満洲国
昭和六年十月のはじめ、関東軍司令部嘱託で満鉄社員でもある山口重次に石原莞爾中佐が尋ねました。
「満鉄の営業上、洮昂鉄道はどのくらいのウエイトを占めますか」
「そうですね。四洮、洮昂両鉄道は、北満の大豆を満鉄に吸収する唯一の路線です。満鉄の喉首です。これを切られたら満鉄はお手上げです。昨年は、これを打通線に流されたので満鉄は大赤字になりました」
洮昂鉄道とは、四洮鉄道と洮昂鉄道を合わせた呼び名です。南満州鉄道の四平街駅から分岐して北へ延び、洮南、昂々溪を経て北満の拠点たるチチハルへと通じています。当時、北満で生産される大豆の輸送が満鉄のドル箱事業でした。また、打通線とは、張軍閥が満鉄包囲のために敷設した満鉄並行線であり、通遼と大虎山を結んでいます。石原中佐は念を押して聴きます。
「それなら、この洮昂鉄道が不通になったら満鉄は大騒ぎしますね」
「もちろんです。今は十月ですが、大豆輸送は十二月から始まります。大豆輸送の時期に鉄道に故障が起こったら大変なことになります。満鉄ばかりでなく、総領事館も総立ちになるでしょう。大切な日本の既得権益ですから」
「なるほど、既得権益か」
石原中佐は何事かを思いついたらしく、以後、片倉大尉に命じ、洮南に本拠を置く親日軍閥の張海鵬に武器を提供させました。また、支那人苦力や弱小軍閥を買収して張海鵬軍に参加させ、さらに今田新太郎大尉を張海鵬の元へ派遣し、チチハルへ入城して黒竜江省長になるように勧めさせました。このころ北満の実権を握っていたのは馬占山という親ソ軍閥でしたが、これに挑戦させようというわけです。
関東軍の援助を得て軍備を充実させた張海鵬はすっかりその気になり、十月十四日、洮昂鉄道に沿って軍を北上させました。張海鵬軍は、嫩江という大河の手前にある江橋駅付近まで北上したところで馬占山軍と衝突し、戦闘状態に入りました。しかし、馬占山軍から一方的に砲撃されたため、張海鵬軍は混乱状態に陥り、あっけなく崩壊してしまいました。馬占山軍は嫩江にかかる橋梁を焼き払って退却し、チチハルへ入城しました。
この知らせが関東軍司令部に届いたとき、片倉大尉は張海鵬軍の不甲斐なさに憤慨しました。しかし、石原中佐は驚きもせずに言います。
「あたりまえだ。苦力に銃を持たせた兵隊じゃないか。大砲の音を聞いたら逃げてしまうだろう」
これには片倉大尉が言葉を失います。
(張海鵬軍を援助しろと言ったのは石原中佐ではないか)
不満でしたが、気持ちを押し殺し、
「これからどうするんです」
と問いました。すると石原中佐は謎めいたことだけ言います。
「さあ、これで幕開きだ。敵も味方も騒ぎ出すだろう」
石原中佐にとっては、張海鵬軍がどうなろうと知ったことではなく、嫩江にかかる橋梁が破壊されたという事実こそが重要でした。嫩江橋梁を破壊するためにこそ、張海鵬を軍事援助し、馬占山軍にぶつけたわけです。
嫩江橋梁は満鉄の資金で敷設された木橋です。嫩江という大河の河川敷は広大な湿地帯になっており、嫩江橋梁は五つの橋梁から成っていました。つまり、北から順に第一橋梁から第五橋梁まであります。そのうち南側の第三、第四、第五橋梁が破壊されてしまいました。
大豆の収穫期を前に洮昂鉄道の嫩江橋梁が破壊されたため大いに慌てたのは南満州鉄道です。修理のために嫩江橋梁の現場に調査員を派遣すると、馬占山軍に射撃され、危険この上なく、橋梁修理ができる状態ではありません。満鉄は、チチハルの日本総領事に依頼して馬占山と交渉してもらいましたが、埒があきませんでした。ついに満鉄は関東軍に泣きついてきました。これを石原中佐は冷たくあしらいます。
「政府は不拡大方針だし、総領事館も軍に不協力だから、関東軍としては動きようがない。もう一度、張海鵬軍を強化するか、それとも馬占山を買収したらどうか」
政府の不拡大方針を逆手にとって皮肉に満ちた返事をしました。満鉄首脳は切羽詰まり、関東軍嘱託であり、満鉄社員でもある山口重次を呼び出しました。村上義一理事が山口に問います。
「関東軍の肚はどうなんだ」
「それはもちろん、ヤル気です。しかし、その関東軍を出動させるには外務省を動かさねばダメです。外務省を動かすには現地の総領事から言わせるのが一番です」
「わかった。じつは林総領事と懇談したのだが、嫩江橋梁の焼却と洮昂鉄道の運転妨害は、満鉄の生命を脅かす排日行為であり、権益の重大な侵害であることを理解してくれた。すでに外務大臣あてに関東軍の援護出動を要請する電報を打ってある。東京では満鉄の内田総裁と江口副総裁が動いて外相と陸相に武力発動を要請することになっている」
やがて、幣原外相から奉天の林総領事に訓令が届きました。
「馬占山と交渉し、通告せよ。満鉄の嫩江橋梁修理を馬占山は保護すべし。もし、保護しなければ日本は必要な措置をとる」
また、満鉄から関東軍司令部に正式な申し入れがありました。
「満鉄は嫩江橋梁修理の準備を完了した。十一月四日から修理を開始する予定である。ついては関東軍の援護をお願いしたい」
十月二十九日夜、瀋陽館二階の石原中佐の部屋を板垣大佐が訪ねます。石原中佐は布団に寝ていました。数日前から持病の中耳炎が再発したうえ、血尿にも悩まされていました。やむなく石原中佐は、関東軍司令部に寝台を持ち込み、横臥しながら執務をするような病状です。
「いよいよ総領事も満鉄も武力解決を要求してきたなあ」
板垣大佐が言います。不拡大方針は、もはや過去のことになったわけです。これが石原中佐の狙いでした。
「満鉄も外務省も権益だけですよ。権益を守るためなら兵隊は死んでもいいという考えです」
「それはそうだが、もうこの辺でやるかなあ」
「いや、まだまだです。ところで、馬占山はどうですか。本気で戦争をやりますかなあ」
「あれは非戦論者らしい。ハルピン特務機関の百武中佐の判断では、和平交渉に応ずるだろうという」
「それはまずいですなあ。馬占山を怒らせて、馬占山軍をおだてるだけおだてあげて、あいつらが日本軍を襲撃してくるくらいにならなけりゃあ、ダメです」
「そうすると、馬占山軍を全部引き付けて、一挙に叩くのか」
「そうです。一方、日本軍の方も陸軍中央が馬占山軍の殲滅を関東軍に命令してくるようにならねばダメです」
「それは理想だが、そう、うまくいくかなあ」
「いきますよ。おとり戦術を使うんです。兵を小出しにして、負けた負けたを繰り返す。支那軍は勝てばいくらでも強気になるし、日本人は負ければ意地になってくる。その民族性を利用します。日本軍の負けいくさを新聞に報道させて、国民に知らせるんです。すると世論が騒いできて、外務省と陸軍省が突き上げられて、踏み切りやすくなる」
「それは名案だが、負けいくさを誰がやる。勝ついくさは誰もがやりたがる。負けいくさのできる指揮官は滅多にいない」
「いや、余人ではダメです。私が行きます。一個連隊くらいを軍司令官直轄部隊にして、現地で適当に作戦指導します」
「とんでもない。君は病気じゃないか」
「いや、五日や十日は塹壕の中でも大丈夫です。現地へ行きさえすれば、寝ていても作戦指導できます」
このあと石原中佐は、瀋陽館の自室に朝日新聞満洲支局長の武内文武を呼び、チチハル作戦のことを打ち明けます。
「近いうちに嫩江橋梁で馬占山といくさになる。馬占山の背後にはソ連と張学良が付いているから強敵だ。関東軍は間違いなく苦戦するから、おおげさに負けたと書いてくれ。それから馬占山のことをおだて上げてほしい」
そう依頼して、石原中佐は一足早く飛行機で北満へ向かいました。
関東軍は、嫩江の橋梁修理を援護するために嫩江支隊を編成しました。これは参謀総長からの命令に従ったものです。
「北満に対し積極的作戦行動は当分これを実施せざる方針なり。嫩江橋梁修理援護部隊は最小限度とし、その任務達成のための作戦行動は、大興付近を通ずる線を占領するに止むべし」
大興は嫩江北岸の地名です。つまり、修理に必要のない北進はするなという命令です。
十月二十九日、吉林警備中だった歩兵第十六連隊の一部を抽出して嫩江支隊が編成されました。その兵力は、歩兵一個大隊、砲兵一個大隊、工兵一個中隊、計八百名です。命令どおり「最小限度」の兵力です。指揮官は第十六連隊長浜本喜三郎大佐です。嫩江支隊は直ちに鉄道を利用して北上し、十一月一日夜、嫩江に近い泰来に到着しました。翌日、浜本大佐は斥候隊を嫩江橋梁の破壊地点に向かわせました。すると馬占山軍から銃撃されました。
チチハルでは、日本領事の淸水八百一と馬占山軍閥との間で嫩江橋梁の修理について交渉が続けられていました。しかし、交渉では停戦の合意ができても、現場の馬占山軍はこれに従いませんでした。馬占山軍閥の参謀内にはソ連のスパイが浸透しており、馬占山の文盲をいいことに勝手な攻撃命令を出していました。
十一月四日早朝における嫩江周辺の戦況はおおむね次のとおりです。嫩江をはさんで北に馬占山軍一万六千が横陣を布いています。馬占山軍の本営は昂々溪にあり、その先陣は嫩江北岸の大興まで進出しています。対する嫩江支隊は嫩江南岸の江橋に布陣しています。兵力はわずかに八百です。
同日午前八時半、馬占山軍の軍使が清水領事らとともに江橋の嫩江支隊司令部に来訪し、「馬占山軍は日本軍に抵抗しない」と約束して帰りました。
そこで浜本大佐は、第五中隊に日章旗を掲げつつ前進するよう命令しました。第五中隊は、無事に嫩江に架かる五つの橋梁を渡り終え、さらに北上して大興南方一キロ付近まで到達したところ、馬占山軍から突如として猛然たる砲火を加えられました。たちまち十五名の死傷を出したため、第五中隊は嫩江第一橋梁まで後退して援軍を待ちました。嫩江支隊主力は午後二時までに第一橋梁へ前進しましたが、多勢に無勢で前進できず、守りを固めて戦況の進展を待ちました。この日、石原莞爾中佐は第五橋梁付近にあり、戦況を関東軍司令部に報告し、一個大隊の援軍を要請しました。
十一月五日、浜本大佐は果敢にも部隊に前進を命じます。午前六時から砲撃を開始し、午前七時より前進を開始しました。嫩江支隊は、馬占山軍の第一線陣地を占領しました。しかし、優勢な馬占山軍が嫩江支隊の背側に回って攻勢に転じてきたため、嫩江支隊は苦戦に陥りました。石原中佐は関東軍司令部に対し、次のように戦況を報告しました。
「馬軍は毫も退却の色なく、頑強なる抵抗を期しおるものの如し」
このため関東軍司令部は、さらに歩兵二個大隊と砲兵三個中隊の増派を決めました。ちなみに石原中佐には戦況を報告する以外に仕事がありません。浜本大佐が前線で奮闘してくれている限りは暇です。石原中佐はときにライカのカメラで戦場の風景を撮影して時間を過ごしました。
この日の夜、援軍の先頭部隊が江橋に到着しましたが、なお兵力不足であり、嫩江支隊は増援を待ちました。嫩江支隊本部には、三十名ほどの負傷者が呻吟しており、しかも敵の砲火は熾烈です。窮地に陥ったといえます。浜本大佐は最悪の事態を想定して連隊旗の処置を考え、連隊旗手に命じました。
「ここにいる将校は皆ここで戦死するかもしれない。その時、お前は連隊旗をもって、あの高地まで下がれ。あそこには第五中隊がいる」
十一月六日の早暁、嫩江支隊の将校が第五橋梁付近の壕内で横になっていた石原中佐に報告しました。
「浜本連隊長は敵に向かって突撃するため、軍旗の処理にかかるところです」
この将校はやや誤った報告をしたと言えます。これを聞いて驚いたのは石原中佐です。
「とんでもない。いま突撃などされたら全てが台無しだ。元も子もなくなってしまう。増援部隊到着まで頑張り、なるべく敵をひきつけておかないと、決戦態勢が崩れてしまう。よし、俺が行く」
石原中佐は壕を飛び出すと、弾雨の中を悠々と歩き、五つの橋梁を伝って北上し、嫩江支隊司令部に向かいました。石原中佐は参謀飾緒を肩に吊っています。戦場ではとても目立ちます。この時代、兵隊たちは参謀を神のように崇めていましたから、誰もが振り返りました。石原中佐に気づいた嫩江支隊長の浜本大佐は注意を促すため大声を上げました。
「石原参謀、あぶない」
浜本大佐が驚いたことに、石原中佐は莞爾と笑いながらゆっくり歩いてきます。銃弾が雨のように降り注いでいるのに恐れる様子がありません。石原中佐は浜本大佐に近づくと、呑気な声をだしました。
「連隊長殿、今日は実にいい天気ですなあ。増援隊はもうすぐそこへ来ています。もう少しのところ頑張ってください」
「よしわかった。わかったから下がれ」
石原中佐は隠れようともせず、悠々と帰っていきます。担架に乗せられた負傷兵が脇を運ばれていきます。
「おい、しっかりせい。敵の退却するのは、もうすぐだぞ」
石原中佐が声をかけると、負傷兵が返事をしました。
「参謀殿、頼みます」
石原中佐にとっては初めての戦場でしたが、実に豪胆な立ち居振る舞いです。
嫩江支隊の苦戦の模様は新聞によって「歩兵第十六連隊全滅」などと大げさに報じられました。また、馬占山のことは「北満のナポレオン」などと大仰に報じられました。
同日の午前、増援の歩兵二個大隊が到着したことにより嫩江支隊はようやく危機を脱することができました。嫩江支隊は逆襲に転じ、最前線の馬占山軍を撃退し、六日正午に大興を占領しました。さらに、長谷部照俉少将の指揮する歩兵一個連隊、野砲兵二個大隊、工兵一個中隊が到着するにおよび、嫩江支隊の優勢が確定的となりました。しかし、嫩江支隊は追撃をしません。その理由は、参謀総長から北進するなとの命令があったためです。
石原中佐は、嫩江支隊に現状を維持するよう指示を出し、七日、大興から飛行機に乗って奉天へ帰還しました。石原中佐の姿は、六日間におよぶ不眠不休の塹壕生活のためドップリ戦塵にまみれ、顔色は憔悴しきっていました。石原中佐は本庄軍司令官に報告すると、瀋陽館の自室にもどり、布団の上にパタリと倒れると泥のように眠りました。
石原莞爾中佐が奉天を不在にしていた間に関東軍司令部はひとつの深刻な問題に直面していました。それは参謀総長による作戦干渉です。十一月五日、参謀総長金谷範三大将から次の電報が届きます。
「本時局終了の時期まで、関東軍司令官隷下および指揮下部隊の行動に関し、その一部を参謀総長において決定、命令する如く先例に準じてご委任あらせられたり、右通報す」
軍司令官は、天皇陛下から直接に任命される親補職であり、その意味で関東軍司令官は参謀総長と同格です。にもかかわらず、関東軍の部隊の行動を参謀総長が指揮命令するというのです。しかも、嫩江支隊の陣地をこうせよと、具体的な命令まで示してきました。本庄軍司令官は怒ります。その日の本庄繁の日記には、
「統帥権を破る。甚だし」
とあります。本庄軍司令官は、「辞表を出す」と猛りましたが、これを三宅参謀長が懸命に抑える状況となりました。関東軍司令部参謀は、誰もが参謀本部の理不尽に反発しました。片倉衷大尉は、瀋陽館の石原中佐の部屋を訪ねて状況を報告し、悔しがります。
「陛下のご委任を受けた軍司令官の権限が、勅令に非ざる中央長官により掣肘を受けることはありません。総長命令が不適当なら独断善処すべきです。それなのに軍司令官も参謀長も、遠大な抱負も気迫も無く、総長命令をあたかも勅命のように解釈してこれに盲従するとは、まったく情けないですよ。総長も総長です。まさに皇軍統帥権の神聖を犯すものと言わざるを得ません。国軍の最高統帥がこのようでは、独断専行を強調する教育は、まったく空文です」
熱誠をもって訴える片倉大尉に石原中佐は冷静に応じます。
「総長命令は私物だ。そんなもの何通きたってかまわんから、こちらの計画どおりやろう」
「やりますか」
片倉大尉は身を乗り出します。
「やるさ、やらなけりゃ、嫩江で二百名も兵隊を死傷させたことが意味をなさんじゃないか。今晩さっそく対馬占山問題を討議して方針を決めよう」
その夜、参謀長以下の全参謀が集まって会議が開かれました。参謀総長の電報など無視してチチハルまで進出すべきだと主張したのは石原中佐です。
「この際、どうしてもチチハルまでいかにゃダメです。チチハル特務機関長の林義秀少佐を通じて、日本軍のチチハル入城を馬占山に通告しましょう。もし馬占山が困るといったら、それならば誠意を示せ、と言いましょう。馬占山は和平派の男です。状況不利な場合には和を結ぶ可能性があります。それでも良いじゃないですか。そうなりゃ、こちらは満鉄を通じて経済的利益を獲得できる」
要するに交渉をして和睦が成立するならばそれもよし、交渉が破綻した場合には、それを理由に北進するというのが石原中佐の提案です。しかし、なお三宅参謀長は金谷参謀総長の電報を気にしました。
「案としては結構だが、それでは中央の方はどうするか」
本庄軍司令官が命令違反に問われる恐れがあると三宅参謀長は心配します。しかし、石原中佐は歯牙にもかけません。
「総長電ですか。それは金谷参謀総長、二宮参謀次長の私物命令ですから、気にすることはないでしょう」
「それでいいのか」
と三宅参謀長は念を押します。
「勅命でないから、いいでしょう」
と言ったのは板垣大佐です。
「参謀長閣下、では、いいですね」
三宅参謀長は黙って肯きます。
「いま、参謀長閣下のご了解を得たわけだが、やるとすればチチハル入城は、十一月二十日前後に決行したい。あまり早すぎると結氷が薄すぎて砲車通行が困難だし、十二月に入ると兵の防寒服が不備だからうまくない」
嫩江の現場から帰ったばかりの石原中佐は寒気と兵隊の体調を心配しました。すでに北満はかなり冷え込んでいます。これには板垣大佐が応じます。
「防寒服は大丈夫、手配してある」
こうして三宅参謀長は、本庄軍司令官の決裁を得、嫩江支隊司令部に命令を発しました。
「訓令、なるべく速やかにチチハル特務機関長林少佐をして本職の名をもって馬占山に対し、左記警告を為さしむべし。馬占山にして日本軍のチチハル進入を避けんと欲せば、速やかに自ら誠意を披歴すべし」
こうしてチチハルにおいて馬占山と林義秀少佐の交渉が開始されました。しかし、馬占山は林少佐の提案を容易には受け入れません。交渉は十一月九日に始まり、十七日までつづきます。
この間、馬占山軍は戦力を増強させていました。ソ連軍から軍需物資の援助を得、張学良からは一万を超える援軍を得、さらに北満の馬賊や匪賊を糾合しています。そして、馬占山は関東軍の後方を攪乱する指令を出しました。このためハルピンや天津や公主嶺などで排日暴動が激化しました。日本軍の守備隊は各地で暴動の鎮圧に奔走します。
馬占山軍は、すでに第一線の大興を日本軍に占領されていましたが、第二線を昂々溪に張り、第三線と第四線をチチハルの南郊に設定して陣地を構築しつつあります。なかでも昂々溪には二万の兵力を集中しており、日本軍の偵察機を高射砲で撃ち落とすほどの火器を備えていました。馬占山は、
「日本軍と決戦すべし」
と豪語し、意気盛んです。これに対して本庄軍司令官も戦う決意を固めます。本庄繁日記の十一月十二日の項に、
「総長の意思に反し、昂々溪敵陣地攻撃に決す」
とあります。本庄軍司令官は眼前の馬占山軍とともに、後方の金谷参謀総長をも気にせねばならず、その心労は並大抵ではありません。また、金谷参謀総長の立場も、政府の不拡大方針と前進を止めない関東軍との板挟み状態であり、やはり苦しい立場です。
本庄軍司令官の決心により、関東軍は戦力を大興に集中させるとともに、第二師団を大興に向けて北上させました。この間、満鉄は嫩江橋梁の修理を十三日までに終え、試運転を開始していました。
十一月十四日、チチハル特務機関長の林少佐は、馬占山に対して双方撤退の和平案を提示しました。馬占山軍がチチハルを放棄して、北へ撤退するならば、日本軍も嫩江から洮南まで撤退するという内容です。回答期限は十六日正午です。馬占山は返事をしませんでしたが、洮昂線の一部を破壊したうえ、チチハルの日本領事館を包囲し、砲門を向けて威嚇しました。このため日本領事館の職員はハルピンへと逃れることになりました。
十一月十五日、第二師団が大興への集結を完了しました。
回答期限の十六日正午を過ぎても馬占山から回答はありませんでした。それでも関東軍は自重して動きませんでした。午後十時、馬占山から電話にて「日本側条件をのむ。委細は書面にて」との回答がありましたが、その後はなしのつぶてです。
翌十七日になっても馬占山からの回答がないため、関東軍司令部は第二師団に攻撃を下令しました。第二師団は翌日からの前進を企図し、右翼隊と左翼隊を編成して準備しました。
十一月十八日未明、第二師団は攻撃準備位置につきました。敵前八百メートルです。この日、気温は零下二十度、北西の風十五メートルです。午前七時半、第二師団の砲兵隊が昂々溪の馬占山軍陣地への射撃を開始しました。続いて飛行隊が同陣地への爆撃を実施しました。そして、午前九時、第二師団は攻撃前進に移りました。昂々溪陣地の馬占山軍は第二師団の攻勢を支えることができず、午前十時半に敗走を始めます。第二師団は追撃に移り、午後二時には昂々溪陣地を突破しました。第二師団はさらに北進を続け、夜半にはチチハル南郊の大民屯に達し、ここで大休止しました。極寒のために水も食糧も凍ってしまい、将兵は飲まず食わずの戦いとなりました。
十一月十九日正午、第二師団は縦隊となって大民屯を出発し、午後三時、チチハルに入城しました。馬占山軍は北方へ敗退し、チチハルの三十キロ圏内から離脱していきました。馬占山は北方の海倫へ逃れました。
嫩江から大興そして昂々溪からチチハルへ至る一連の戦闘は、満洲事変のなかで最大の激戦となりました。関東軍の損害は、戦死百四名、戦傷二百七十八名、凍傷患者九百九十六名でした。
チチハルを占領した関東軍でしたが、本庄軍司令官はあいかわらず参謀総長からの作戦干渉に悩まされていました。十一月二十四日、参謀総長から命令が関東軍に伝達されました。
「チチハル付近に歩兵一個連隊内外を残し、他は全部撤収せよ。残置部隊も二週間以内に引き上げよ」
現状においてソ連は強く出て来ないと考えている関東軍にしてみれば、これは実情にそぐわない命令です。馬占山は海倫に逃げていましたが、チチハルを空白にすれば、また戻ってくるに違いありません。しかし、ソ連との衝突を恐れている参謀本部にしてみれば、嫩江鉄橋が修理され、洮昂鉄道による北満大豆の輸送さえ回復すればそれで十分です。さらに、参謀総長は関東軍幕僚の交代人事を伝えてきていました。
「そんなものは無視すべきです」
と意見具申したのは石原中佐です。
「この際、とるべき道は三つあります。国家のために最も良いのは撤兵しないことです。第二は、関東軍首脳の総辞職を申し出ること。第三は、参謀総長の命令に従って幕僚を代えることであります」
本庄軍司令官は、三宅参謀長だけに自分の意思を伝えました。
「命令には従う。幕僚は更新する。ついては貴官から石原に申し含めてもらいたい」
そう言われた三宅参謀長は進退窮まり、泣かんばかりに本庄軍司令官に訴えます。
「閣下、板垣が間もなく帰りますから、よく相談したうえで御決定なさってはいかがですか」
この時、板垣大佐はチチハルに出張中でした。本庄軍司令官は三宅参謀長の意見を容れて決定を先に延ばしました。
その二日後、十一月二十六日夜半、天津軍司令官から関東軍に対して救援の要請がありました。
「突如、支那軍から攻撃され、彼我交戦状態、救援頼む」
天津方面では張学良の策謀による暴動が頻発していましたが、ついに日支両軍の交戦状態にまで発展しました。寡兵の天津軍は関東軍に救援を要請しました。さらに参謀本部からも「天津軍を救援せよ」との命令です。
関東軍司令部は、本土から奉天へ来援したばかりの混成第四旅団を天津に派遣することを決め、さらにチチハルの第二師団にも錦州への進出を発令しました。ところがです、しばらくすると参謀本部から「錦州方面の作戦を中止せよ」との命令が届きます。この相矛盾する命令に関東軍司令部は混乱させられ、悲憤慷慨します。そのとき、石原中佐だけは落ち着いた態度で謎めいたことを言いました。
「もう心配は要りません。内閣も軍中央も長いことはありません。まもなく総員交代です」
石原中佐は、東京における政変の兆候をつかんでいたようです。結局、関東軍司令部は、第二師団を二十九日に奉天へ凱旋させ、同日、大連から天津に歩兵一個大隊を派遣しました。また、翌日、混成第四旅団をチチハルへ急派することを決めました。
チチハルを占領した関東軍は、北満の統治を親日軍閥の張景恵に任せようと考えていました。張景恵は、満洲事変が始まると、関東軍に呼応してハルピン特別区の独立を宣言し、九月二十三日には板垣征四郎大佐と会談して北満統治を引き受けることを内諾していました。
十一月十九日、第二師団がチチハルに入城すると、翌二十日、板垣征四郎大佐は飛行機で奉天からチチハルに飛び、チチハルで張景恵に奉天票五十万元を渡して北満統治を委任する予定でした。ところが、張景恵はハルピンを動きませんでした。
そこで、十一月二十六日、改めてハルピンの料亭「武蔵野」にて板垣大佐と張景恵との会談が持たれました。果たして張景恵は諾と言いません。会談は難航し、深夜に至りました。すべての随員を人払いし、板垣大佐と張景恵とのサシの話し合いになりました。張景恵は馬占山を懐柔しろと板垣大佐に言います。
「黒竜江省というところは、馬占山でないと治まりません。民心は馬占山に帰しています。わたしではダメです。今は戦争や権益協定なんかをやっている時ではない。まず馬占山と和解し、馬占山を起用して新国家建設に持っていくべきです」
とはいえ、関東軍と馬占山軍は嫩江や大興で戦った直後です。しかも、馬占山の周囲には共産党員や反日分子がいます。会談することは困難だと思われました。それでも板垣大佐は、海倫の馬占山に電報を打ち、会見を申し込んでみました。すると、
「面会は謝絶する。万一、来られても生命の安全については保証し難い」
との返事がありました。
(それでも返事があったのだから脈がある)
と考えた板垣大佐は、わずかな人数で北満に潜行し、海倫の馬占山に会いに行くことに決めました。この危険な秘密潜行は幸いに成功します。十二月八日、板垣大佐は馬占山と会見することができました。板垣大佐は馬占山に停戦協定を申し入れるとともに、一日も早くチチハルに帰り、ハルピンの張景恵と協力して北満の治安維持に任じてほしいと依頼しました。馬占山は、
「治安維持に任ずるとしても、今は混乱しているから半月ほどの猶予が欲しい」
と言います。板垣大佐はこれを諒承しつつ、さらに要望します。
「それはよろしい。ただ、一日も早く張景恵と会っていただきたい」
「わかりました。十日にハルピンへ出向きます。その旨、お伝えください」
こうして十二月十日、馬占山と張景恵の会見が行われ、北満の統治は馬占山に任されることとなりました。
同じ頃、東京では第二次若槻礼次郎内閣が総辞職に追い込まれていました。このニュースが関東軍司令部に伝わったとき、石原中佐は言いました。
「これで事はやりやすくなるだろうが、さて誰が総理になり、誰が陸軍大臣になるかだ」
政権は民政党から政友会に移り、犬養毅内閣が成立します。これに伴い、陸軍大臣は荒木貞夫大将、参謀総長は閑院宮載仁親王大将となりました。この政権交代によって、政府の不拡大方針、参謀総長による作戦干渉、関東軍司令部幕僚の交代人事がなくなりました。なお、参謀次長の交代はなく、ひきつづき二宮治重中将です。
実は、この直前、参謀次長二宮治重中将が満洲に来ており、石原中佐と懇談していました。二宮中将は陸軍中央の空気を石原中佐に伝えました。また、石原中佐は満蒙問題解決の必要性を説きました。
「日本は今や世界の脅威になっております。この際、退嬰方針に終始しては歴史の車に乗り遅れます。日本はすみやかに満洲問題を解決して、道義的にも経済的にも、また軍事的にも東亜諸民族が協和提携するため一日も早く日本と中国との仮面ぶった化かしあいをするような提携でなく、本当の和平協同に出るべきだと信じます。従来の満蒙諸懸案の解決や権益擁護を目的とするような新政権を建てようとするのは、満洲に国際紛争の禍根を残すばかりでなく、日支両国の不和をさらに延長するものだと思います。満洲には是が非でも満蒙三千万民衆の希望によって真の独立国を樹立しなければならないと思います。この遠大な国策を理解できないような内閣は、速やかに倒してしまって同時に議会も解散して、国内の革新を図るべきだと確信いたします」
二宮参謀次長は同意します。
「もっともな意見である。いま直ちに中佐の理想実現は色々な事情でむつかしいが、東亜将来の問題に対する考え方はいかにももっともだ。わたしも現地を視察して大いに啓発された。当面の諸問題については、とりあえず本職から中央に申し伝えて誤解を解くようにする」
このほか、二宮中将と石原中佐は錦州攻略について意見を同じくして会見を終えました。
犬養毅内閣が成立した十二月十七日、関東軍司令官から参謀総長と陸軍大臣に対して錦州攻略の必要を意見具申し、増援を要請しました。石原中佐は、返事を待たずに準備を進めます。これを見た本庄軍司令官が注意しました。
「石原中佐、そう先走っていいのかなあ」
「もう大丈夫です。今に増援が参ります」
果たして参謀総長から「増援する」との返電が夕刻にありました。
「混成一旅団、戦車一隊、十五榴一大隊など増援。大連上陸は二十六日ないし二十八日。別に天津軍に歩兵二大隊を増派」
陸軍中央は完全に不拡大方針をすて、関東軍を支援するようになりました。関東軍司令部内の雰囲気は様変わりしました。軍司令官も参謀たちも笑顔です。錦州攻略の幕僚会議において石原中佐が本庄軍司令官に言います。
「閣下、錦州より先に東京が陥落しましたなあ」
「うんまあ、そうだな」
本庄軍司令官が返事をすると、一同が哄笑します。石原中佐が作戦を説明し、軍司令官がこれを承認しました。最後に本庄軍司令官が述べました。
「諸君、事変以来、中央と軍との方針に相違があり、事ごとに手違いを生じ、諸君にも非常な御苦労をかけたが、ようやく方針の一致を見たことは御同慶にたえない。本職としてはもちろん、満洲のためにも喜ばしい。しかしながら、事変の前途はなお幾多の困難が予想されるので、この際決して楽観は許されない。諸君は外に奮闘し、内に協力し、相互の連絡にも十分留意して目的を完遂せられたい。終わり」
奉天を追われた張学良は、錦州に堅固な陣地を築きつつありました。兵力は三万五千、砲六十門という戦力です。そして、張学良に同調する匪賊は五万を越え、南満州の各地で匪賊の暴動が頻発しています。
十二月二十六日、張学良軍の正規軍が鳳凰城に出現し、電線切断と線路破壊をして錦州に帰還しました。同日、関東軍の主力たる第二師団が遼陽を発して遼西に向かいました。第二師団は、大石橋から営口を経て、遼河を渡り、盤山で張学良の正規軍と遭遇しました。また、第二十師団は奉天から奉山線に沿って南下し、遼西を目指しました。関東軍司令部は、第二師団に治安維持を行わせ、第二十師団を西進させました。
十二月三十日、張学良軍は錦州から関内へと撤退を始めます。第二十師団は錦州に向けて進撃し、昭和七年一月三日に錦州へ入城し、さらに山海関に進出しました。この結果、張学良は満洲を追われることとなりました。以後、第二師団と第二十師団は、南満の各地で頻発する兵匪を討伐する治安維持活動に追われます。
一月十一日、石原莞爾中佐は前年に続いて朝日新聞主催の「日支名士の座談会」に出席しました。そして、新国家建設について次のように発言しました。
「わたくし個人としては、独立国家になる以上は都督制とか何とかはやるべきではないと思う。今まで日本人は暴戻なる支那軍閥のために付属地内に屏息されていたのであるが、今度は日支両国民が新しい満蒙をつくるのだから日本人、支那人の区別はあるべきではない。したがって、付属地、関東庁も全部返納してしまって、関東庁官僚も失業状態ですな。そして、ほんとうに日支が一緒になってやるのでなければならない。日本の機関は最小限度に縮小し、新国家そのものに日本人も入り、支那人も区別なく入っていくがよろしいと思う。それができなければ満蒙新国家も何もないと思います。それでなければ結局、日本のものにするか、支那のものにするかで対立が生まれます。日本の軍隊を満洲に置かなければならぬというのならば関東軍司令官は置かなければならぬし、日本と新国家との関係に領事が必要ならば領事を置く。なくていい融和的のものならば置かぬ。関東長官は絶対に失業、ただし関東庁の役人は新国家の役人になりたい人はなればよい。奉天省庁は新国家の省庁になる。満鉄を新国家が監督するか、日本が監督するか、それは難しいことで、満鉄の将来ということについては兵隊の頭ではわかりかねます。理想としては産業や交通も新国家の統制に服せしむべきだと思いますが、何かの事情で統制外に置かなければならぬという明瞭な理由があれば別の方法で考えなければなりますまい」
石原莞爾中佐はかつての満洲領有論を捨て、日支宥和の新国家を論じました。
一月中旬以後、北満では支那軍閥同士の抗争が起こり、吉林からハルピンにかけての地域に戦闘状態が生じました。一月二十七日、ハルピン居留民会長、大橋忠一総領事、ハルピン特務機関長土肥原賢二大佐は連名で関東軍に対して居留民保護のための派兵を要請しました。さらに張景恵、馬占山からも出兵要請がありました。このため本庄軍司令官は参謀本部に出兵許可を要請しました。
翌二十八日午前四時、参謀本部から関東軍司令部に出兵許可の電報が入ります。関東軍司令部は、長春にあった歩兵第三旅団にハルピン進出を命令しました。歩兵第三旅団はソビエト連邦が管轄する東支鉄道で北上するつもりでしたが、ソ連に妨害されて鉄道を利用できませんでした。やむなく歩兵第三旅団は、零下数十度の厳冬下を徒歩行軍で北上しました。
一月三十日、歩兵第三旅団はハルピンの南方にある双璧城に到着しました。同日、関東軍司令部は第二師団を増援に送ります。二月三日、第二師団と歩兵第三旅団は合同して攻撃を開始し、二月五日午後、ハルピンに入城しました。日本人四千、朝鮮人千六百のほか、四十万のハルピン市民が関東軍を歓迎しました。
ここにおいて満洲事変における軍事作戦は一応の終息を見ます。それでも満洲の各地では匪賊、馬賊の襲撃が起こり、そのたびに討伐隊が出動しましたが、これは治安維持活動です。関東軍司令部は、満洲国の建国に向けて動きます。
昭和七年二月、板垣征四郎大佐は、満州国建国の下準備ために支那要人との会見を繰り返していました。二月十二日にはハルピンに飛び、馬占山と会い、巨頭会議への出席を要請し、同意を得ました。
二月十六日、奉天において新国家建設のための五巨頭会議が開催され、張景恵や馬占山を含む五名の支那要人が集まりました。そして、遼寧、吉林、黒竜江、熱河の四省を領土とする満蒙新国家を建設することが決められました。
翌十七日、満洲建国会議が開かれました。会議では、まず独立宣言の起草がなされ、ついで新国家の国体、政体、国号、国旗、憲法などの基本問題が提議されました。
十八日には満洲独立宣言が行われました。満洲国は中華民国から独立しました。そして、翌十九日から具体的な新国家のあり方が議論されました。その際、元首を皇帝にするか総統にするかの問題で意見が割れました。また、人事を巡る主導権争いが五巨頭の間で勃発してしまい、意見は容易にはまとまりませんでした。板垣大佐は巨頭間の斡旋に奔走しましたが、それでもまとまらず、最終的には本庄軍司令官の提案に落ち着きました。
「国体は民本制とし、政体は執政政治とする。執政が善政を布いて、五年なり六年なりの後、人民が執政の徳をたたえて推戴したときに皇帝に即位する」
同時期、石原莞爾中佐は東京にあって政府要人に満洲国の基本構想を説明して回っていました。
「この際、権益主義を捨て、目前の小利小益に走ることなく、世界情勢の推移と東方アジアの将来を考慮せねばならない。ソ連の極東攻略を断念させて不敗の国防を確立するためには、東亜諸民族との真の大同団結が不可欠である。つまり、満洲国を五族協和の理想郷とする。満洲は支那の失地にあらず、日本の領土にあらず。しかして満洲は、日支両国共同の独立国家であり、民族協和の理想郷となすべきである。権力をもって漢民族を圧迫するようでは、三千万民衆の恨みを買って失脚した張学良の愚をまねるに等しい。よって、在満邦人は特権意識を捨て、既存の治外法権や付属地行政権などの特権も撤廃し、満洲国に譲渡するべきである」
石原中佐の構想は、満洲をカスガイとして日本と支那を提携させるところにあります。ときの総理大臣犬養毅は、明治以来の老政治家であり、大アジア主義者でもあり、かつて孫文や蒋介石を保護したことがあり、欧米列強からのアジア独立を念願している人物です。このことは関東軍司令部にとって幸運でした。
「非常に結構だ。その趣旨で進んでもらいたい」
犬養総理、荒木陸相など政府要人は石原中佐の意見に賛同してくれました。
昭和七年三月一日、長春において満洲建国宣言がなされ、三月九日、溥儀の執政就任式が行われるとともに、参議府や国務院などの最高人事が発表されました。そこに日本人の名前はありません。元首溥儀、国務総理鄭孝胥、民生部長臧式毅、軍政部長馬占山、参議府議長張景恵、侍従武官長張海鵬などすべて在満の支那人です。
関東軍司令部の懸命の努力によって、ようやく満洲国が建国されました。柳条溝事件からおよそ半年です。奇跡のように新国家ができあがりました。世界最終戦争たる日米戦争に備えるため東アジアに自立経済圏を確立するという石原莞爾中佐の遠大な国家構想が曲がりなりにも半ばまで実現したと言えます。中佐にすぎない石原莞爾がここまでの事業を成し得たという事実には驚嘆せざるを得ません。
しかし、満洲青年連盟の山口重次と小沢開作は失望していました。五族協和の王道楽土を熱望していた彼らにとって、実現した満洲国は理想からほど遠く、落胆せざるを得ません。
「おい山口、参議府だの国務院だの言ってみても、最高人事が発表されてみても、それは紙の上だけのことだ。新京となった長春の何処を探してもそんな役所はないし、ひとりの官吏もいない。その官吏を集め、役所をつくるのが関東軍の仕事だ。国のためだの、主義のためだのと言ってみても、結局は自分のためだ。エゴイズムの衝突で見苦しい猟官運動の大喧嘩が長春では起きている。僕はこんな喧嘩はまっぴらだから、長春に帰って人の虫歯でも掘るとするよ」
もともと小沢は長春で歯科医院を開業している歯科医です。慨嘆する小沢に山口が同調します。
「全く同感だ。僕は交通部の総務司長にと言われたが、はっきり断った。だがなあ、小沢、必ずしも個人の争いばかりではない。軍人、支那人、民間日本人に共通してどこにも勢力争いがある。軍の参謀連の中にさえ対立がある。支那側にも清朝派と漢民族の対立があり、自治指導部内にも青年連盟と雄峯会の対立がある。これは利害の争いもあるが、主義や思想の違いが根本にあるからだ。やはり新国家は役所と法律だけつくってもダメだね」
最後の清朝皇帝溥儀を執政とする満洲国は、満洲青年連盟の理想からは程遠い現実です。とはいえ、関東軍司令部は可能な限りの努力をしたといえます。なにしろ新国家の建設という大事業です。ごく短い期間でこの大事業に成功したことこそ奇跡です。本庄軍司令官は、日本人官吏をできるだけ少なくするという方針を掲げました。満洲国政府の官吏総員は六百人、そのうち日本人は二割以内の百二十人までにせよと厳重に命じました。その理由を本庄軍司令官は次のように説明しました。
「私は長らく支那の軍事顧問をしてきた。また、こんどの事変でいろいろと経験をした。その結果、日本人官吏の数は少なければ少ないほど良いということがわかった。新政府の役所は支那人にやらせ、日本人は有能な人より、有徳の人を一人くらい入れる程度にした方が、新国家の独立を進めることになると思う。だが、一人というわけにもいかないので、日本人は高級官に限って数少なく入れることにしたのである。これ以上日本人を入れたら、すべてが日本式になってしまい、決して良い結果にならないと思う」
本庄軍司令官の考えは満洲国の独立であり、属国化ではありませんでした。それでも、満洲青年連盟の構成員は権益主義の台頭に強い不満を感じていました。
「要するに満洲国は、主権、領土、人民、形の上の国家成立の要素はそろったが、国家成立の心理的要素、つまり国民の国家に対する確信の帰一がない。要は、建国精神の普及と一致がない」
山口重次が言い、さらに語を継ぎます。
「建国精神がなければ国にならない。精神的国づくりをやらなければならない。満洲国の建国精神は協和主義だ。資本主義と共産主義の矛盾を解消し、王道を実現するのだ」
これに小沢開作が膝を打ちます。
「面白い。英米人は民主主義と資本主義でアジアを侵略して植民地にした。それに反抗してロシア人が共産主義でアジアを赤化しようとしている。そのソ連と英米を相手に大和民族がアジアを民族協和で渡り抜く。よし、やろう」
昭和七年三月二十日、山口重次と小沢開作は奉天の関東軍司令部に出勤しました。ふたりは板垣征四郎大佐に存念を語りましたが、反応がありません。板垣大佐は満州国建国の斡旋で奔走しつくし、疲労が極限に達していました。やむなく、石原中佐のいる作戦室に向かいました。本来、作戦室に部外者は立ち入りできませんが、小沢開作が平気で入るので、山口重次も続きました。すると石原中佐が声をかけてきました。
「あなた方は、新政府の役人になったのではなかったですか」
いきなりの皮肉です。小沢はひるまずに反駁します。
「バカらしい。僕らは小役人にしてくださいと頼んでなんかいません」
「ほう、でも山口さんは交通部の総務司長ではなかったですか」
「ご厚意は身に余る光栄ですが、私らには別の仕事があるように思いますので、そのご相談に参りました」
山口の言葉を小沢が引き継いで言います。
「石原さん、国ができたと言っても肝腎の魂がない。建国精神がないじゃありませんか。建国精神がないから政府の組織もできないうちに猟官運動をやっている。日本人も満人も同じです。その隙に共産党や国民党に扇動された匪賊が出てきます。ですから、一刻も早く建国精神を確立して、これを満洲国民に宣伝して、賛成反対をはっきりさせて、賛成者を集めて協和党をつくり、満洲国を支え、満洲国を立派にして、それを支那に延ばすのです。この精神建国を誰もやらないなら、青年連盟の我々と満洲人の同志でやろうと思いますが、どうですか」
石原中佐は急に立ち上がり、至極真面目な顔をして、
「山口さんも、そうですか」
と言います。
「そうです。ここに協和党の実施案があります」
石原中佐は山口から書類を受けとると、丁寧に頭に押し頂いて、二人を見直します。
「その協和党をあなた方がつくってくださるのですか」
「そうです。青年連盟は、今までは国づくりをやってきましたが、国には職業官吏が集まるでしょうから、我々は精神建国をやります。賛同者は青年連盟だけでなく、支那人、満洲人、朝鮮人にもいます。これらをまとめて協和党とし、満洲青年連盟は解散します」
石原中佐は感慨深げな表情をします。
「素晴らしい。ぜひお願いします。では、この書類を見せていただきます」
すると、ちょうどそこへ板垣大佐が入ってきました。石原中佐が声をかけます。
「板垣大佐殿、青年連盟の皆さんが協和党をつくってくださるそうです。結構ですなあ。ついてはさしあたり、初年度経費二万円を差し上げてください」
板垣大佐は事態を呑み込めず、ぼんやりしています。山口と小沢は驚きました。いきなり二万円とは。そこに石原中佐がおっかぶせます。
「板垣さんは近頃多忙でよく物忘れをなさるから、忘れないうちに今すぐ一緒に行ってお金を受け取ってください」
こうして満洲国協和会ができます。名称が協和党でなく、協和会となったのは執政溥儀の反対があったからでした。
日本人や支那人や満洲人や朝鮮人など様々な民族、資本主義や帝国主義や共産主義や協和主義や権益主義など種々の思想、猟官や革命や金儲けや理想など雑多な思惑の中で、とにもかくにも満洲国ができあがりました。しかし、早くも問題が発生します。溥儀の執政就任式に出席した馬占山は、その後、チチハルに帰っていましたが、四月二日、突然に姿を消しました。四月七日、馬占山は満洲最北の黒河に現れ、ソビエト連邦および蒋介石と通じ、満洲国の国旗である新五色旗を捨て、青天白日旗を掲げ、「反満抗日」を訴えて兵を挙げました。明らかな反乱です。馬占山は、満洲国の実権が関東軍ひいては日本の権益主義者に握られていることを察知して挙兵したものです。馬占山に呼応して北満各地ではソ連に同調する軍閥が続々と蜂起したため北満の広大な地域が反満一色に染められました。
この事態に応ずるため、昭和七年四月二十四日、関東軍司令部は満洲平定方略を策定しました。第二師団だけでは対応できないため、参謀本部に増兵を要請しました。陸軍中央はすでに不拡大から事変完遂へと方針転換していましたので、第十師団、第十四師団、騎兵第一旅団の増派を決めました。満洲事変はじまって以来の大戦力が関東軍に与えられました。この戦力で五月ないし六月から黒河を目指して北上する計画となりました。
そんな折、東京で驚天動地の大事件が発生します。昭和七年五月十五日、犬養毅総理大臣が海軍青年将校らによって暗殺されました。協和主義に基づく関東軍の満洲国指導方針に賛成していた大アジア主義者の犬養毅総理が死去してしまいました。このため、政府および陸軍中央では日本の権益を追求する権益拡大主義が次第に台頭し、協和主義を掲げる関東軍の本庄軍司令官や石原作戦参謀と衝突するようになります。
五月下旬、関東軍司令部は第十師団と第十四師団を北満に向け、七月までに北満を平定しました。その際、本庄軍司令官は従軍宣撫の必要を痛感します。
「敵軍内部には共産党があって宣伝や煽動、謀略をやっている。こちらも武力だけではダメだ。思想方策を併用しなければならない」
こうして満洲青年連盟の後継機関たる満洲国協和会に思想戦の任務が与えられました。協和会の構成員は宣撫班となって最前線へ潜入していきました。石原中佐は関東軍の各部隊長に「宣撫班を優遇せよ」と指令して協和会を支援しました。協和会の構成員は宣撫隊となり、共産主義の浸透していた北満各地に潜入し、協和主義を宣伝し、北満各地の商務会や農務会を説得して味方につけていきました。中には殺害されてしまう場合もありました。それでも協和会は危険を冒して北満における共産主義との思想戦に挑み、協和主義を浸透させていきました。




