参謀本部
石原莞爾大佐が第四連隊長として隊務に精励していた昭和八年から十年にかけての間、世界情勢には大きな変化がありました。
昭和八年一月 ドイツではナチス党が政権の座につきました。三月、アメリカではルーズベルトが大統領に就任し、日本が国際連盟を脱退しました。五月、日中間に塘沽停戦協定が成立して満洲事変が終結しました。六月、世界通貨経済会議が開かれ、世界はブロック経済化へ向かうことが決定的となりました。十月、ドイツが国際連盟を脱退しました。十一月、アメリカがソビエト連邦を国家承認しました。
昭和九年三月、日満議定書が締結され、執政だった溥儀が満州国皇帝となりました。同年、日本は世界のブロック経済化に対応するため日英会商、日蘭会商を行いますが、いずれもアメリカの圧力のため決裂に終わります。そして、アメリカが第一次海軍拡張法を成立させ、十二月、日本は二年後の軍縮条約脱退を通告します。第一次世界大戦後に世界を風靡した軍縮熱は早くも冷め、軍拡へと潮流が転換しました。
満洲国では日本の権益主義が台頭し、協和主義が圧迫されていました。九月四日、協和会中央委員会の人事交代があり、山口重次や小沢開作などの協和主義者が中央委員会を追われました。山口重次は後に書いています。
「この日をもって民族協和の団体力をもってする組織的な運動は終焉を告げた」
昭和十年三月、ドイツが再軍備を宣言しました。同月、日満ソのあいだで東清鉄道買収交渉が成立しました。五月、ドイツの再軍備に対応して仏ソ相互防衛協定が結ばれました。十月、米独通商条約が失効し、米独間の対立が明らかとなりました。柳条溝事件からわずかに四年ですが、国際情勢は大きく変わっていました。
そのような情勢下、陸軍の作戦中枢たる参謀本部作戦課長として石原莞爾大佐は、昭和十年八月十二日、参謀本部に初出勤しました。この日、偶然にも陸軍省では軍務局長永田鉄山少将が相沢三郎中佐に惨殺されるという事件が発生しています。この事件は、石原大佐と直接の関係はありませんが、後に微妙な係わりを持つことになります。
作戦課長となった石原大佐は、さっそく作戦課を総動員して極東情勢の再検討を行いました。その結果、石原大佐はひとつの誤謬に気づきます。それは日ソの輸送力の算定です。従来、日本の輸送力の方がシベリア鉄道の輸送力より優れていると考えられていました。しかし、調べ直してみるとむしろ逆でした。つまり、ソ連軍の動員力に比べて日本軍の動員能力が劣っていました。そうなると日本軍は在満兵力を増強しておかなければなりません。石原大佐は、バイカル湖以東に所在する極東ソ連軍の八割に相当する兵力を満洲および朝鮮に配備する必要があると考えました。つまり、満鮮五個師団態勢の現状から満鮮八個師団態勢に増強する必要があります。石原大佐は、参謀次長杉山元中将を説得するために意見書を提出します。
「シベリア鉄道の能力向上により、有事の場合、極東ソ連軍の兵力増加は我に優らんとしつつあり。日ソ間に国境兵力増加の競争を惹起すべし。目下の情勢においては少なくも三個師団を倍加するを要す」
こうした応急的な対ソ戦備に加え、石原大佐は満洲国の発展と対米戦備をも考慮に入れて総合的な国策を論じます。
「満洲国はソ連に対し軍事政事上の拠点なり。現下国策の重点は満洲国を完成し、ソ連の極東攻勢を断念せしむるにあり。ソ連の飛躍的発展に対し満洲国の防衛は危殆に瀕しつつあり。速やかにソ連の極東に使用し得る兵力に対抗し得る兵備を整え、とくに在極東兵力に対し開戦初頭一撃を加うるためバイカル以東の敵に対し少なくも八割の兵力を大陸に位置せしむるを要す。対ソ兵備の急速なる充実とともに、米国海軍に対し西太平洋の制海権を確保するに足る海軍力を保有することは満洲国完成のため絶対的要件なり。右両様の軍備を完からしむるためにも昭和維新の決行を要す。軍部としてはまず国家を強制し、その全能力を発揮して航空機工業を飛躍的に発展せしめ、かつ燃料問題を迅速に解決せしめざるべからず。北方の脅威去りたる後、実力をもって南洋および支那に対し積極的にわが国策を遂行す」
石原大佐の国策案は上官の賛同を得ましたが、兵力増強には予算が必要です。石原大佐は、満鮮八個師団態勢に必要な予算を積算してみました。すると十三億円が必要という結果が出ました。この金額は、国家予算が二十億円程度だった当時としては驚天動地の巨費です。大蔵省の官僚は、あまりの巨額な要求に苦り切ります。しかし、石原大佐は強気です。
「わたしは軍人として財政がどうであろうと、あなた方が困ろうと関係ない。国防上必要最小限度を要求するもので、この要求を満たすようにするのがあなた方の仕事であり、高橋是清大蔵大臣が出せないというのなら、出せる人が大臣になり、出せる方法を講じてもらうだけのことだ」
しかし、無いものは出てきません。結果、三個師団増強は思うようには進みませんでした。
石原大佐は、軍備増強と並行して日満の経済発展による国力の増強を企図します。しかしながら、この当時、国家の経済力を総合的に判断し、推進する機関が日本政府にも民間にも存在していませんでした。この事実を知った石原大佐は大いに驚くとともに、種々考究した結果、満鉄総裁松岡洋右の同意を得て、満鉄経済調査会東京駐在員の宮崎正義を招聘し、日満財政経済調査会を設立しました。当初は私的機関でした。参謀本部と満鉄がそれぞれ十万円の運営費を支出しました。宮崎正義は、メンバーを集めて研究に着手し、およそ一年後に兵備充実の基礎となる生産力拡充計画第一案を完成させます。
この頃、石原大佐は東京市内の借家に住んでいました。同居していたのは両親、妻のテイ、弟の六埌でした。仕事に出かけるときは両親の部屋の入口に立って「行ってきます」と言い、玄関で見送る妻と弟と女中に向かっておどけて見せたり、冗談を言ったりして笑わせてから出かけます。通常、夕方の四時か五時頃には帰宅しました。体調の悪い時にはテイに指圧をしてもらいます。指圧をすると幾分かは症状が和らぎます。石原は、器用に公私の区別をつける人で、家では仕事のことは一切語らず、至っておだやかに過ごし、軍人じみた大声を出すようなことはありませんでした。
昭和十年十二月、永田鉄山少将惨殺事件を起こして拘留中の相沢三郎中佐から面会の依頼がありました。相沢は、仙台幼年学校で石原の一年後輩でした。面識があったので会うことにしました。相沢は、陸軍戸山学校の剣術教官を務めるほどに銃剣術に優れ、体力抜群、純真素朴な好漢です。しかし、惜しむらくは皇道派の将官に懐柔されてしまい、教育総監だった真崎甚三郎大将を更迭した永田鉄山少将を殺害するよう使嗾され、ついにやってしまいました。石原大佐が面会すると、相沢中佐が言います。
「今後、日本陸軍の危機を救うことのできる人は石原さんのほかにはいません。青年将校のことを石原さんに頼みます。お願いします」
石原大佐は納得せず、むしろ誤りを指摘し、諭します。
「それが君たちの間違いなんだ。この石原に青年将校を頼むということが間違っている。君らのその考え方を改造することが、今日の陸軍にとって最も重要なことである。軍は天皇の統率し給うところのものである」
相沢中佐はしばらく沈黙し、やがて納得したように顔を上げ、石原大佐に特別弁護人を依頼しました。石原大佐は即座に引き受けました。特別弁護人になるためには軍職を退かねばなりませんが、石原大佐は果断です。
(よし、陸軍部内の軍閥を片っ端から全部えぐり出して大手術を施し、真の皇軍に建て直してやる)
ところが、数日が経過した頃、相沢の代理人を名乗る男が現れ、特別弁護人の依頼をとりやめると言ってきました。
(それならば、しかたがない)
石原大佐は本気で特別弁護人を引き受けるべく、上司にも相談していましたが、相沢から依頼を取り消されてはどうしようもありません。
年が明けて昭和十一年一月二十三日、いよいよ公判が始まる数日前、相沢三郎から来信があり、面会を要望してきました。石原が面会すると、相沢が予想外なことを言います。
「石原さんに弁護していただきたかった。それがわたしの唯一の願いだった。それなのになぜ弁護してくれなかったのですか」
相沢が恨みごとを言うので石原は驚嘆します。
「ちょっと待て、なんだ、君が代理人をよこして弁護を断ってきたのではないのか」
「いいえ、お断りした覚えはありません。代理人などよこしていません」
ふたりは顔を見合わせ、何事かを悟ります。しばらく沈黙した後、相沢が寂しげに話します。
「石原さん、聞いてください。わたしが事件を起こす前までは、わたしに向って何かと軍の不統一を憂い、国事を憂い、真実らしいことを言っていた偉い人たちが幾人もいました。しかし、わたしが事件を起こしてから後は、用事もあり、相談したいこともあるので、手紙を何回も出しましたが、面会はもちろん、返事もくれない人たちが多いのです。こうして面会に来てくれる人は石原さんだけです」
翌二十四日付の石原莞爾の日記には、
「朝、後宮少将と相沢の件談合」
とあります。後宮淳少将は陸軍省人事局長です。石原大佐は、特別弁護人になることを相談したらしく思われます。
一月二十八日から公判が始まりました。石原大佐は公判を傍聴しました。公判では橋本虎之助中将、林銑十郎大将などの喚問が行われ、二月二十五日には真崎甚三郎大将が喚問されました。しかし、これら陸軍の要人たちは、
「職務として関与したものであるから勅許を待たずしては証言できない」
と主張して、肝心の点について証言を拒否しました。そこで弁護側は勅許奏請の手続きをとることとしました。勅許が下りれば、真崎甚三郎大将らは証言を拒否できません。そして、昭和十一年二月二十六日を迎えます。
その日、午前七時頃、石原家の電話が鳴りました。鈴木貞一大佐からの急報です。
「歩兵第三連隊が陸軍省と参謀本部を占拠している。また、総理大臣と教育総監が殺されたらしい」
尋常ではない事態です。石原大佐は参謀本部に電話を入れてみましたが、応答がありません。やむを得ず、課員の武藤章中佐宅に電話して状況を伝えました。
「いま電話で知らせてきたが、歩兵第三連隊の一中隊ほどが参謀本部と陸軍省を占領し、総理大臣と教育総監が殺されたそうだ。そちらには何か知らせがないか。こっちから役所に電話したが通じない」
そのあと、石原莞爾大佐は両親に挨拶もせず、妻や女中に冗談も言わずに出かけました。この日、雪が降っています。参謀本部に向かうと、途中、安藤輝三大尉の部隊が銃を構えて哨戒線を張っていました。安藤大尉の率いる部隊は、早朝、鈴木貫太郎侍従長邸を襲い、鈴木侍従長に重傷を負わせていました。兵士たちは容赦なく銃口を石原大佐に向け、引き金に指を掛けています。安藤大尉が忠告します。
「大佐殿、今日はこのまま、お帰りいただきたい」
「何を言うか!」
大喝一声した石原大佐は、さらに言います。
「陛下の軍隊を私するとは何事だ。不届き千万な奴だ。この石原を殺したかったら、卑怯な真似をするな。キサマが直接キサマの手で俺を殺せ。かりにも兵隊の手を借りて、人殺しをするなど卑怯千万である」
石原大佐が安藤大尉を怒鳴りつけると、皆が肝を吞まれ、手出しできなくなりました。石原大佐は悠々と参謀本部の作戦課長室に入ります。そして、参謀次長杉山元中将に電話をかけ、
「閣下、すぐに戒厳令を布かれるといいと思います」
と意見具申し、参謀本部内を眺めまわしてから出ていきました。事件の様子を見て歩くためです。
この二・二六事件は、皇道派に属する陸軍の現役将校と民間人が昭和維新を唱え、「君側の奸を除く」ためと称し、在京部隊の将兵千四百数十名を私的に動員して、複数の政府要人を襲撃したうえ、帝都中枢部を占拠したものです。しかしながら、当日の朝の段階では陸軍中枢は混乱の極にあり、まずは事態の把握が急務です。
やがて、事態が明らかになりましたが、それでもなお、陸軍の対応は右往左往しました。その理由は派閥です。皇道派の将官は反乱軍に同情的であり、統制派の将官は厳しい処分を要求しました。これでは方針が定まりません。
午前六時頃、反乱部隊の香田清貞大尉、丹生誠忠中尉、村中孝次、磯部浅一らが陸相官邸に乗り込み、川島義之陸相に面談しています。そして、香田大尉が「蹶起趣意書」を読み上げるとともに、陸軍要路を陸相官邸に招致するよう要求しました。川島陸相は皇道派に属していませんでしたが、それでも皇道派の勢力を無視できず、要求に従います。こうして皇道派の将官が陸相官邸に集められました。
このとき石原莞爾大佐は陸相官邸の玄関で真崎甚三郎大将と会っています。石原大佐は皮肉を言いました。
「お体はもうよいのですか。お体の悪い人がエライ早いご出勤ですね、ここまで来たのも自業自得ですよ」
すると、真崎大将は生真面目に応えました。
「朝呼ばれたのだから、まあ何とか早く纏めなければいかぬ」
石原大佐は磯部浅一にも一喝を浴びせました。
「何が維新だ。何も知らない下士官兵を巻き込んで。維新がやりたかったら自分たちだけでやれ」
これに対して磯部が、
「大佐殿と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか」
と問いました。石原大佐は、
「俺にはよくわからん。俺の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ。こんなことはすぐやめろ、やめねば軍旗をもって討伐するぞ」
と大喝しました。
午前九時頃、皇道派の将官たちに促された川島陸相は参内し、委細を奏上しました。昭和天皇は、
「速やかに事件を鎮圧せよ」
と仰せになりました。軍首脳および軍事参議官らは宮中に集まり、対応を議論します。意見は硬軟両論に割れました。荒木貞夫大将や真崎甚三郎大将らは反乱軍を擁護し、説得のうえ原隊復帰させることを主張します。杉山参謀次長に随行して参内した石原莞爾大佐は強硬意見を主張しました。その際、荒木と真崎の両大将を面罵しました。
「こんなバカ大将がおって勝手な真似をするもんだから、こんなことになるんです」
この暴言に荒木大将が反駁します。
「上官に対しバカ大将とは何か。軍紀上、許せない」
「軍隊がこんなザマになって何が軍紀ですか」
これには両大将とも返す言葉がありません。石原大佐は、事件が全国的に飛び火することを恐れ、全土に戒厳令を布くよう川島陸相に進言しました。これに対して陸軍上層部は「皇軍相撃つ」の悲劇を回避するため、あくまでも説得して原隊復帰させる考えが大勢を占めました。
二月二十七日午前三時、戒厳令が施行され、九段の軍人会館に戒厳司令部が置かれました。戒厳司令官は香椎浩平中将、戒厳参謀は石原莞爾大佐です。皇道派の香椎戒厳司令官は反乱軍の心情を汲み、戒厳司令官室に村中孝次を呼び入れて説得を試みました。そこへ石原大佐が入室しました。それまでしきりに話していた村中が黙ります。しかし、石原大佐が退室する様子もなく椅子に座っているので、村中が再び香椎戒厳司令官に話します。
「われわれを忠義の臣として認めてください。われわれは決して私利私欲のために起ったのではありません。昭和維新のためです。困窮する農民を救うためです」
これに対して香椎戒厳司令官は、のらりくらりと煮え切らぬ返答をし、少しも埒が明きません。見かねた石原大佐が口をはさみました。
「おい、村中、すぐに帰れ、わしは戒厳参謀として貴様を逮捕すべきところだが、ここは武士の情けで見逃してやろう」
村中孝次は、しばらく黙っていましたが、そのまま出て行きました。
事態は、昭和天皇が鎮圧の御意思を示されたことに加え、真崎甚三郎大将らが反乱軍将校らを説得したことから鎮静化に向かうかに見えました。しかしながら、陸軍中央は討伐か説得かで迷い、反乱軍将校らは自決か投降かで去就に迷います。
二月二十八日午後四時、戒厳司令部はついに武力鎮圧を表明し、反乱軍を包囲しました。これに対して反乱軍も抵抗の意思を示したため、緊張が高まりました。
二月二十九日、午前八時半、攻撃開始命令が下されました。同時に、反乱軍に対する投降勧告がラジオ放送とビラ散布によって実施されました。さらに、反乱軍の直属上官が直接に説得しました。この一連の説得が功を奏し、反乱軍の将校は投降し、下士官兵は原隊復帰して、午後五時に事件は収束しました。
石原大佐が帰宅したのは二十九日の晩です。
「他の連中はまだ残っているが、私は体の具合がよくないので帰ってきたのだ」
弟の六埌に言うと二階に上がり、妻のテイに指圧をしてもらいました。二・二六事件の間、石原大佐はほとんど寝ていませんでした。
翌三月一日、石原大佐はいつもの時間に出勤すると、昼過ぎ頃に帰宅しました。あまりに帰りが早いので、弟の六埌が、
「早いね」
と言うと、
「うん、辞表を出してきた」
と事もなげに言います。六埌は内心おどろきましたが、それ以上は尋ねませんでした。しばらくすると、電話が鳴りました。相手は参謀本部作戦課員の武藤章中佐です。
「石原さん、あなたは辞表を出して帰られたそうですが、あなた一人が一身を潔くしたってしかたないでしょう」
そう言われた石原大佐は、軍務中に出すような大声を出しました。
「馬鹿なことを言うな、武藤君。わたしは何も自分の一身を潔くしようなどという気持ちではないのだ。この際、中央にいる課長以上の者は全部、責任をとって現役を退けというんだ」
そのあと石原大佐は聞き役に回り、「うん、うん」と応答していました。やがて、武藤中佐が、
「中央にいる将官が全部やめたら、部長になる者がいなくなるじゃありませんか」
と言うと、石原大佐は声を荒げました。
「今の将官なんか一人も要らない。部長も大佐で沢山だ。たとえ軍閥でなくとも、部課長以上の者は責任を痛感すべきだ。わたしも責任の重大を思い、軍人をやめようと決意して辞職願を出したんだ」
結局、石原大佐の辞表は受理されませんでした。
二・二六事件の結果、陸軍内の皇道派は粛清されました。また、二・二六事件の裁判だけでなく相沢事件の公判も秘密裁判となり、事件の首謀者は死刑に処されました。これらの裁判について、石原莞爾は後に同期の横山臣平に語っています。
「軍法会議の結果は、相沢事件でもそうだったが、直接事件を起こした若い将校だけが処刑され、これを煽動した軍閥の大物や、争いの原因となった軍閥は、こんなときになると天皇の軍人になりすまして、その陰に隠れてしまった。これが陸軍の癌だ。たとえ軍閥でなくとも、部課長以上の者は責任を痛感すべきだ。俺も責任の重大を思い、軍人をやめようと決意して辞職願を出したが、許されなかった」
二・二六事件の後、軍事費が増額されました。高橋是清大蔵大臣が二・二六事件によって殺害されてしまったことが影響したようです。結果、かねてから石原大佐が求めていた関東軍の三個師団増設などの予算が認可されました。
石原莞爾の同期である平林盛人大佐は、事件直後の三月七日、第六師団参謀長に任命され、満洲のチチハルに赴任することとなりました。赴任前、平林大佐は参謀本部に顔を出し、石原大佐にも挨拶しました。すると石原大佐は一片の紙片を手渡しつつ、言いました。
「これが対満方針だ」
それによると、満洲防衛のために三十億円を捻出し、その大部分を飛行隊の増設に使用すると書かれています。平林大佐はその額の巨大さに驚きました。
石原莞爾大佐は、三月十二日、時局対策とする文書のなかに次のように書いています。
「二・二六事件に関する対策中、速やかに確立を要するもの以下の如し。対ソ国防の確立、満洲国経営の促進、軍隊教育の革新。軍部は国政一新すなわち昭和維新の必然性を確認し、積極的にその任務に邁進し、もってこれが先駆けたるべし。昭和維新とは西洋流の個人主義、自由主義、功利主義より全体主義、日本主義、国体主義への躍進をいう」
今日の私どもにとって「昭和維新」の概念を理解することは、必ずしも容易ではありません。おそらくは大正期以降の政党政治がもたらした経済失政と農村の困窮に対する代替策としての復古主義であり、同時に、戦争形態の進化に応ずるための国家総動員態勢の構築こそが石原大佐にとっての眼目だったように思われます。二・二六事件の首謀者たる磯部浅一に対して石原大佐が発した「軍備と国力を充実させればそれが維新になる」という言葉こそ、石原大佐の考えを端的に表しているようです。
将来の戦争では国土や国民が巻き込まれる総力戦が起こると予想している石原莞爾大佐は、戦争指導の必要性を説きました。従来の戦争においては作戦指導によって軍隊の作戦行動を制御すれば足りました。開戦前には第一次会戦の戦術を完整させておき、第一次会戦が終わった後に第二次会戦の戦術を立案します。しかし、来るべき戦争ではそれでは不足であると石原大佐は考えます。軍隊の作戦行動のみならず、国民や産業界や行政機関までも含めた戦争指導が必要になる。よって参謀本部に戦争指導課を設置すべきだと主張しました。
昭和十一年六月、石原大佐の献策が採用され、参謀本部作戦部内に戦争指導課が設置され、初代課長に石原莞爾大佐が任命されました。これにより作戦部の構成は、第一課(総務)、第二課(戦争指導)、第三課(作戦)となりました。戦争指導課は、長期にわたる戦争を勝利に導くため、軍事的な攻勢終末点について明確な見解を保持し、あわせて産業や財政や交通なども包含する周到な戦争指導計画を立案します。石原大佐の六月十二日付のメモには次の記述があります。
「戦争指導計画大綱の樹立。まず対ソ戦争より開始せらるる場合を基礎として計画す。次いで対支戦争を開始せられたる場合を研究すべし」
六月二十日の石原大佐のメモには満洲国に関する要望が書かれています。
「戦争準備のため満洲における産業の飛躍的発展を要望す。日満支を範囲とし、戦争持久に必要なる産業の開発。対ソ作戦一段落を告げたる以後において戦争自給に必要なる軍需品は満洲において生産し得るに至らしむるを目途とす。北満に大量日本農民を移住せしむ」
六月三十日、戦争指導課は「国防国策大綱」を策定しました。これは大胆かつ壮大な戦争計画です。
「東亜に加わるべき白人の圧迫を排除する実力を要す。英米ソの圧迫に対抗するためには所要の兵備、特に航空兵力を充実するとともに日満支を範囲とし戦争を持久し得る準備を完了すること肝要なり。まずソ連の屈服に全力を傾注す。しかして戦争持久の準備について欠くるところ多き英米、少なくも米国との親善関係を保持するにあらざれば対ソ戦争の実行は至難なり。兵備充実と戦争持久の準備おおむね完了せば、ソ連の極東攻勢政策を断念せしむるため積極的工作を開始し、迅速に目的の達成を期す。戦争に至らずしてわが目的を達成することは最も希望するところなり。ソ連屈服せば、これと親善関係を結び進んで英国の東亜における勢力を駆逐す。好機をとらえ実力をもって東亜における根拠地を奪取し、一挙被圧迫東亜諸民族を独立せしめ、かつニューギニア、豪州、ニュージーランドをわが領土とす。この際、米国の参戦を覚悟すといえどもなしえる限り、その中立を維持せしむることに努力す。日支親善は東亜経営の核心にして支那の新建設は我が国の天職なり。しかれども白人の圧迫に対し十分なる実力なくしてその実現は至難なり。日満支を範囲とする戦争持久の準備が成り、ソ連を屈服せば、堂々積極的工作を開始す。ソ英を屈服せば、日支親善の基礎はじめて堅し。すなわち東亜諸国を指導し、これと協同して実力の飛躍的進展を策し、ついで来るべき米国との大決勝戦に備える」
まことに稀有壮大な構想です。今日の私どもからすると誇大妄想のような戦争計画ですが、当時の世界情勢からすれば必ずしも妄想ではありませんでした。そもそもアジアに独立国は日本帝国とタイ王国しかなかった帝国主義時代です。しかも、タイは英仏植民地の緩衝地帯として独立が許されていたに過ぎません。それ以外のアジア地域はことごとく欧米列強の植民地です。そして、当時の日本は、欧米白人国家の桎梏と圧政からアジアを開放せねばならないという使命感を有していました。要するに幕末維新の緊張感をなお保っていたのが戦前の日本です。欧米列強はアジアを侵略していましたが、アジアに大兵力を常備していたわけではなく、日本にはそれなりに地の利がありました。大東亜戦争の結果、完膚なきまでに敗北して緊張感をすっかり失った戦後の日本人には理解も想像もなし難いことですが、この点を理解しない限り、戦前の日本や石原莞爾の戦争構想を理解することはできません。日満支の提携によって一大経済圏を築き、その国力と兵備によってまずソ連を挫き、ついで英国を駆逐し、ついにはアメリカと決戦するというのが石原の戦争構想です。
七月二十九日、戦争指導課は「戦争準備計画方針」を策定します。同方針は対ソ戦争の準備としての産業開発を実現する必要を論じ、五年間の平和維持を求めています。
「昭和十六年までを期間とし対ソ戦争準備を整う。兵備充実とくに空軍の飛躍的発展と在満兵備の充実を図る。日満支を範囲とする戦争持久に必要なる産業の大発展、とくに満洲国の急速なる開発を行い、攻勢終末点進出後における軍需品は大陸において生産し得るに至らしむ。政治および経済機構に所要の改革を行い、あわせて爾後における根本改革の準備を成す。右期間、外交により平和の維持に努め、開戦のやむなきにおいても英米少なくも米より軍需品の供給を可能ならしめることに努力す」
八月、戦争指導課は「対ソ戦争指導計画大綱」を策定します。
「日満両国に対するソ連武力の脅威を排除するにあり。ソ連のみを敵とすることに全幅の努力を払う。戦争初頭における軍事的大成功はこれがためにも肝要なり。開戦とともに在極東の敵を覆滅して所要の彊城を占領し、爾後、主として飛行機部隊および蒙古人、白系ロシア人等による敵後方の擾乱、さらに進んでソ連本国内に動乱を誘発せしめ敵を屈服せしむ。英米の中立を維持せしむるためにも支那との開戦を避けることきわめて肝要なり。
米英との開戦は戦争を至難ならしむ。しかれども万一全般の形勢不利にして交戦のやむなきに至らば、極東に遍在する我が国の地位を利用して断固として戦いを継続す。これがため日満支を範囲とし、戦争の持久を図るため速やかに準備を成さざるべからず」
このように戦争指導課は石原莞爾課長の指導のもと、矢継ぎ早に対ソ戦争計画を立案しました。同時期、宮崎正義を中心とする日満財政経済調査会は「満洲産業開発五カ年計画」の第一案を策定しました。その内容は、自動車、飛行機、鉄、石炭を中心とする二十二億円規模の開発計画です。しかし、石原大佐が「規模が小さい」と指摘したため、同調査会はさらなる検討を続けることになりました。また、宮崎正義は同計画案の基礎条件として少なくとも十年間の平和を必要とするとしました。このため石原大佐は、以後、「十年不戦」を基本方針としました。
対ソ戦争計画を概成させた戦争指導課は、九月以降、対支戦争計画の検討に移ります。九月一日のメモには次のような情勢判断が記されています。
「近き将来において皇国は名実伴う東亜の盟主たらざるべからず。これがため国内改革と相まちて弱小諸民族を抱擁し、幇助し、彼らをして皇国の真の姿を知らしめ、皇国を賛仰せしむるに足る仁愛侠義の政策を実行せざるべからず。半法治たる支那国について、軍政権を支持しおもむろに東亜民族の分裂を策する欧米の野望を考察することの足らざることなきや。欧米の恐るるところは日本のいわゆる対支仁愛政策にして、欧米の最も希望するところは民族相鬩ぐ日本の圧迫政策なり。我が対支政策は日本的独我心を排除し、日本的利益のみに終始する小乗的諸工作を一掃すべきなり。これをもって皇国、満洲、北支における理想の実現こそ対支政策の根源なるべく、この理想実現なくして強制圧迫政策のごときは意義なきを知るべし。いま対支戦争を開始するとせば彼我の形勢すこぶる不利といわざるべからず。対ソ戦争は英米の好意を有せざれば不可能に近し。英米との関係良好なる場合、対ソ戦争行わるるも支那の向背は我に対し決定的ならず。以上より、対支政策の根源は、満洲国の王道楽土的建設、日本民族の仁愛侠義の道徳的政策、報復を要求するがごとき打算政策の打破、支那をめぐる欧米勢力の撃滅準備、これなり」
石原大佐は支那との提携を最重要視しており、利権主義を捨てて協和主義を推進するよう求めていることがわかります。
昭和十一年十月から参謀次長西尾寿造中将による軍事学の御進講が始まりました。石原大佐は西尾中将に随行し、補助官として侍立し、持論である最終戦争論、フリードリヒ大王の持久戦争、ナポレオンの決戦戦争などについて御進講しました。このことについて石原大佐は同期の横山臣平大佐に次のように語りました。
「天皇が正しい軍事能力を有しておられないで、万一、戦争が起こった場合、軍閥どもに統帥権を握られて何をされてもおわかりにならないようなことになったら、それこそ一大事である。これは第一次大戦のとき、ドイツのカイゼルが戦争大局の判断を誤って、統率上に大きい欠陥を招いた過去の先例から見ても、わが天皇陛下におかせられては特に戦争学の御研究が肝要である。それだけではなく、軍人はもちろんだが、政治家には特に軍事学の研究が大切である。欧米諸国に比べ、わが一般国民は元より政治家でも軍事知識は低級で、戦史の研究に関心が薄い。これからは一般国民の中から軍事学者が出るようにならなければダメだ」
石原莞爾のこの見解は、今日においても変わらぬ真理と言ってよいでしょう。御進講は、毎月一回、昭和十二年五月まで続きます。
昭和十一年十一月、戦争指導課長石原莞爾大佐は、満洲国および中華民国への出張を命ぜられ、ほぼ一ヶ月にわたって満洲と支那を視察してまわることになりました。出張目的は、現場の状況を視察するとともに、「十年不戦」という参謀本部の方針を関東軍および支那駐屯軍に伝達し、かねてより実施されている内蒙工作と北支工作において無理な策謀を行わないように注意を促すためです。
およそ五年ぶりに石原大佐は満洲の地を踏み、新京飛行場から関東軍司令部に向かいました。この頃、関東軍司令官は植田謙吉大将、参謀長は板垣征四郎少将、参謀副長は今村均少将です。また、二・二六事件の直後、辞表の件で激論を交わした武藤章大佐も関東軍司令部参謀です。参謀長官舎に板垣少将をはじめとする参謀六名ほどが集合して石原大佐を出迎えました。形式どおりの挨拶の後、石原大佐が口を開きます。
「諸官らの企図している内蒙工作は、まったく中央の意図に反する。幾度か訓電を発したが、いいかげんな返事ばかりで一向に中止しない。大臣、総長は、ことごとくこれを不満とし、よく中央の意思を徹底諒解せしめよとのことで、わたしはやってきました」
内蒙工作とは、内モンゴルへの共産主義の浸透を予防するために関東軍が進めている工作です。関東軍は内モンゴル独立運動の指導者である徳王を支援していました。そして、この工作を推進していたのは板垣征四郎中将、武藤章大佐、田中隆吉中佐です。石原大佐の発言が終わると、武藤大佐が真正面からぶしつけな質問をしました。
「石原さん、それは上司の言いつけを伝える表面だけの口上ですか。それともあなた自身の本心ですか」
これには石原大佐が声を荒げます。
「武藤君、何を言うのだ。僕自身、内蒙工作には大反対だ。満洲国の建設がやっと緒につきかけているときに内蒙などで日ソ間あるいは日支間のゴタゴタを起こしてみたまえ、大変なことになるぐらいのことは常識でわかるだろう」
武藤大佐は引き下がりません。
「本気でそうおっしゃるとは驚きました。わたしは、あなたが満洲事変で大活躍された時分、この席におられる今村副長と一緒に参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動を見ており、大いに感心したものです。そのあなたの為された行動を見習って、それを内蒙で実行しているのです」
そう言うと武藤大佐と若い参謀たちが哄笑しました。顔色を失ったのは石原大佐です。見事に一本とられ、返す言葉もありません。石原大佐は、かつて共に満洲事変を推進した板垣中将に顔を向けましたが、板垣中将は無言です。座は白けてしまいました。助け舟を出したのは今村参謀副長です。
「参謀長、いかがでしょう。もう夕食の時間です。これから食事にして、参謀総長殿下の御意思は、明日、参謀長とわたしとで軍司令官室で承ることにし、今夜は懇談ということにしては」
「そうだね。そうしよう。その方が堅苦しくなくていいだろう。諸君、食堂へ移ろう」
翌日、植田軍司令官室において、植田軍司令官、板垣参謀長、今村参謀副長が列席し、石原大佐が参謀本部の意向を伝達しました。
この後、石原大佐は、満洲事変の同志だった板垣征四郎中将とふたりだけで会い、忠告します。
「二度と柳の下に泥鰌はいない。日本としては満洲を固めていくよりほかに道はない。満洲さえ立派に整っていけば、おのずから北支はついてくる。いわゆる、桃李もの言わざれども下おのずから蹊を成す、という具合に自然に徳化していくことができる。だから、いま北支や蒙古に小細工をやったりすることは最も愚策である」
しかし、板垣中将は同意しませんでした。実のところ、まさにこの時期、内モンゴルでは関東軍の支援を受けた徳王軍が中華民国軍と攻防を繰り広げていました。この工作はやがて失敗し、綏遠事件として知られることとなります。しかし、この時点では板垣中将としては黙り込むしかありませんでした。
その翌日、石原大佐は新京飛行場から北支に飛びました。それを見送った今村均少将は、回顧録に次のように書いています。
「出迎えた時とは、まるで別の人のように、寂しそうな顔つきをしていた」
石原莞爾の悄然たる表情が何を意味していたのかは興味深いところです。単に体調が悪かったのかもしれません。さもなければ、武藤大佐に一本とられたことが心痛だったのでしょうか。しかし、それだけのことなら、いくらでも反論が可能でした。
「満洲事変の時は戦争を抑止しようとしていたキサマが、いまでは俺の猿真似をして戦争を起こそうとするのか」
しかし、こんな屁理屈を言ってみても無意味です。あるいは板垣中将の同意を得られなかったことに失望したのかもしれません。しかし、植田軍司令官には参謀総長の意思を十分に伝えることができたし、関東軍が内蒙工作を進めたからといって必ずしも大事が起きるとは限りません。または、満洲における協和主義の衰退と権益主義の勃興を見て、東亜連盟構想の前途を悲観したのかもしれません。さらに想像をたくましくするならば、石原莞爾の傷心は、「天才の孤独」だったかもしれません。既に述べたとおり、石原は若いころから万巻の書を読み、長い考究を続けることでひとつの世界観と戦争観に達し、そこから得た結論を根拠に満洲事変を起こしました。確かに満洲事変当時の石原の言動は下剋上的であり、反逆的でもありました。日本政府と陸軍中央の鼻面をとって引き回し、世界を驚かせたのです。しかし、本質はそこではありません。石原にとっての本質は、やがてくる世界最終戦争に勝ち抜くために満洲をとり、協和主義の善政を布いて支那人を帰順させ、日満支の東亜連盟を構築して自給自足可能な不敗の態勢を築くことでした。この世界観と戦争観を誰とも共有することができず、本質から外れたところの言行だけが模倣されるという切ない孤独感だったように思われます。要するに、誰からも理解してもらえないという現実です。しかしながら、すでに始めてしまった以上、石原は最後までやり遂げるしかありません。
石原大佐は、天津の支那駐屯軍司令部において参謀総長の御意思を軍司令官に伝達し、北支の状況を視察しました。北支における日本側の華北分離工作は必ずしもうまくいっておらず、これに加えて内モンゴルにおける綏遠事件の失敗により、むしろ支那人の抗日意識が強まっていました。何もかも意に反する状況の中、ひとつの朗報が石原大佐のもとに届きます。
支那側から接触があり、交通大学北平鉄道管理学院の鮑明鈴教授と会談することとなりました。石原大佐は東亜連盟構想を説明します。
「白色人種国家の侵略に対して東亜の天地を守るためには、どうしても満洲国が必要であります。日満支は、それぞれ政治的には独立し、内政干渉せず、共存共栄を図って経済的な一体化を図ります。日満支の各民族が互いにその文化を尊重し、道義を中心とする東洋新文化を創造し、西洋文明をも総合して人類最高の文明を完成するのです。満洲国の独立は貴国にとってはまことに遺憾でありましょうが、東亜連盟構想への道程という意味において認めていただきたい」
鮑明鈴は、石原大佐の誠意を感じるとともに、高邁な識見と大胆な方略に度肝を抜かれました。
「日本の軍人からこんな話を聞かされようとは思わなかった。諸葛孔明が天下三分の計なら、あなたは東亜合一の計だ」
鮑明鈴は直ちに蒋介石に電話し、会談の内容を伝えました。すると蒋介石は、
「石原大佐の意見には国民党幹部は全面的に賛成である」
と返事をしました。鮑明鈴からそのように伝えられた石原大佐は、東亜連盟構想に不動の確信を持って帰国の途につきました。
石原莞爾大佐が出張を終えて帰国したのは昭和十一年十二月八日です。その直後の十二月十二日、支那で西安事件が起こります。この事件は、蒋介石の配下にあって中国共産党討伐の総司令官だった張学良の裏切りです。張学良は中国共産党とコミンテルンに寝返り、督戦のため西安に来訪した蒋介石を捕らえて監禁し、蒋介石に対して国共合作と徹底抗日を強要しました。このとき毛沢東は「蒋介石を殺すべきだ」と主張しましたが、スターリンはこれを許さず、「生かして利用せよ」と命じました。結果、蒋介石は多額の身代金を支払わされ、国共合作と徹底抗日を約束させられ、以後、コミンテルンの監視下に置かれてしまいます。蒋介石は北伐に勝利して支那を統一したものの、その得意の絶頂期に謀略に遭い、あっけなく共産主義に屈してしまいました。
二十一世紀の今日から歴史を俯瞰すれば、西安事件によって蒋介石がコミンテルンの軍門に降ったため、日支間に紛争の発生することは避けられず、石原莞爾の東亜連盟構想と「十年不戦」方針は破綻してしまい、極東の赤化も確実になったと言えます。これ以後、支那大陸四億の民衆は、オセロゲームのコマが色を変えたように反日、抗日、侮日を叫びます。歴史上、これほど成功した謀略も珍しいと言えます。一国の元首を人質とし、傀儡とし、長年にわたって操り続けたのです。コミンテルンの見事な手腕というしかありません。
しかしながら、当時の人々は、これが歴史の分岐点になるとは必ずしも思いませんでした。西安事件は、世界中が注目する大事件として報道されましたが、その結果が何をもたらすかは不明でした。そのような状況下、コミンテルンのスパイである尾崎秀実は、蒋介石が生存していることや抗日統一民族戦線が結成されることなどを正確に予想する記事を書き、世の注目を集め、近衛文麿内閣のブレーンに招かれます。尾崎秀実にしてみればコミンテルン内の情報を素直に書いたにすぎませんが、世間は尾崎秀実を優れた支那論者と認識しました。この点、日本の防諜機関は脇が甘かったと言わざるを得ません。
石原莞爾大佐は昭和十二年一月六日付の報告のなかで、西安事件によって支那では内戦反対と国内統一の機運が強く醸成されるであろうと予想しています。そして、その機運を正当な新支那建設の運動に転化しうると考え、従来の東亜連盟構想をなお維持すべきだとしています。
「抗日人民戦線の実体は正当なる新支那建設運動に転化せらるべき多大の期待を有するにあり。これを新支那建設運動に転化しむる一大動因は実に帝国が従来の帝国主義的侵寇政策を放棄し、純正大和民族としての誠心を同策に反映せしむることに依りて決す。かくのごとき事態に立ち至り日支現下の尖鋭深刻状態を正道に入らしめなば、必然、帝国国是たる日支提携、特に日支経済提携の実手段を要望せざるを得ざるに至るべし」
要するに、日本が帝国主義的対支政策と権益主義的対満政策をやめ、協和主義に徹すれば支那との提携が可能であるという石原大佐の従来どおり持論です。後世よりみれば、この石原大佐の判断は多分に希望的観測だったと言わざるを得ません。
長期出張から帰国した石原大佐は、この他にもいくつかの報告と提言を昭和十二年一月中に書いています。
一月六日、帝国外交方針の改正に関する意見として、次のような事項を要望しています。
「帝国は東亜の保護指導者たるの地位を永久に確立するを以て対世界外交方針の根基とす。帝国が東亜における安定勢力たるの実を挙ぐるは満洲国を真の王道楽土たらしむるを以て第一義とす。日支親善は東亜経営の革新なり」
同じく一月六日、対支実行策改正意見では東亜連盟の形成を論じています。
「対支政策の目的は漢民族伝統の精神を復活せしめ彼らの悩める所を正確に認識し、その病根を帝国の力に依りて救済し、以って真の善隣関係に導き、日満支提携に至らしむるにあり。支那をして東亜連盟の理想と満洲建国の意義を諒解せしむるを以て日支国交調整の根本方針とす」
一月七日付で参謀本部作戦部長心得となった石原大佐は、一月十二日、対ソ戦備と満洲国経済発展のため、兵器関連工業を満洲に移駐すべきだとの要望を提出しています。
「戦争指導上の必要と満洲国の経済的価値とに照応し、速やかに帝国の飛行機および兵器工業を満洲に推進し、急速に帝国の大陸戦備を促進す。昭和十六年までに実現せしむるべき満洲における最小限度の戦時生産能力(年産)は、飛行機三千機、戦車・特殊車両三千両とす」
一月十八日には陸軍大臣の入閣条件を論じた文章の中で次のように書いています。
「戦争遂行の基礎を確立するため昭和十六年までに日満を範囲とする自給自足経済を完成す。航空機工業は遅くとも五年以内において世界の水準を突破せしむ」
石原大佐が航空機をいかに重視していたかがわかりますが、一月十九日にも同様の文章を書いています。
「陸軍機製作力の主力を満洲に施設することは作戦上絶対的の要求なり。数年後には我が航空機製作技術をして世界の水準を突破せしむべきを以て、我が航空機の海外輸出に十二分の可能性ありと謂うを得べし」
航空機の海外輸出に言及しているあたり、石原大佐がいかに航空と経済を重視していたかがわかります。
一月二十五日には参謀本部から陸軍省に対する対支政策の要望について次のように述べています。
「帝国は日満を範囲とする自給自足経済を確立し、戦争準備の完了を期す。支那の統一運動に対し帝国はあくまで公正なる態度を以て臨む。日支経済諸工作は一大奮起を要し、あらゆる手段を尽くして真に互助共栄を目的とする工作に邁進す」
石原大佐は、あくまでも支那との衝突を避けようとしていたことがわかります。ただ、万一、日支間の調整がうまくいかなかった場合のことも書かれています。
「日支関係調整せられず、さらに悪化し、真にやむを得ざるに立ち至るがごとき場合は、十分隠忍したるのち徹底的痛撃を与うるの準備にあること」
参謀本部内には、表立って石原莞爾大佐に反対する意見は上にも下にもありませんでした。石原大佐の言説は参謀本部を圧倒し、かつ浸透し、すべてが石原大佐の構想によって進んでいるかのように見えました。




