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仙台歩兵第四連隊長

 昭和七年八月八日、陸軍の人事異動が発表されました。これにより関東軍司令部の人事が大幅に代わりました。本庄繁軍司令官は軍事参議官となり、板垣征四郎高級参謀は少将に昇進して関東軍司令部付き満州国執政顧問となり、石原莞爾作戦参謀は大佐に昇進して陸軍兵器廠付きとなりました。いずれも栄転とは言えず、通常の異動です。そして、新しい関東軍司令官には武藤信義大将が任命され、参謀長は小磯国昭中将となりました。

 これより前、石原中佐は辞職願を提出していました。柳条溝事件の謀略や数々の下剋上的言動について反省するところがあったようです。しかし、この辞職願は握りつぶされました。

 八月十七日、大佐となった石原莞爾は帰国のため新京飛行場へ向かいました。飛行場には多くの満洲要人が見送りに来ていましたが、石原大佐は軍人や官僚には目もくれず、長春花街の芸者連中のところへ歩み寄り、握手して言いました。

「君たちにはえらく世話になった。身体を大切にしたまえ」

 石原自身は酒も煙草も口にせず、芸者の出る宴会には出席しない男でした。この石原の奇矯な行動は、連夜のように宴会で芸者を侍らせている軍人や官僚に対する皮肉だったようです。板垣少将はこれを見てつぶやきました。

「奴は確かに離れ業の名人だ」

 石原大佐は満洲を離れるに際し、次のような懸念を言い残しました。

「今後の満洲は果たして自分の考えどおり五族協和の王道楽土の理想郷に成育、発展するだろうか」

 この懸念は、残念ながら的中してしまいます。

 本庄繁中将は、満洲各地を巡回して離任のあいさつをし、武藤信義軍司令官に申し継ぎをして、九月四日に帰国しました。そして、同月八日に昭和天皇に拝謁しました。その際、昭和天皇から次のような御下問がありました。

「柳条溝事件は関東軍の陰謀であるという噂を聞くが、真相はどうか」

 これに対して本庄中将は、

「関東軍並びに司令官である自分は絶対に謀略はやっておりませぬ」

 と申し上げました。板垣と石原の謀略を知らなかった本庄中将の言葉に嘘はありません。

「そうか、それならよかった」

 というのが昭和天皇のお言葉でした。

 満洲事変は、日支双方の様々な主体のいろんな思惑が入り乱れ、必然と偶然が複雑に絡み合うなかで紆余曲折を経て満洲国の建国へと至りました。その詳細は先述したとおりです。板垣と石原の謀略によってスラスラと事が運んだわけでは決してありません。むしろ、柳条溝事件以後の推移は本庄軍司令官の決断に負うところが大きく、本庄中将こそが満洲事変の主役だったとさえ言えます。そして、わずか半年ほどで満洲に新国家が誕生しました。

 満洲国という新国家が極東の地に忽然と姿を現したことは世界的事件です。ソ連は北満の権益を失いました。ソ連だけではなく、英米仏などの列国も満洲権益を失いました。以後、日本が列強諸国から非難を浴びることは必然です。そして、最大の被害者ともいえる蒋介石は満洲問題を国際連盟に提訴し、列強の注目を極東に集めるため第一次上海事件を起こしました。国際連盟はリットン調査団を派遣し、そのリットン報告書が国際連盟の議題となっていきます。

 満洲事変は日本の政治にも画期をもたらしました。経済失政を繰り返したために国民の支持を失いつつあった政党政治がますます退潮し、政府の外交方針が国際協調主義から自主外交路線へと転換しました。

 満洲事変の理論的支柱となった石原莞爾著「戦争史大観」に列強諸国は注目したに違いありません。そこには世界の戦争史と将来展望と日本の戦略が赤裸々に描かれています。将来の対ソ戦と対米戦に備えるため、日満支の自給自足経済圏を確立するのが日本の狙いです。このことを知った列強諸国は、当然、対応策として日支の分断を考えました。それがやがて支那事変として発現することになります。いわば満洲事変という作用に対する反作用が支那事変だったと言えなくもありません。


 帰国した石原莞爾大佐は、参謀本部に出頭して挨拶に回りました。参謀次長の真崎甚三郎中将に挨拶したときのことです。真崎中将は、わざわざ椅子から立ち上がって、

「石原君、君は偉いぞ。一中佐の君の人事異動で陸軍の異動が一週間遅れた。こんなことは例のないことだ。君は偉い」

 と言い、手を伸ばして握手を求めました。ところが、石原大佐は真崎中将との握手を拒みます。

「陸軍将校の人事は三長官が決定するもので、なんら石原の関知するところではありません」

 それだけ言うと、石原大佐は(きびす)を返して退出しました。愛想も何もありません。石原大佐は、真崎甚三郎という人物を警戒していました。真崎中将には、若い将校に声をかけておだて上げ、酒食に誘って懐柔する傾向がありました。これは、いわゆる皇道派の将官に共通する傾向であり、石原大佐はかねてよりこうした派閥形成の動きを苦々しく思っていました。そして、そう思えば露骨に態度に現わすのが石原という男です。

 去る二月にも似たようなことがありました。そのとき石原中佐は、満州国建国について陸軍中央の理解を得るため上京していました。参謀次長の真崎中将にも状況を説明し、理解を得ようとしました。その際、真崎中将はニコニコしながら石原中佐の肩を叩き、

「やあ、石原中佐、待っておったぞ。今夜は一緒に飯を食おう」

 と誘いました。しかし、石原中佐は言下に断りました。その瞬間の真崎中将の苦々しい表情を石原中佐は見逃しませんでした。当然と言えば当然です。上官からの誘いをにべもなく断る部下は珍しいものです。そんな前例がありながら、なお真崎中将は石原大佐を懐柔したいと考えたようです。

 石原大佐は、参謀本部第二部長の永田鉄山少将にも挨拶しました。その際、石原大佐は、満洲国を独立国として育成指導すべきという持論を述べました。すると、永田少将はこれに反対し、満洲領有論を主張します。石原大佐は驚きました。

(陸軍の将来を担うべき永田少将が権益主義ではまずい。日本が権益を追求すれば、張学良軍閥が日本軍閥にとって替わっただけとなり、支那民衆の人心は日本を憎み、日支提携は不可能になる)

 永田鉄山少将は、石原と似た天才肌の人物で、勉強しなくても学課試験では満点をとる秀才でした。人格見識も優れており、陸軍の輿望を担っている先輩です。石原大佐は、永田少将の翻意を促すために「満蒙に関する私見」という文章を記して永田少将に示しました。その内容は、石原大佐の持論です。

「満洲における生存のため協力を絶対的必要とする日支両民族共同の敵たる張軍閥は撃滅せられたり。今日以後、日本が政治的権力のもとに満洲において漢民族と争わんとするが如きは自ら張軍閥を模するものにして断じて東亜の王者として白人との決勝戦場に立ち得る気宇ありと称する能わず。公正なる競争、闊達なる協和により人類の理想をまず満蒙の天地に実現せしめ、以て日支親善世界統一の第一歩をここに築くを要す」

 要するに権益主義に走れば支那人の離反を招き張軍閥のように失敗するから、あくまでも協和主義で満洲国を育成すべきだとする意見です。

 そんな石原大佐の心配は、満洲国ではすでに現実のものとなりつつありました。これより先、満洲国の成立にともなって満洲青年連盟は解散していました。満洲国の官僚となって権益主義に走った者と、あくまでも協和主義にこだわる者とで意見が対立したからです。そして、協和主義にこだわる山口重次や小沢開作らは、あらたに協和党を設立しようと企画しました。満洲国建国の原理として協和主義を掲げ、満洲国の政党たらしめようという考えです。これに本庄軍司令官や石原参謀が賛成し、関東軍から資金が提供されて満洲国協和会が昭和七年七月二十五日に設立されていました。

 しかし、八月上旬の人事異動によって関東軍参謀長に就任した小磯国昭中将は、これを不可とし、

「協和会は政党たらしむべからず。協和会は政党の萌芽たらしむべからず」

 との通牒を発しました。協和会は政党としての活動を封じられてしまいました。早くも権益主義による関東軍の内面指導が始まり、時間の経過とともに協和主義は衰退していきます。山口重次は後に慨嘆しています。

「せっかく希望に燃えて立ち上がった多くの革命家をして失望せしめ、三千万民衆の新国家満洲国に対する期待を裏切ることになりました。もし関東軍の民族協和による方針があと二年間継続し、新興満洲国に王道政治が確立し、理想社会が出現しておったならば、少なくとも日支事変を避けることができたと、残念に思うのであります」


 昭和七年九月十五日、日本政府は満洲国を承認します。以後、承認国は徐々に増え、最終的には二十ヶ国が満洲国を国家承認するに至ります。当時の国家数は五十ヶ国を下回っていましたから、世界のおよそ半数の国々から承認されたことになります。また、アメリカ、イギリス、ソ連などは承認こそしませんでしたが、交易関係を維持しました。


 昭和七年十月六日、石原莞爾大佐は国際連盟総会全権代表随員を命ぜられ、東京を出発し、ジュネーブに向かいました。全権団は満洲を経て、シベリア鉄道を利用して欧州に向かいます。全権代表は松岡洋右です。

 松岡洋右は早くから「満蒙は日本の生命線」と言い続けた人物です。ずば抜けた語学力と演説力と討論術で外務官僚として目立つ存在でしたが、自主外交路線を主張したため、国際協調主義である上司の幣原喜重郎とはいつも対立していました。松岡洋右は政治家を志して外務省を退官しましたが、引き抜かれて満鉄の理事となり、張作霖軍閥政府と満鉄路線延長の交渉をおこなったり、満鉄調査部の諜報機能を充実させたりしました。その後、念願の衆議院議員になりましたが、その時に満洲事変が勃発しました。松岡洋右は、満鉄による経済発展によって満洲はごく自然に日本の統治下に入るという見通しをもっていました。ですから武力発動には反対でした。柳条溝事件の勃発を新聞記事で知ったとき、松岡洋右はひどく落胆しました。その後、日本政府が不拡大方針をくりかえし声明する一方、関東軍の進撃が続きました。この状況は外交的に最悪な事態です。日本政府が世界の信用を失うからです。さらに、蒋介石が第一次上海事変を起こすに至ります。松岡洋右は日本政府の無策ぶりに黙っていられなくなり、外相公邸に押しかけ、かつて外務省の上司だった芳沢謙吉外相に直談判します。

「俺を特使にして派遣しろ」

 松岡洋右の能力を知っていた芳沢外相は、犬養総理と相談して松岡洋右を特使に任命し、上海に派遣しました。松岡は上海にある各国機関を訪ね回って意見を調整し、上海派遣軍司令官白川義則大将を説得して早期講和を実現させました。その後、リットン調査団に接触して事情を説明し、さらに国際連盟全権代表に任命され、ジュネーブに向かうところです。

 松岡洋右と石原莞爾とは、ともに一角の論客でしたから、ふたりの間でどのような会話がなされ、議論があったのか興味深いところですが、残念ながら記録がありません。

 ソビエト連邦を通過するに際し、ウォロシロフ国防相が石原莞爾大佐に面談を申し入れてきました。石原大佐がこれを断ると、エゴロフ参謀総長が面談を希望してきました。ウォロシロフもエゴロフも外国人にはめったに会わないソ連要人です。石原大佐はエゴロフ参謀総長との面談を受け容れました。

 石原大佐は、いつもどおりの人を食ったような態度でエゴロフ参謀総長と面会します。

「あなた方が人類文明の発展のためと思い込んで共産主義を推進する努力には敬意を表するが、それが果たして相手に対して正しいか否かを考慮してもらいたい。わたしはこれを忠告する」

 この悪口雑言を訳さねばならない通訳官は冷や汗をかきました。

「ソ連の部隊を見学させてくれ」

 石原大佐が言うと、エゴロフ参謀総長は婉曲に断りました。

「今はちょうど入営除隊の時期だから、お帰りの時期まで待ってもらいたい」

 すると石原大佐は大ボラを吹きます。

「帰途はアメリカを通って帰国するから、見せてもらわなくてもよい」

「なぜアメリカを通って帰るのか」

「アメリカと戦争をするような場合があるかもしれない。そのときアメリカを破る作戦の参考のために見ておくのだ」

 そう言って石原大佐は笑います。このハッタリが効いたのかどうか、エゴロフ参謀総長はついに本音らしきことを漏らします。

「日ソ不可侵条約を締結したい」

 この言葉を聞いたとき、石原大佐は自分の対ソ観が正しかったことを確認し、満足しました。


 ジュネーブ到着後の石原大佐には何らの任務もありませんでした。そのため連盟総会をさぼって街中を歩き、写真を撮ったり、ナポレオン関係の文献を探したりして過ごしました。ただ、国際連盟事務局長の杉村陽太郎に面会した際には持論を語りました。

「私どもは日本が連盟を脱退しようが、しまいが、どちらでもいいのです。ただ、満洲問題に対しては既定方針に向かって邁進するのみです」

 一方、松岡洋右全権代表は、国際連盟の議場で中国代表と論戦を繰り広げ、各国の理解を得るために懸命の演説を繰り返しました。昭和七年十一月から十二月にかけて松岡洋右は国際連盟理事会および総会において五回の演説を行いました。後に「十字架上の日本」として有名になる演説は十二月八日のものです。

「日本がいなければ支那四億の民が共産化してしまうが、それでも良いのか」

 と松岡は訴えかけました。しかし、ちょうどそのころ、満洲では関東軍が山海関を攻略し、さらに熱河作戦を遂行していました。そのため、国際連盟の理解を得ることは困難でした。国際連盟総会は、昭和八年二月二十四日、リットン報告を採択しました。リットン報告は、列国による満洲の分割統治を提案しており、すでに満洲国を承認していた日本政府としては全く認め難い内容です。このため松岡全権代表は国際連盟からの脱退を表明して退場するに至ります。

 石原莞爾大佐は、ジュネーブからの帰路、ロンドンに立ち寄り、各国の駐在武官を前に講演し、

「日本は、世界を敵としても勝つ公算がある」

 と大見得を切って世界を驚かせました。その後、シベリア経由で帰国の途につきました。途中、石原大佐は満洲の長春駅で下車しました。長春駅には多数の群衆が集まり、満洲事変の英雄たる石原莞爾を一目見ようと出迎えます。石原大佐が一等車を降りると、駅長が出迎え、貴賓室に案内してくれました。そこに協和会の山口重次が近づいて挨拶しました。

「あなたの部屋は?」

「十六号室です」

 山口重次は満洲屋の十六号室で石原大佐を待ちました。満洲国協和会は、関東軍の小磯国昭参謀長によってたびたび圧迫され、山口重次も小沢開作も「もはや解散するしかない」と意を決していました。解散することで満洲の三千万民衆に、かつて協和主義を推進した関東軍はもはやなく、現在の関東軍は権益主義にこりかたまっている事実を知らせようと考えたからです。山口重次は、そのことを石原大佐に相談するつもりです。やがて石原大佐がやってきました。ふたりが対坐すると、機先を制して石原大佐が口を開きます。

「山口さん、協和会は何をやっているのですか。建国精神はどこへ行ったのですか。建国からわずか一年のうちに民心は再び排日に傾いているではないですか。それは、満人が悪いのではなく、わが対満政策の誤りの結果であり、在満日本人が優越感から勝手なことをやっているからです。民族協和はどこへ行ったのですか」

 言われた山口は面目を失って下を向きました。石原大佐はたたみかけます。

「山口さん、日本は国際連盟を脱退しました。この結果を真剣に考えなかったら日本は滅亡です。国際連盟からの脱退は、米英ソに対して宣戦布告をしたのも同然です。満洲事変までの米英は、国際連盟に依存して軍備の拡張を避けていました。しかし、その平和的手段では世界を支配することが不可能なことを満洲事変の経験によって思い知らされたはずです。これを転機に、米英は海軍力の大拡張を計画し、実行するでしょう。ソ連も同様です。スターリンは極東軍備の大拡張を企てています。日本は、米英ソ三国に対抗できるだけの戦力だけでなく、国力を増強せねばならない。それには、日本だけの資源では足りません。少なくとも日満支三国の共同体をつくり上げねばなりません。わたしはロンドンで、日本は世界を相手に戦っても負けないと大言壮語しましたが、あれはホラでも宣伝でもありません。現勢力なら、必ず負けないという公算があります。それは、あの場に居合わせた世界の戦略家が納得したことからお判りでしょう。しかし、それは彼我の軍備が現在の均衡状態にあることが前提であって、米英ソが軍備を拡張するなら、日本も均衡を保ってゆかねばなりません。そのためには一刻も早く満洲国を完成し、日支提携を実現せねばなりません。それなのに現在の満洲国は、まったく、その逆を行っている」

 協和会を解散しようと考えていた山口重次ですが、石原大佐の説教に目を覚まされ、権益主義と闘い抜こうという決意を新たにします。


 帰国した石原莞爾大佐は、昭和八年六月、「軍事上より見たる皇国の国策ならびに国防計画要綱」という文章を書いています。これは参謀本部課員となっていた今田新太郎少佐から「陸海総合の国防意見書を書いてくれ」と依頼されて書いたものです。その内容は、石原大佐の持論です。

「満洲国の成立は日支親善、アジア団結の基礎にして、これが指導上特に注意すべき点、次の如し。国防のため我が国軍を満洲国に駐屯せしむる以外、我が国の政治機関を撤去し、満洲国の独立を確実ならしむ。すなわち関東州および満鉄付属地行政権を満洲国に贈与し、かつ治外法権を撤廃す。関東軍司令部は、行政を新京政府に一任し、治安維持と満洲国協和会の立て直しの指導に専念す。満洲国発展のため、なるべく多くの善良なる日本移民を送るを要す」

 石原大佐は、日本の満洲権益を満洲国政府に譲渡して真の独立国とし、日満の親善を確立することを主張し、さらに協和会の建て直しに言及しています。また、海軍に関しては「陸海軍共同の下にフィリピン、香港、グアム、シンガポール等を奪取す」とし、

「来航する敵主力艦隊に対する決戦は特に有利なる機会を選ぶべく。これがため日本近海の航路危険となり、または皇都が敵空襲に暴露することありとするも、艦隊司令長官の重大なる作戦を掣肘せしめざる如く国民を訓練し、かつ必要なる諸準備を整うるを要す」

 としています。

 

 昭和八年八月、石原莞爾大佐は歩兵第四連隊長に任命され、九月、仙台へ赴任しました。

「わたしは兵とともにいることが最も楽しみだ。兵隊と離れては軍人としての生きがいがない」

 との言葉どおり、隊務に生きがいを感じていた石原大佐は勇躍しました。

 歩兵第四連隊は第二師団の隷下にある歴戦の連隊であり、満洲事変では、長春、寛城子、南嶺、吉林、チチハル、ハルビンなどを転戦した部隊です。その後、昭和八年一月、日本に凱旋していました。連隊内には勲章を与えられた者もいて意気盛んです。そこへ満洲事変の立役者たる石原莞爾大佐が赴任することとなり、連隊内は歓迎ムードに包まれました。

 石原莞爾連隊長は、訓練第一主義と実戦第一主義を掲げるとともに、官僚主義と形式主義を持ち前の応用力と柔軟性で排していきます。将校団に対しては「周密なる計画と果敢なる実行」を要求し、「兵は神様、将校は神主なり」と繰り返し言い聞かせ、兵に対する将校の体罰を厳禁としました。さらに、石原連隊長は「兵営生活を明るく楽しいものとする」と宣言し、内務班による監視や文書検閲を排しました。その効果は迅速に現れ、第四連隊の営庭には銃剣術や突撃訓練に励む兵たちの盛んな掛け声が響くようになりました。

 古年兵が新兵に私的制裁を加えるのは軍隊に蔓延(はびこ)る悪弊です。石原連隊長は、この問題を解決するために郷土別中隊編成を施行しました。つまり、中隊内は誰もが同郷出身者という状況をつくりました。同郷者同士であれば、いじめや暴力は振るいにくいし、むしろ郷土愛から団結が高まって中隊対抗競技などに良好な成績が現れました。

 軍隊では窃盗が絶えません。兵には官給品が支給されますが、検査の時に官給品の不足が発見されると中隊の大問題になります。中隊幹部の出世に響くからです。

「キサマがボヤボヤしているからだ」

 兵は中隊幹部に大喝され、殴られ、代品ももらえず、ひどい場合には営倉行きとなります。営倉とは懲罰房のことです。したがって、官給品を紛失した兵は、検査を無事にやり過ごすために他中隊から官給品を盗んで来ます。中隊幹部もこれを黙認します。これが「員数(いんずう)あわせ」とか「ブン廻し」などと言われる窃盗行為です。こうして軍隊内に果てしない窃盗の連鎖が生まれます。

 石原連隊長は、この悪習をなくすために連隊の被服給与係や師団司令部を説得し、官給品が紛失したり、廃物になったりした場合には直ちに代品を支給するようにしました。すると窃盗は徐々に収まりました。こうして第四連隊には「ブン廻し」がなくなり、兵たちは安心して訓練や演習に没頭できるようになりました。

 兵食は、一日あたり米六合(米六、麦四)でした。分量は充分でしたが、昔から不味いことで定評があり、毎日のように多くの残飯が出ました。確かに三千名分の食事を毎日のように提供するのは大仕事であり、味は二の次でした。そもそも軍隊では何事も戦争を基準に考えるので「不味くても当たり前」という風潮がありました。しかし、石原連隊長はこれを看過せず、原因を調べました。要するに調理が下手なことが原因でした。そこで石原連隊長は、専門の調理人を軍属として雇い入れました。すると見事に残飯が出なくなりました。

 第四連隊では、将校団全員が将校集会所に集まって昼食をとるのが慣例でした。その際、連隊長の正面に対坐する将校が日毎に交代していきます。こうして連隊長は全将校と会話をしながら食事をし、各将校の能力や性格を把握していきます。

 その日の昼食時、石原連隊長は宮本忠孝という中尉クラスの軍医と対座しました。宮本軍医は、かねてより衛生観念を軽視する一部将校の言動に腹を立てていたため、その鬱憤を連隊長の面前でぶちまけてしまいました。一瞬、将校集会所に緊張が走ります。しかし、石原連隊長は肯定的な笑顔を向け、からかうように言います。

「怒ったな」

 石原連隊長も兵の衛生に関心を寄せていたため、以後、宮本軍医に相談するようになります。石原連隊長の関心とは兵の足のことです。歩兵はとにかく歩きます。歩兵の演習は行軍、行軍、また行軍です。とくに演習末の二日間は不眠不休で歩きます。その際、足にマメができたり、靴ずれができたりすれば歩けなくなり、落伍してしまいます。

「靴ずれや足マメを予防できないか」

 それが石原連隊長の関心事です。石原連隊長は若かった頃の経験を宮本軍医に語り、対策を要望しました。

「俺が若い時、さる機動演習で、乗馬でさんざん駆けまわって宿所に着いたとき、徒歩でついてきていた従卒が倒れた。調べてみると、両足の裏の皮が全部はがれて血だらけである。この時ほど、悪いことをしたと悔やんだことがない。従卒は、よくも痛いと一言も洩らさず、最後までついてきたものだ。それからというものは、行軍のときには兵の足マメのことがいつも頭にある。歩兵は足だからなあ」

 課題を与えられた宮本軍医は具体策を考え始めました。宮本軍医は東北帝国大学医学部で修士課程を修了した人物です。その経歴を見込んだ石原連隊長は、自身の持病についても相談してみる気持ちになりました。昭和八年九月のある日、石原連隊長は宮本軍医に話しかけます。

「俺が満洲にいた時、小便をしたら真っ赤な血だ。軍医に話したら、『何か悪い遊びをしたんじゃないか』と言われて、検査したが梅毒ではなかった。痛くもなんともなかったが、血尿は出たり止まったりした。ところが近頃、また出てくるし、時々、小便がピタリと止まって出なくなることがある」

 言われて驚いたのは宮本軍医です。というのも石原連隊長は血色がよく、いつも元気なので、まさかそんな持病を抱えているとは思いもよらなかったからです。

「その症状は、いったい、いつ頃からですか」

「そう、満洲の後、ジュネーブの会議中にもかなり血尿が出た。思い返すと、初めて血尿が出たのは大正の初期だなあ。馬から降りるとき剣柄(けんづか)で股の尿道のところを強く突いてしまった。ひどく痛んで、衣類を血で汚したが、そのとき血尿が出たのが初めだった。その症状はすぐに直ったが、昭和の初めころから再び一進一退の血尿が始まり、昭和七年二月、満洲で、さっき言ったとおりひどい血尿を見て初めて軍医に相談したというわけさ」

「連隊長殿、まずは検査をさせてください」

 宮本軍医が血尿を検査すると、梅毒性のものではなく、完全な血液尿でした。体内に出血があるということです。宮本軍医は、恩師である東北大学医学部の杉村七太郎教授に事情を話し、準備万端を整えて、石原連隊長の入院手続きをとりました。

 昭和八年十月十九日、石原莞爾連隊長は検査のために入院しました。さっそく膀胱鏡検査が行われました。その検査は、膀胱鏡という器具を尿道から膀胱へ挿入するというもので、患者にとっては精神的にも肉体的にも負担の大きいものでしたが、石原連隊長は顔色ひとつ変えませんでした。結果、膀胱の乳頭腫と診断されました。さらに精密検査が行われて「手術適」と確診されたので、十一月二日、下腹部切開の上、腫瘍の摘出手術が実施されました。手術の翌日、宮本軍医は連隊長を見舞い、そのあと主治医に挨拶しました。すると、主治医が言うには、

「石原という人は、よほどのガンバリ屋ですね。手術後に痛みが出たら麻酔注射をすると言っておいたのに、一向に呼び出しがない。念のために看護婦を見に行かせたら、ベッドの鉄枠を両手で握りしめて脂汗を流しながら苦しんでいる。それでも当人は『痛みがひどいが頑張っているのだ』と言い張る。あわてて処置しましたが、びっくりです」

 しばらく日をあけて再び宮本軍医が見舞いに行くと、石原連隊長が言います。

「面白いものを見せてやろうか。俺の小便は腹から出るぞ」

 石原連隊長が力んで腹圧を上げると、手術痕の縫目から小便が噴出しました。縫目が緩んでいたのです。宮本軍医は驚き、すぐに主治医に連絡しました。

 石原連隊長は、入院中にもかかわらず、講演会に出かけて行ったり、連隊の演習を指導したり、雨中行軍や露営をしたりと、決しておとなしい患者ではありませんでした。それでも幸いに術後の経過は良好で、十一月二十八日に退院しました。その際、宮本軍医の恩師である杉村教授がつぶやきました。

「軍人っていうものは、ああいうものかねえ」

 どうやら石原莞爾の驚異的な我慢強さに呆れ、また感嘆もしたようです。石原莞爾という人物は、自身の肉体的苦痛を客観視できる忍耐力を持っていたようです。


 退院した石原連隊長が取り組んだのは、入浴の問題でした。歩兵第四連隊は、三個大隊、機関銃中隊、歩兵砲小隊から構成されており、総勢は三千名を越えます。これを収容する入浴施設は、大隊毎に設置されており、計三カ所の浴場がありました。各浴場では、中隊ごとに入浴時間が決められており、燃料節約のためもあり、短い時間内に入浴をすまさねばなりませんでした。浴場内は混雑するので初年兵などは、たとえ入浴できても周囲への遠慮からのんびりする暇がありません。また、当番や雑用や公用外出などがあると入浴できないことになります。さらに、たとえ時間内の入浴であっても、入浴の順番が遅い場合には、すでに浴槽の湯がドロドロに汚れており、「ライスカレーの入浴」と言われるような状況でした。そして、運悪く入浴できなかったために汗臭くしていると、

「おまえはなぜ入浴しないか」

 と、当番兵から叱責され、ビンタされ、説教を食らうという理不尽が放置されていました。こうした入浴問題を解決するため、石原連隊長は、循環式濾過洗浄装置の設置を考えました。浴槽の湯を濾過することによって清潔に保ち、かつ入浴時間を長くすることができます。ただ、これには器機の購入や設置工事など経費が掛かります。石原連隊長は第二師団司令部と粘り強く交渉し、昭和九年十月五日、時間はかかったものの、ついに循環式濾過洗浄装置の設置を実現しました。

 三カ所ある浴場の内、二カ所を使用できるようにし、残る一か所を掃除と点検にあてました。平日の入浴時間は午後四時から点呼消灯時までとし、日曜祭日は終日入浴可能としました。時間的制約がなくなったうえ、湯がきれいになったので兵たちは大喜びました。石原連隊長もうれしかったらしく、日曜午前に浴槽を視察し、

「敬礼はせんでもよい。湯の加減はどうだ」

 などと入浴中の兵に言葉をかけました。兵たちはすっかり安心し、日曜には朝から湯につかり、歌謡曲や浪曲を唄うような者が出てきました。こうなってくると将校団の中でも廉直で生真面目な者は苦々しく思い、反対論が湧き出ます。ついには連隊副官が将校団を代表して石原連隊長に直言するに至ります。

「浴場を解放したために兵が入りびたって流行歌などを唄う者さえいます。これでは風紀軍紀が保てません。浴場の解放は問題です」

 石原連隊長は相手にせず、むしろ諭しました。

「そのような考え方が、明治以来、軍隊を高等監獄にしてしまったんだ。兵隊は風呂の中でも不動の姿勢をとっておれというのか。将校は家庭の風呂でくつろぐことができる。兵隊だって、たまには浪曲のひとくさりくらい唄ってもよかろう。それが軍紀や風紀と何の関係があるか。兵隊は、将校と違って温泉などには行かれない。せめて日曜くらい温泉気分にさせてやったらよいではないか」

 ちなみに石原莞爾は軍紀にやかましい男です。満洲事変の際、毎夜のように料亭で酒を酌み交わす軍司令部の同僚に苦言を呈したことがあります。

「関東軍の参謀は料理屋で酒漬けになっている、兵役の義務で徴兵された兵隊は北満の原野で氷漬けになっている。そんな噂がある。これでは一軍の軍紀は保てない。俺は君らが飲みや遊びに行くことを止めやしない。遊びに行くときは、私服を着て私費で行くことは差し支えないが、軍服で料理屋へ行くことは兵に対する軍紀上、絶対にいけない」

 また、北大営の戦いで軍功のあった上等兵が婦女凌辱事件を起こした際、軍司令部は功績に免じて寛大な処置ですませようとしましたが、これに石原中佐が反対しました。

「戦争の初期において、かかる事件を有耶無耶にすることは軍紀退廃の因をつくるもので、皇軍をして皇軍たらしめるには泣いて馬謖(ばしょく)を斬らなければならぬ」


 第二師団の演習場は宮城県王城寺原です。広大な演習場であり、演習には申し分ありませんでしたが、井戸が少ないという問題がありました。そのため、演習で泥まみれ、汗まみれになった将兵はなかなか顔も手も洗えないという状況でした。井戸の増設が望まれていましたが容易に捗りませんでした。このとき石原連隊長は一計を案じ、陸軍中央に対して鑿井(さくせい)部隊の出動を要請し、鑿井(さくせい)演習を王城寺原演習場で実施してもらいました。たちまち数本の新しい井戸が完成しました。いかにも石原らしい逸話です。


 昭和九年、第二師団に対する特命検閲が実施されることが決まりました。特命検閲とは、天皇の命令によって実施される検閲であり、特別大演習とならんで陸軍の重要な行事です。検閲は官僚主義的かつ形式主義的に行われるのが一般であり、わずかな落ち度もないように上から下まで全部隊が緊張を強いられる兵隊泣かせの行事です。この検閲を石原連隊長は、陸大受験の時と同じように持ち前の応用力と柔軟性で乗り越えます。

 第四連隊に対する検閲は五月に実施されることが決められました。特命検閲使は陸軍大将荒木貞夫です。荒木大将は真崎大将と並んで、石原の嫌う皇道派の首魁です。その随員は軍務局長山岡重厚少将をはじめ、総勢二十余名です。検閲は二日間にわたって実施されます。

 通常ならば、連隊長をはじめとする将校団はいつも以上に厳しく兵隊を指導し、監督し、連隊検閲を繰り返すものです。しかし、石原連隊長は落ち着いたもので、特別な準備は一切しませんでした。むしろ部下の将校や下士官が心配して、

「連隊長殿、検閲の準備はしなくて大丈夫でありますか」

 と尋ねます。しかし、石原連隊長は相手にしませんでした。

「ふん、検閲か。検閲で部下にやかましくして自分の成績を上げようなどと考える奴に限って、平常は怠けているものだ。そして、戦場に臨んで部下を殺すような下手な戦争をするのさ。軍人は常に戦場にある気持ちが大切で、検閲使には平常のままの連隊を見てもらうだけだ。それが本当なんだ。だから、特別なことはやらない。要は戦争に勝つことであって、命を惜しまない忠勇な兵隊をつくり上げることだ。細かい形式や規律などに拘泥(こうでい)する必要はない」

 石原連隊長がやったことは、洋式競技を嫌っていた荒木大将への当てつけに、テニスコート一面を急造させたことくらいです。結局、準備らしい準備もないままに特別検閲の第一日目を迎えました。

 検閲は石原連隊長の状況報告から始まります。報告は滞りなく終わりました。ただ、その報告は、将校の思想状況についてまったく触れていませんでした。五・一五事件以後、陸海軍は将校の思想傾向に神経をとがらせています。検閲使の荒木大将は、自慢のヒゲをひねりつつ、その点を指摘し、さらに、

「将校身上調書をみせてもらいたい」

 と言いました。提出された将校身上調書のページを荒木大将がめくります。しかし、何も書かれていません。

「これは、どういうことか」

 荒木大将が詰問すると、石原連隊長は落ち着いて応答します。

「わたくしは当隊に来てまだ一カ年にもなりませんので、部下将校の思想や動向などについてはよくわかりません。わたしは部下を信頼しておりますので、そんなことを調べようとしたこともありません」

 これは荒木大将に対する痛烈な皮肉でした。かつて、皇道派を拡大せんとした荒木大将は、部下に命じて反対派将校の身上調査を徹底させたことがありました。石原連隊長は、無言のうちにその誤りを諭しました。

 特命検閲の二日目、王城寺原演習場において第二師団長統裁の諸兵連合演習が行われました。石原連隊長の率いる第四連隊は、徹夜で攻撃準備をなし、払暁から攻撃に移りました。敵前数百メートルの線に到達したとき、第二師団の参謀が石原連隊長に大声で伝達しました。

「状況を伝えます。あの高地を占領せる敵の機関銃の射撃が猛烈で、当隊の前進はきわめて困難であります」

 言われた石原連隊長はその高地を眺めましたが、戦況現示の旗が見えません。

「機関銃などの出現を示す旗が見えないが、どうしたわけか」

 石原連隊長が第二師団参謀に尋ねます。これは明らかに師団司令部の落ち度でしたが、師団参謀は強弁します。

「とにかく、状況は伝えました」

 言われた石原連隊長は、

「よし、わかった」

 と応えると、第四連隊の将兵に向けて大声で言い放ちます。

「連隊は全滅。連隊長も戦死。全員、寝ろ」

 石原連隊長はバタリと倒れて戦死してみせました。続いて第四連隊の全将兵もその場に倒れ伏しました。師団参謀が伝達した状況にしたがって、高地に敵の機関銃隊が不意に現れて、味方が銃撃されて全滅した状況を具体化して見せたのです。これには師団参謀の方が閉口してしまいました。このままでは演習にならず、むしろ第二師団司令部が検閲官に絞られることになります。

「連隊長、もういいですから、演習を続けてください」

 言われた石原連隊長は、立ち上がると、

「連隊長は生き返った。全員、生き返れ」

 こうして演習が続行されました。第四連隊は前進し、次の戦線に進出しました。石原連隊長が膝立ちの姿勢で前線を指揮していると、検閲官から注意を受けました。

「連隊長、姿勢が高い。弾がドンドン飛んでくる」

 注意された石原連隊長は、とっさに両手を天に上げ、大仰に倒れつつ、

「連隊長戦死」

 と叫びました。これでは演習になりません。困った検閲官が、

「もう、よし」

 と言うと、石原連隊長は立ち上がり、

「連隊長、また生きた」

 と言って演習を続けました。検閲官が注意を与えるたびに石原連隊長が戦死して見せるので、演習なのか、戦争ごっこなのか、わからなくなってきます。こういう茶目を特命検閲という生真面目な重要行事の中でやってみせるのが石原という男です。

 特命検閲使の荒木貞夫大将は、次のような講評をしました。

「第四連隊の訓練法はすべて尋常一様でなく、常規をもって律すべからざるものあるも、その成績抜群なるものあるを思わざるを得ない」

 また後年、荒木大将は石原莞爾について次のような述懐を述べています。

「俊敏稲妻の如く、あの人には全く私心なく、名誉心もなければ、出世欲もない。まことにきれいな人だ」

 ちなみに、荒木と同じ皇道派の真崎甚三郎大将が教育総監として第二師団視察のため仙台に来訪したことがありました。在仙各部隊の佐官級以上が真崎大将を仙台駅に出迎えるなか、真崎大将は石原大佐に声をかけます。

「石原君、今夜、会食したいから私の宿舎まで来てくれたまえ」

「会食は公務ですか」

「いや公務ではない」

「公務でなければ、お断りします」

 これは真崎大将の常套手段です。並みの将校ならば、大将から直々に声をかけられたことに感激して手懐けられてしまいます。真崎大将は執拗に石原大佐を懐柔しようとしますが、石原大佐は隙を見せませんでした。


 昭和九年十一月に北関東で特別大演習が行われることとなり、第四連隊も参加することが決まりました。特別大演習は、天皇陛下御統監の下、四個師団が参加して実施される大規模な演習です。かねてより兵の足の健康を考えていた宮本忠孝軍医は、大演習を機会として石原連隊長にひとつの提案をしました。

「兵の足の皮を丈夫にするため、毎晩、二十分間、昇汞(しょうこう)水に足を浸します。これは水虫の治療にもなります。ただ、昇汞水はご存じのように猛毒ですので、無知な兵が飲んだりしたら大変なことになります。ですから厳格な監視が必要です。また、三千を超える兵が二十分間も足を浸しますので時間がとられます」

 昇汞水とは塩化第二水銀の水溶液であり、強い毒性と腐食性を持っています。今日では使用されていませんが、この時代には消毒薬として使われていました。

「わかった。連隊長から命令を出す。具体的な方法を考えてくれ」

 宮本軍医は、内務班長に昇汞水の使用方法と危険性を詳しく教え、必ず班長の監視下で足浴を行わせることとしました。昇汞水入りの一斗缶が山のように積まれました。それを内務班に配布し、特別大演習の半月前から昇汞水の足浴を開始しました。

 歩兵第四連隊は、十一月六日から三日間の師団演習に参加し、ひきつづき十一月十一日から三日間の特別大演習に参加しました。第四連隊は富田、佐野、伊勢崎、沼の上、玉浦、中島、岩鼻、大類、高崎と転戦しましたが、この間、ひとりの落伍者も出しませんでした。これに対して、他連隊では路傍に点々と落伍者が出ていました。宮本軍医は内心で快哉を叫びました。

 この大演習を観覧した衆院議員の中野正剛は、石原莞爾大佐の指揮ぶりに感嘆し、ある講演会で次のように激賞しました。

「石原氏は第四連隊長として東軍の阿部信行大将の軍に属した。戦況が漸次高調して、戦雲万化していくと、石原軍は一昼夜にわたる強行長躯をなし、疾風迅雷の勢いをもって敵の中央突破を敢行した。しかもこれは大成功となって、敵軍の行動の自由を奪い、赫々たる偉勲を奏したのである。しかるに、この石原軍の行動は司令官の命令どおりにしなかったというので問題を惹起した。これに対し、石原氏は次の如くに釈明した。

『我が第四連隊はもとより司令官の命令どおりにしようと心がけていたが、刻刻変化していく目前の戦況が、ついに我が軍をして敵の中央突破を敢行させてしまったのである。あの場合、連隊長たる自分の軍事的良心が命令どおりにすることを許さなかったものである』

 これに対して上官はいかように取り計らったかは知らないが、当時、各武官はことごとく舌を巻いてその大胆果敢なるに驚いたということである」


 この時代、日本の主要産業は農業であり、第一次産業人口が圧倒的に多く、必然的に農村出身の兵が多く、しかも東北地方では貧農の子弟が少なくありませんでした。貧農から出た兵隊からその窮状を聞かされた青年将校が強く同情し、過激な政治革命思想を持つ傾向は、すでに五・一五事件で明らかとなっていました。石原莞爾連隊長は、連隊そのものを動員して貧農問題に取り組みました。

 石原連隊長は、各中隊の幹部に命じて兵の家庭の実情を調査させました。すると様々な社会問題が浮かび上がりました。なかでも深刻だったのは地主が小作地をとりあげる例が多かったことです。各中隊の幹部は地主にも事情を聞いて回りました。驚いたのは地主の方です。軍が動いていると知り、召し上げた土地を返す地主も現れました。

 連隊内の空地にアンゴラ兎の飼育場や果樹園を造って兵に農業実習の機会を与えるようにしたのは石原連隊長です。農業専門家を連隊に招いて農業講習会を開き、兵たちに受講させました。さらに県庁の農事関係者に働きかけて県下農事の改良を推進するよう依頼しました。

 また、演習の際には、農作物を荒らさないよう将兵に厳しく注意し、指導しました。そして、演習地付近の農家には連隊内にある堆肥を無償で供与しました。


 石原莞爾大佐は、昭和十年四月二十三日、郷里の鶴岡市において講演する機会を得ました。演題は「非常時と日本の国防」です。この講演会には三千名を超える聴衆が集まり、翌月には講演内容が出版されました。その人気ぶりは時代の寵児とでも言うべきものでしたが、石原大佐には浮ついたところがなく、面会を求められても謝絶し、揮毫も握手もしませんでした。


 昭和十年八月一日、陸軍の人事異動があり、石原莞爾大佐は参謀本部第二課長に任命されました。石原連隊長は申し送り事項のなかに、

「戦闘能力の向上に精進するとともに、兵営生活をして真に自覚せる共同生活たらしめ、新時代の要求する新社会の模範たらしむるを要す」

 と記し、仙台を後にしました。


 歩兵第四連隊長時代の石原莞爾には逸話が多く、そのどれもが石原の思想と性格を表しています。石原連隊長は理想的な行政官の姿を体現したといえます。石原連隊長の努力は、ことごとく兵隊たちの福利厚生のために傾注されました。柳条溝事件の謀略などよりも、むしろ連隊長時代に示した行政手腕こそが石原莞爾の真骨頂だったかも知れません。


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