表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

満洲事変

 昭和六年九月十八日午後十一時頃、奉天特務機関から発信された電報が旅順の関東軍司令部に届きます。

「本夜十時過ぎ、奉天、北大営西側において、暴戻(ぼうれい)なる支那軍隊は満鉄線を破壊、守備兵を襲い、わが守備隊と衝突せりとの報告に接し、奉天独立守備歩兵第二大隊は現地に向かって出動中なり」

 当直士官は大いに驚き、庶務将校の片倉(ただし)大尉の官舎に電話を入れました。片倉大尉は委細を聞き、

「その電報を大至急、三宅参謀長宅に届けてくれ」

と指示を出しました。そして、片倉大尉は石原中佐をはじめとする司令部幕僚宅に電話を入れました。

「奉天で重大事件が突発したので直ぐ三宅参謀長の官舎に集合」

 片倉大尉は、十二日間にわたる軍司令官の駐屯部隊検閲旅行がやっと終わり、帰宅してホッとしていた矢先でした。とるものもとりあえず和服姿のまま三宅参謀長宅に急ぎました。三宅参謀長宅に集合した参謀たちも皆が和服姿でした。ただ、石原莞爾作戦参謀だけは軍服を着用していました。それもそのはずで、石原中佐だけは、この夜に何が起こるのかを知っていました。

「戦争が始まったというのに、諸君、御ゆっくりですなあ。それとも軍服は質屋ですかなあ」

 石原中佐は、いつもの悪い癖で皮肉を言いました。そこへ当直将校が駆け付け、奉天からの電報を手渡します。電報の文面を確認した三宅参謀長は、直ちに本庄軍司令官の官邸に電話を入れます。電話に出た副官によると本庄軍司令官は入浴中でした。

「本庄閣下に、至急、軍司令部に登庁されるよう申し上げてくれ」

 こうして幕僚は軍司令部に再集合することとなり、いったん解散しました。いったん帰宅して軍司令部へ向かう途上、武田少佐、新井少佐、中野大尉、片倉大尉の四人は、胸中の不信と憤懣を口にしました。

「どうも、この事件は臭いと思うが、どうか」

「酔っぱらった花谷が、南満州は二日で占領して見せるとほざいていたが、このことだな」

「板垣と石原が何かしたんじゃないか。石原ひとり軍服だったのも怪しい」

「やるならやるで、我々にも知らせるべきだろうに」

 同じ司令部に勤務していた四人は、板垣大佐と石原中佐が秘かに何事かを画策しているという雰囲気を感じとっていました。そして、それが明らかになった今、自分たちが疎外されていたことに不満を感じました。もし、この四名が板垣、石原への不満から反対の立場をとっていたら、満洲事変は失敗したかもしれません。

忌々(いまいま)しい気もするが、大乗的な見地に立つならば、我々は板垣、石原を助けて動くべきだ。満洲の排日運動は激化している。このままでは在満邦人数十万同胞は見殺しにされてしまう」

「そうだ。この際、メンツを捨てて協力しよう。満洲に屍を埋めた数十万将兵のためにも」

 四人は不満を吞み込んで、国のためにやろうと決意しました。

 関東軍司令部の作戦室に全員が集合してほどなく、本庄繁軍司令官が登庁してきました。ロウソクの明かりの中で三宅参謀長が本庄軍司令官に状況を報告し、議題を明らかにしました。それは初動作戦の方針です。作戦計画どおりに奉天へ主力を「集中」するか、それとも軍司令官の責任と権限において「出動」を命じ、作戦計画を逸脱する行動をも実施するか否か。これは本庄軍司令官にとって重大な決断です。

「直ちに全軍に出動、攻撃命令を出すべきであります。敵の不法行為に対し、機先を制するため一刻も猶予すべきではない。直ちに各部隊に出動を命じ、敵中枢の死命を制すべきである」

 即座に断固とした態度で出動を主張したのは石原中佐です。ここで関東軍が「出動」しなければ謀略は成功しません。以後、参謀たちによる議論になりましたが、集中か出動か、議論は尽きませんでした。そもそも奉天の状況について先の電報以外に情報がなく、判断のしようがありません。午前零時を過ぎても論議が続きました。

「いや、これはやはり計画どおり集中でいこう」

 本庄軍司令官の決心は集中です。出動するかどうかは次の情報を待ってからにしても遅くはなく、常識的な判断です。そこへ、午前零時二十八分、待ちに待った第二報が届きます。

「北大営の敵は満鉄線路を爆破、その兵力三ないし四中隊にして、虎石台中隊は十一時過ぎ、五ないし六百の敵と交戦中、北大営の一角を占領、敵は機関銃、歩兵砲を増加しつつあり、中隊は目下苦戦中、野田中尉は重傷せり」

 ここにおいて本庄繁軍司令官は出動を決心します。

「よし、本職の責任においてやろう」

 本庄軍司令官は、板垣と石原の謀略を知りません。しかし、陸軍中央が秘かに満洲の攻略を考えていることを知っていました。そして、すでに奉天で戦闘が始まっています。以上のことから、本庄軍司令官は出動を決断したものと考えられます。本庄繁がのちに語ったところでは、張学良が遠く北京に出張っており、奉天を不在にしていたことも決断の一因だったようです。張学良が奉天に不在では直接交渉が不可能です。

 石原莞爾中佐にしてみれば、出動命令が出たことで謀略が一応の成功を見たことになります。しかしながら、もし本庄軍司令官が出動の決断をせず、自重してあくまでも集中を命じていたら、万事休すだったかもしれません。その場合、石原中佐には本庄軍司令官を説得することしかできません。まさか、本庄軍司令官を殺すか逮捕するかして、関東軍の実権を握るなどという暴挙は考えていなかったでしょう。それこそ自滅の道だからです。その意味において、板垣と石原の謀略は、その成否を軍司令官の決断に大きく依存していました。謀略には様々な不確定要素が介在するわけですが、実にきわどい成功です。

 本庄軍司令官が断を下したので、参謀たちは具体的な作戦の検討に入りました。満鉄の北端たる長春付近に所在する歩兵第三旅団司令部と歩兵第四連隊には、そのまま待機を命じました。なぜなら、長春付近の寛城子と南嶺に張学良軍の大部隊が駐屯しているからです。独立守備歩兵第三大隊には営口の占領を、独立守備歩兵第四大隊には鳳凰城と安東の占領を命じます。そして、遼陽の第二師団、旅順の歩兵第三十連隊、同じく旅順の重砲兵部隊をはじめとする残余の部隊には奉天への集中を命ずることとしました。参謀たちは各部隊への命令文案を次々に作文し、軍司令官の認可を得て、発令しました。すでに九月十九日の午前二時です。

 関東軍司令部と歩兵第三十連隊および重砲兵部隊は旅順から奉天へ向けて出発する準備に入りました。軍用列車が用意され、本庄軍司令官と石原中佐らは午前三時半に旅順を出発しました。旅順の軍司令部には、三宅参謀長らが残留します。

 軍用列車内が臨時の作戦室となりました。石原中佐は、参謀部の役割分担を決め、各参謀の担務を明確にしました。あわせて朝鮮軍司令官に対して混成一個旅団の増援を依頼し、また海軍の旅順第二遣外艦隊には営口方面の監視を依頼する電文案をつくり、本庄軍司令官の許可を得ました。

 軍用列車は駅に停まるごとに電報を発受信しながら進みます。刻々と戦況が伝わってきました。長春では歩兵第三旅団が寛城子と南嶺の張学良軍兵営に対する攻撃を開始していました。これは歩兵第三旅団長の長谷部照俉(しょうご)少将の独断によるものです。

 電報発受信の責任者は片倉衷大尉です。片倉大尉は、軍司令部からの発信を駅長に依頼し、また受信された戦況電報を軍司令官に伝達します。そうした任務を果たしつつ、片倉大尉の胸中にひとつ気がかりなことが浮上してきました。

(陸軍中央への報告はどうするのだろう)

 軍用列車はすでに大連、金州を過ぎて、大石橋へ向かって北上しています。事変発生からすでに五時間を経過していました。にもかかわらず、陸軍中央への報告電はまだ発信されていません。

 午前八時頃までに受信された報告によると、営口、鳳凰城、安東は無事に各守備隊による占領が完了しました。長春では、歩兵第三旅団が寛城子と南嶺の張学良軍兵営を攻撃したものの、反撃に遭い、死傷続出の模様です。このため公主嶺から奉天に向かって南下させる予定だった独立守備歩兵第一大隊を長春に向けて北上させることとしました。また、奉天では北大営と奉天城を日本軍が占領しました。

 午前九時頃、軍用列車は大石橋に接近していました。本庄軍司令官が意を決したように石原中佐に命じます。

「石原参謀、中央への報告電報を打ってくれ」

 既に電文案はでき上っています。列車が停車すると片倉大尉は飛び降り、電文を持って駅長室に飛び込みます。駅頭には多数の在留邦人が集まっており、日の丸を振り、関東軍を激励しました。新聞報道によって戦闘が発生したことを人々はすでに知っています。

「やってくれ。今度こそやってくれ、頼んだぞ」

 軍用列車が発車すると、群衆は「万歳」を叫びました。

 関東軍司令部を乗せた軍用列車が奉天駅に到着したのは九月十九日午前十一時過ぎです。この時点までの戦況は次のとおりです。朝鮮軍は増援のため鮮満国境の新義州に戦力を集中させつつありました。奉天では、北大営と奉天城を占領したものの、東大営ではまだ戦闘が続いています。長春では、寛城子の張学良軍兵営を第四連隊が占領しましたが、南嶺ではなお戦闘が続き、日本軍は苦戦しています。このため、旅順から軍司令部とともに北上してきた歩兵第三十連隊と砲兵第二連隊を長春に向けて北上させました。さらに、第二師団も長春に向かわせました。この後、東大営および南嶺の戦闘は午後三時頃までに終了します。

 奉天駅では高級参謀板垣征四郎大佐以下、花谷正少佐、今田新太郎大尉などが本庄繁軍司令官を出迎えました。奉天駅の貴賓室に場所を移し、板垣大佐が昨夜来の事件について報告しました。次いで、北大営に一番乗りした今田大尉が戦闘状況を説明しました。本庄軍司令官は報告を承認し、満洲事変の緒戦はこの日のうちに終わります。

 結局、九月十八日から十九日にかけて戦闘が発生したのは奉天と長春の二カ所だけでした。満洲青年連盟の山口重次は、十九日朝の新聞で戦闘の勃発を知り、恐怖しました。もし、張学良が満洲各地の駐屯部隊に命令して鉄道付属地を攻撃させていたら、満鉄線の全域で戦闘が発生しても不思議ではなかったからです。山口は急いで満鉄の鉄道部に出社して確認しましたが、戦闘があったのは奉天と長春だけとわかり安堵しました。奉天にいた張学良軍閥の官吏と軍人は、関東軍に攻撃されると、現場を捨てて報告もせずに逃げ散ってしまいました。このため、北京の張学良には満洲の状況がよくわからず、命令を発令できなかったようです。

 長春近郊の南嶺で戦闘が始まったのは九月十九日早暁でしたが、このとき満洲青年連盟の小沢開作は、長春の医師会に働きかけて救護隊をつくらせ、みずからトラックに乗って戦場に駆け付け、負傷兵を後送して満鉄病院に収容し、治療を受けさせました。

 翌二十日、朝鮮軍から飛行機八機が奉天飛行場に到着しました。これは朝鮮軍司令官林銑十郎中将が、

「関東軍に航空隊なく、張軍には約百機の飛行機あることなれば直ちに出動すべし」

 と命じたことによります。このように林中将は関東軍にきわめて同情的行動をとりました。ところが、困ったことに長春には飛行場がありません。関東軍司令部から満洲青年連盟に対して、

「長春に飛行中隊が来るから、飛行場をつくってくれ」

 という無理な要請が舞い込みました。この無理難題を引き受けたのは小沢開作です。小沢は、大豆畑を飛行場にするとひとり決めし、地主に無断で実行してしまいます。

「よし、あの大豆畑にしよう。あそこならいくらでも使える。交渉もくそもあるもんか」

 小沢は長春近郊に住む日本人を総動員します。

「支那人苦力をあてにせず、市民でやろう。小学校の生徒も出るんだ」

 市民総出で一列横隊を組み、大豆を抜いていきました。子供たちは幼い手で固い茎を握るたびに血を(にじ)ませましたが、それでも我慢して大豆を抜きました。そして、その日のうちに飛行場ができました。日が沈む直前、飛行機の編隊が現れて、無事に着陸しました。市民一同、感動して万歳を叫びました。

 これら在満の日本人は、満洲事変を侵略戦争とはつゆほども考えていませんでした。満洲に生活していた日本人としては、実際に張軍閥から迫害を受け、日に日に追い詰められていただけに、そこから救ってくれる何者かを心から待望していました。満洲にいる日本人には、それが生活と生命をかけた問題でした。だからこそみんな必死で関東軍に協力しました。


 関東軍は司令部を奉天の東拓ビルに置き、軍司令官と幕僚の宿舎を瀋陽館という旅館の二階に確保しました。東拓ビルの玄関には、関東軍司令部と大書された大きな白木の表札が立てられ、着剣の衛兵が警備に立ちました。奉天城には日章旗が翻り、支那人たちは奉天が日本軍に占領されたことを知りました。しかし、市内は平穏です。

 奉天と長春を抑えた関東軍司令部は北満に目を向けます。北満の拠点たるハルピンを抑えることで、全満洲を迅速に平定したいところです。関東軍の全力を北満に向けるため、南満州の守備を朝鮮軍からの増援部隊に任せる予定です。石原中佐は朝鮮軍参謀神田正種中佐とあらかじめ意を通じています。その神田中佐から、

「吉林や間島方面が不穏であれば朝鮮軍としては名目が立つので、あえて中央の訓令を待たずしての越境を辞さない。それゆえ、今後における朝鮮軍の動向は、一に吉林方面の状況如何にある」

 との連絡が入りました。この点もぬかりはありません。板垣と石原は吉林特務機関長の大迫道貞中佐と事前に連絡して手はずを整えていました。それは、吉林日本人居留民会長から関東軍司令部に邦人保護出兵を求める電報を打たせることです。この要請に応じるかたちで関東軍は吉林へ進駐する計画です。

 日本軍が北満へ進出してもソ連軍は出て来ない、というのが石原莞爾中佐の認識です。すでに板垣と石原は、甘粕正彦をハルピン特務機関に派遣しており、ハルピンにおいて甘粕が煽動工作をする予定です。 

 一方、本庄軍司令官は、奉天到着後、考え続けていました。

(この事態をどう治めるか)

 戦闘を北満まで拡大させるのか、南満だけに抑制するのか。難しい判断です。自然、本庄軍司令官は無口になりました。その本庄軍司令官に対して石原中佐は意見具申します。

「とにかく事変は起こってしまったのであります。この際、一挙に満蒙問題を解決してしまわなければ、悔いを百年の後に残します。北満に兵を進めてもソ連は今のところ手出しは致しません。第一次五ヵ年計画で重工業にいくぶんの発展を見ただけで、ただいま第二次五ヵ年計画が始まって、国内体制を整えるのに精いっぱいです。ですから、今のうちに満蒙問題を片づけてしまわなければダメです。今こそ絶好の機会です」

 本庄軍司令官は一応の納得をしますが、なお迷っている様子です。

「機会を狙うなら今だ、ということは国際情勢からみて一応うなずける。しかし、その後をどうするか」

 本庄軍司令官の問いに対して、石原中佐は待っていたかのように論じます。

「全満洲を占領して日本軍が積極的に治安維持にあたるほかありません。そうして満洲を支那から切り離して在満民衆の手によって新しい政権をつくり、独立国家として王道政治を敷くのです。日本が従来の権益主義を捨てて協和精神でいくならば,民衆は必ずついてきます。全満洲平定のためには、差し当たって三個師団の増兵を中央に要求していただきたいのです。おそらく政府はその軍事費を云々するでしょうが、そんなものは新政権樹立さえできれば間接税その他の税金収入をもってまかなえます。つまり自給自足でいけます」

 石原中佐の主張には、長年の探究と、綿密な現状調査と戦略的な計算があり、その言語振る舞いには若々しい情熱と自信がみなぎり、圧倒的な説得力がありました。

「わかった」

 本庄軍司令官が決裁しました。こうして関東軍司令部は、十九日午後五時頃、陸軍省と陸軍参謀本部に宛て「満蒙問題の解決策」と「全満洲の治安維持策」を伝達して関東軍の今後の方針を明示し、理解を請いました。同時に三個師団の増援を要請しました。

 ところが、午後六時頃、関東軍司令部を愕然(がくぜん)とさせる電報が陸軍省と陸軍参謀本部から届きます。

「帝国政府は、事態を拡大せしめざることに努力する旨方針を決定し、軍の行動は、これを含み善処せられたし」

 これは陸相電です。そして、参謀総長電は次のとおりです。

「軍の今回の行動は、これを是認するも、事後の行動については政府の方針もあり、拡大せざるよう留意せられたし」

 いずれも不拡大方針を伝えてきています。板垣と石原の謀略に終止符が打たれたと言ってよい内容です。本庄軍司令官にとっても、意外かつ深刻な電報です。本庄軍司令官は、就任直後に東京で陸軍中央が秘かに満洲攻略を考えていることを知らされていました。だからこそ、今回の関東軍の行動には理解が得られるものと考えていました。ところが、陸軍中央は不拡大方針を伝達してきました。関東軍は動けなくなりました。朝鮮軍や関東庁や満鉄や海軍や総領事館も不拡大方針に従います。関東軍だけが突出するわけにはいきません。とはいえ、不拡大方針は関東軍にとって実に過酷な命令です。関東軍は寡兵であるうえに、満洲で孤軍となってしまったからです。援軍どころか補給すら期待できません。関東軍の金庫は近日中には空になるでしょう。

 この困難な事態に直面した本庄軍司令官は極端なまでに無口となり、軍司令部の幕僚も意気消沈しました。

 そこに本庄軍司令官を追い詰めるように事態の悪化が告げられます。午後十時以降、鮮満国境に近い間島で暴動が発生し、また、吉林においても情勢が悪化しているとの通報が届きます。遠隔地の間島はともかくとして、吉林は満鉄付属地ではないにせよ、長春からおよそ百キロの地点です。吉林省政府からは「在留邦人の保護を保障できない」との通告があり、吉林特務機関長大迫通貞中佐からは出兵の要請電が届きます。

「吉林の敵は二十日、省城を出て某方面に出動せり」

 さらに、吉林居留民会長からも出兵要請が関東軍司令部に届きます。

「吉林の情勢急迫し・・・至急、完全なる現地保護の道を・・・懇願す」

 板垣と石原にとっては経略どおりですが、本庄軍司令官にとっては不測の事態です。政府の不拡大方針と吉林からの出兵要請という相矛盾する状況の下で本庄軍司令官は苦悩します。

 すでに長春には第二師団が集中していることもあり、関東軍司令部の参謀たちは吉林進駐作戦を立案し始めました。他方、林久治郎総領事は吉林への進出に反対しました。林総領事は本庄軍司令官を訪ね、自重を促します。

「吉林の石射猪太郎総領事からは邦人保護の要請が届いていません。出兵要請は必ずしも信用できません」

 三宅参謀長以下、板垣、石原、新井、武田、中野、片倉の参謀たちは、瀋陽館の板垣大佐の居室に集まって策を練り、九月二十一日午前零時頃、吉林派兵案を完成させました。そして、三宅参謀長が同案をもって本庄軍司令官の部屋に出向き、建言しました。しかし、同意を得られません。

「もう少し様子を見よう」

 というのが本庄軍司令官の返事です。それからしばらくして、三宅参謀長は重ねて同案を提案しましたがダメでした。

「こうなったら全員で軍司令官に決裁を仰ぎに行きましょう」

 片倉大尉の提案によって、全参謀が本庄軍司令官の居室に赴き、畳の上に正座しました。まず新井少佐が吉林の現状を報告し、石原中佐が吉林派兵の必要性を作戦面から説明し、さらに板垣大佐が、

「関東軍は方針を堅持して邁進すべきである」

 と進言しました。本庄軍司令官は黙って参謀たちの説明を聞いていましたが、一度だけ口をはさみました。それは、板垣大佐が説得の途中、

「こうなっては断固として所信に邁進するよりほかに対策がありません。ことに全満洲の日本人はみな軍の断固たる処置を希望しております。軍がぐらついては」

 と言ったときです。

「何を言うか」

 と本庄中将は一喝しました。「軍がぐらついては」との言葉に反応したのです。

「参謀長と高級参謀だけ残って、あとの者は退出せよ」

 本庄軍司令官が言うので、三宅参謀長と板垣高級参謀だけが部屋に残り、論議を重ねることになりました。退けられた石原中佐以下は板垣大佐の部屋に戻ります。

「ああ、満洲事変もこれでおしまいだ。あとは林総領事にでも任せて、撤退だ。俺はもうやめた。片倉大尉、作戦は貴様がやれ」

 石原中佐は匙を投げたようなことを言い、言うが早いか寝転がってしまいました。やがて三宅参謀長が戻ってきました。もはや軍司令官の部屋に残っているのは板垣高級参謀だけです。板垣大佐は軍司令官室に残ってなお説得し続けました。といっても板垣大佐は黙って座っていただけです。本庄軍司令官の正面にぴたりと座り、身じろぎもせずに粘りました。両者ともに無言です。

 この間、本庄軍司令官の心中は非常な苦悶にあえいでいたと推測されます。上層部からは不拡大方針を突きつけられ、満洲の現状からは独断専行の必要を迫られています。独断専行すれば、責任を問われかねず、軍歴の終了をも覚悟せねばなりません。かといって、このまま不拡大方針を守っていたら、満洲の状況は悪化の一途をたどるかもしれず、寡兵かつ孤立した関東軍は悲運に陥り、在満邦人を保護することさえできなくなる可能性が多分にありました。

 午前三時頃、板垣大佐が自身の居室に戻ってきました。参謀たちの視線が板垣大佐に注がれます。

「大佐殿、決裁は?」

「いただいてきた」

 一同、万歳を叫びました。参謀たちはすぐに軍服に着替えて軍司令部に登庁し、第二師団に対して吉林への進出を命令ずるとともに、朝鮮軍司令部に吉林派兵を電報しました。ただ、陸軍省と参謀本部への通報は三時間だけ遅らせました。

 命令を受けた長春の第二師団は、吉長線を利用して、装甲列車を先頭に吉林へ進出し、吉林城に無血入場しました。また、関東軍が吉林へ進駐するとの通報を受けた朝鮮軍司令官の林銑十郎中将は、参謀本部に対して「義において忍びず」と打電し、独断で新義州に待機させてあった混成第三十九旅団を満洲に送る決心をし、正午頃、関東軍に電報しました。

「軍は混成第三十九旅団を独断出動せしめたり」

 同旅団は二十一日午後一時頃に鮮満国境を通過し、奉天へ向かい、同日中に奉天へ到着しました。こうして政府と陸軍中央の不拡大方針は関東軍と朝鮮軍によって破られました。


 板垣と石原にとって、奉天を占領したあとの次なる目標は北満の拠点たるハルピンへの進出です。このため、あらかじめ甘粕正彦と吉村宗吉をハルピン特務機関長百武晴義中佐のもとへ送ってありました。甘粕と吉村は、満洲事変の勃発を知ると、昭和六年九月二十日、ハルピン市内で騒動を起こします。反日的内容の伝単をまき散らしたうえ、総領事館、朝鮮銀行、ハルピン日々新聞社などに爆弾を投げ込みました。これらは関東軍に出兵の理由を与えるための謀略です。しかし、爆弾の威力が弱かったため大した騒動になりませんでした。ハルピン総領事大橋忠一からの出兵要請にも関わらず、本庄軍司令官はハルピンへの出兵を認めませんでした。これに加えて参謀本部は関東軍に対し、

「新企図に関してはあらかじめ中央部の支持を待つごとくせよ」

 と発信して釘を刺し、また陸軍省も、

「事変の拡大を阻止するため寛城子付近以北に軍を進めず、社外鉄道の管理を為さざるよう」

 と発信して関東軍を抑えました。中央の不拡大方針に対して、関東軍司令部では片倉大尉らが積極論をぶつようになっていました。

「中央部の石頭はどうせ切り替えることはできやせんから、中央の訓令なんか無視してハルピンに兵を進めて、この際、一挙に片づけてしまったらどうですか」

 石原中佐も陸軍中央を「腰抜け」と罵りました。こうした積極論を板垣大佐が抑えます。

「まあまあ、ともかくここまで引きずってきたんだから(あわ)てることはない。我々のやったことを、ご破算にしようとしたって、もうできるもんじゃない。朝鮮軍越境出動は、中央がいったん抑えたが、状況上、飛び出してしまえば何事もない。金谷参謀総長が陛下に叱られたそうだが、結局、上奏して御裁可を得たじゃないか。ハルピンだって遅くはない。要するに派兵の口実がもう少し備わればいいんだ。もう少し様子を見よう」

 朝鮮軍の無断越境問題は、九月二十二日に御允裁(いんさい)が降りて、事なきを得ていました。

関東軍司令部は軍中央に対してハルピン派兵をくりかえし請訓しました。しかし、陸軍中央からは自制を促す返事ばかりが届きます。

「ハルピンに対しては事情が急変するも、出兵せず」

「ハルピン居留民の現地保護は、これを行わず、要すれば、在留民を引き上げるにとどめる方針なり。また、間島の状況たとえ悪化せる場合においても、事態拡大防止のためには、軍隊の力によることなく、警察官をしてこれに応ずることに決定せり」

 ハルピンの在留邦人を引き揚げさせるとなれば、出兵の理由はなくなります。これでは関東軍は動けません。


 以上、満洲事変の緒戦は九月十八日に始まり、同月二十一日で終結します。この後、十月八日までは戦火が収まります。ただ、満洲各地では匪賊、馬賊の活動が活発化しました。このため関東軍の守備隊は討伐に追われました。

 戦火はいったん収まったものの関東軍司令部には課題が多く、多忙です。なかでも最大の課題は、最終的に満洲をどうするかという難しい問題です。関東軍司令部では議論が続けられました。構想としては、日本が満洲を領有する案、清朝最後の皇帝を満洲王とする清朝復辟(ふくへき)案、張軍閥の文治派が主張する中国主権下での満洲自治区案、満洲青年連盟のいう民族協和による独立国家案などがあります。

 去る九月十九日、来満した参謀本部作戦部長建川美次少将と関東軍の板垣、石原、片倉が会談した際、建川少将は独立国家論を主張しました。

「この際すみやかに新政権を樹立して南満州を処理することを第一目標として事を運び、北満に対してはソ連の出方を見て、それによって態度を決定する必要がある。新政権の樹立に時間がかかると、かならず国際問題になるし、ソ連が介入干渉するおそれがあるから拙速主義で、早く適任者を見つける必要がある」

 つまり、迅速に南満に新政権を樹立し、北満については様子を見るという案です。これに対して石原中佐は全満洲をまとめて領有する必要を述べ、早期の北満進出を主張しました。

「ソ連の機先を制する意味で軍はハルピンに進駐して興安嶺の線を確保する必要がある。万一、ソ連軍がハルピンに兵力を集結してしまうと、こちらは動きようがなくなる」

 続けて九月二十日には、建川少将、本庄軍司令官、三宅参謀長の会談が行われ、陸軍大臣および参謀総長への提案がなされます。

「東支鉄道の性質と現下一般の情勢にかんがみ、長春以北には派兵せざるを可とすべきも、吉林、洮南(とうなん)などは一刻も早く打撃を加うるを有利とす。また張軍閥政権をつぶし、日本の支援を受ける宣統(せんとう)帝を盟主とする政権を樹立するを得策とすべし」

 九月二十二日、関東軍の三宅参謀長、板垣高級参謀、石原作戦参謀らに奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が加わり、会議が開かれました。満洲国をどうするかが議題です。九月二十日の建川、本庄、三宅会談では溥儀(ふぎ)を頭首とする政権樹立が決められていましたが、これに反対したのは土肥原大佐です。

「溥儀を引っ張り出すという意見には反対だ。帝政なんか古い考えだ。それでは民衆はついてこない。この際、日満支蒙回の五族協和を母体とした協和政権でいくべきだ」

 この意見に石原中佐と片倉大尉が賛成します。これに対して板垣大佐は現実を突きつけて反論しました。

「協和制は理想としてはさっぱりして良いが、民族間の調整が面倒だし、ぐずぐずしていると邪魔が入らんとも限らん。この際は手っ取り早い方法として溥儀を頭首とした親日政権をつくり、反張学良の勢力を糾合(きゅうごう)する方が最良だと思う。溥儀でダメなら、そのときに協和制に代えたっていいし、今は手っ取り早くやることだ」

 結果的に「満蒙問題解決策案」が決められました。その内容は、「東北四省および蒙古を領域とせる宣統帝を頭首とする支那政権を樹立し、在満蒙各民族の楽土たらしむ。満蒙独立国として中国より分離し、その政治は日満同数の委員により行い、各民族の平等なる幸福増進を図る」というものでした。石原中佐は、不満ながら同案に賛同しました。

 さっそく関東軍司令部は、天津の溥儀に連絡し、代表者を送るように伝えました。すると早くも翌二十三日、溥儀の部下である羅振玉(らしんぎょく)が奉天へ来訪しました。老齢の羅は、宣統帝の復辟を満身の誠意を込めて嘆願しました。清朝復辟への満人の強烈な情熱を見た板垣大佐は驚嘆するとともに、強く復辟案に傾きました。


 関東軍司令部にとって占領地の内政も大きな課題でした。内政が乱れてしまえば、占領した意味がありません。ここで大活躍したのは満洲青年連盟です。山口重次、小沢開作、金井章次などが関東軍嘱託となり、危険を顧みずに占領地の行政府に乗り込んでいきました。

「身分を保証するから、従来どおりに行政を執行してくれ」

 支那人の行政長官や官吏を説得して回りました。そのおかげで満洲の行政が停滞することはありませんでした。日本軍が規律正しいことを知っている支那の行政官は「歓迎するから日本軍に進駐して欲しい」と言うことさえありました。

 日本政府の不拡大方針のため満鉄本社は関東軍に協力しませんでしたが、それでも満鉄社員を主な構成員とする満洲青年連盟の尽力により鉄道が運行され続けました。

 驚くべきことですが、山口、小沢、金井らは無給でした。これについて板垣大佐は山口に謝罪しています。

「山口さん、あなたにはいろいろお骨折りいただいても、弁当代も差し上げることができなくて、まことに申し訳ありません。実は、政府が関東軍に事変費をくれません。機密費が二万円ほどあったが、奉天に来て三日目に無くなりました。第二師団の経理部から冬営設備費六十万円の請求があるのですが、そのあてがない状態です」

 政府の不拡大方針は、言葉だけのことではなく、資金面からも関東軍を苦しめていました。政府の不拡大方針が出て以後、関東軍と満鉄本社は折り合いを悪くしていました。関東軍としは、満鉄の協力を得たいところです。板垣大佐は、満鉄社員でもある山口重次に質問しました。

「山口さん、あなたの知恵で満鉄を全面的に我々の方に引っ張り込む方法はありませんか」

 すると、山口は明快に答えます。

「そんなのわけありません。良い手が一つあります。満鉄がこれまで苛め抜かれ、それだけ満鉄が恐れていたのは東北交通委員会です。それを復活させて、今度は関東軍が実権を握って満洲人に運営させると公表するのです。満鉄は慌てますよ。また、あのこわい東北交通委員会が再現して満鉄に対抗されては一大事とばかりに、満鉄はかならず関東軍に泣きついて東北交通委員会の中に入ってきます」

 この山口の提案のおかげで関東軍は満鉄本社との関係を修復し、主導権を握ることができました。


 さらなる問題は、今後の関東軍の方針です。関東軍司令部内で大いに議論されたのは、いまここで軍を退いて外交交渉に移した場合、満洲はどうなるか、ということでした。石原莞爾中佐は論じます。

「今の日本には確たる世界観も世界政策も何もない。世界の中に日本をどう持っていくかの経綸がない。第一次大戦で儲けた成金根性で現状維持だけを頼りにしている。そのくせ個人個人は金が欲しい、勲章が欲しい、できれば爵位が欲しいだけだ。これが日本の現状だ。そこに昭和維新の叫ばれる理由がある。だが、国内革新よりも満蒙問題解決の方が先だ。いま軍が手を引いたら、満洲放棄どころか、やがて明治初年の日本列島だけの国に後退してしまう。政府が何と言おうが、軍中央がどうあろうと、関東軍は使命を果たさねばならぬ。そのためには、一時、国籍を離脱しても満蒙問題を根本から解決しなければならない。既定方針に向かって結束前進あるのみ」

 議論の末に到達した関東軍参謀部の結論は次のような内容です。

「関東軍が兵を退けば、奉天省、吉林省で反乱がおこることは必至である。さらに支那本土にいる張学良、張作相、万福麟が兵を率いて帰ってくる。その兵力は十一万五千で、かなりの精鋭である。これらが奉天を固めたら、もう関東軍の力では対抗できない。細長い満鉄全線に全面戦争を仕掛けられたら全滅の危機さえある。外務省との関係でいえば、いまでこそ日本優位だが、軍備態勢が変わればそれも変わる。軍事的に不利となれば、また前のように南京政府と交渉してくれと言いだすに決まっている。そして、事態は事変以前に戻って排日が悪化していき、武力解決がダメとなれば、満蒙問題の解決どころか日本は満洲から総退却するしかない」

 よって、ここでとどまるわけにはいかず、全満洲を平定せざるべからずとの結論となりました。


 九月下旬、関東軍司令部には陸軍中央から様々な電報が頻繁に着信していました。

「錦州付近の奉天政権を実力行使なく覆滅すべし」

「吉会線を敷設し、塩税を差し押さえよ」

「不拡大に努め外交官と協力せよ」

「新政権樹立に関与すべからず」

「軍が銀行の資金流用をしたとの説あり、事実か」

「間島方面に策動するとの説あり、事実か」

「長春に軍政を布くとの説あり、避けられたし」

 相矛盾する内容や単なる風説などがあり、陸軍中央の狼狽ぶりがよくわかります。電報の受付窓口である片倉大尉は、こうした中央からの電訓に立腹しました。

「いい加減にして欲しいもんだ、まったく」

 これを聞いた石原中佐が同情して言います。

「幣原外相のヒステリーを南陸相が取り次いでいるんだ。そんな電報を見るから気になる。屑籠(くずかご)に放り込め」

 同時期、満洲の各地では張学良軍閥に対する独立宣言が発せられていました。遼寧省独立宣言(二十四日)、吉林省独立宣言(二十六日)、ハルピン特別区独立宣言(二十七日)、洮南鎮守使独立宣言(十月一日)などです。関東軍は、これらの地域に武器を送るなどして独立を支援しました。

 これに対して張学良は、錦州に遼寧省政府を設立し、三万の軍勢を整え、さらに離散した部隊を糾合して失地回復を目指しました。

 そのような情勢下の十月八日正午ごろ、石原莞爾中佐は錦州方面の張学良軍を偵察しようと思い立ちます。航空参謀の塚田理喜智少佐に出撃可能かどうかを聞きます。

「全機出動可能です」

「よし、爆弾を積んで全機出動準備」

 やがて奉天飛行場に姿を現した石原中佐は命じます。

「命令。ただいまから全機出動。戦闘行動に関しては司令機に搭乗する石原中佐が上空において伝達する」

 十二機の編隊は西へ向かいました。十二機のうち六機は国産の八八式偵察機です。複葉機ながら骨格は金属製でした。五機はフランス製ポテーズ二五型軽爆撃機であり、張学良軍から鹵獲(ろかく)した機体です。残る一機が司令機でしたが、これは旅客機です。石原中佐は司令機に搭乗しました。

 奉天から錦州まではおよそ二百キロの距離です。一時間ほど飛行すると錦州の上空に達しました。石原中佐の乗る司令機は翼を振って急降下し、上空を旋回して偵察すると、さらに爆弾投下を命じました。目標は張学良軍の兵営です。八八式偵察機には爆弾投下機構がありませんので、手で爆弾を投下しました。合計七十五発の小型爆弾を投下して帰投しました。

 石原中佐は、何食わぬ顔で関東軍司令部に帰ります。

「あれ、石原参謀、どこに行っておられたのですか」

「錦州へ、ちょっと」

「錦州をやったんですか」

「錦州に爆弾なんか落としはしない。落としたのは郊外の兵営だ。いかに弱体な錦州政府でも二十キロ爆弾の六十発や七十発で吹っ飛ぶものじゃない。政府の不拡大方針と国際連盟理事会が吹っ飛べばいいと思ってやったんだ」

 不敵にうそぶく石原莞爾中佐の態度は、まさに反逆児のそれです。この錦州爆撃はジュネーブの国際連盟で問題視され、日本政府は対応に追われることとなりました。後日、爆弾の一部がアメリカ領事館に損害を与えていたことがわかりました。しかし、石原中佐は意に介しません。

「そりゃ、はずれ玉の一発や二発はあったかもしれん。我が政府をして、このうるさい国際連盟の束縛から脱退させるには、日本政府の立場をますます困難ならしめるとともに、連盟にいっそう強い日本排撃の空気を醸成させるにある」

 既に述べてきたように石原莞爾は対米戦争を覚悟しています。日本が満洲を獲れば、アメリカが出てくると予想しています。よって、アメリカ領事館に損害が及んだからといって動揺はしませんでした。また、日本の外交方針を国際協調主義から自主外交路線へと転換させた張本人は石原莞爾中佐だったと言ってよいでしょう。

 この時期、偶然ながら参謀本部第二部長の橋本虎之助少将が満洲に出張中でした。橋本少将は、部下の遠藤少佐を関東軍司令部に派遣し、石原中佐に事情を聴取させました。

「錦州爆撃というような重大行動を起こすならば、なぜ事前に本職に連絡しなかったのか、という橋本閣下のお尋ねであります」

 これに対して石原中佐は悪びれる様子もなく返答しました。

「おかしいな。軍司令官の統帥権は閫外(こんがい)の大権だ。ことに作戦は機密を要するから、何人の干渉といえども、これを許されんものだ。橋本閣下はいかなる権限があって、軍の作戦行動に立ち入られるのか」

 遠藤少佐には返す言葉がありませんでした。報告を受けた橋本少将も沈黙しました。

 ちなみに、大東亜戦争後、石原莞爾は極東軍事裁判の宣誓供述書において錦州爆撃について次のように説明しています。

「十月八日、錦州方面の爆撃でありますが、これは当時、錦州方面を占拠していた張学良軍の状況を偵察するために八八式偵察機六機、押収ポテーキ五機をもって偵察せしめたところ応射を受けたので自衛上、その軍政権庁舎である交通大学および二八師の兵営ならびに張作相の私邸などに約七十発の爆弾を投下したにすぎません。ところが、この爆弾は七センチ山砲くらいの大きさでありましたが、完全な投弾装置がなく、手で投げたような塩梅で、多少の弾丸がほかに散ったかもしれません。しかし、これを欧州大戦においてドイツ空軍が行ったロンドン爆撃、あるいは今次戦争におけるアメリカ軍B二九などの日本都市爆撃とか、広島、長崎における原子爆弾投下の惨害に比較したならば、ほとんど問題にならない程度であったと確信します。その他の場合においては、いずれもよく中央と意見を交わし、もしくはその指示を待って作戦が開始せられた次第であります」

 

 東京では十月十七日、少壮将校不穏事件が発生しました。十月事件とも錦旗革命事件とも呼ばれます。これは石原中佐の謀略です。去る九月二十六日、関東軍司令部から河本大作にあて二十万円を国内運動のために送金してありました。この金が橋本欣五郎中佐にわたってクーデター騒ぎとなったものです。クーデターとはいっても、実際には料亭で酒を浴びるように飲み、「革命だ」、「独立だ」と怪気炎をあげ、大放言していただけのことです。橋本欣五郎中佐、長勇少佐、根本博中佐、和知鷹二少佐らが憲兵に逮捕されました。

 石原中佐の狙いは、東京で騒ぎを起こし、政府と陸軍中央を動揺させるというものでした。それにより関東軍の活動が自由になるという計算です。この事件は確かに陸軍中央を動揺させたようです。

 石原莞爾中佐の放言は今に始まったことではありませんでしたが、満洲事変の最中にも過激な放言をしています。例えば、

「万一、政府がこの方針を入れなかった場合は、それこそ在満軍人有志は、一時日本の国籍を離脱して目的達成に突進する覚悟を持つことが必要だ」

 というような類のものです。この放言がいつしか東京に伝わったらしく、十月十八日夜、陸軍大臣から関東軍司令官宛てに次の電報が届きました。

「関東軍が帝国軍より独立して満蒙を支配せんとするがごとき新たなる企図は、これを差し引かうべし」

 本庄軍司令官は、さすがに呆れ、日記に次のように記しました。

「関東軍独立の報ありとて、さしひかゆるべく電報し来る。この晩、関東軍不穏電、あまり馬鹿らしく直ちに返電を発送す」

 さらに三宅参謀長あてにも次の電報が届いていました。

「小官らは一致、現下の難局打開に関し、必死の努力を重ね、要すれば予期する政府の現出をはかり、断固として満蒙問題の根本解決を期しあり。小官らの熱意に信頼し、十分に自重し、関東軍独立のごとき短気あるを戒め、当方における局面好転を待たれたし。荒木貞夫、二宮治重、杉山元」

 文末の三名は、荒木貞夫教育総監、二宮治重参謀次長、杉山元陸軍次官です。そうそうたる陸軍の重鎮たちが三宅少将に対して「小官ら」と(へりくだ)っています。同電文は、全満の師団長、旅団長、独立守備隊長、憲兵隊長にまで届けられていました。この時期における陸軍中央の狼狽ぶりは不思議なほどです。それを知った石原中佐はあざ笑いました。

「橋本欣五郎や根本博らが派手に脅かすもんだから、中央の爺さんどもは気が動転して、われわれを謀反人扱いするんですなあ」

 石原中佐は豪胆に笑いましたが、さすがに本庄軍司令官、三宅参謀長、板垣高級参謀は渋い顔をして鼻白みました。陸軍中央は、「関東軍独立」という風説をよほど気に病んでいたらしく、その真偽を確かめるためにわざわざ白川義則大将を満洲に派遣しました。十月二十二日、白川義則大将は関東軍司令部を訪れ、本庄軍司令官と会談しました。

「本庄君、世の中には馬鹿な流言をする奴があり、中央が関東軍を抑制し過ぎるので関東軍は日本陸軍から離れて随意の行動に出るかもしれん、などと言いふらしている者があるようだ」

 白川大将に対して、本庄中将は色を正して言いました。

「不肖の身ではありますが、そんな道に外れたことは絶対にいたしません」

 その言葉を白川大将は信用しました。また、板垣と石原の謀略を知らなかった本庄軍司令官の言葉に嘘はありませんでした。このとき、白川大将に随行してきたのは参謀本部作戦課長の今村均大佐です。今村大佐は、板垣大佐および石原中佐と面談し、東京の騒ぎを伝えました。

「東京では、橋本欣五郎中佐らが策謀未遂のために拘束されている」

 しかし、板垣大佐も石原中佐もまるで他人事のように関心のない顔つきで聞いています。その無関心な様子を見て、今村大佐は両人を信用しました。一方、板垣大佐と石原中佐は見事にとぼけとおしたと言えます。

「今夜、打ち合わせしたいことがあります。自動車を回しますのでおいで下さい」

 板垣大佐に誘われた今村均大佐は、その夜、迎えの自動車に乗り、料亭「金六」に案内されました。座敷には板垣大佐と石原中佐のほか四名の関東軍参謀がおり、すでに酒を酌み交わしていました。今村均大佐が腰を下ろすと、石原中佐が唐突に言います。

「何ということです。中央の腰の抜け方は」

 言われた今村大佐は腹を立て、言い返します。

「抜けているか抜けていないか、冷静な目で見ないとわかりますまい」

「腰抜けの中央に頼っていては、満洲問題は解決できない」

「国家の軍隊を動かすようになった一大事を出先だけの気儘なやりかたで成し遂げられるものではありません。全国民一致の力を必要とします。そもそも」

 今村大佐がさらに話そうとする刹那、石原中佐は大声ではぐらかすように、

「ああ、眠くなった」

 と言ってゴロンと寝ころびました。今村大佐は、かねてより石原中佐と懇意でしたが、さすがに腹が立ち、

「せっかくのお招きでしたが、国家の興亡に関する重大な時、陛下の赤子、父老の愛児が刻々、戦闘に倒れているときに、このような料亭で機密の事柄を語り合うことは、私の良心が許さない。板垣大佐殿には礼儀を欠き、恐れ入りますが、お暇致します」

 今村均大佐は一礼すると宿所のヤマトホテルに帰りました。すると片倉衷大尉がヤマトホテルまで訪ねてきました。熱血漢の片倉大尉は関東軍の所信を述べ、陸軍中央の協力を求めました。これに対して今村大佐は、

「中央が関東軍を見殺しにするようなことは絶対にない。ただ、内外の情勢をにらみ、三国干渉のようなことが起こらないように苦心している。関東軍の独立などという馬鹿げた流言が飛び交っているだけでも実に残念な思いだ」

「関東軍独立などという流言は、河本大作予備大佐が口にしているところであり、板垣大佐も石原中佐も、あんな説に動かされるものではありません。この片倉は若輩ではありますが、大義親を滅するの気魄は失っておりません。ご安心願います」

 今村大佐は片倉大尉の熱誠を信じ、白川大将に報告しました。白川大将も本庄中将の言を信用していました。白川大将は「流言に心配無用」との電報を陸相と参謀総長に打つよう今村大佐に命じました。

 石原中佐は、二十年来の知人である今村大佐を韜晦(とうかい)したと言えます。謀略とはそういう罪深いものです。とはいえ、なお関東軍は政府と陸軍中央の不拡大方針に拘束されており、北満へは手出しできない状況です。しかし、石原中佐は、その恐るべき謀才の本領を発揮して関東軍を北満へと進出させていきます。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ