10 you made my world.
そでを折る。すそを返す。形を整える。
畳まれた服は、朝日の当たる机の上に置いた。今日で最後だから、これは返さねばならない。表面をなでると、草の青みの中にわずかにけぶる煙草の匂いが立ち上る。洗って返せないのが申し訳なかった。
真斗は封書の中から一枚の羊皮紙を取り出すと、端の方を千切った。備え付けの煤墨のインクを葦のペン先につけて、少し考えてからこう書いた。
——you made my day.
優しい清掃担当さんたちに、届けばいいと思った。
宿舎を出ると、数メートル先を、何人もの信徒がまばらに歩いているのが見えた。誰一人話している者はいない。皆が同じ服を着て、皆が同じ場所に向かっていた。
その点々とした丸い背を追うように、真斗も静かに歩き出した。
細くて涼しい渡り廊下を抜ける。高い天井の表回廊。水がせせらぐ中庭。静かな礼拝堂の側扉を横目に、切石の床の前庭を進む。
白い外壁が見えてきた。そこに、教会職員と思われる格好をした数人の男が立っていた。男たちの足元には大きな木箱が置かれている。先に着いていた信徒たちは、そこから生白い包みと革袋を二つ受け取って、次々と門をくぐっていた。
こんなものか、と真斗は思った。
「——マナトさんっ」
ふと、自分を呼ぶ声がした。真斗は周囲を見回した。誰もいない。マナトさん、っと再び呼ばれる。前庭の植え込みの陰に、身を小さくしてこちらを手招く赤毛の頭が見えた。
「る、ルーカス……!」
真斗は駆け寄った。なんでこんなところに、としゃがみ込む真斗の言葉を、ルーカスはさえぎった。しっ、と人差し指を口に当てて、あたりを確認している。人影がないことを確信したのか、安堵のため息をついたその額には大粒の汗がにじんでいて、吐息もわずかに震えていた。動揺、しているようだった。
「仕事は? もう会えないって言ってなかった?」
「マナトさん、今体調は?」
「へ? え、別に……普通だよ?」
「良かった。いいっスか? 説明してる時間、ないんス。お願い。マナトさんなら、わかるでしょ」
差し出された手のひらに、何を言われているのかを真斗は悟った。つまりは、心を読めということだ。この能力を、真斗は自分の意思で使ったことが一度もない。思わず身が引ける。
「お願い。お願い、マナトさん……!」
そのルーカスの言葉は、あまりに切実さに満ちていた。揺れるはしばみの瞳が、只事ではないことを如実に訴えていた。
真斗は目を伏せた。乾いた唇をなめ、こぶしを握った。それから言った。
「いいよ」
待ってましたと言わんばかりの勢いだった。カサついて荒れた手のひらが真斗の手を取った。強く強く握ってきた。ルーカスの生温かい汗が真斗の手の甲に移った。
しかし、それを意識する間もなく、真斗の脳裏をその情景が焼く。
——何してる、ルーカス!
それは、ヴェスパーの静止から始まった。
——死んだ信徒の所有物はすべて処分だ、わかってるだろ!
そこは室内だった。時刻は夜で、蝋燭の頼りない明かりが、ほうぼうをまあるく照らしていた。
ルーカスと、ソリスと、ヴェスパーと、ノクスがいた。見覚えのある顔ぶれが、見覚えのある内装の部屋にいた。
真斗の部屋、ではなかった。しかし置かれているものはほとんど一緒だったので、おそらくは他の信徒の部屋だった。何かを懐に入れようとしていたルーカスを、ヴェスパーが止めていた。
——ルーカス?
——どうした、お前ら
——こいつ、今、何かを持っていこうと
——えっ、何、どしたどした?
真斗は、なんとなくわかってしまった。たぶん、この部屋はシアユンの部屋なのだ。
唇が戦慄く。それでも手は離さなかった。
——ルーカス、見せろ
——お前が理由もなく、こんなことするなんて誰も思ってねえよ。だから、ほら
ルーカスが握りしめていたのは、薄くなめした革の手帳だ。手帳と言えるかも怪しいほどの、素朴な紙の束だった。綴じは麻紐で、留め具はなく、小さく不揃いな羊皮紙が何枚も折り重なったもの。
中身はわからなかった。ただ、それが何かとてつもない物であることだけは三人の表情から読み取れた。
——おいおい、これって
——マジか
——お前が自分で使うとも思えねえ。ルーカス、お前、これを渡す気か?
——先輩、オレね。初めてだったんスよ。生まれて初めて、信徒が人間だって知ったんス
髪にかかってルーカスの表情は見えなかった。普段の彼からは想像もつかないほど、妙に凪いだ声音だけが耳についた。
——おかしな話っスよね? オレたちと同じ服を着て、同じ物を食べて、同じ言葉を話すんスよ? なのにオレ、全然オレたちと同じだなんて思ってなかったんス。……マナトさんと話すまで、信徒って生き物に感情があるなんて知らなかったんス
みんな黙っていた。沈黙だけがこの夜の闇を支配していた。
——オレ、たしかにバカっスよ? 何も知らないんス。でもね、そんなバカで間抜けなオレでも、これをどうすべきかくらいはわかる
真斗は息を呑んだ。ルーカスが深々と頭を下げたからだ。そしてそれに驚いたのは、他の三人も同じようだった。
——見逃してください。これが規則違反だってわかってます。たぶん、処分は免れない。それでも、オレはこれを渡さなかったら、きっと一生後悔するんス。どうか、どうか、お願いします
蝋燭の導火線がチリチリと燃えている。四人の陰が石床の上で混ざり合い、ゆらゆらと揺れている。
——わかった
——ソリス‼︎
——いいんだよ、ヴェスパー。これでいい
——ま、俺たちは何も見てないしねー。見てないんだから、止めようがないでしょ
——ノクス、お前まで……あークソ! 本気なんだな、ルーカス!
——はい! もうオレは、今までの全部が正しかっただなんて思えないんス。オレは……オレも! 仲間が死んで良かっただなんて思う人間にだけは、なりたくない!
——その言葉、ぜってー嘘にすんじゃねえぞ! あークソ、面倒くせえことになった!
——素直じゃねえなあ
——なー
そうして、三人にもみくちゃにされるルーカスを見ながら、真斗はそっと手を引いた。
包まれていた温かな温もりもさっと離れた。襟足をなでる風が強い。鳥のさえずりと教会職員の遠くの声が耳を満たした。真斗はみじろいだ。
光が異様に眩しく感じた。白飛びする視界に、真斗は思わずうめいて目をこすった。何度か瞬きをする。数秒かそこらで焦点が合えば、水の膜の張った大きな瞳が、視界いっぱいに広がっていた。
「マ、マナトさん、オレ……!」
「——ルーカス」
何と声をかけていいのかわからなかった。だって真斗のせいで、ルーカスは何らかの罰を与えられるのかもしれないのだ。軽い物ではすまないだろう。信徒がらみの不始末は、それだけ教会にとっても、天界への致命的な信用失墜になる。
それでも真斗は、噛み締めた唇の端が持ち上がるのをおさえることができそうになかった。だってしょうがないじゃないか。〈仲間〉の心が、あまりに希望の形をしていたから。
だってしょうがないじゃないか。不変なはずの〈世界の形〉が、変わる瞬間を見てしまったのだから!
「ルーカス、僕ね。全員で生き残る道を探そうと思うんだ」
真斗は笑った。
「誰一人死なないで戦争を終わらせる。そんな夢見たいなことが出来たら——それこそ最高のハッピーエンドだと思わない?」
「はは! そんなこと言う人、オレ、初めて出会ったっス!」
それからルーカスは、忍ばせていたであろう粗末な手帳を取り出した。色褪せた表面の凹凸には、いくつかの傷があった。
「マナトさん、渡したいのはこれっス。ちゃんと中を見たわけじゃないんスけど……たぶん、これが、シアユンさんの力だったんだと思うんス」
胸に押し付けられた羊皮紙の束。見ていたよりも、ずっと分厚く重い物だった。インクの匂いに混ざって、わずかな獣臭さが鼻腔をくすぐる。
「たぶん、それは——」
「……ルーカス?」
「それをね、マナトさん。オレはそれを、持ってるヤツが、代理戦争に勝つと思うんス。だからね、どうしてもアンタに渡したかった。今、アンタの言葉を聞いて」
ルーカスの目尻が陽の光を反射してキラキラと光っていた。星屑のように。雪解けの結晶のように。
「心の底から、ここまで来てよかったなあ、って思ったっス」
ポタポタ、と手の甲を雫が伝った。温かな雫だった。真斗を鼻をすすった。うんうん、と何度もうなずいた。
「——ありがとう」
「はいっス! ……あーあー湿っぽいのはナシっスよ! もう、オレ、行かなきゃっス。さよなら、マナトさん」
「さよなら、ルーカス」
それからルーカスは、そっと回廊の方角へ駆けて行った。ルーカスは、一度も振り返らなかった。それでよかった。
その真っ直ぐな背中を眺めながら、真斗も立ち上がった。紙束を懐に入れて、落ちないように腰紐をキツく結った。
真斗は歩き出した。その足取りが先ほどとは打って変わって軽いことを、彼自身、じゅうぶん自覚していた。
もう外門の前には、ほとんどの信徒が残っていなかった。全員旅立ったのだろう。数人の後ろについて並びながら、真斗はこの先の旅路に思いを馳せた。
信徒みんなで戦争を終わらせた未来。この世界のどこかで、またルーカスと薄いエールを酌み交わす未来。
真斗の番になった。配給が渡された。白い包みが一つと、袋が二つ。白い包みには、黒パンが三つと干し肉が一切れ入っていて、革袋には飲み水、麻袋にはわずかな硬貨が入れられているようだった。
この世界のお金だ。真斗には相場はわからないが、銀色がニ枚、銅色が五枚では、おそらくそんなに生きられないだろうことは明白だった。それでも気持ちは萎えなかった。
真斗は外門を抜けた。高台から見下ろす街並みは美しかった。空は抜けるように広く、澄み渡っていた。真斗は街への道を穏やかに進んだ。振り返りはしなかった。
——すとん、と小さな足音がした。
外壁の上から、一匹の黒猫が地上へと降り立っていた。
その黄金色の瞳は、戦場へ旅立つ信徒たちの背中を、真っ直ぐにとらえていた。




