表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/11

エピローグ

 満洲事変を軍事的側面だけから追ってみても、その本質には辿り着けません。満洲事変は、軍事的には関東軍と張学良軍閥の戦いでした。満洲に住む諸民族は張学良の悪政に苦しみ抜いていたため、関東軍を支持しました。その際、思想面においては共産主義と協和主義の戦いが起こりました。協和主義は、多民族が混住する満洲の特殊な環境下に芽生えた民族協和の思想です。満洲青年連盟が主唱した協和主義に満、漢、蒙、鮮、日の各民族が共鳴し、共産主義を打ち負かすことによって満洲は内政的安定を獲得します。軍事と思想の二重構造こそ満洲事変の本質でした。そして、万が一、協和主義が思想戦において勝利していなかったら、満洲事変は支那事変と同じような長期持久戦に陥っていた可能性すらあります。

 しかしながら、こうした満洲事変の二重性を日本人は十分に理解できませんでした。協和主義は多民族が混住する満洲でこそ生まれた思想です。その事情や思想は日本本土に暮らす日本人には理解しがたいものでした。そのため、本庄繁軍司令官や板垣征四郎高級参謀や石原莞爾作戦参謀などが人事異動で関東軍を離れてしまうと、日本の権益主義が満洲国を支配してしまい、せっかく満洲に芽生えかけていた協和主義は葉を広げて育つことができませんでした。

 石原莞爾は、アメリカやソ連といった大国に日本が対抗するためには、日本単独の国力では無理であると考えました。そこで日満支を範囲とする自立経済圏を構築しようと構想します。そして、満洲青年連盟の山口重次らと接触するうち、日満支提携のためには協和主義が有効であるとの考えに到達します。いわゆる善隣友好、共同防共、経済提携です。

 しかし、陸軍中枢は満洲事変の本質を理解せず、協和主義も理解し得ないままに満洲統治を進めました。さらに、満洲事変が非常にうまくいき過ぎたために、日本国民も陸軍も支那を軽視するという弊害に陥りました。日本政府も陸海軍も権益主義に走ってしまい、これにコミンテルンの謀略が加わって、ついに支那事変が勃発します。満洲事変の成功は協和主義に追うところが大きかった事実を理解し得なかった陸軍は、軍事的に勝利さえすれば支那を支配できると思い込み、消耗戦に踏み込んでしまいます。満洲に芽生えた協和主義は、日本の権益主義とコミンテルンの共産主義によって挟撃される形勢となり、ついに敗北します。

 日本の権益主義は支那大陸を支配するかに見えましたが、蒋介石の頑強な抵抗に遭いました。さらに、日本よりも遥かに巨大なアメリカという権益主義国家が介入してきたため、日本は支那事変で散々に消耗させられたあげく米英蘭との大東亜戦争に突入し、敗北してしまいます。米英ソ支にしてみれば、日本を東西から挟撃できる戦略態勢を整えることができたので、その好機に便乗したかたちです。

 石原莞爾は、日満支自立経済圏確立のために協和主義を推進しようと企図しましたが、まさにそれ故に、誰もが認める陸軍の逸材でありながら陸軍という組織内で思想的に孤立してしまい、その才能を十分に発揮する機会を得られませんでした。

 もしも日本政府や日本陸軍が協和主義を理解し、採用し、満洲国を協和主義的に運営し、さらに支那本土に協和主義を浸透させて蒋介石を日満支の提携に加入させ、日満支からなる自立経済圏を成立させ得ていたら、果たしてアメリカは敢えて日本を侵略しようと考えたでしょうか。おそらく考えなかったでしょう。これこそが石原莞爾の目指した日満支による東亜連盟構想でした。

 残念ながら東條英機をはじめとする陸軍官僚たちは、朝鮮統治や台湾統治の延長線上に満洲統治を考えました。陸軍だけでなく当時の日本人の多くがこの考え方でした。そして、東條に代表される権益主義者たちは支那事変を拡大させ、大東亜共栄圏を唱えて奮闘しました。表面上、大東亜共栄圏も東亜連盟も似たようなものに見えますが、東條のそれは権益主義に立脚したものであり、協和主義に立つ石原の東亜連盟構想とは根本的に異なるものでした。

 なによりも残念なことは、満洲事変の本質を当時も今も日本人が理解していないという事実です。その理解を促進するという意味において山口重次による一連の著作は実に重要な歴史資料です。


 石原莞爾には不思議な予知能力がありました。歩兵第四連隊時代の石原は、宮本忠孝軍医に次のようなことを語りました。

「敵状偵察に今は斥候なんかを出していちいち報告させているが、不安定な酷いものだ。将来は、司令部に座っていても活動写真のように敵情が映って見える機械ができるだろう」

 今日の中央戦闘指揮所(CIC)のようなものを石原はイメージしていたようです。あるいは、

「今は戦争でチャンバラしなけりゃならないが、いずれは司令官が部屋の中でボタンを押すと、どえらい大きな爆弾のようなものが海を越えて飛んで行って一発で敵の要塞や都市を粉砕するようなものができる」

 これは明らかに大陸間弾道弾のイメージです。そんな予知能力の持ち主だった石原は、若いころから万巻の書物を読み漁り、近未来の世界情勢を予知したようです。それは、おそらく強大化したアメリカが日本を征服するというイメージだったでありましょう。軍人であった石原莞爾は、当然、これを抑止するにはどうすればよいかを考え、ついに東亜連盟を構想します。日満支の協和と提携によってアジアに自立経済圏を確立し、その経済力によってアメリカに対抗し得る軍備を整え、不敗の態勢を確立するというものでした。帝国主義全盛の当時としては、壮大にして堅牢な国家構想だったといえます。そして、その構想は必ずしも侵略的なものではなく、むしろ防衛的な発想から出たものです。実際、石原の戦争計画にはアメリカ本土上陸作戦は存在せず、せいぜい西太平洋を制圧するという程度でした。

 石原莞爾は自身の構想を実現すべく大博打を打ちます。それが柳条溝事件でした。その後、満洲事変は様々な紆余曲折の末に、薄氷を踏むような経緯を経て、わずか半年の間に独立国家を造りあげます。しかしながら、それ以降、日本の満洲経営は、石原の構想とは異なる方向へ進んでいってしまいます。

 石原莞爾の頭脳は、国家の指導者として遜色のないものだったようです。陸軍も、この秀才の能力を評価して陸軍作戦中枢の要職に石原莞爾を起用し、その能力を発揮させようとしました。とはいえ、石原はひとりの軍事官僚に過ぎず、思いのままに国策を推進することができませんでした。満洲国に協和主義を定着させることもできませんでしたし、支那事変を未然に防ぐことも、その拡大を抑止することもできませんでした。国内の権益主義に足元をすくわれ、満洲事変を理解せぬまま安易に模倣して再現しようとする上長、同僚、後輩たちの暴走を止めることもできませんでした。加えて、石原が提携しようと望んだ蒋介石はすでにコミンテルンの手の内にありました。


 石原莞爾が大東亜戦争の直前になって突然に歴史舞台から消えた理由は、その健康状態が悪化したためです。天は二物を与えず、と言いますが、なんとも残念な結末です。

 石原莞爾が断言していたとおり、大東亜戦争は日本の敗北で終わりました。発達した航空機によって国土と国民が標的にされ、徹底的に殲滅されたことも石原の予言どおりでした。

 惨憺たる日本の敗戦を石原莞爾は神意ととらえ、日本が平和国家として生まれ変わる機会と理解しました。石原らしい柔軟な発想とも言えますし、石原の宗教的体質が現れたとも言えます。

 過酷なGHQの占領統治下において石原莞爾は連合国を恐れることなく堂々とした態度を一貫して示しました。それは、あたかも正気(せいき)の歌を詠んだ文天祥(ぶんてんしょう)のようです。石原莞爾が表明した数々の連合国批判は、今日の日本人にとって師表となり得るものです。アメリカの日本統治は理想から程遠い残酷なものだったし、今日もなおアメリカの日本支配は日本を弱体化させつつあるからです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ