09 宝石の海に沈む
——目指すもの。
地名。人物。称号。あるいは、何かの比喩か隠語なのかもしれなかった。少なくとも、今の真斗にとっては初めて聞く単語であった。
(〈ネヘレム〉ってなんだろう……)
真斗はベッドに寝っ転がりながら、その切れ端をかかげていた。陽にすかしてみるが、特にそれ以外、何かが書いてある様子もない。その走り書き自体もただの羊皮紙のようである。謎は深まるばかりだった。
そもそも、これが真斗に宛てたメッセージかどうかもわからない。
たまたま今まで見つからなかったものを、今日真斗が発見しただけかもしれなかった。あるいは、他の信徒からの〈罠〉である可能性もあった。ここが〈最弱の信徒〉の部屋であると知り、どこかへおびき出すためのメッセージである可能性も。
うーん、と真斗は眉間をもんだ。考えたってわからないものはどうしようもなかった。気にならないと言えば嘘になるが、真斗は別に頭脳派でもなんでもなかったので、彼は早々に考えることを諦めた。
その切れ端を放り、目を閉じる。
今まず考えるべきは、明日からをどう生きるかだ。
気づいたら眠ってしまっていたらしかった。昨晩からろくに寝ていなかったので、それはある意味、自然とも言えた。
真斗が起きた時、明かりのない部屋の中は真っ暗で、窓の外の夜空の方が下手したら明るいくらいだった。
真斗は少し考えてから、外に出た。
数多の星が煌々と輝いていた。人並みに言えば、満天の星空というやつだった。冴えざえとした星々は、大海原に散りばむ宝石のようで、草むらに寝っ転がると、真斗もその海の一部となったような錯覚を覚えた。
月は見えなかった。礼拝堂の稜線に被ってしまっているようだった。
真斗は背中で土の暖かみを感じながら、輝く夜空を眺めていた。草の葉の擦れる音がよくよく聞こえた。深呼吸をすると、胸いっぱいに青臭い匂いが広がった。
ふと、草を踏み分ける足音が聞こえた。
粗雑な足音だった。けれど地面をしっかり踏み抜くような、力強さも感じられた。
真斗は顔を上げた。こちらに気がついていなかったのか、信徒の身なりをまとった中年の男が、唖然としたように真斗を見ていた。
「うおっ」
と男は驚いたようにのけぞった。
「こんばんは」
「どうもこんばんは……——は? えっ、人か?」
真斗は慌てて起き上がって、ぶんぶん首肯した。男は肩をなでおろし、
「何でもありの世界だからな。幽霊と話すこともあるかと思ったんだが、どうやら俺の勘違いだったようだな」
などと、冗談か本気かわからない口調で言った。
その男は、なんというか、とてつもなくくたびれていた。具体的にどこがと言われると難しいのだが、まとう空気感に、何だか長く濃い疲労と諦念がただよっていた。顎先から口周りへ、おおうように生えた無精髭のせいもあるかもしれない。
「ああ、その格好。お前、食堂にいたな。お前たちの楽しそうな声がよく響いてた」
会ったことがあっただろうか、と真斗は驚いてしまった。それからすぐに、自分が未だルーカスから借りた私服を着たままだったことを思い出した。この男も、昼間に食堂にいた信徒のうちの一人だったのだろう。真斗は素直にうなずいた。
「なんだ、星を見てたのか?」
「はい。綺麗だったので」
「ああ、たしかに。言われてみればそうだ」
男は天を見上げると、〈そこに星があったことに今気がついた〉とでも言いたげな顔をした。その手には、小さな筒のようなものが一本、握られていた。
それが紙巻きの煙草だと、真斗は遅ればせながら理解した。
「一服しにきただけだったんだが、いいものが見れたな」
「一服……」
「ああ、ああ。なんだお咎めか? うるせえことはナシにしてくれ。ちょいと拝借しただけさ。これがないと、俺は生きていけないもんでね」
取りつくろうような様子で男は言った。もしかしたら男は勘違いをしているのかもしれなかった。真斗は教会の職員じゃない。男を咎める理由もない。
沈黙がおりた。
会話に区切りがついて、男はどこかに行くのだろうと思われた。実際、男はここで真斗を見かけなければ立ち止まらなかったのだろうから、その予想はあながちはずれているとも思えなかった。
しかし、真斗の予想に反してその男は、なぜか真斗の側まで近寄ってきた。一匹狼然とした見た目とは裏腹に、存外、おしゃべりな質なのだろうか。話し相手がほしいとか、そういうことなのかもしれない。真斗も別に人見知りをする方ではないので、おとなしく隣をゆずる。
「お前、ここは長いのか?」
真斗は首を横に振った。来て二日目である。そんなことはない。
「そりゃ残念だ。柄にもなく頭を使って、情報収集とやらでもしてみようかと思ったんだが、アテが外れたな」
隣に立たれると、男には、思いのほか威圧感があった。まず、背が高い。おそらくの顔立ちから、男は真斗と同郷かそれに近い出身のはずだが、小柄が多い人種とは思えないほどに、男には上背があった。真斗よりもゆうにデカい。
そして、体格もかなりのものだった。前留めのシャツはパツパツとしていて、他の信徒と同じデザインとは思えないほどだった。袖から生え出た腕は筋骨隆々として盛り上がり、その手首も太く筋張っている。
張り出た頬骨。わずかに右に曲がった鼻。荒れた肌。さしずめ四十代から五十代といったところだった。たぶん、カタギではなかった。真斗は今更ながらに、この場を立ち去った方がいいような気がしてきた。
加えて、真斗をビビらせたのはそれだけではなかった。
男の瞳である。眼圧が強いとか、目力があるとかそういった話ではなくて——たしかに男の目つきはお世辞にもいいとは言えなかったが——その両目に、闇の中でもあわく光る紋様が浮かんでいることに、真斗は気づいてしまったのだ。
信徒の印だった。しかも、既に〈王の特権〉を発動した者にきざまれる刻印である。正円の中に篝火。信徒の中でも、おそらくは最強の一角——炎の信徒である証が、男の瞳孔で赤々と主張していた。
真斗はとっさに視線を走らせた。宿舎の中までの道のりを見た。距離にして百メートルとかそこらだ。走れるだろうか。
そこまで考えて、真斗はハッとする。別に逃げる必要はないのだ。だって、ここでの信徒の交戦は禁じられているのだから。
それでも、本能的に身体が逃げようとしていた。明らかに強いとわかる信徒に出会ったのは初めてだったので、たぶん動揺したのだった。
真斗は、いつの間にか詰めていた息を吐き出した。そんな真斗の様子を知ってか知らずか、男は煙草の根を歯で噛み、軽く息を吸い、指を一つ、パチンと鳴らして火をつけた。
それはあまりに自然な発火だった。二日目にして、男はあまりに〈王の特権〉の行使に慣れすぎていた。まだ自身の権能を使ったことのない真斗とは、あまりに対照的だった。何もかもが、違っていた。
「ずっと地下にいたからな。こんな広い空を見るのは久々だ」
男が言った。何かを懐かしむような声音だった。苦味と辛酸を混ぜて飲み干したような、しめった余韻だけがにじんでいた。
真斗は何も言わなかった。こんな、まるで人生相談でもするかのような尻の座りの悪いことを言われた経験がなかったので、何と言えばいいのかわからなかったのだ。もっもと、それはどうやら正解のようだった。男がおもむろに、
「お前、人懐っこいなあ」
などと、おかしなことを言い出したからだ。
「普通、いきなり自分語りする知らねえおっさんに話しかけられたら、すぐ逃げるだろ」
タイミングを逃しただけ、とはとても言えない雰囲気だったので、真斗はチラリ、と男を見上げるだけに留めた。
「ましてや俺は——コレだ。お前、怖くないのか?」
空いた右手が瞳を指差す。真斗はわずかに言いよどんで、視線をさまよわせて、そして結局、
「怖い、かも」
と何だか締まりのない返事をした。男は笑った。真斗がびっくりするほどの大笑いだった。
「正直なヤツだなあ、お前」
男は分厚い手のひらで真斗の髪をぐしゃぐしゃと混ぜっかえした。燃えるような熱い手のひらだった。真斗は思わず硬直した。男の内なる声が、鼓膜を叩く。
——こんな正直なヤツばかりだったンならよ、俺はもっとマシな生き方を……
それから少しだけ、真斗は、どこかの家のどこかの部屋で、おままごとをする女の子の後ろ姿を見た。男と同じ黒い髪をおさげにした幼女が、振り返って何かを言うと、こちらに人形を差し出してくる。
そんな、在りし日の〈どこかの風景〉を眺めていた。
「おい、どうした?」
真斗が我に返った時、そこは変わらず暗い草原だった。サワサワと草の葉がそよいでいる。星空は高く、地上の闇は深かった。男がいぶかしげにこちらを見ていた。
真斗は努めて呼吸を整え、冷えた指先を温めるように強く握った。今のは記憶だろうか。そこまで見えるのは初めてだった。
「ビビらせたか?」
男がきまり悪そうに言った。
「悪かったな」
真斗は即座に否定した。たしかに乱暴に引っかき回されたせいで、真斗の癖の強い頭はもはや鳥の巣のような惨事になっていたが、そこそこ風の強いこの場所では、それは些末な問題だった。
「煙草の、匂いが」
真斗は一度咳払いをした。
「知り合いが好きだった銘柄と似ていて、少し驚きました」
男のくわえる煙草の先から、紫煙が細く、ゆるく、立ち上っていた。それは幾度と蜘蛛の糸のように伸び、虚空へ消えていく。
「……家族か?」
真斗は口角を上げた。男も、その眼差しをわずかに和らげた。
「お前も、家族と離れて暮らしてンのか」
「はい」
「そうか。なら一緒だな」
ジジ、と乾燥葉の燃える音がした。長くなった灰を爪ではじいて落としながら、男はポツリと言った。
「何人殺せば……帰れるんだろうなあ」
とてつもなく物騒で、とてつもなく悲しい言葉だった。
彼は帰りたいのだ。地球に。家に。家族の待つ場所に。けれど信徒である以上、彼は、そんな当たり前の願いを叶えるために、これから何人も、何十人をも殺さなければならない。最後の一人になるまで、永遠に。
そうしなければ、戦いは、けっして終わらないのだから。
そしてそれは、真斗を含めた全ての信徒にも言えることだった。ここに来たくて来た奴なんか一人もいない。こんな不条理が、許されていいわけがない。
——争わなくても、みんなが生きれる道は、きっとあるよ! 私たちが諦めなければ、きっと!
(わかってるよ、シアユン)
目指す先は見えていた。全員で帰る。それだけだ。もう二度と、誰も失わないですむように。もう二度と、誰も悲しまないですむように。
真斗はちゃんとわかっていた。これは、真斗がやるべきことだと。
シアユンの屍の上に根を張り、のうのうと生きている真斗こそが、成すべき道だと。
いつの間にか、男の持つ煙草の火は消えていた。
月が沈みきったらしかった。
代わりに朝日の始まりが見えた。




