丘の上から
一介の学究、一個の言論人となった石原莞爾は、立命館大学国防学研究所所長という職を得て、国防学や戦争学の普及を図ります。研究所に戦争学や国体論の権威を集め、石原自身は「国防論」を講じました。この「国防論」は後に出版されます。ところが、東條陸相が憲兵を使って出版元に圧力をかけたため、先に出版されていた「戦争史大観」とともに「国防論」は絶版されてしまいます。
昭和十六年六月、独ソ戦争が勃発したため、日米和解を目指していた松岡外交は根底から崩壊してしまいます。翌七月、陸軍は関東軍特殊演習と称し、満洲に大部隊を集中させ、対ソ戦備を充実させました。
近衛文麿総理大臣は、対米交渉を進めるため支那からの撤兵を提案しましたが、東條陸相の強い反対に遭い、閣内不一致となったため総辞職してしまいます。大命は東條英機中将に降下しました。十月十八日、東條英機は大将に昇るとともに内閣総理大臣に就任します。
ちょうど同じ頃、石原莞爾は上京し、陸軍省兵務局長の田中隆吉少将を東亜連盟同志会本部に呼び出して忠告しました。
「私の察知するところでは、軍部は石油資源獲得の必要から蘭印を日本の勢力圏内におさめるため、南進を企図しているようだが、これは米英との戦争を企図することである。石油はアメリカと妥協すれば、いくらでも輸入できることである。石油のため一国の運命を賭して戦争をするバカがどこにあるか。たとえ南方を占領したところで米英を敵としては日本の現在の船舶では石油もゴムも米も日本内地へ輸送できるものか。ドイツの戦況を有利に判断しているようだが、冷静に観察すると、地形の異なるバルカンも西部戦線も同一戦法をとっている。またソ連戦線でも戦法に変化なく、千篇一律の観があり、これではドイツは到底ソ連には勝てない。もし陸軍が力もないくせにドイツを信頼して、米英相手に戦うというなら、これほど危険千万なことはない。君たちは極力この戦争を阻止せよ。むしろ日本はこの際、独ソ両国の中に入って、両国の戦争を止めさせるように外交的努力を為すべきである。もしヒトラーがこれを聞かぬならば、日本は英国の味方に付くと威嚇しても、ソ連との戦争を中止和解させるべきである。ドイツがソ連に侵入してあれだけの戦争をしているのは、日本海軍が太平洋の守りを堅くしているからだ。日本の連合艦隊が存在しているためにアメリカの太平洋艦隊と英国の東洋艦隊はハワイとシンガポールに釘付けにされている。ヒトラーの実力を高く見誤ってはいけない。ヒトラーの仲間入りなどして日本を亡ぼされてたまるものか。ドイツは英国だけに向けさせ、英国を降伏せしむべきだ。もし、このことをヒトラーが用いないなら、決然三国同盟を廃棄すべきである」
また、石原莞爾は、陸軍士官学校の同期で第十七師団長の平林盛人中将に悲観的な将来を語っています。
「残念ながらもう日本もダメだ。朝鮮、樺太、台湾などみな捨てて、一日も早く明治維新前の本土に帰り、ここを必死に守ったなら何とかならぬこともあるまいが、今のままでは絶対に勝利の見込みはない」
石原莞爾の遊説もむなしく、昭和十六年十二月八日、日本政府はついに対米英蘭戦争に踏み切ります。努力の信奉者である東條英機は、昭和天皇の御意に沿うべく真面目かつ懸命の努力をしました。しかし、残念ながら戦略的思考には乏しく、眼前の問題に前向きに取り組むうちにズルズルと戦争の深みにはまっていきました。当時のアメリカ政府の強硬な対日外交姿勢を考えれば、日本のだれがどうやってみても戦争を免れることはできなかったと思われます。
日米開戦と真珠湾奇襲のラジオ放送を耳にした里見岸雄は、戦争の将来を心配して京都の石原を訪ね、見通しを聞きました。
「この戦争は負けますな」
石原はズケリと言います。
「戦争のために仮に一万円の金が必要であるとすれば、アメリカは百万円を持っている。これに対して日本は同じ一万円の金が要るのにわずか千円しかもっていない。それだから千円を使うまではよいが、それから先は文無しで手を足も出なくなる理屈さ」
開戦時、平林盛人中将は第十七師団長として支那大陸の徐州にありました。平林中将は師団司令部の将校に次のように訓示しました。
「現在の日本の戦力では、対米英軍相手に干戈を交えても、絶対に勝てる見込みはない。真珠湾の奇襲で寝込みを襲い、戦果を挙げたかもしれないが、一年足らずで劣勢に追い込まれ、やがて敗戦に至るだろう。装備劣勢の日本軍が近代戦を戦えないことは、先のノモンハン戦で立証済みである。泥沼化している中国戦線を未解決のまま米英軍を相手に戦う余力は、今の日本にはない。負け戦とわかっている戦争は、絶対にやってはならない。東條は、本来、憲兵司令官がせいぜいの人物であって、陸軍大臣、総理大臣の器ではない。この難局を処理する能力など持っていない」
これは現役の師団長としては驚天動地の訓示でしたが、多分に石原の影響を受けていたようです。
開戦初頭、日本軍は英領マレーを進撃し、昭和十七年二月十日に大英帝国の拠点であるシンガポールを陥落させました。その際、石原莞爾は知人に語っています。
「あらゆる方法を尽くして講和のチャンスをとらえることが肝要だ。南方の全地域を捨ててもよい。支那とさえ仲良くなれば日本の勝利だ」
その後も日本軍は進撃を続け、米領フィリピン、蘭領インドへと進撃し、昭和十七年六月までに南方資源地帯を占領します。第一段作戦は大成功しました。このとき石原莞爾は次のように述べています。
「対米英戦争は彼我対等の経済力、軍需生産力をもってする戦争にあらず。東條らが敵の物質力の大なるを説き、漫然と生産競争に勝てとか、船腹戦争に勝てとか、不可能を可能とせよなどと説くことは激励の辞としては結構であるが、単なる物量の生産においては勝てないことは最初からわかっている。それだから勝敗決定の主要因子を兵器などの生産力に求めることは不可能である。しかし、敵の戦力を制約減殺せしめる若干の重要なる隘路もしくは弱点がある。アメリカの戦力はこの隘路を経て戦場に出現せざるを得ないのであるから、その力は本国におけるものに比し、著しく弱体化せざるを得ない。経済力において劣れる日本の戦法は、戦略的に有利なる態勢をもってその弱点を攻撃することである。かかる戦法においては、敵の弱点の考究が重要である。同時に、戦略態勢すなわち戦闘の条件、作戦方法、将兵の優秀性、特定兵器、その他の戦争手段の一定量を必要とする。軍当局は、太平洋戦争に準備された緒戦の作戦計画を遂行し終わった今日、速やかに次の戦争計画を樹立し、その計画目標に必要な生産増強の数量とその手段方法とを、成算ある態度をもって要求すべきである」
まったくそのとおりです。第二段作戦の計画立案が重要だと石原莞爾は説きました。言われるまでもなく陸海軍は第二段作戦の検討を実施していました。しかし、広大な太平洋を舞台にして圧倒的な軍事力を有するアメリカ軍の隘路を見つけ、有効な作戦を立案することは極めて困難な課題でした。陸海軍は激論の末にミッドウェイ作戦を立案して決戦に挑みました。しかし、昭和十七年六月、ミッドウェイ海戦において敗北してしまいます。
その翌月下旬、ソロモン諸島ガダルカナルの日本軍飛行場がアメリカ軍に占領されました。危機を感じた高松宮宣仁王中佐は、石原莞爾を召して意見を聴きました。
「戦争の勝敗は、はじめからわかっております。我が方の作戦はすべてに攻勢の終末点を越えています。戦力は根拠地と戦場との距離の二乗に反比例するのが原則です。日本の本土では百の力が、島までいけば十から五の力しかない。ところが敵は根拠地に近いからわが軍より力の大きいのは当然です。持久戦争においては、攻勢の終末点をどこにするかが、最初から確立されていなければなりません。しかるに支那事変も今次戦争も、全くこれを考えていない。東條のやっている戦争は何をやっているのかデタラメで、まるで決戦戦争のやり方であります。攻勢の終末線を越えれば叩かれるのは当然であり、負けることがわかっているところへ兵を送るバカはありません。近時の戦争では制空権のないところに制海権はありません。制空権が既に敵の手中に陥った以上は、即刻ガダルカナル島を撤退すべきです。陸軍もまた同様であります。ソロモン、ビスマルク、ニューギニアの諸島を早急に放棄するべきです。そしてわが補給線確保上、攻勢の終末線を西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とし、この防衛線を堅固に構築して、中部は比島の線に退却せしめ、他方、本土周辺のサイパン、テニアン、グアムの南洋諸島一切を難攻不落の要塞化することであります」
石原莞爾の提言は、一年後の昭和十八年九月に御前会議で決定された絶対国防圏に近いものでした。とはいえ、サイパン、テニアン、グアムを要塞化するには長年月と巨大資本を必要とするため、戦時下での実現は困難だったでしょう。
昭和十七年九月、石原莞爾は立命館大学を辞し、故郷の鶴岡へ引っ込みます。これは、東條英機総理の意を受けた憲兵と特高警察が執拗に立命館大学に圧力を加えたためです。石原は、大学に迷惑をかけたくないと考え、自ら身を引きました。
東條英機は、一方では石原莞爾を排斥、迫害しておきながら、他方では意見を聴きたがりました。東條の意を呈して内務官僚で官選山形県知事である斎藤亮が鶴岡の石原を訪ねます。
「対米戦争は今のところ順調に進んでいるようですが、将来の見通しはどうでしょうか」
石原はズバリと結論を言います。
「御心配には及びません。必ず負けます。負けても日本民族は滅びない。負けて目が覚めてから、はじめて立ち上がり、日本はほんとうの姿を現しますよ」
東條英機は、よほど石原の意見を聴きたかったらしく、甘粕正彦を使いに出して上京を促しました。石原は、
「俺は東條に今さら会う必要はないが、あいだに入った甘粕が気の毒だから会ってやることにした」
と言い、昭和十七年十二月に上京しました。日米両軍がガダルカナル島をめぐって激戦を繰り広げ、日本軍が苦境にあえいでいた時期です。東條と石原は秘密裏に会いましたが、生産的な意見交換にはなりませんでした。
「大政翼賛会はどうすればよいか」
東條が問います。石原は半畳を入れるような返事をします。
「それを自分に聞くのはおかしい。君が自信をもって翼賛会を動かしているではないか。自分はあんな官僚運動など考えたこともない。国民運動は国民の自主的な運動でなくては何の価値もない。我々が推進していた東亜連盟運動を抑圧したのは君だろう。あれこそが国民の自主的な運動だったのだ。それをつぶしておいて、今さら何を言うか」
東條は感情を抑えてさらに問います。
「今後の戦争指導についての考え方はどうか」
石原は容赦なく断言します。
「戦争の指導は君にはできないことは最初からわかり切ったことだ。このままでいったら日本を亡ぼしてしまう。だから一日も早く総理大臣をやめるべきだ。もはや勝ちはないのだ。制空権のないところに制海権はない。即刻ガダルカナル島から撤退し、ソロモン、ビスマルク、ニューギニアの諸島を早急に放棄するしかない。そもそも戦線を広げ過ぎている。支那事変の二の舞ではないか」
東條は内閣の事情、陸軍と海軍の関係、統帥部と政府の関係などを話題にしましたが、いずれも予備役となっている石原の知るところではありません。ふたりの感情的軋轢が大き過ぎたため、ふたりは反目したまま別れます。石原に言わせれば、すでに全てが手遅れです。それでも、この会見は東條英機の決断に一定の影響を及ぼしたようです。
この年末、東條英機は陸軍内で激論を闘わせたうえ、異例の御前会議を開催してガダルカナル島からの撤退を決定しました。これは日本陸軍史上初めての戦略的撤退でした。
日本軍は昭和十八年二月までにガダルカナル島撤退作戦を成功させましたが、ソロモン諸島方面における消耗戦はなお続きます。昭和十八年三月、日本軍の輸送船団はダンピール海峡でアメリカ軍の空襲を受け、全滅しました。
同じ頃、朝日新聞記者所武雄の取材に対して石原莞爾は、
「東京はやがて焼け野原になるぞ」
と警告しました。
昭和十八年四月、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、五月にアッツ島守備隊が玉砕し、十月にソロモン方面の日本軍根拠地であるラバウルが大規模な空襲を受けました。さらに、昭和十九年二月には日本海軍の兵站根拠地であるトラック島が大空襲に曝されました。このため日本軍はラバウルを放棄しました。昭和十九年六月以後、アメリカ軍はマリアナ方面へ矛先を向け、サイパン島を占領し、マリアナ沖海戦で日本空母艦隊を撃滅しました。
昭和十九年七月、石原莞爾は自身の時局匡救策を発表しましたが、その内容は日本の敗戦を前提として戦後の復興を論じたものです。
「四囲の情勢がかく迫った以上、我々は冷静に民族の将来を考えるべきである。私は種々思索の結果、日本が負けたとしても民族は残りえると確信する。心配はいらないし、案外早く復活するものと信ずる。カイロ会談の申し合わせどおり、日本が満洲、朝鮮、台湾を失い、日清戦争前の本土だけに還元することありとも、日本民族が幾多の苦難に耐え抜き、簡易生活に徹し、民族生存上有害不健全な全国の大都市を解散して全国土に分散し、農工一体の国土計画を実現し、真心を回復して働き抜き、さらに本土を真剣に開拓せば、優に一億の人口を養い得べく、食糧の心配はない。この間に民族復興の真の指導者も出現するであろうし、十年もすれば世界の情勢も一変するだろう。こうして日本人全体が真の日本人として出直せば、今度こそ東亜民族の心からの支持を受けることができよう。ことに将来の戦争は、高度の科学兵器の戦争となるから、現在のように大量の石炭も鉄もいらなくなるだろう。まったく民族の頭脳の戦争となるから本土の資源で充分である。日本民族の全精力を傾ければ、こうした科学戦に勝ち抜くことは可能と信ずる。かかる兵器を発明した民族が今後の世界の指導民族であり、いつまでも他国の資源を狙ったり領土をかっさらったりする帝国主義では、今後の国家民族として世界に大を為し得ぬし、また異民族の心服を勝ち得る所以でもない。日本は今後とも科学の発達に全力を傾注すべきだ。米国がいかに威張ってみても、またどんな日本統治策を案出しようとも、この難しい民族をどうして治めることができるものか。必ず手を焼くに決まっているよ。我々日本も四十年間の朝鮮統治に苦労して、ついに治めきれなかったではないか。まことによい例だと思う」
昭和十九年九月、山下奉文大将が第十四方面軍司令官に任命され、フィリピン方面の防衛にあたることとなりました。その際、石原莞爾は取材記者に言いました。
「山下は捕虜になります。かわいそうに」
記者は驚きます。
「え、捕虜ですか」
「そうです。山下はマレー半島についてはそうとう研究したが、フィリピンのことは知らんはずです。必ず捕虜になります」
昭和二十年三月、小磯国昭総理大臣は日支和平のため繆斌工作を実施しました。中国からの使者として繆斌が来日しました。繆斌と旧知だった石原莞爾は上京し、和平について語り合いましたが、この工作は失敗に終わります。
昭和二十年五月以降、石原莞爾の体調が悪化します。血尿が頻発し、血液凝塊が観察されました。昭和二十年八月に日本が降伏し、東久邇宮内閣が成立しました。東久邇宮総理大臣は石原莞爾を顧問として招聘しますが、石原は健康上の理由で辞退せざるを得ませんでした。
昭和二十年九月、石原は新庄市において開かれた東亜連盟山形大会に出席し、講演しました。聴衆は三万を数える盛況となりました。
「敗戦の最大の原因は国民道義の驚くべき低下にある。軍閥が悪いだの官僚がどうのと言っても、これも等しく国民である。何といっても国民の道義、智性、勇気が足りなかったため、もろもろの敗因が戦局の逼迫に連れて大きくなったのである。この未曽有の試練を克服して速やかに日本民族としての自覚をとりもどし、このあいだに新たなる日本人として出直せば、その復興は案外早く到来するであろう」
昭和二十年十一月二十日、本庄繁大将は戦犯として逮捕されることを潔しとせず、旧陸軍大学校内の補導会理事長室で自決しました。壮絶な割腹自殺でした。本庄は遺書のなかで満洲事変に触れ、次のように書いています。
「満洲事変ハ排日ノ極ミ、鉄道爆破ニ端ヲ発シ、関東軍トシテ自衛上、止ムヲ得ザルニ出デタルモノニシテ、何等政府及ビ最高司令部ノ指示ヲウケタルモノニアラズ、全ク当時ノ関東軍司令官タル予一個ノ責任ナリトスル」
石原莞爾の病状はふたたび悪化し、排尿が困難となり、ついに閉尿に苦しむようになりました。昭和二十一年一月には完全閉尿の状態となり、東大病院に入院します。二月には血尿が減り、疼痛もなくなったため東京逓信病院に移ります。入院は長引き、以後、石原莞爾は病床を離れられなくなります。
石原莞爾の病床には来客が絶えませんでした。石原は、そのたびに気丈に振舞うので見舞客は安心して帰りました。しかし、石原は相当に我慢していたようです。
石原莞爾の病床には極東軍事裁判の連合国側検事らも突然に現れて尋問を行いました。ある日、イギリス軍将校の検事が来ました。いきなり横柄に言います。
「おまえが石原か、証人として尋問するが、板垣征四郎を知っているか」
石原が答えます。
「知っている」
「橋本欣五郎を知っているか」
「少しは知っている」
「板垣と橋本の関係を知っているか」
「知らない」
イギリス人検事はアレコレと尋問したあげく、日本人を舐め切った態度で捨て台詞を吐きます。
「これで今日の尋問を終わるが、また来るから板垣と橋本の関係を思い出しておけ」
病室を出ようとするイギリス人検事の背中に向けて石原が大喝します。
「こら、待て。今の言葉はなんだ。無礼千万ではないか。忘れたものなら思い出すこともできようが、知らないものを思い出せとはなんだ」
怒鳴りつけられたイギリス人検事は大いに驚き、別人のように態度を変え、這這の体で逃げ出しました。
数日後、アメリカ軍将校の検事がやってきました。愛想のいい男です。石原は問われる前に言いました。
「今度の戦争で、もし陛下が自分に参謀総長を命じられたならば、日本は絶対に負けなかったであろう。そのとき、君たちは敗戦国民として我々の前にペコペコしたであろう」
アメリカ人検事は呆れて笑いましたが、笑い終えた後に問います。
「戦犯の中でいったい誰が第一級か」
「それはトルーマンだ」
「トルーマン大統領のことか、なぜだ」
「国際法には非戦闘員を爆撃するなとの規定があるにもかかわらず、老人、子供、婦女子を問わず爆撃して殺した。B二九は軍需工場でないところ、つまり戦闘員以外の民衆を爆撃したではないか。広島や長崎はいったいどうしたことか。トルーマン大統領の行為は戦犯第一級のそのまた上に値する」
石原は、まるで検事であるかのようにアメリカ人検事に質問します。
「日本の犯した罪は相当深いが、いったいどこまでさかのぼるつもりか」
「日清、日露の戦争までさかのぼりたい。なぜなら、満洲事変の根源は日清、日露戦争にあるからだ」
アメリカ人検事が言い終わるが早いか、石原がたたみかけます。
「そうか、わかった。そんなに歴史をさかのぼるならペリーを呼んで来い。アメリカ人のくせにペリーを知らんのか。徳川幕府の昔から日本は鎖国主義であった。満洲も台湾も不要だった。それをペリーの黒船艦隊がやってきて大砲で脅かして門戸開放を迫り、日本を世界の荒海に押し出し、自ら侵略のお手本を示した。日本は生き残るためにアメリカを先生として泥棒の侵略方法を学んだのだ。元凶はペリーだ。ペリーを戦犯とせよ」
数日後、ソ連軍の将校がやってきて、日本人の天皇信仰を嘲笑するようなことを言いました。石原は激怒して逆襲します。
「そういうキサマたちはスターリンを神様のように信仰しているくせに、他人の信仰をあざ笑うような下衆野郎とは話したくない。即刻帰れ」
石原莞爾は、自ら戦争犯罪人であると検事らに公言しました。占領下日本では、誰もが戦犯に指定されることを恐れ、逃れようとしていましたが、石原は逆でした。
「この俺を戦犯にしろ。戦争裁判も大きな政治の問題で争うべきである。戦争に負けたからと言って日本人は卑屈になってはいけない。小さな国際法の問題だけではない。日本を侵略国だといって裁判に付している最中に、どうだ、米ソ両国が互いに侵略者呼ばわりして言い争っているではないか。そして、今にも戦争を起こさんばかりに争っているではないか。彼らに良心があるなら、恥ずかしくて裁判などやれるものではない。大泥棒どもが互いに泥棒呼ばわりをしながら、日本と言う小泥棒を捕まえて、お前は泥棒したから怪しからんと裁判に付している。アメリカだけが正しい、などということは、後世、ことに今の青少年たちが成長して世界歴史を紐解いた場合に、これは甚だ間違っているではないか。それなら自分たちにも理由があるといって、また戦争を巻き起こさぬとも限らない。今のうちに正しいことを言うべきである」
病床の石原は、おのれの弁舌によって極東軍事裁判の欺瞞を暴こうと闘志を燃やしていました。他方、重慶通信社の中国人特派員には次のように贖罪を語りました。
「満洲国独立の結果、日本人が満洲を独占して他民族を圧迫してしまった。満洲は発展したが、その建設も、ただ単に多くのビルの建築と鉄道の敷設にとどまり、産業開発もまた期待を裏切った。俺は在満中国人に対する約束を裏切った。この意味において俺は立派な戦争犯罪人だ。おれは、これら満洲の独立に協力してくれた中国人に対し、はなはだ済まなかったと考えている」
石原莞爾が本気で民族協和の王道楽土建設を目指していたことは、この発言からわかります。
十月、退院した石原莞爾は山形県西山に隠棲し、農場を経営しながら静養生活に入りました。その石原に極東軍事裁判への出廷要請がなされました。しかし、石原の病状は重篤で動くことができません。
「ここでやってくれ」
石原は西山で裁判を開くよう要求しましたが、容れられず、結局、酒田市において臨時法廷が開かれることとなりました。
昭和二十二年五月、極東国際軍事裁判酒田臨時法廷が酒田商工会議所で行われることとなり、医師から絶対安静と言われていた石原莞爾は、病身を推して出廷することになりました。身体を動かせない石原は、若者の曳くリヤカーに乗せられて三十キロの道のりを移動して出廷しました。一方、GHQの判事、検事、弁護士、速記者、執行官、通訳、内外記者ら八十五名は、寝台車、食堂車、応接車、展望車、通信車を連ねた八両連結の特別列車で東京からやってきました。
判事は、まず開廷を宣言し、石原に問いました。
「証人石原は英語を話せるか」
「日本語ならチョッピリ話せる」
法廷に笑声が満ちました。
「尋問の前に何か言うことはないか」
「ある。不思議に耐えないことがある。満洲事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても軍の満洲建国立案にしてもみな自分である。それなのに自分を戦犯として連行しないのは腑に落ちない」
この酒田臨時法廷は、連合国がソ連の顔を立てるために形式的に実施したものであり、本質的な尋問にはなりませんでした。それでも石原莞爾の堂々たる態度は、判事や検事に感銘を与えたほか、敗戦に打ちひしがれていた日本人に大きな感動を与えました。閉廷直後、朝日新聞記者は石原のそばに来て言いました。
「東京裁判が始まって以来、今まで指導者だった戦犯たちのアメリカになびく卑屈さに、私は胸のつぶれるような恥ずかしい思いをしてきましたが、この酒田法廷で将軍の言葉を聞き、日本人として胸の晴れる思いがしました」
酒田臨時法廷の後、石原莞爾は酒田ホテルにおいて外国人記者の取材を受けました。石原は容赦なくアメリカやソ連などの連合国を批判します。
「政治家と自称する以上、目先が利かなくてはならない。明日、明後日を洞察してテキパキ手を打つのがいわゆる政治家と言うものだろう。ところがトルーマンは、明日のことはお先真っ暗のようだ。早い話が、戦争の最後の土壇場になって、させなくともよいのにソ連に参戦させて鳶に油揚げをさらわれた図などは、世界史的な大笑話となっておそらく後世に残ることだろう。おかげで全アジア諸国こそいい迷惑で、これらの国々から恨まれてもしようがあるまい。だからまず及第点は差し上げられない。ルーズベルトにしても似たり寄ったりだ。ヒトラーを例にとってみるとよくわかる。ドイツを完全に破壊し去ると将来は共産党のソ連と米国が直接衝突するときがくるぞ、とヒトラーは予言したが、じつに言い当て得て妙と言うべきだ。アメリカは、世界赤化の防波堤とすべきドイツを完全に破壊し去った。当時のルーズベルトは、ソ連人と手を結べば世界平和が来ると思っていたのであろう。ヤルタ会談秘密協定は、ソ連の真意なんか全然わからずやみくもに結んだものだから、今日のような東欧、西欧、中共、国府、南北朝鮮のような不幸な対立となり、全世界至る所で、共産主義との間に民族的なトラブルを起こしている。こんなに目先の利かない政治家は見たことがない。政略方面ではまったく落第生だ」
石原莞爾は、マッカーサーに対しても容赦ない批判を浴びせます。
「マッカーサー軍政は大失敗である。その第一は敗戦国の精神を侮辱していることである。君たちが日本に勝ったのは武力が少しばかり日本より強かったからである。腕力の強い奴が、腕力の弱いものより精神が優れているなどと言う理屈はない。日本には日本の優れた精神がある。マッカーサーは敗戦国の精神を侮辱し、民主主義を強要しているではないか。勝った国が負けた国を奴隷扱いにするということは大きな誤りである。マッカーサーは、日本人をシェパードのように訓練しているが、さてその効果はどうか。教育者は被教育者の立場に立って行うことにおいてはじめてその効果も目的も達せられるものである。日本軍が満洲、中国でやったように、勝者が敗者に対する態度、すなわち支配被支配の関係では教育は絶対にできるものではない。教育は何といっても教育者、被教育者の心の通いが大切である。支配被支配の間柄では心の通いなどあるものではない。
第二の失敗は、マッカーサーが過去の日本軍がやった軍政とまったく同じことをやっていることだ。満洲国を世間ではいろいろと悪くいうが、しかし、満洲国誕生に際しての経緯は、一般にはよく認識されていない。元来、満洲と言うところは、東亜諸民族混住の地で、各民族おのおの言い分があり、民族間の闘争の絶え間がなかったところである。激しい闘争と苦悶の結果、協和がなくては生存も、繁栄もとうていできないことを悟って、民族協和と言う新道徳が創造され、民族協和の麗しい理想郷の建設を目指して満洲国は生まれたのである。満洲国は日本軍が武力で勝手につくったように世間では思っているようだ。当時の日本国内においてさえ、満洲国を認めない、占領であるといった思想が多く、一部の人々が独立国の出現に反対したほどであった。また、ある者は独立国としたのは植民地のカモフラージュだと思い込むなど、日本人自身の満洲観が統一されていなかった。満洲の現地からする見方とは相当の隔たりがあった。結果的にみて満洲国はついに軍人と官僚とによって誤られ、今日、侵略者のレッテルを張られているが、建国当時の真意と創意、そして心ある人々の精神は、時局便乗者流の心ない批判と皮相な観察に極論されているきらいがある。満洲国の失敗の原因は、非革新的な官僚を計算の中に入れていなかったことと、中国人の嫌う奸漢を使ったことである。
そして、関東軍の内面指導なるものが非常に誤っていたこともその一つだ。満洲でも華北でも至る所、日本軍政の行われていたところはかならず中国人奸漢の食い物にされていた。奸漢はいかにも日本のためを思い、中国のためを思うかのように振舞い、甘言をもって日本軍にとりいり、日本軍を背景にして私利私欲をはかった。日本軍は、中国人の嫌う中国人、中国人を売り物にする奸漢を信用して大事を委ねた。中国人から見ればまったく笑止千万の沙汰である。日本および日本軍に対する不信軽蔑の原因もまたそこにあった。
いまマッカーサーのやっていることは、日本軍の失敗してきた軍政そのままであり、寸分の違いもない。今日、マッカーサーの前に踊りだしている日本人は、いずれも日本人から嫌われている日本人、権力に媚び、利益に走り、おべっか使いの上手な日本人で、同じ日本人から軽蔑されている日本人の言い分を入れて軍政をやっている。これで成功すると思ったら大間違いだ。
失敗の第三は、戦争中、日本国民および東亜諸民族が自主的に組織していた日本にただひとつの最も民主的な団体である東亜連盟を解散させたことである。東亜連盟は戦争中、東條軍閥、右翼団体から、民主主義である、平和主義である、国際主義である、反戦論であるといって弾圧されていた。しかし、東條さえも解散まではしなかった。それをマッカーサーは解散させてしまった。これで日本に民主的な団体はなくなってしまった。われわれはマッカーサーも東條軍閥と少しも変わりのないことを知った。しかも、その権力的なことは東條よりもはるかに強圧的であることを知った。マッカーサーは軍政の批判を厳禁している。そして軍政を批判すれば直ちに処罰している。石原が声を大にしてこのように批判していると、奴に伝えるがよろしい」
石原はマッカーサーを「奴」と呼びました。また、石原莞爾は日本の敗戦について次のように述べました。
「日本の敗戦は神意によるものである。第一は世界平和のため、心から反省する機会を与えてくれた。第二は、素っ裸の丸腰になって真の平和国家を世界に先駆けて創造せんとする先駆的使命を与えられたことである。これはまったく神意によるものと直感する。第二次世界大戦は終わったが、これは世界が政治的に統一される一つの段階であって、すでに第三次大戦が十分な可能性をもって予想されるに至った。これこそ石原が年来説ききたった人類最後の戦争である。この大破壊に入ろうとするとき、敗戦を契機にして真の平和国家を創造する機会を得たのだ。いよいよ後の鳥が先になるのだ。この意味において私は神意を心から感謝する」
昭和二十四年七月、石原莞爾は「新日本の針路」という文書を記しましたが、これが遺著となりました。同年八月十五日、石原莞爾は膀胱癌のため死去しました。享年六十才でした。




