11 断裂域〈ネヘレム〉
「——代理戦争〈総則〉第十四条……代理戦争における信徒の勝利条件は、すべての信徒を排し、唯一の生存者となること、かあ……」
柔らかな風に乗って、どこか遠くで鐘の音が鳴っていた。
真斗は道の半ばで羊皮紙をかかげ、空にすかしながら、うーん、とうなっていた。手に持っているのは、教会の封書に入っていた代理戦争の総則状である。何かヒントはないかと思い見返してみたものの、逆に期待外れなことばかり書いてあるものだ。
真斗は、何だかがっくしきてしまった。これはもう、見ることもないだろう。広げていたそれを丁寧に折りたたみ、真斗は懐の奥底にしまいこんだ。
教会の外門を出発し、まもなく街の教会前広場に着こうという頃合いだった。だいたい二十分ほど歩いただろうか。丘の上の教会から、斜面に沿うように整備されたなだらかな坂を下り、真斗は街の教会前広場までやってきていた。
ここに来るのは、初日の間引き以来である。あの日と同じく広場の人影はまばらで、老いた男女が小祠の前で祈りをささげていた。
「おや」
それは明らかに真斗に対してかけられた言葉だった。広場を抜けようとした足を止め、真斗は背後を振り返った。
小さな老人がこちらを見ていた。どこかで見覚えのある顔だ。そう、あの朝ここでドゥルガに声をかけた、ひなびた老人だった。
仕立ての良さそうな服に身を包み、栗皮色の素朴な杖をついた、七、八十ほどの男性だ。血管が浮き出て皺くちゃになった手のひらで、ステッキのグリップをしっかりと握り、穏やかな眼差しで真斗を見ていた。
「君は、あの時の信徒様だね」
真斗は言葉を失った。話しかけられる理由がなかったからである。
代理戦争における〈信徒〉というのは、ただの〈神の駒〉である。天使のように天界からの遣いとして歓迎されるわけでもなく、逆に卑きものとして忌避されるわけでもない。新世界人にとっては、いてもいなくても変わらない、取るに足らない存在だ。
そしてその傾向は、伝統を重んじ、信仰の厚い場所では特に顕著である。この老人のように、年嵩のいった者ならなおさらそうだろう。
それがわかっていたからこそ、余計に真斗はどう反応すべきかわからず、首をかしげた。
「あの……?」
「いや、すまないね。覚えていないだろうか。昨日の朝方、貴方とここで会っているのだが」
「それは、僕じゃなかったんじゃ」
「……そうか。どうやら、私は、貴方に失礼なことをしてしまったようだね」
老人は困ったように微笑んで、それから小さな背中を更に丸めるように頭を下げた。すまないね、と続いた謝罪に、真斗は慌てて首を振った。
「頭を上げてください! 僕らは、最初からそういう生き物だから……謝ってもらう必要なんてないんです」
「言い訳に聞こえるかもしれないが……貴方をね、ないがしろにしたわけではないんだよ。ただ、彼が——彼は私を覚えていなかったようだけれど、私にとっては、とうてい忘れられない記憶でね。それを思い出して、年甲斐もなくはしゃいでしまったのさ」
それから老人は、少し話さないかい? と広場のベンチへ真斗を導いた。
特に急ぐ旅路でもない。真斗もうなずいて、老人の隣に腰を下ろす。
木製のベンチは陽光で温められ、朝でも充分なぬくもりを抱いていた。初めて見た時、真斗はこの広場をどこか寂しい場所だと思ったが、老人にとってはそうではないようだった。ここにはたしかに、わずかばかりの小祠と布告柱しかないが、それが気に入っているのだと老人は言う。
「もうこの歳になると、教会までの道のりも一苦労でね。私のようなおいぼれは、皆、祈りをささげる時ここに来るんだよ。街の若者たちは、礼拝堂で祝福を受けるのだろうがね、私はここでおいぼれ同士、同じ時を共有できるのも素敵じゃないかと思っているのさ」
「同じ時」
「ふふ、貴方もまだ若い。いずれわかる時が来るだろうさ。……さて、十年ほど前になるかね。前回の代理戦争が始まったばかりの頃さ。私はここで一人の少年を見かけた。あれほど若い信徒様を、私は見たことがなくてね、ひどく驚いたものだったよ」
「……それが、ドゥルガさんですか?」
「ああ、そうだね。街の子供と大差ない年齢に見えたよ。いや、彼は小柄だったから、もしかしたら実際には私が思うより、ずっと歳上だったのかもしれないがね。私たちには子供がいなかったし、なんだか妙に目が離せなくてね。特に何をするわけでもなかったけれど、見かけるとつい目で追ってしまっていた」
老人の白い髪を風が優しくなでていた。深い皺の奥の瞳には穏やかな光が宿り、今ここにはない過去を見つめていた。
「始まりの地であるここで、信徒様が過ごせる時間はわずか三日だ。その三日間、少年は毎日陽が暮れるまで街に降りてきては、出立の日のために何かを備えているようだった。街の店先でたたずんでいたり、水路の水をくんでみたり、街中を歩き回っている日もあった。何か欲しいものでもあるのかと思って声をかけたこともあったが、そうじゃないの一点張りでね。今思えば、彼はこの世界の情報を集めていたのだろう」
地球からいきなり殺し合う世界に連れてこられて、わずか三日。そんな風にこの世界を受け入れ、すぐ自分が生き残るために動ける人間が果たして本当にいるのだろうか、と真斗は思った。
実際、真斗は新世界に来てから、地球とあまりに違う社会に翻弄されてばかりだった。今ここにいるのも、色んな人に助けられた結果にすぎないのだ。
それを、彼は一人で成したと言う。
真斗は、あの朝日を背に立つ小柄な背中を思い出した。若木のように真っ直ぐ伸びた背筋。鍛え上げられた肉体。稲穂の髪に、蜂蜜色の瞳。
——生き残ったことは罪じゃない。死んだらそこで、終わりだからだ
礼拝堂の前で、ドゥルガに言われた言葉が頭をよぎる。代理戦争に勝ち、勇者となった彼は、どんな気持ちでそれを真斗に言ったのだろう。
どんな気持ちで、彼はここを歩いていたのだろう。
「それから十年後、代理戦争が終わったと知らされた。そのすぐくらいだろうか。この街に、勇者様が帰還したという噂が流れたのさ。この地に戻ってくる者は少ない。ましてや、教会で働き出したと言うじゃないか。私は驚いてしまってね。一目顔を見たいと思っていたんだが、なかなか叶わなかった」
「だから昨日、ドゥルガさんに声をかけたんですね」
「そうとも。ただの自己満足さ。もう立派な青年だったね。あの頃の面影はなかったよ」
老人は顎ひげをそっとなでながら笑った。自嘲じみた発言とは裏腹に、どこか晴れやかな表情だった。
「ずっと気がかりだったのかもしれないね。何もしないくせに虫のいい話かもしれないが。でも昨日、彼の成長した姿を見て、ようやく何か胸のつかえが取れたような気がしたよ」
「……どうして、この話を僕に?」
「ふむ。懐かしくなってしまったからかもしれないな」
「?」
「彼が街を発つ日、とある男性と一緒に歩いているのを見てね。君によく似た男性と一緒に」
真斗は目を見開いた。今、何を。
息を呑んだ。手が無意識に震えていた。真斗によく似た男。ドゥルガと歩いていた。ここを、十年前に。
心当たりがあるなんてものじゃなかった。まだわからない。ここにいたと決まったわけじゃない。しかし真斗は、真斗によく似た男というのをようく知っていた。
否、男が真斗に似ているのではなく、真斗が男に似ているのだ。物心ついてから今日まで、耳にタコができるほど聞いたセリフだった。
「……え?」
「濡羽色の髪に、宝石を煮詰めたような大きな瞳の、恐ろしく整った顔立ちの男性だったよ。多くの腕利きの人形師が、すべての叡智を注ぎ込んで作ったと言われても驚かないほどの、美しさだった」
老人は、何か眩しいものでも見るように、真斗を見つめていた。
「貴方は、あの時の男性によく似ているね。だから、昨日、二人で連れ立って歩いている姿を見た時、本当に懐かしくなってしまった。また会えるとは思っていなかったからね」
口の中がいやに渇いていた。真斗は目を閉じて、深呼吸をした。長く息を吐いて、胸をさすった。息苦しさを何度も呼吸で誤魔化した。
「大丈夫かい? どこか具合でも?」
「——いいえ」
真斗は口角を上げてみせた。眉は少し下がり気味に。小首を傾げて、上目遣いになるように。
「大丈夫です。ありがとうございます」
そうしながら、真斗は脳裏をよぎる仮説を頭の隅へと追いやった。まだ決まったわけではない。十年も前の話なのだ。まだ、この世界に来ていたと——真斗と同じ境遇だったと——決まったわけではない。
考えすぎたら、動けなくなったら、誰も助けてはくれないのだから、今は考えるな。真斗は強く自身に念じた。
代わりに真斗は、ずっと気になっていたもう一つの疑問を口にしてみた。元々、機会があれば街の住民に聞いてみようと思っていたことだ。
懐から封筒を取り出し、一枚の紙切れを老人に見せる。〈ネヘレムを目指せ〉と書かれた、あの走り書きを。
「これ、どういう意味だと思いますか?」
「ネヘレム?」
「はい。地名か、人名か……何かの称号なのかもしれないんですけど」
「ふふ、何を言っているんだい。そのどれでもないよ」
「へ?」
「なるほど、信徒様は〈地球〉という別の世界から来るんだったね。それなら、聞きなじみがないのも無理はない」
しわがれた指が、真斗の持つ羊皮紙の凹凸とそっとたどる。
「これは新世界語さ。〈断裂域〉のことだよ」




