばかりを疑い、敵の謀略をいっさい疑わなかった陸軍中枢の態度はきわめて偏っていたといえます。この偏向ぶりは今日から見ると不思議なほどです。そして、この誤謬に石原少将も陥っていました。石原少将は、自身が謀略を実行した前歴を持っていたため自軍を疑わざるを得なかったようです。さらに、支那と提携しての東亜連盟構想を目指していることから希望的観測を抱いてしまい、支那側からする積極的な対日攻勢を念頭に置いていませんでした。


 昭和十二年七月八日の早朝、支那駐屯軍参謀長の橋本(ぐん)少将からの電報が参謀本部に届きます。

「七日夜半、在豊台駐屯部隊、夜間演習中、支那軍より射撃を受け、警急姿勢をとり交渉中なり」

 これが盧溝橋事件の第一報です。続報によって判明しところによれば、北京郊外の豊台に駐屯している一木大隊の第八中隊が永定河にかかる盧溝橋の北方地区において夜間演習中、二十二時半頃、龍王廟方向より数次にわたり支那軍の射撃を受けたため応射し、彼我衝突したとのことです。

 陸軍省と参謀本部の首脳は、現地からの報告を研究し、不拡大方針を決定します。このとき最も強く不拡大を主張し、衆論を制したのは作戦部長の石原莞爾少将です。

「日本と支那は、直接話し合えば、即時、和平解決ができる。もし戦争状態に入れば、長期戦となる。短期間に蒋介石政権が崩壊するなどという判断は誤りである。満洲事変後、蒋介石は抗日スローガンのもとに鋭意新建設運動に力を用い、ドイツのゼークト参謀総長以下五十名の将校を軍事顧問として招き、ドイツ式戦力の向上に努力して兵備を強化している。中国は土地広大、かつ交通状態は近代装備をもってする行動に適せず、また資源的にも原始的で、各地方が自給自足可能であり、持久戦に有利である。また、特に警戒を要するのは、ソ連の極東兵備の充実である。支那人の抗日戦意は日ソ兵備の主客転倒が最大原因である。それゆえに今こそ日満産業五カ年計画を遂行し、国防力の充実を図り、ソ満国境にソ連を圧倒するだけの兵力を集中し得るようにせねばならない。そうなれば、漢民族は必ず日本を信頼してくる。それまでは隠忍自重して支那とは即時和平し、来るべき欧米との戦争に備えるべきである。支那がもしも徹底抗戦を続ければ、戦線は支那全土に拡大して、全面持久戦争になること必至である」

 話し合えば和平が成ると石原少将が判断した根拠は、昨年十一月、北京において鮑明鈴と会談して日支提携を話し合い、蒋介石から電話を通じて同意を得ていたからです。

 陸軍省、参謀本部とも不拡大論者は少数派であり、むしろ、この機に乗じて支那と一戦を交え、北支に確固たる緩衝地帯を確保したいと考える拡大論者が多かったのですが、石原少将の圧倒的な説得が功を奏して不拡大方針が決められました。政府の閣議においても「事件不拡大、現地解決」の方針が決定され、同日午後九時頃、支那派遣軍司令官に宛て、

「事件の拡大を防止するため、さらに進んで兵力を行使することを避くべし」

 との参謀総長電が発せられました。


 この日の朝、作戦課長の武藤章大佐は盧溝橋事件の発生を知ると、課員に命じました。

「万一、事件が拡大する場合を顧慮して、北支に増兵すべき兵力について検討せよ」

 そして、武藤大佐は陸軍省軍事課長の田中新一大佐と会談して意見を一致させました。

「この事件は楽観を許さない。これに対処するには力をもってするほかに方法がない。それは北支に兵力を増派して、状況によっては機を失せず、一撃を加える。これによってのみ時局の収拾ができるのである。とりあえず内地三個師団と、飛行十八中隊を骨格とする兵力を派遣すべきである」

 これが作戦課としての事件処理案となりました。

 また、石原莞爾の提案によって新設された戦争指導課でも対応策が検討されました。課長の河辺虎四郎大佐をはじめ高島辰彦少佐、今田新太郎少佐、堀場一雄大尉らは、石原少将が導入した「戦争指導」という概念をよく理解していました。戦争指導課としては不拡大を基本方針とするものの、やはり万一の場合に備えての出兵を検討しました。すでに統一され、民族意識に目覚めた支那に対して作戦課が提案したような政略出兵をやれば、ズルズルと戦線が拡大して持久化することが予想されます。そこで、作戦指導課は新発想による大胆な出兵案を立案しました。その内容は、あらかじめ作戦地域を黄河以北に限定し、陸軍の動員可能兵力三十個師団のうち十五個師団を同時動員するという大規模なものです。この大兵力によって半年以内に日支間の問題を短期間に一挙解決するという大胆な計画です。その戦費は五十五億円と見積もられました。

 戦争そのものを設計しようとする戦争指導課の派兵案は、従来の常識に照らせば驚天動地のものです。宣戦布告もしていないのに十五個師団を大動員し、しかも戦費が五十億円を越えます。しかし、短期間に日支和平を実現し、なおかつソ連の介入を許さないためには必要な措置でした。これに比べると作戦課の三個師団派兵案は、常識的ではあるものの、旧態依然たる近視眼的な措置であり、当面の戦術しか考えておらず、戦争の全体像をまったく考慮していません。いわば安易な追加派兵を招きかねない案であり、国共合作した支那軍から大規模な反撃を食らえば、戦力を逐次投入せざるを得なくなります。

「決意なき決心を予防するためには、これくらい大胆かつ大規模な増兵案が必要であります」

 堀場一雄大尉の説明に石原作戦部長は納得し、この案を決裁しました。石原少将は、戦争指導課を新設した意図を理解し、体現してくれている課長と課員の労を多としました。しかし、石原少将自身はあくまでも日支和平を貫く決意だったようです。


 現地の盧溝橋では、支那派遣軍司令部が中央からの指示を待つまでもなく、同日の夕刻から部隊長レベルの日支交渉を開始していました。そして、七月九日の早暁、日支の現地協定が成立し、日支両軍とも盧溝橋から部隊を引き上げました。さらに、午後四時、支那駐屯軍参謀長の橋本群少将は支那側と交渉するため天津を発ち、北京に向かいました。

 この日、石原作戦部長は作戦課に幾度か顔を出し、数々の訓示をしました。

「今日から作戦課の部員は寝台を持ち込んで、泊まりきりで事件解決に当たれ」

 まずは徹夜を指示して緊張を求め、次いで、支那認識を改めるよう訴えました。

「今日の支那は昔の支那ではない。今や支那は統一せられて、挙国一致の強い力を発揮することができる。この支那と戦端を開くときは長期持久に陥り、日本は泥沼に足を突っ込んだごとく身動きができなくなる。戦争は避けなければならぬ。そして、国防国策の方針によって、国力、軍事力を拡充しなければ対ソも対支も国防は不可能である」

 石原作戦部長の訓示を苦い顔で聞いていたのは作戦課長の武藤章大佐です。武藤大佐の認識では、支那は依然として分裂状態の弱国であり、関東軍の背後を安全にするため北支と蒙彊を日本の勢力下に入れるべきだと考えています。武藤大佐は、石原部長が作戦課を去ると、陸軍省軍事課長の田中新一大佐に電話をかけ、課員たちに聞こえるように話します。

「うん、田中か。面白くなったね。うん。大変面白い。大いにやらにゃいかん。しっかりやろう」


 戦争指導課は、十五個師団同時動員の派兵案を会議に提案し、関係機関の理解を得ようとします。しかし、総スカンの結果となりました。戦費五十五億円を大蔵省官僚は頭ごなしに拒絶しました。確かに巨額です。また、作戦課の武藤大佐に至っては同案を嘲笑しました。戦争指導の概念を理解しておらず、支那認識も旧態依然のままの武藤大佐の常識からすれば、十五個師団動員案はたしかに暴論です。堀場一雄大尉は屈せずに懸命の説明を続けますが、武藤大佐などから半畳を入れられ、満足に説明できません。見るに見かねた石原少将は、戦争指導課の顔を立てつつ、議論を収束させました。

「陸軍の動員可能兵力は三十個師団である。そして、支那に使用しうる兵力は十五個師団を越えることはできない。しかし、この兵力では対支全面戦争は不可能である。もし強行すればスペイン戦争におけるナポレオン軍と同様、泥沼にはまり破滅の原因となる恐れがある。この際、思い切って北支の全部隊を山海関まで後退させるべきである」

 結局、十五個師団動員案は「構想過大なり」と判断され、詳細な検討に入らないままに議論が終わりました。「戦争指導」という概念が参謀本部内においてさえ十分に理解されておらず、支那認識も旧態依然のままでは、戦争指導課の斬新な派兵案が理解される可能性は皆無でした。

 この事態に石原少将は少なからず驚かざるを得ません。戦争指導課の設置を提案したのは石原少将です。陸軍参謀本部はこれを承認し、実際に戦争指導課が新設されました。しかし、いざ盧溝橋事件が発生し、戦争指導課が活動して具体案を示すと、周囲は「戦争指導」の概念すら持ち合わせておらず、戦争指導課の提案を否定しました。戦争指導課新設の稟議書に押印した責任者たちは、ただ盲判を押していただけだったらしく思われます。

 この日、陸軍中央は念のため支那駐屯軍に対して次の電報を打ちました。

「我より進んで事件を拡大しないが、彼より戦を挑むに至ったならば、これを排撃する。この場合においても事件をなるべく平津地方に限定するに努める」

 平津地方とは、北平(北京)と天津とを合せた地域の呼称です。

 この頃、折あしく参謀次長の今井清中将は重病のため自宅に伏せていました。石原少将は今井中将の自宅を訪問して不拡大方針を進言しました。しかし、参謀本部情報部支那課長の永津佐比重(さひしげ)大佐が先回りしており、すでに今井中将を説得していました。

「石原の言うことは間違っている。支那は小兵力を以て脅しただけで屈服する。この際、一撃を加えて我が方針の貫徹を計ることが最善である」

 永津大佐は情報部にあって支那関係の情報を分析する責任者です。そのため今井中将は永津大佐の進言に重きを置きました。しかし、永津大佐の支那認識は旧態依然たる古いもので根本的に誤っていました。


 七月十日、今井清中将は病身を推して出勤し、陸軍首脳会議を主宰しました。会議では、作戦課長の武藤大佐が支那駐屯軍に対する三個師団増派案を提案しました。実務家である武藤大佐の迅速な仕事ぶりは見事でしたが、その内容は型どおりの政略出兵であり、支那を見くびっており、日支全面戦争に発展する危険性をまったく考慮していませんでした。それでも議論の結果、増派する方針が議決されました。不拡大方針は堅持するものの、支那側が挑戦してくる可能性があり、その場合、支那駐屯軍の現有兵力では支那軍に圧倒される恐れがあり、居留民保護もできなくなるというのが理由です。また、現状においては、たとえ派兵しても欧米諸国やソ連が対日参戦する恐れはないと考えられました。増派する戦力は、関東軍より混成旅団二個および飛行隊、朝鮮軍より第二十師団の応急動員および飛行隊、内地より三個師団(第五、第六、第十)を基幹とする兵力および飛行隊と決められました。ただし、増派方針が決定されただけであり、内地の各師団は出動準備には入るものの、実際に増派するか否かは現地の情勢次第です。

 この首脳会議にはもちろん作戦部長の石原少将も出席していましたが、増派に反対せず、次のように発言しました。

「万一、北支在留邦人二十万の保護に欠くるところがあり、シベリア出兵時の尼港事件のような惨劇を繰り返しては、陸軍の面目に関わる重大問題である。三個師団の動員、これが最大限だ。これで一応食い止め、南京政府と早期和平の実現を期すべきである」

 つまり、支那駐屯軍の戦力があまりに僅少に過ぎれば、万一の事態に対処できないうえ、支那軍から軽視される恐れがあったため増派に賛成したわけです。

 この首脳会議の後、戦争指導課の堀場一雄大尉は容儀を改めて石原作戦部長に抗議しました。

「不拡大方針を徹底するなら、増派には反対すべきでした」

 不拡大派たる戦争指導課と拡大派たる作戦課の上に立つ石原作戦部長の立場は、典型的な板挟み状態です。不拡大を主張すれば作戦課長武藤大佐に責められ、拡大派に妥協すれば戦争指導課からなじられます。

 同日、現地では問題が起きていました。支那軍は現地協定を破り、盧溝橋北方にある龍王廟という要地を占拠しました。このため日本軍が反撃し、午後九時までに龍王廟を奪還しました。


 七月十一日の朝、石原莞爾少将は近衛文麿総理大臣の私邸を訪れ、近衛総理に唐突かつ常識外れな依頼をします。

「本日の閣議で、陸軍側の動員案を否決してほしい」

 昨日の陸軍首脳会議では武藤大佐の政略出兵案に賛成しておきながら、一夜明けて変節し、総理大臣に反対を依頼したのです。石原少将は、陸軍中枢における拡大派の勢力の強さを認識し、もはや自分の力では統御できないと考えて、この挙に出たようです。

 しかし、この日の緊急閣議で北支への増援軍派遣が決定されてしまいます。同日夕刻には派兵の政府声明が発表され、この事案を北支事変と呼称することが決められました。これにより関東軍の独立混成第一旅団、同第十一旅団、朝鮮軍の第二十師団、内地の第五、第六、第十師団に動員が下令されました。各部隊は、動員の発令があり次第、直ちに動員できる態勢に移行しました。

 この閣議決定について戦争指導課の堀場一雄大尉は、戦後、次のように書いて残念がっています。

「かくして事態の進展に備うべく同日閣議において決定せられたるものは、出先軍一部の転用とともに、内地動員三個師団基幹、予算三億にして、その観念は従来における安易なる政略出兵の域を脱せず。情報認識に関する迷妄、度し難きものあり。戦略的には、兵力を逐次使用するの邪道を踏み出し、政略的には、不十分なる国力を底知れぬ泥沼に蕩尽するの端緒を開きたるものとす。これ国家が事変処理に対し冒せる重大なる過失、決意なき決心の第一回とす」

 同日、支那駐屯軍司令官の交代が発令されました。病床に伏していた田代中将に代わって、香月清司中将が軍司令官となりました。香月中将は、あわただしく午前十一時に立川飛行場を発ち天津を目指しました。一方、北京で日支交渉にあたっていた支那駐屯軍参謀長の橋本群少将は、交渉不成立のまま天津に戻りました。

 戦争指導課は、周囲の無理解のため十五個師団動員案を完全に否定されてしまい、万策尽きた格好でした。それでも河辺大佐以下、協議を重ね、ついにひとつの結論を導き出します。それは近衛総理が南京を訪問し、蒋介石と直接会談をして日支和平を実現するというものです。たとえ首脳会談が決裂した場合でも、日支全面戦争の緊張が陸軍内に走り、安易な政略出兵が否定され、十五個師団動員案が承認される可能性が出てきます。作戦指導課一同は、すぐさま作戦部長室に向かい、石原少将に同案を提案しました。

 一方、蒋介石は江西省廬山で開催中の国民政府会議に中国共産党の周恩来を招き、抗日戦争について議論していました。周恩来は蒋介石に抗日全面戦争の必要性を説き、抗日戦争の第一線には共産党が立つと約束しました。ソビエト・コミンテルンの戦略は、日支を相争わせることによって日本軍の北進を不可能にするところにあります。


 七月十二日、石原莞爾少将は風見章書記官長を訪ね、南京における日支首脳会談を提案し、依頼します。

「近衛総理みずから南京に乗り込み、蒋介石主席と膝詰め談判をすることが事件解決の一番早道だと思います。万難を排して敢行せられるよう総理を説いて欲しいのです」

 風見書記官長が事の次第を近衛総理に伝えると、近衛総理は乗り気です。

「そうだ、自分は身体が弱くていつまでご奉公できるか心もとない。命のある間にできるだけの御奉公をしておきたいから、この際、看護婦を帯同して南京に乗り込み、蒋介石と直接話し合ってみよう。ついては至急万事の手はずを整えてほしい」

 同日、香月清司中将は、正午に天津に到着し、直ちに支那駐屯軍司令部に入り、参謀から状況を聴取しました。


 七月十三日、午前十一時頃、豊台付近において日本軍歩兵小隊が支那兵から射撃され、負傷者若干名を出しました。支那駐屯軍司令部では幕僚会議が続けられ、現状報告と現地解決方針を含む「七月十三日における支那駐屯軍情勢判断」が作成され、直ちに陸軍中央に打電されました。

 他方、廬山会議においては、毛沢東が蒋介石に対して抗日即時開戦を要請していました。


 七月十四日、戦争指導課は「北支事変指導要綱案」を起案し、その稟議書を同課の高島辰彦少佐が作戦課長の武藤章大佐のところへ持参し、同意を求めました。武藤大佐は書類をめくります。

「至高至大の大道を歩み、事件不拡大の一般方針を堅持し、当面事件の真相を正視して、限度を超えたる兵力使用を避ける・・・」

 途中まで読んだ武藤大佐は、

「こんな抽象論が今頃なんの役に立つものか」

 と怒鳴り、高島少佐の面前で稟議書を破いてしまいました。現実主義の実務家である武藤大佐には過剰な抽象表現が気に食わなかったようです。戦争指導課はやむなく、第二課独自の案として石原部長に同案を提出しました。

 同日午後四時頃、通州から豊台へ移動中の日本軍騎兵部隊は、北京東南方において支那兵に射撃され、斥候兵一名戦死の被害を受けました。

 同日、陸軍中央は支那派遣軍司令官に対して「事変処理に関する方針」を伝達し、あくまでも現地解決、不拡大方針を堅持するよう指示しました。

 同夜、冀察(きさつ)政務委員会委員長である宗哲元(そうてつげん)が天津の支那駐屯軍司令部に来訪し、香月清司中将と会見しました。しかし、この会見は不調に終わります。

 この頃、石原莞爾少将は、外務省情報部長川相達夫を通じて風見書記官長に南京会談の件を催促させています。

「近衛の南京行きはどうなったのだ。グズグズしていると間に合わなくなる。やるなら一日も早く、すぐにもやってくれ」

 最初は意欲をみせた近衛総理でしたが、陸軍内が拡大派と不拡大派に割れていることを知ると消極的になりました。南京で蒋介石と話を決めても、帰国後にひっくり返されることを危惧したようです。また、支那側に対しても同様の心配をしていました。西安事件後の蒋介石が果たして全権を握っているのかどうか、疑念がありました。近衛総理が消極的だったので、風見書記官長は広田外相に南京訪問と蒋介石との会談を打診してみました。しかし、広田外相も懐疑的でした。

「陸軍の中がまとまっていないのに誰を派遣してみても効果は望まれない」


 七月十五日、蒋介石は廬山会議において中国共産党の合法的な地位を認めました。

 同日、陸軍中央から支那駐屯軍に派遣された中島鉄蔵少将と柴山兼四郎大佐は香月清司中将に面会し、不拡大と現地解決の方針を改めて伝達しました。香月中将は言われるまでもなく指示に従って現地解決を模索していました。そして、派遣されてきた二人に対して、「本当に不拡大、現地解決を求めるなら、増兵はやめてくれ」と意見を言いました。また、陸軍中央は香月中将に対し、十九日を期限として宗哲元に講和条件を履行せしめるよう電命しました。


 七月十六日、午前八時頃、通州の東南において日本軍部隊が支那保安隊から射撃を受けるという事件が発生しました。日本軍部隊は反撃し、支那保安隊を武装解除しました。

 同日、風見章書記官長は石原莞爾少将に対して、南京における首脳会談の提案について「見合わせる」と返事しました。石原少将が理由を尋ねると、風見書記官長は「陸軍内の意見が一致していないから」と返事をしました。石原少将は諦めず、自ら近衛総理に電話して訴えました。

「私もお供しますから、南京に行かれたらいかがですか」

「そんな夢のようなことはできません」

 というのが近衛総理の返事でした。石原少将は、心中、近衛総理をなじります。

(二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を亡ぼすものは近衛である)

 

 七月十七日、支那駐屯軍司令官香月中将は、宗哲元に対して講和条件を履行するよう通告しました。また、日本政府も南京政府に対して同様の通告をしました。

 蒋介石はなお廬山にあり、後に「生死の関頭」演説と呼ばれる演説をしました。

「我らは中国の主権を侵すものに対し、断じて一歩も譲歩しない。日支全面戦争もやむを得ない。たとえ弱国と雖も、もし不幸にして最後の関頭に立ち至ったならば、我々の為すべきことはただ一つ、すなわち全国民の精力の最後の一滴までも傾倒して国家存立のため抗争するのみである。万一、北平が第二の奉天になったならば、南京が第二の北平になることをいかに阻止するか」

 日本側がなお講和を模索していたのに対し、蒋介石はコミンテルンの要求を拒絶できず、ついに抗日戦争の決意を表明しました。


 七月十八日、午後一時、宗哲元は天津の偕行社を訪れ、香月中将に面会を求めました。香月中将が面会に応じると、宗哲元は遺憾の意を表明しました。

「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今後のことについては軍司令官の指導を仰ぐことにしたいと思いますから何事によらず御指示に与りたい」

 同日、石原莞爾少将は、陸軍大臣杉山元大将と陸軍次官梅津美次郎中将に意見具申しました。その内容は、南京における蒋介石と近衛総理との直接会談です。

「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛総理みずから南京に飛んでいただき、蒋介石と会見して日支提携の大芝居を打つのです。これには石原みずから随行いたします」

 石原少将らしい果断な献策です。しかし、梅津中将は否定的でした。

「北支から全面撤退するというが、明治時代から積み重ねてきた北支の我が権益はどうなるのだ。また、後退したとて満洲国が安定するわけでもあるまい。近衛総理に南京へ飛んでいただくことは、実はそうしていただきたいのである。しかし、それには総理に相談し、総理の自信を確かめねばならない。それを確かめたのか」

 反問された石原少将は、返事ができませんでした。


 七月十九日、前日に続いて宗哲元と香月清司中将の会談が行われ、宗哲元が日本側の要求を受け入れました。現地協定の成立です。ところが、南京政府は日本政府に対して要求の拒絶を表明し、宗哲元の現地交渉を否定し、交渉はあくまでも南京政府が行うと主張しました。そして、先日の「生死の関頭」演説を公表し、抗日姿勢を明確にしました。

 同日午後六時、盧溝橋付近の支那軍が日本軍部隊に対して銃撃を加えたため、日本軍将校一名が負傷しました。ここに至り、支那駐屯軍司令官香月中将は、

「支那軍が不信行為を繰り返す場合には二十日正午を期して独自行動をとる」

 と宗哲元に通告しました。


 七月二十日、陸軍中央は外交折衝による事変解決を断念し、支那駐屯軍司令官に攻撃任務を新たに付与し、南満の臨時航空兵団を支那駐屯軍の編成下に入れるとともに、内地三個師団の動員を推進させました。

 蒋介石は北支への兵力集中を開始するとともに、宗哲元に対して廬山会議の結論を伝え、あくまでも日本と戦うよう命令しました。このため宗哲元は対日態度を豹変させます。

 蒋介石が抗日姿勢を明確にするに及び、もはや石原莞爾少将には事変の不拡大を実現する手段がなくなりました。満洲事変の際には本庄繁軍司令官ひとりを説得すれば事足りました。しかし、陸軍中央は複雑な機構であり、説得すべき相手が多く、しかも事変拡大派の方が多数であったため、石原少将の説得工作はうまくいきませんでした。陸軍中枢を圧倒していた石原莞爾少将の影響力は、盧溝橋事件以後、あっけなく雲散霧消してしまいました。

 石原少将には先見的な時代認識と壮大な国家構想があり、戦略も戦術もありました。しかし、石原少将には決定的に欠けていたものがあります。それは権力です。作戦部長の権限は、壮大な国家構想や大戦略に比べればあまりにも矮小でした。石原莞爾は、若いころからナポレオンやフレデリック大王の戦略戦術を学び続けてきましたが、不思議なことに、権力掌握術については学ばなかったかのようです。石原は幾度も辞表を提出したり、派閥を嫌悪したりと、むしろ権勢に恬淡でした。さらに、石原は己の才を頼むあまり、人間関係を顧慮することが薄かったため庇護者に恵まれませんでした。もし、本庄繁大将が参謀総長なり陸軍大臣として君臨していたなら、石原の庇護者となり得たでしょうが、本庄大将はすでに予備役となっていました。権力への執着を持たなかったことは、石原の奇妙さでもあり、清潔さでもあり、人格的な魅力でもありますが、権力欲のない石原は権力者にはなり得ず、ただ賢者として存在しました。賢者である石原にとって日支全面戦争は国防国家構想や東亜連盟構想の破綻を意味し、ひいては最終戦争における日本の敗北と滅亡を意味しました。だからこそ懸命に日支和平と不拡大を模索しました。この時点で日本の滅亡を予見し得たのは石原莞爾だけだったでしょう。奈落へ向けて転がり始めた日本の運命が勢いを増して転落していく様を予見していながら、石原にはそれを止める手段がありません。ただ焦燥に身を委ねつつ、天才の孤独を感じるしかありませんでした。


 七月二十二日、作戦課の今岡豊大尉が廊下を歩いていると、作戦部長室から怒鳴り合う声が聞こえてきました。

「君が辞めるか、私が辞めるか、どっちかだ」

 今岡大尉の耳には、そのように聞こえました。この日の田中新一軍事課長の日誌には次のように記されています。

「動員派兵および武力行使の問題をめぐりしっくりせず、部長室で両人(石原と武藤)激論の極、『やめる、やめない』というところまで感情が悪化していることは確かだ。武藤大佐の言うには、石原部長の考えは猫の目のように変転してまったく掴まえ所がない。今日も論争の末、『君、辞めたまえ』と言うたから、しばらく部長の顔を見つめてから、アハハと笑って帰ってきた。部長のように夢みたいなことを考えていては、時局はますます深みに入るばかりだ。俺は現実的に効果的に当面の事態を処理するのだ、ということである」


 七月二十五日、郎坊(ろうぼう)事件が発生します。郎坊は北京と天津のほぼ中間に位置します。その郎坊において軍用電線の故障が発生しました。支那駐屯軍司令部は、事前に支那側に通告したうえで通信隊と護衛部隊を郎坊に派遣しました。ところが午後十一時十分頃、日本軍部隊は支那軍からの攻撃を受けました。小銃、機関銃、迫撃砲による攻撃は朝まで続きました。日本軍部隊も応戦しましたが、死傷者十四名の被害を受けました。

 支那駐屯軍司令官香月清司中将は、宗哲元に対して最後通牒を発します。

「日本軍は独自の自由行動をとる」

 七月二十六日、陸軍中央は香月中将の決断を承認するとともに、内地三個師団の動員を決定しました。事ここに至り、石原莞爾少将は支那駐屯軍に次の電報を発しています。

「徹底的に膺懲せらるべし」

 支那側の度重なる挑発と裏切りに、石原少将もついに決断せざるを得ませんでした。ただし、支那との全面戦争は想定していません。

「出るなら保定の線で止まる。そこまでは大軍をもって一挙に叩き、ちょろちょろとわずかの兵力を出すようなことはせず、保定の線まで一挙に叩き、そこからは一歩も出ない。そこまで行ったら、日本は支那と戦争する意思はない、北支の治安維持のために反乱軍を掃討したに過ぎない旨を世界に向かって声明し、さっさと軍を引き上げてしまう。それには兵力五個師団を必要とする」

 内地三個師団に加え、関東軍と朝鮮軍からの援軍を加えればほぼ五個師団に相当します。

 この日、午後七時半ごろ、北京で広安門事件が発生します。居留民保護のために北京城内に向かっていた日本軍の貨物車両二十六台が広安門を通過中、広安門を警備していた支那軍部隊が突如として門を閉じ、日本軍を銃撃しました。日本軍の死傷は十九名にのぼりました。

 香月中将は「二十八日朝から攻撃を開始せよ」との命令を発しました。


 七月二十七日、日本政府は臨時閣議を開き、三個師団の派遣を承認しました。


 七月二十八日の未明、天津、通州、太沽(タークー)で支那軍による暴動が発生します。天津事件、通州事件、太沽事件です。このうち通州事件では二百名以上の在留邦人が残虐に殺害されるという惨劇となりました。支那駐屯軍は兵力を北京に集中させていたため、その虚を突かれてしまいました。

 北京では、早暁より支那駐屯軍が攻撃を開始しました。第二十師団、支那駐屯歩兵旅団、臨時航空兵団は北京城の南郊にある南苑を攻撃しました。独立混成第一旅団と独立混成第十一旅団は永定河に沿って北上し、西苑を攻撃しました。日本軍は午前十時半に沙河鎮を制圧し、午前十一時に南苑の支那軍を撃退し、午後三時に北京城北郊の清河鎮を占拠しました。こうして支那駐屯軍は、北京城周辺の要地を占領し、北京城を包囲しました。しかし、宗哲元はすでに逃亡していました。


 支那駐屯軍が攻撃を開始した七月二十八日の夜、石原莞爾少将は高田馬場の自宅にいました。山口重次と対面しています。このとき山口重次は満洲国総務庁参事官の地位についていました。支那南洋への出張を命じられ、その途上に日本に立ち寄ったところです。ふたりが顔を合わせるのは久しぶりです。山口の目に映る石原少将は顔色が悪く、憔悴しています。満洲事変当時の颯爽たる風姿はそこになく、むしろ敗軍の将のようでした。石原少将は盧溝橋事件の発生後、ほとんど寝ていません。参謀本部で徹夜をし、ときに帰宅しても神経が休まらず、眠れませんでした。身体に無理をすれば持病が悪化します。石原少将は襲い来る疼痛と戦いながら、連日の激務に耐えていました。その石原が口を開きます。

「いま武力をもって支那と争うことは、日本の対アジア政策、対世界政策の破壊である。戦略上から考えても、無責任な連中が言うように、三ヶ月三個師団で蒋介石を屈服するなんて、できるはずがない。とんでもない話だ。支那のあの交通機関の不便な広漠たる戦場では、たとえ百万の兵を動かしてもなかなか一年や二年で殲滅することは不可能だ。必ず持久戦に陥る。いまの日本が百万の兵を五年も動かしたら、国力は蕩尽してしまう。英米は目下、太平洋上の海軍力の大拡張をやっている。スターリンは極東兵力の大拡張をやって既にソ連の極東兵力は我が満鮮の戦力を越えている。今後、五年してわが国力が蕩尽したとき、英米ソの攻撃を受けたら満洲、朝鮮は元より、台湾、樺太、あるいは北海道も失うことになるかもしれない。もとの大八島八州が残れば幸いという惨めなことになる。断じて戦争は止めなければならぬ。全面撤退するしかない。権益も賠償も求めない。日支間の不平等条約を撤廃して新たに平等条約を締結する。日本は満洲国の承認のみを求める。それでどうだ、日本が大八島八州になるよりはよほど良いではないか。これなら蒋介石も納得するだろう。もし、これで講和が成立しなかったならば、報復として支那の鉄道を全部閉鎖してしまう。そうして海運の便のある重要都市だけに日本軍を駐屯させて徹底した協和政治、協和運動を実施し、平和と経済発展の実績をあげ、それによって支那四億の民に協和主義を訴える。この意見を軍部ばかりでなく政府にも政党にも説明し、訴えているのだが、ひとりひとりは納得するものの、大勢は戦争へと拡大していく。日本の前途を思うと心配で夜も眠れない」

 昭和十二年七月の時点において、石原莞爾少将は、未来の歴史展開をまるで見て来たかのように語ります。そして、せめて満洲だけでも残したいと考えました。石原少将は山口に問います。

「もし日支の戦争が長引いたら満洲にどんな影響が起こりますか」

 満洲事情に詳しい山口は即答します。

「満洲国民の思想に及ぼす影響は大きいでしょう。それでなくても満洲三千万民衆は、日本および日本人に対して懐疑的になっており、満洲国建国当時の好感は薄れています。日本の権益主義が満洲国民を失望させているからです。このうえ日支戦争が激化して持久化すれば『血は水よりも濃し』です。満洲国の国民思想は乱れていく。おそらく共産主義に傾くでしょう。対策としては協和会が協和思想を広めるしかありません。経済的には、満洲と北支との通信や流通が途絶して農村苦力が北支から満洲に来なくなり、農産物の減収となりましょう」

 石原が質問します。

「鉱工業の苦力が不足するのは分かりますが、農村の苦力が不足するのは、どういうわけですか」

 山口は満洲の特殊な事情を説明します。

「日本では農村が労働力の供給源になっているから、満洲でも農村に過剰労働力があると誤解しています。しかし、満洲ではその反対です。満洲の農村は非常な労働力不足です。毎年のように満洲にやって来る山東苦力は、その七割が満洲の農村で働いています。戦争が続くようなら、北支から苦力が来なくなる。そうなれば満洲の農産物は確実に減収となります」

 石原は、満洲事情に精通した山口に感心し、態度を改めて依頼します。

「山口さん、あなたはすぐ満洲に帰って、関東軍の第四課と国務院の星野長官に献言してください。労働力が不足する可能性があるから、今のうちに手を打たせるのです。できれば満洲国政府から日本政府にこの懸念を伝え、戦争を止めさせるのです。それからもうひとつ、あなたの目で満洲事変と今度の事変の相違点を見てきてください」

 関東軍第四課は満洲国に内面指導をする部署であり、星野長官は満洲国国務院総務長官星野直樹のことです。

 山口重次は飛行機で満洲国の新京に飛び、星野直樹長官に石原莞爾の言を伝えました。しかし、星野長官はいたって楽観的です。

「山口君、三ヶ月もすれば支那が屈服するから、そんな心配は要らないよ」

「しかし、参謀本部の作戦部長が持久戦になると警告しているのに、そのような楽観論をとるのは意外です」

 そう言われると星野長官には確かな根拠がなく、話を逸らすしかありません。

「それもそうだが、まあ、とにかく現地を視察してきてくれたまえ。苦力不足で労働問題が起こらぬように」

 山口重次は列車で北京に向かいました。山海関を越えて京奉線に乗り換えると、列車が頻繁に止まって運行ダイヤが乱れました。山口がよく観察すると、尉官級の陸軍将校が駅員や乗務員を怒鳴りつけて止めさせているようでした。

(満洲事変の時には、こんなことはなかった。鉄道は線区司令官の命令で動いているから、師団長といえども鉄道の運転に口をはさむことはできないはずだ)

 天津では大和ホテルに泊まりました。ホテルの経営者は藤井栄といい、満洲青年連盟の同志です。その藤井が慨嘆します。

「天津の総領事も満鉄も事変対策をまったく手伝おうとしない。租界内では食料が不足して物価高になっているし、日本の通貨が持ち出されて銀行が悲鳴を上げている。それなのに総領事も満鉄も知らん顔だ」

 山口の見るところ、満洲事変のときとは何から何まで違います。満洲事変のときには総領事も満鉄も関東軍には協力しませんでした。しかし、今度は総領事や満鉄が軍のお先棒を担いでいます。また、満洲事変のとき、在満邦人は総出で、しかも無償で関東軍に協力しました。男は銃をとり、女は握り飯をつくり、男子は自転車で伝令をしたものです。ところが、天津の情況をみると、質の悪い浪人風情の日本人が多いようでした。支那革命を礼賛する支那浪人や金儲けなら何でもする一旗組が多く、理想もなければ統制もありません。そもそも日本軍の軍紀が緩んでいるように見えました。

 山口重次はさらに北京に向かいました。北京には小沢開作がいます。小沢は、権益主義に傾いた満洲国に失望して北京に移り、支那青年を指導して民族協和の運動を続けていました。その苦労の甲斐あって、支那青年による協和会結成の準備が進んでいます。小沢は言います。

「北京にまで共産党が入り込んでいるんだ。放っておけば共産化してしまう。だから、協和運動を展開して真正中国をつくらねばならない。支那青年の中にも多くの賛同者がいるので、それを組織化して協和会にしたい」

 山口は大いに賛同します。

「わかった。東京の陸軍には俺が進言して了解をとる。君は北京で設立準備を進めてくれ」

 北京では旧知の矢萩那加雄(なかお)中佐にも会いました。矢萩中佐は北京特務機関長に任命されて赴任してきたばかりです。

「北京の戦後処理を命ぜられたのだが、参ったよ。戦後処理なんて、どうやったらいいのか見当もつかん。山口さん、教えてください。なんなら山口さんが北京市長をやってください」

 さすがに山口は断りました。

「わたしに言えることは、復興の将来を見通して、それに適うように事務を処理していくことです。北京についていうなら、北京の将来は観光都市でしょう。工業や経済ではない。それから、戦争で打撃を受けた市民の経済を安定させ、生活を保障してやることですが、これは日本人が考えるよりも支那の要人を集めて意見を聴いてやるのがいいでしょう。小沢開作がやっている協和運動を活用してください。特務機関としては日本軍の軍紀を厳正に保ち、日本人の横暴を未然に防ぐことです」



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