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決心

 大正十四年九月、ドイツ駐在の任務を終えた石原莞爾少佐はベルリンを発ち、シベリア鉄道を経由して帰国します。その途上、満洲のハルピンで国柱会の講演会に無理やり引き出され、やむなく最終戦争について論じました。しかし、あまり理解されなかったようです。

「大震災により破壊した東京に十億の大金をかけることは愚の至りである。世界統一のための最終戦争が近いのだから、それまでの数十年はバラックの生活をし、戦争終結後、世界の人々の献金により世界の首都を再建すべきだ」

 石原らしい極論を唐突に述べてしまったため、むしろ呆れられてしまいました。石原は根っからの軍人だっただけに、何事も軍事的に考える傾向がありました。いずれ戦争で焼かれるのだからバラックのままにしておけというのは暴論です。とはいえ、この最終戦争論こそ、石原の長年にわたる考究生活の成果でした。石原は、その生涯のあいだに全集を編めるほど多くの文章を残しましたが、その中で重要なものは「世界最終戦論」と「戦争史大観」です。この時点ではまだ文章化されていなかったものの、すでに石原の脳内では完成されていたようです。

 「最終戦争論」と「戦争史大観」の結論部分を略述すれば次のとおりです。近い将来、つまり飛行機が十分に発達した頃、世界最終戦争が起こります。それは日本とアメリカの戦争です。日米戦争は、まず持久戦から始まり、やがて決戦となります。持久戦は、アメリカによる太平洋方面の経済封鎖と、それに対抗する日本の自給自足経済圏確立の段階です。日本は満洲と支那を支配下に置き、日満支経済圏の発展に依拠して国防態勢を整えます。次いで、決戦の段階になります。この段階では、高度に戦力化した飛行機によって大規模な爆撃が可能となるため、戦争の形態は殲滅戦争となり、攻撃目標は軍隊だけでなく国民そのもの、国土そのものとなります。日本は、この最終戦争に勝ち抜かねばなりません。勝つためには持久戦の段階で満洲と支那を支配下に置き、日満支の経済的発展を促して国力を養い、ソビエト連邦にもアメリカにも負けない兵備を整える必要がある、というものです。

 実に稀有壮大かつ大胆な内容の近未来予想です。石原少佐がベルリン滞在中に同期の平林少佐に向かって

「摩天楼を爆撃してやる」

 と大ボラを吹いた理由はここにありました。

 大正十四年十月六日、石原莞爾少佐は東京府世田谷町の自宅にもどりました。新しい任務は陸軍大学校兵学教官です。この後、三年にわたって石原少佐はドイツ留学中の成果を陸大の講義案としてまとめつつ、幼年学校以来の長い考究の結果を集大成させようと精励します。

 陸軍大学校では欧州古戦史、フリードリヒ大王戦史、ナポレオン戦史を講義しました。今に残る石原の講義録を眺めると、実に精緻な戦術分析がなされています。そして、人類の戦争の歴史を通覧し、武器や戦闘方法や戦闘単位や戦争形態などが時代の変遷に伴ってどのように変化し、発展してきたかを観察し、近未来の戦争を論じます。石原は、戦争形態を決戦(殲滅)戦争と持久(消耗)戦争とに分類し、その戦略の違いを論じます。そして、結論として、世界的な空間規模と歴史的な時間軸のなかで日本の置かれた状況を判断しようとします。つまり、日本は何を為すべきか、日本の軍人として何を為すべきかという結論を導き出そうとしました。そのためにこそ幼年学校以来の長い考究生活が必要だったわけです。

 結論として、石原は現在および将来における日本の国防を論じ、近未来の戦争形態を予言し、それに対処するべき方策を提示します。戦争はついに最終段階に入り、東西両文明が太平洋を挟んで対峙します。つまり、アメリカと日本との間で最終戦争が起こるのです。その時期は、飛行機が無着陸で世界を一周できる程度に発達した頃であると石原は予想します。そして、その戦争形態は最終的には苛烈な殲滅戦争となり、軍隊のみならず国土と国民が攻撃対象になります。だからこそ、国防国家構想が必要であり、国家総動員体制が求められます。石原は、この最終戦争に日本をして勝たしめると決心し、その方略を考案します。

 まず戦争準備として優秀な兵器の創造と防空対策が必要だとします。優秀な兵器とは優秀な航空機です。そして、航空機が最終戦争の主力になるとすれば、防空対策を徹底する必要があります。石原は、満洲への工業地帯移転や耐火木材の研究が必要だとします。

 ソ連の陸上戦力とアメリカの海軍戦力に対抗するためには、日本だけの国力では不足なため、満洲と支那の国力を統合せねばなりません。アジアで唯一、近代化に成功した日本が指導して日満支の経済圏を確立し、大いに資源を開発して近代化を進め、米ソに対抗し得る経済圏を構築し、国力を涵養する必要があるとします。

 こうした思考を文章化するために石原少佐は懸命の努力をしますが、思わぬ伏兵に妨害されます。それは病気です。昭和元年の血尿、昭和二年の流感、昭和三年の中耳炎、度重なる疾病のため石原少佐は研究を中断せざるを得ませんでした。とくに中耳炎の症状は重篤でした。激痛を伴い、膿が流れ出るという病状でした。石原少佐は、およそ半年間の入院生活を余儀なくされます。不思議なことに、石原が研究に取り組もうとするたびに発病しました。このため石原は見舞客に冗談を言いました。

「アメリカの神様が必死に邪魔をするんだろう」

 やがて中耳炎は緩解しましたが、なお難聴と耳鳴りが残り、石原の後半生の健康にまで甚大な影響を及ぼします。石原は後に書いています。

「中耳炎病後の影響は相当にひどく、何をやっても疲れがちで遂に初志を貫きかねた。爾後の健康は昔日の如くでなく、且つ中年の中耳炎は根本的に健康を破壊し、ことに満州事変当時は大半、横臥して執務した有様であった」

 昭和三年七月に退院した石原莞爾は、八月、中佐に昇進し、十月十日、関東軍司令部への転任を命じられました。かねて入院中の石原は、懇意にしていた今村均中佐に関東軍への配属希望を伝えていました。その希望を今村が陸軍次官阿部信行中将に伝えたところ、その希望がかなえられたようです。石原中佐は、満洲に赴任する前、同期の平林盛人と会食し、

「今度の関東軍赴任は最後のご奉公と思っていく」

 と決意を語りました。石原中佐は、自身の気力と体力が残っているうちに、何事かを成そうと決心したようです。また、石原の満洲赴任を知った同期の横山臣平は、

「石原を満洲にやることは、虎を野に放つようなものである」

 と人に語りました。


 関東軍が創設されたのは大正八年です。当時、関東州と呼ばれた遼東半島南部と南満州鉄道及び鉄道付属地を守備するために編制されました。その由来は、日露戦争にまでさかのぼります。日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス講和条約によってロシアから遼東半島南部と南満州鉄道の権益を獲得しました。その後、日清間で満洲に関する条約が締結され、日本の行政権が確立しました。日本は、この地域を関東州と呼称し、大連に行政府を置きました。最初は関東総督府、次いで関東都督府です。これらの時代には府内に陸軍部が置かれていました。大正八年、関東都督府が関東庁に代わると同時に陸軍部が独立して関東軍になりました。

 関東軍の規模は条約によって規定されていました。鉄道延長一キロメートルあたり十五名の守備兵です。南満州鉄道を含めた日本管轄下の鉄道総延長が一千一百キロメートルでしたから、関東軍の兵力の上限は一万五千名程度です。関東軍は、一個師団、独立守備隊、重砲隊、憲兵隊からなっていました。

 満洲は形式的には中華民国政府の主権下にありますが、清朝末期以来の内乱状態がなお続いていたため、実質的に張作霖(ちょうさくりん)軍閥の支配下にありました。張作霖は馬賊の親玉でしたが、日露戦争の際、日本軍に味方して勢力を伸ばし、ついに満洲王に成りあがりました。その統治は劣悪で無政府状態というべき状況です。満洲各地には馬賊や匪賊(ひぞく)蔓延(はびこ)りましたが、張作霖は経世済民に関心がなく、むしろ重税を課して私腹を肥やしました。もともと日本の傀儡だった張作霖ですが、その軍勢を増大させると日本の制止を振り切って中原に乗り出し、支那の統一王になろうと画策します。張作霖は、昭和元年一月、東三省(奉天省・吉林省・黒竜江省)の独立を宣言すると大軍を率いて北京に進出し、昭和二年に中華民国陸海軍大元帥を名乗ります。昭和三年になると張作霖は支那の派遣をめぐって蒋介石(しょうかいせき)の北伐軍と戦います。しかし、連戦連敗したため、昭和三年六月、北京から奉天へ退却します。そして、退却する列車内において張作霖は爆死します。コミンテルンによって仕掛けられた爆薬によるものです。張作霖の死後、息子の張学良(ちょうがくりょう)が満洲軍閥を率いました。張学良は早くからコミンテルンに通じており、満洲王になるとすぐに蒋介石に忠誠を誓い、国権回収運動を展開して南満州鉄道に対する妨害、日本人居留民や朝鮮人入植者への迫害などを実施して排日運動を激化させました。

 そのような動乱の渦中にある満洲へ、石原莞爾中佐は向かいます。昭和三年十月二十日、石原莞爾中佐は関東軍司令部のある旅順に到着しました。関東軍司令官は村岡長太郎中将、参謀長は三宅光治少将であり、高級参謀の河本大作大佐は停職、待命中でした。作戦参謀となった石原中佐は、さっそく作戦計画の起案に着手し、翌昭和四年一月に村岡軍司令官の点検を受けました。

 同年五月、河本大作大佐が退役となり、代わって板垣征四郎大佐が関東軍高級参謀となりました。同月、関東軍司令部に満洲各地の特務機関員が集められ、情報会議が開かれました。張作霖爆死以後の満洲情勢が特務機関員から報告されました。報告によると満洲情勢は緊張の度合いを高めており、いったん事が起これば全面的な軍事行動が必要になると予測され、あらかじめ徹底した研究が必要だとの結論に至りました。

 当時、満洲の政治状況はきわめて複雑でした。その複雑さの一因は多民族が混住する複合社会であったためです。しかも民族間の対立と敵視が抜きがたく存在していました。昭和七年における満洲の総人口は約三千万人でしたが、そのうち漢民族が二千四百万人、蒙古満洲人が四百二十万人、日本朝鮮人が百二十万人、その他六十万人でした。

 これに加えて満洲では列強諸国の権益が複雑に絡み合っており、激しい権益拡張合戦が演じられていました。日本の主な権益は関東州と南満州鉄道です。日本は、大連から長春まで伸びる南満州鉄道に加えて吉長線、四洮(しとう)線、洮昂(とうこう)線を敷設したうえ、新規五線の借款敷設契約を成立させていました。また鞍山製鉄所を建設し、森林伐採権、金鉱開発権などを得ています。ソビエト連邦は、東支鉄道と松花江水運を主な権益としており、北満を実質的に支配しています。イギリスは、京奉鉄道(フランスと共同)、海関管理権、塩税管理権、外国為替独占権、タバコを主な権益としています。フランスの権益は、京奉鉄道(イギリスと共同)および郵政管理権です。アメリカは、満洲の鉄道権益に割り込もうと図ったものの失敗しました。しかし、金融資本、石油、ソーダの権益を得ています。そのほかにデンマークが大豆輸出事業、スウェーデンがマッチ事業を独占しています。

 満洲の治安の悪さは想像を絶するものでした。その原因は匪賊の猖獗(しょうけつ)です。昭和八年二月にまとめられた「全満匪賊情勢判断」という資料によると、昭和八年における満洲匪賊の実態は、賊数一百三十四賊、総人数五万六千名に達しています。その分布図を見ると、全満ほとんどが匪賊の巣と言っても過言ではなく、匪賊の海の中に関東州がはかなく孤立しているような状況でした。

 こうした満洲の情勢下、関東軍司令部は作戦計画立案のため、昭和四年七月、板垣征四郎大佐を統裁官として北満への参謀演習旅行を実施しました。主な旅行先はハルピン、チチハル、ハイラル、マンチュウリです。この旅行中、石原莞爾中佐は持論を述べる機会を与えられ、大いに弁じました。このことは、関東軍司令部内における戦略思想の統一に役立ちました。

 参謀演習旅行二日目、石原中佐は「戦争史大観」を移動中の列車内で説明しました。石原は、長年の研究成果である戦争の歴史的進化を述べたうえで、近未来を予想します。

「来るべき戦争は飛行機をもってする殲滅戦争にして、人類最後の大戦争なるべし」

 それは徹底した殲滅戦争であり、全国民が戦争に参加することになると予想します。そして、ロシア帝国の崩壊は天与の好機であるとし、日本が勝利する可能性を石原中佐は述べます。

「世界を相手とし、東亜の天地において持久戦争を行い、戦争をもって戦争を養う主義により長年月の戦争により、よく工業の独立を全うし、国力を充実して来るべき殲滅戦争を迎うるを得べし」

 そして、満蒙問題の解決こそが日本のとるべき方策だと説きます。

「現在におけるわが国防は根本国策たる満蒙問題解決を妨害する敵の実力的行為を撃破するにあり。これがために生ずる戦争は対米の公算最も多く、対露対支対英の戦争も同時に発生する恐れ無きにしも非ず。かくのごとき大戦争は一見、現在の日本に対し、すこぶる困難なるがごときも、静かにわが国の兵要的地位を研究するときは決してしからず。否、むしろこの戦争は我が行き詰れる国情を打開する唯一の道なり」

 実に勇ましい積極論を石原中佐はぶちます。アメリカ、ソ連、支那、イギリスとの戦争を恐れる必要はないというのです。

「フリードリヒ大王の決心、ナポレオンの機略あらば、世界を敵とするも決して恐れるにたらざるなり」

 石原中佐の緻密な戦争史論と大胆な戦略を聞かされた関東軍参謀たちは、血沸き肉躍るような興奮を覚えました。ちなみに、このとき石原中佐がワラ半紙にガリ版刷りしたプリントは、同年中に石原莞爾著「戦争史大観」として出版されました。

 翌日、つまり参謀演習旅行三日目、石原中佐は満蒙問題解決策を論じます。ここでいう満蒙問題とは、満洲軍閥やコミンテルンや西洋列強による排日活動のことを意味します。例えば、張学良軍閥は、南満州鉄道の経営を悪化させるために並行鉄道を建設し、満鉄の経営を圧迫する動きをみせています。また、頻発する馬賊や匪賊の略奪行為を張学良は放任しており、このため満洲在留邦人に絶え間ない被害が発生しています。そのたびに日本の領事警察隊が出動しますが、これはイタチごっこであり、解決の目途が立ちません。石原中佐は満蒙の有する意義を説明したのち、大胆に提案します。

「満蒙問題の解決は日本の活くる唯一の途なり。満蒙問題の解決は日本が満蒙を領有することによりてはじめて完全達成せらる」

 満蒙領有論です。この後、石原中佐は満洲領有論から満洲独立国家論へと考えを変えていきますが、この時点では領有論でした。そして、日本が満蒙を領有したときにはアメリカから反発が来ると予想します。

「対支外交すなわち対米外交なり。前記目的を達成するためには対米戦争の覚悟を要す。もし米国に対する能わずんば、速やかに日本はその武装を解くを有利とす。対米持久戦において日本に勝利の公算なきがごとく信ずるは対米戦争の本質を理解せざる結果なり。露国の現状は吾人に絶好の機会を与えつつあり。

対米戦争の準備成らば、直ちに開戦を賭し、断固として満蒙の政権をわが手に収む。満蒙の合理的開発により日本の景気は自然に恢復し、有識失業者また救済せらるべし。もし戦争のやむなきに至らば、断固として東亜の被封鎖を覚悟し、適時、支那本部の要部をもわが領有下におき、わが武力により支那民族の進路を遮りつつある障碍を切開して、その経済生活に溌溂たる新生命を与えて東亜の自給自活の途を確立し、長期戦争を有利に指導し、わが目的を達成す」

 言葉を失うような大胆不敵な戦略です。二十一世紀の今日、歴史の結果を知っている私共は、石原莞爾の誤断を容易に指摘できます。しかし、昭和四年の当時、ソ連は革命の混乱で弱体化しており、航空機はいまだ性能の劣る複葉機であり、アメリカ海軍の極東への投射力は微弱でした。だからこそ、石原中佐は「絶好の好機」と判断したようです。

 最終目的地のマンチュウリにおいて、石原中佐は関東軍満洲領有計画の案を提示します。

「最も簡明なる軍政を布き確実に治安を維持する以外、努めて干渉を避け、日鮮支三民族の自由競争による発達を期す。日本人は大規模の企業及び知能を用うる事業に、鮮人は水田の開拓に、支那人は小商業労働に各々その能力を発揮し、共存共栄の実を挙ぐべし」

 そして、総督府を設けて統治するとし、その組織構成を試作しています。また、治安維持のための守備隊、対ソ兵備としての四個師団の配置案を示し、飛行隊の充実を重要視しています。昭和四年七月の段階において、すでに石原莞爾中佐の脳内には満洲事変の作戦とその後の統治案ができあがっていたと言えます。

 関東軍司令官は、昭和四年七月に村岡中将から畑栄太郎中将に交代しました。関東軍司令部は十月に遼西方面の参謀演習旅行を実施し、満洲の作戦研究に万全を期しました。

 昭和五年中に石原中佐は、満鉄調査部、参謀本部参謀演習旅行団、陸大戦史旅行団などから講演を要請され、日米戦争について論じました。石原中佐は、

「満蒙問題解決の唯一方法は満蒙を領有するにあり」

 とし、その反作用として必然的に日米戦争に至ると予想します。そして、日米戦争の形態は持久戦争で始まり、決戦戦争で終わるとしています。持久戦争は具体的にはアメリカによる対日経済封鎖です。これに対して日本は満洲と支那を攻略することによって自給自足の経済圏を構築して対抗し得るとします。それに要する兵力見積は、満洲四個師団、支那十個師団、朝鮮二個師団、内地四個師団、計二十個師団です。そして、この持久戦争に続いて起こるべき決戦戦争について石原中佐は、

「飛行機による迅速なる決戦にして未曽有の悲惨なる状態を現出すべく人類最後の大戦争なり」

 とします。この時点における石原中佐の予測は、見事に的中した部分と大きく外した部分に別れます。満洲事変が日米戦争を惹起するとした予測は見事に的中しました。また、アメリカが対日経済封鎖を実施すること、航空機の発達により悲惨な状態が現出することも的中しました。しかし、予測に外れて、日本は支那を制圧できませんでしたし、日米戦争は日本の敗北に終わりました。アメリカが蒋介石を援助するために実施した大輸送作戦、つまり東南アジアの熱帯雨林を開削して長大な輸送路を建設し、大量の軍需物資を輸送した援蒋ルートは、石原中佐の想像をはるかに越えていたようです。

 昭和五年六月、菱刈隆大将が関東軍司令官に就任しました。同年十二月、前年に実施された北満および遼西への参謀演習旅行の結果が整理され、印刷されました。関東軍参謀長の三宅少将は「立派なものができた」と満足気でした。


 蒋介石と結んだ張学良は、昭和四年から国権回収運動を展開しています。その対象はソ連と日本です。このうち日本に対する措置としては満鉄並行線による満鉄の経営圧迫、日本人と朝鮮人の追い出し、満鉄付属地の経済封鎖などが強行されています。

 南満州鉄道によって運ばれた貨物は大連港で船積みされて輸出されていきます。そこで発生する運賃が満鉄の収入源です。これを封じるため、張学良は、渤海湾に面した葫蘆島(ころとう)に港湾を整備し、葫蘆島に鉄道を延伸し、南満州鉄道を迂回する鉄道経路を完成させました。そして、運賃を値下げして価格競争を仕掛けました。このため北満の大豆や東満の貨物は南満州鉄道を通らずに輸出されるようになりました。結果、満鉄の経営は大打撃を受けます。昭和五年度と昭和六年度の満鉄決算は大赤字となり、車両や線路の補修が中止され、三千名もの社員が解雇されるに至ります。危機を感じた満鉄社員の一部は、満洲青年連盟に加盟して事態の打開を考え、この後、満洲事変に身を投じていきます。

 さらに、張学良は鉄道付属を柵で囲い、通行口に監視所を設け、物品税を課しました。不当な二重課税です。奉天城内では日本人に対する暴行が日常化し、小学児童の通学を領事館警察隊が護衛する事態となりました。こうした排日政策のため在満邦人の人口は激減しました。

 朝鮮人は、古来より満洲で農業を営んできました。張学良はこれを排除するために盗売国奴懲罰令を定め、日本人や朝鮮人に土地を売った者を罰しました。このために多くの朝鮮人農家が土地を奪われる事態となりました。なかでも昭和六年六月の万宝山事件は大規模な朝鮮人圧迫事件となりました。

 日本人に対しては、鉱業、林業、商業などの事業許可を一方的に取り消す蛮行を張学良は実施しました。このため長年にわたって営まれてきた邦人事業の多くが廃業に追い込まれました。

 こうした張学良の排日政策に対して日本政府は無策でした。当時は政党内閣の時代であり、日本外交は国際協調主義、対支宥和主義を基本方針としていました。日本の政治家たちは、日本本土で口当たりの良い一般論を念仏のように口にするだけであり、満洲の実情を調べようともしませんでした。このため満鉄総裁の山本条太郎は、

「幣原法学士には支那の外交は無理だ」

 と放言して国際協調主義の幣原喜重郎外相を揶揄(やゆ)したほどです。国際協調主義の幣原外交は、その高尚な理想に反し、満洲の現場では実に愚劣な外交施策を実施していました。奉天にある日本料理店「酔山」に大金を投じて満州人好みの店内に改修し、酒と女と金による待合政治を展開しました。こうなると張学良も負けてはいません。酒と女と金で日本の政治家を籠絡し、相互の籠絡合戦となりました。外交がこのような為体(ていたらく)であってみれば、関東軍司令部参謀たちが石原莞爾中佐の満洲領有論に傾倒していったのも無理はありません。


 昭和六年初冬、朝日新聞満洲支局の主催で日満要人懇談会が開かれました。懇談会では張学良軍閥政権に代るべき新政権の問題が議論されました。軍閥政権の悪政には、日本人だけでなく、支那人、満洲人、蒙古人、朝鮮人までが辟易(へきえき)させられており、新政権待望論が浮上していました。この懇談会に出席した石原莞爾中佐は次のように述べました。

「関東軍は、満洲にいかなる政府が樹立されるかについて何の意図も計画も持っていない。三千万国民と国民を代表する皆さんによって議せられ、計画さるべきである。石原個人としての希望を言うならば、もし満洲に真に日本と親善提携し、王道を実施する政府が樹立されたならば、両国紛争の禍根となった不平等条約、治外法権は撤廃し、南満州鉄道を共有に改組し、旅順と大連の租借権は満洲の建国を祝福して新国家に贈呈すべきであると思う」

 石原中佐は、この時点ではまだ満洲領有論者でしたから、これは多分にリップ・サービスでした。しかし、満洲の政治状況を見て、徐々に満洲独立論へと傾斜していきます。一方、石原中佐の発言を聞いた満洲要人らは、関東軍の侵略意図に対する疑惑を一掃しました。なかでも、中華民国からの独立を望んでいた文治派の于冲漢(うちゅうかん)は涙を流して喜びました。

「石原さんは商売がうまい。帯のような付属地と全満洲とを取り換えてしまう。不平等条約を継続する限り、三千万民衆は日本に対して反抗意識を残すが、それを放棄されれば無条件で心服しますぞ」

 石原莞爾中佐は、秘かに準備を進めます。石原の日記に次の記述があります。

「昭和六年二月二十五日、二十四サンチ榴弾砲の建物に五千円支出のこと、板垣大佐に電報す」

 これは二十四サンチ榴弾砲を奉天にある第二十九連隊の営庭に運搬し、それを秘匿するための建築費です。この後、七月に二十四サンチ榴弾砲二門が奉天に運び込まれ、奉天城に照準を合わせます。

 石原莞爾中佐は、昭和六年の前半、満蒙問題解決案を練り、対米戦争計画を練り続けました。この時期に石原中佐が起案した文書には「現在および将来における日本の国防」、「対米戦争計画大綱」、「満蒙問題私見」、「満蒙問題処理案」などがあります。以下、石原中佐の考えを端的に示す部分を引用してみます。

「吾人の直感するところによれば、支那人が果たして近代国家をつくり得るや、すこぶる疑問にして、むしろ我が国の治安維持の下に漢民族の自然的発展を期するを彼らのため幸福なるを確信するものなり」

 この支那観は、当時の支那の実情から生まれたもののようです。支那大陸は、魯迅が「阿Q正伝」に描いた阿Qのような状況でしたから、当時の支那観としては必ずしも誤っていません。しかし、この対支観は後に変更されていきます。

「我が国情はほとんど行き詰まり、人口糧食の重要諸問題みな解決の途なきが如し。唯一の途は満蒙開発の断行にあるは世論の認めるところなり。しかるに満蒙問題の解決に対して支那軍閥は極力その妨害を試みるのみならず、列強の嫉視を招くを覚悟せざるべからざるのみならず、国内にもまたこれを侵略的帝国主義として反対する一派あり」

 当時の日本は、政党内閣による度重なる経済失政のために極度の不況下にあり、政党に対する国民の信頼は著しく低下していました。また、ワシントン体制下の日本の世論は概して平和主義でしたし、本土の日本人は概して満洲問題に無感心だったため、満洲の危機を認識しませんでした。このため在満邦人とのあいだに大きな認識のズレが生じていました。

「日本の力により開発せられたる満蒙は日本の勢力による治安維持によりてのみ、その急激なる発達を続くるを得るなり。もし万一、わが勢力にして減退することあらんか目下における支那人唯一の安住地たる満洲また支那本部と選ぶなきに至るべし。しかも米英の前にはわが外交の力なきを看破せる支那人は今や事ごとに我が国の施設を妨害せんとしつつあり。我が国正当なる既得権擁護のため、かつは支那民衆のため遂に断固たる処置を強制せらるるの日あることを覚悟すべく、この決心は単に支那のみならず、欧米諸国を共に敵とするものと思わざるべからず」

 これは石原中佐が長年の探究の末にたどり着いた決心です。それにしても豪胆な覚悟です。いずれアメリカとの戦争になるとの予想は不幸にも的中してしまいます。

「我らの戦争はナポレオンの為したるがごとく戦争によりて戦争を養うを本旨とせざるべからず。即ち占領地の徴税物資兵器により出征軍は自活するを要す。支那軍閥を掃蕩し、土匪を一掃してその治安を維持せば、わが精鋭にして廉潔なる軍隊はたちまち土民の心服を得て優に以上の目的を達するを得べし」

 持久戦争の財政に関する論考です。ナポレオンの言葉に「戦争は、一に金、二に金、三に金」があります。また、軍紀厳正で略奪暴行をしない日本軍を支那民衆は信用していました。他方、支那の軍隊は戦争の後に必ず略奪暴行を働きます。支那には「清城」という言葉があります。これは、ある城市が戦場になると、まず敗軍によって略奪され、次いで戦勝軍によって略奪されることを意味します。「清野」も同様の意味です。

「この戦争は、露国の復興および米国海軍力の増加前、すなわち遅くも一九三六年以前に行わるるを有利とす」

 一九三六年とは昭和十一年です。実際の満洲事変は昭和六年に起こりました。その意味において石原中佐はずいぶん急いで事変を起こしたことになります。

 昭和六年五月三十一日の石原莞爾の日記には次の記述があります。

「朝、花谷、今田両氏来たり、板垣大佐宅にて謀略に関する打ち合わせ。軍司令官は満鉄の保護のためには兵力を使用することを得。軍主動の解決のためには満鉄攻撃の謀略は軍部以外の者にて行うべきもの也」

 花谷とは奉天特務機関補佐官の花谷正少佐であり、今田とは張学良軍事顧問官補佐官の今田新太郎大尉です。この記述からすると、満洲事変の謀略の首謀者は板垣、石原、花谷、今田の四名だったようです。続く記述は、だれか部外者に満鉄線路を爆破させ、それを理由に関東軍を動かすことを意味しています。


 昭和六年六月、関東軍参謀長の三宅光治少将は東京の参謀本部に呼び出されました。出頭してみると訓戒を受けました。

「大事を招来せぬように」

 とのことでした。三宅参謀長は、石原中佐らが謀略を画策していることを知りません。ですから一般的な注意だと考えました。一方、陸軍中央にしてみると、満洲で石原莞爾中佐が大っぴらに満洲領有論や対米戦争論をぶちあげており、また、外務省を通じて関東軍の動きが活発化しているとの報告が入っていたため、念のために訓戒したもののようです。

 陸軍中央、つまり陸軍省と陸軍参謀本部は、満洲問題に無関心ではなく、むしろ事態を憂慮し、独自に満蒙問題の処理について考えていました。陸軍は、昭和六年六月十九日、「満洲問題解決方策の大綱」を策定しています。その内容は、石原莞爾中佐の満洲領有論よりも緩和的かつ慎重なものです。陸軍中央としては、関東軍を指導して慎重を行動させ、外務省と連絡して張学良に排日政策を緩和するよう促し、また国内外の理解を得るための広報活動を展開し、一年ほどかけて満洲における排日運動の実情を周知させ、やむを得ない場合にのみ武力を局部的に発動するという考えです。そして、武力発動は昭和七年以降と決められていました。

 一方、旅順の関東軍司令部では石原莞爾中佐が、陸軍中央の意図を知ってか知らずか、謀略計画を練りつづけています。次は石原日記の昭和六年六月二十九日の記述です。

「退庁後、板垣大佐宅にて花谷、竹下氏と四人にて奉天に関する研究」

 竹下とは、関東軍調査班長の竹下義晴中佐です。

 昭和六年七月十一日から板垣大佐と石原中佐を含む関東軍司令部幕僚は北満への参謀旅行に出ました。「対ソ作戦攻撃終末点の研究」のためでした。七月中には二十四サンチ榴弾砲二門が奉天の第二十九連隊営庭に運び込まれました。この巨砲は建物によって隠蔽されました。このうち使用に耐えた一門は、奉天城に照準を合わせました。石原莞爾がのちに語ったところでは、

「奉天の張学良軍を攻めるのに、歩兵の夜襲だけではどう計算しても安心できない。そこで二十四サンチ榴弾砲を二門、二十九連隊の営庭にもってきた」

 ということです。石原中佐は謀略準備を完整させていきます。


 昭和六年八月一日、関東軍司令官に本庄繁中将が就任します。本庄繁は、中尉のときに歩兵第二十連隊の中隊長として日露戦争に従軍し、陸大卒業後、主に支那関係の任務に従事し、張作霖の軍事顧問を務めたことがあり、満洲事情には精通しています。

 八月三日、東京で参謀本部の首脳と三軍司令官の会議が開かれました。参加者は、林銑十郎朝鮮軍司令官、真崎甚三郎台湾軍司令官、本庄繁関東軍司令官のほか、金谷範三参謀総長、二宮治重参謀次長、橋本虎之助参謀本部情報部長です。ここで満蒙問題解決の方針が確認されました。さらに、芝の料亭「湖月」にて会食が行われ、満蒙問題が検討されました。参加したのは本庄関東軍司令官、林朝鮮軍司令官、真崎台湾軍司令官、杉山陸軍次官、小磯軍務局長、永田軍事課長、二宮参謀次長、建川作戦部長、橋本情報部長、渡欧米課長、重藤支那課長などです。この会議において満蒙問題がさらに議論されました。結論はつぎのとおりです。

「中央方針として満蒙問題解決の目標を昭和十年におき、それまで国政改革、国防態勢充実と軍備拡張とを行い、同時に軍が中心となって、満蒙問題解決の必要を国内外に宣伝する」

 関東軍司令官本庄繁中将は、伊勢神宮を参拝したのちに神戸港を出帆し、八月二十日に旅順の関東軍司令部に到着しました。本庄軍司令官は、さっそく三宅参謀長をはじめとする幕僚から状況を聴取し、旅順にある各隊の巡視を行いました。

 関東軍司令部幕僚と満洲青年連盟幹部とが旅順の偕行社において会談したのは昭和六年八月二十三日です。このときまでに石原中佐は満洲青年連盟の存在に気づき、その主張が本物であるのか、眉唾物であるのかを確かめようとしたようです。関東軍側は参謀長以下全幕僚が出席し、満洲青年連盟側は幹部五名が出席しました。日本料理を食べ、酒も相当に飲んでの歓談となりました。満洲青年連盟の金井章次が連盟の概略を語り、岡田猛馬が演説しました。

 満洲青年連盟が結成されたのは昭和三年十一月でした。その目的は満蒙の開発、日本の発展、東洋永遠の平和です。その宣言文の一節は次のとおりです。

「満蒙は、日華共存の地域にして、その文化を高め、富源を拓き、もって彼我相益し、両民族無窮の繁栄と東洋永遠の平和を確保する」

 満洲青年連盟側の説明がひととおり終わったとき、石原莞爾中佐が「アーア、アー」とこれみよがしに大あくびをしてみせ、挑発的なことを言いました。

「なあんだ、青年連盟も権益主義者か」

 これに対して連盟側の全員が憤然として反論しましたが、石原中佐は納得しません。

「結局、帰するところは一般の権益論と同じではないですか。ただ、理屈が少し違うだけです。張政権の排日は日本の権益追及の反映です。日本が帝国主義的態度を改めない限り、排日はやみません。青年連盟の民族協和と共存共栄も権益論と同じだ」

 これに対しては連盟側の山口重次がつかみかからんばかりに反論します。

「石原さん、青年連盟は権益主義者ではありません。むしろ中国の完全な独立と国際自由の獲得を念願し、進んでそれに協力しようとするものであります。青年連盟の宣言は誤魔化しではなく、真意です」

 石原中佐は待っていたかのように再反論します。

「しかし、今の岡田さんの演説にも、このパンフレットにも支那権益の蹂躙が事細かに示されているではありませんか」

 石原は満洲領有論をすでに捨てようとしていましたが、なお満洲青年連盟を信用しきれず、試しています。青年連盟を権益主義だと揶揄したのは石原流のハッタリです。山口は恰幅の良い身体を押し出して反論します。

「パンフレットの第一項をご覧ください。それが結論です。そこには日本人も原住民族の一員として、満洲に平等の生存権を主張しているのです。我々に発展の自由が許されるならば、在満邦人は日本の国籍を離脱して満洲国民となり、協力して満洲を独立国家とし、治外法権、鉄道、旅順大連の権益を放棄して真に民族協和、日支善隣の理想郷をつくれと主張したいのです。これは場当たりでもなければ、あなた方の怒りも恐れない真実です。それが証拠には青年連盟は、会議ごとに満蒙独立案を上程、審議を三年つづけています」

 石原中佐はようやく納得したのか、関東軍側の本音を語ります。

「関東軍は微力なりといえども、二日を出でずして張軍閥を撃滅する用意と決心があります。しかし、我々は武弁であって、政治、経済の建設はできません。後に続くものがなければ無名無益のいくさに終わります。在満機関も在留邦人も権益主義で信頼できない」

 つまり、石原中佐は、張軍閥を排撃した後に政治と行政を任せるに足るだけの信頼できる機関と人材を探していたわけです。山口重次は語を継ぎます。

「青年連盟は無力ではありますが、もしものことあらば三千の会員は事の成否は別にして、満洲国の建設に挺身いたします」

 そもそも「五族協和の王道楽土」という理想像は満洲青年連盟のものです。以後、石原莞爾は青年連盟の理想に共鳴し、領有論から独立国家論へと考えを変更します。そして、実際、この一ヶ月後に満洲事変が始まると、関東軍は占領地の内政を満洲青年連盟に依頼します。満洲青年連盟はこの期待に見事に応えていきます。


 関東軍司令官本庄繁中将は、八月末から九月上旬にかけて幕僚ひとりひとりと時間をかけて懇談しました。各幕僚の性格や存念や能力を把握するためです。石原莞爾作戦参謀から意見を聴いたのは九月一日の午前です。関東軍の作戦計画はすでに石原中佐によって完整されていました。その概略は次のとおりです。関東軍は、一朝有事の場合、いずれの地点で日支衝突が起ころうとも、機先を制するために関東軍の全力を挙げて奉天付近に集中し、一挙に張学良軍閥の政治中枢ならびに張学良軍の精鋭に一撃を加え、軍閥の死命を制し、短時間のうちに事態を解決する。これが基本的な作戦です。そして、これに基づく教育、訓練、輸送等の準備を関東軍司令部と各部隊は整えつつあります。しかも、陸軍中央当局より何らの増強を期待できない状況をも想定し、満洲に所在する利用可能な作戦資材を活用することで戦力の増強に努めることまで石原中佐は考えていました。関東軍が一万数千の兵力であるのに対して、張学良軍は二十万の大軍です。よって、一をもって百にあたるため、応変に遺漏なきを期すこととしています。よって、万一の場合には、通報あり次第、各隊は自動的に出動することが定められています。本庄軍司令官は、石原作戦参謀の用意周到な作戦計画に満足しましたが、同夜、さらに石原中佐を呼び、満蒙問題の解決に関して意見を聴きました。

 ちなみに、関東軍の各部隊は次のように配置されています。関東軍司令部は旅順にあり、関東軍の主力たる第二師団司令部は遼陽にあります。関東軍の配下には歩兵独立大隊六個、常駐師団一個があり、総兵力は一万数千です。各部隊は関東州および満鉄沿線に配置されています。具体的には旅順、遼陽、長春、奉天、公主嶺、海城、鉄嶺、開原、連山関、大石橋、互房店です。これらの部隊は、いざという場合には作戦計画にしたがって行動します。石原作戦参謀の立案した作戦計画は、各部隊の奉天への集中です。張学良軍は二十万の大兵力です。わずか一万数千の関東軍は、戦力を集中させて敵軍の中核たる奉天に集中することが合理的です。

 本庄軍司令官による駐屯部隊検閲が始まったのは昭和六年九月七日です。十八日までの予定で満洲各地の駐屯部隊を検閲して回ります。三宅参謀長は旅順の軍司令部に残り、板垣高級参謀や石原作戦参謀などが軍司令官に随行します。このとき板垣と石原は、この検閲が終了すると同時に謀略を発動すると秘かに決めていました。つまり、九月十八日夜が謀略決行の予定日です。

 本庄軍司令官の検閲は、大石橋、海城、鞍山、奉天、公主嶺、長春と順調に進み、九月十五日には奉天にて夜間出動準備演習が実施されました。その十五日の石原日記の記述です。

「午後九時半より機関にて会議。これに先立ち建川来る飛電あり。午前三時まで議論の結果、中止に一決」

 文中、「機関」とは奉天特務機関のことです。「建川来る」とは、参謀本部作戦部長建川美次少将が視察のため十八日に奉天に到着するとの電報が旅順の関東軍司令部に届いたことを意味します。三宅参謀長は本庄軍司令官宛て同電報を転電し、建川少将を出迎えるために板垣か石原のどちらかを奉天に残すよう依頼しました。本庄軍司令官は板垣大佐に建川少将を出迎えるよう命じました。

 その夜、板垣と石原は明け方近くまで話し合い、謀略を中止することにしました。その理由は、もし建川少将が天皇の中止命令を携えていた場合、事態が面倒になると考えたからです。板垣大佐が奉天に残留して建川少将の話を十分に聞き、そのうえで後図を策することになりました。

 ところが、翌十六日夜、今田新太郎大尉が板垣と石原に強く反対し、あくまでも十八日夜の謀略決行を主張しました。その理由は、張学良が十万の大軍を率いて奉天を離れ、北京に滞在中であることです。好機です。このほかにも謀略上の理由があったのかどうか、そこまではよくわかりません。

「自分一人でもやる」

 今田大尉はきわめて強情でした。そのため板垣と石原も折れて、十八日夜に謀略を決行することとなりました。

 九月十七日、本庄軍司令官は遼陽において第二師団を検閲し、すべての駐屯部隊の検閲を終了しました。翌十八日、本庄軍司令官一行は遼陽を発って旅順に向かいました。奉天には、板垣大佐、花谷少佐、今田大尉らが残ります。本庄軍司令官は幕僚とともに午後十時に旅順の官舎に帰着しました。

 まさにその時、奉天郊外の柳条溝において満鉄線路が爆破されました。これが満洲事変の発火点となる柳条溝事件です。この事件こそが板垣大佐、花谷少佐、今田大尉らによる謀略だったわけですが、その詳細は残念ながらよく分かっていません。板垣、花谷、今田の三名は何者かに鉄路爆破を行わせ、日本軍に対して銃撃させたらしいのですが、それが誰だったのか、その詳細を誰も詳しく語ることはありませんでした。

 板垣征四郎大佐は、日本の敗戦後、極東軍事裁判において戦犯とされましたが、その宣誓供述書において謀略の真相を語らぬままに処刑されました。花谷、今田の両氏も真相を話さぬまま世を去りました。このため、柳条溝事件の真相は謎のままです。

 板垣征四郎は宣誓供述書において、謀略を語ることはなかったものの、それ以外の事柄については証言しています。それによると、九月十八日の夕刻、板垣大佐は奉天に到着した建川少将を出迎え、料亭でもてなしました。建川少将に特段の急用はなく、ひどく疲れているとのことだったので、板垣大佐は辞して奉天特務機関に立ち寄りました。機関職員と雑談していると、守備隊から電話があり、柳条溝の鉄道線路が爆破されたことを知りました。電話通報は数次にわたりました。情報を総合すると、支那軍が午後十時過ぎ頃に柳条溝付近で満鉄線路を爆破し、さらに日本軍の虎石台中隊の巡察斥候を射撃しました。このため虎石台中隊は救援に赴き、支那軍と交戦して敵の攻撃を排除し、さらに張学良軍の兵営である北大営の一角を占領しました。ところが、張学良軍が機関銃と歩兵砲によって反撃してきたため、虎石台中隊は苦戦に陥りました。板垣大佐は、支那軍による計画的な挑戦であると判断し、一刻の躊躇(ちゅうちょ)をすれば満鉄付属地が張学良の大軍によって包囲攻撃されるものと判断し、攻勢をとる決心をしました。すでに独立守備歩兵第二大隊は、北大営で苦戦中の虎石台中隊の救援に向かいつつあると連絡がありました。また歩兵第二十九連隊も奉天城を攻撃する決心を伝えてきました。ここにおいて板垣大佐は、関東軍高級参謀として命令しました。独立守備歩兵第二大隊には北大営の敵を攻撃させ、歩兵第二十九連隊には奉天城内の敵を攻撃させました。そして、一連の措置を旅順の本庄軍司令官に電報しました。本来、参謀には命令権がありません。しかし、非常の事態であれば、事後報告し、軍司令官の承認を得ることで越権を免れることができます。翌十九日、板垣大佐は、旅順から奉天に進出してきた本庄軍司令官に一部始終を報告し、承認を得ました。

 板垣大佐は二十四サンチ榴弾砲について言及していませんが、石原中佐が用意したこの巨砲は緒戦において威力を発揮しました。同砲の射撃照準を指導したのは後藤亨という満洲青年連盟の人物でしたが、

「六発撃ったら、敵が逃げ出したから撃つのをやめてくれと味方から電話があった。それで砲口を城外に向けた。射撃中、砲弾が炸裂すると、暗闇の空の中へ兵舎が吹っ飛ぶのがよく見えた」

 と述懐しています。日本軍は小兵力ながら進撃を続けます。奉天の張学良軍は、北大営に一万、奉天城内に三千、東大営に一万という大兵力でしたが、日本軍の突如の夜襲に驚愕して四散し、嘘のように雲散霧消してしまいました。

 板垣大佐は、同夜、奉天領事館の森嶋守人領事に電話を入れ、協力を要請しました。

「柳条溝で中国軍が満鉄線を爆破したので、軍は出動中であるから至急来て欲しい」

 森島領事は、全領事館員に非常招集令を出し、林久治郎総領事に伝言を残して奉天特務機関に向かいました。協力を要請する板垣大佐に対し、森島領事は平和的解決を提案します。

「奉天城の平時占領くらいは外交交渉で実現して見せる。今すぐ戦闘を中止すべきだ」

 しかし、板垣大佐は納得せず、反論しました。

「すでに統帥権の発動を見ているのに、総領事館は統帥権に容喙干渉せんとするか」

 板垣と森島のふたりは二時間余にわたって甲論乙駁を続けます。この間、花谷少佐が軍刀を抜いて見せ、森島領事を威嚇したりしました。また、林総領事から板垣大佐に対して電話があり、電話口でも和戦論の応酬が繰り返されましたが、板垣大佐は押し切ってしまいます。板垣大佐にしてみれば、ここが謀略の切所です。やめるわけにはいきません。森島領事はやむなく領事館へもどり、林総領事に委細を報告し、東京への報告と在留邦人保護の措置にかかりました。

 この後、東京では、林総領事からの報告を受けた幣原喜重郎外相が閣議において南次郎陸相を責め、「陸軍の謀略ではないか」と詰め寄ります。このため政府は関東軍に不拡大方針を告げる事態となっていきます。


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