08 ネヘレムを目指せ
食堂を出て表回廊に足を踏み入れた瞬間、陽がかなり傾いているのに気がついた。影は長く伸び、中庭と回廊の半分を覆っている。
思っていたよりも、長居をしてしまったらしかった。とはいえ、今日の真斗に用事らしい用事はないので、どうということもない。
先ほどと変わらずゆったりとした足取りで、真斗は自室を目指した。
「——待ちなさいよ!」
だから、それを聞いたのは本当に偶然だった。
「まだ話は終わってないわ、ドゥルガ!」
「もう決めたことだ。お前には関係ないだろ」
信徒の宿泊区画へと続く渡り廊下と、表回廊のちょうど境目で、二人の男女が言い争いをしていた。
女はすらりとして細く、色白で、編み込んだ鼠色の長い髪をうなじで一つにまとめていた。身綺麗な女だ。先の尖った耳に、乳白色のピアスが一対、揺れていた。初めて見る顔だった。
対して男の方は、よくよく見覚えのある男だった。ドゥルガだ。黄土色の髪を後ろになでつけ、灰褐色のハーフパームグローブをつけた精悍な立ち姿でそこにいた。今朝別れた時と寸分の変化もなかったが、一点、外套を着込んでいるところだけは違っていた。すすけた土色のショート丈の外套だ。どこかに出かけるのかもしれなかった。
「それに何の意味があるって言うの! 今まで積み上げてきたものを全部捨てて、そうまでして貴方は——」
「積み上げてきたもの? ここに何があるって言うんだ。俺はお前とは違う。新世界人のお前には、一生わからないだろうな」
「お願い待って、ドゥルガ!」
痴話喧嘩——とは少々違う気もしたが、なんだか真斗は居たたまれなくなってきてしまった。そもそも聞き耳を立てるなんて趣味じゃないのだ。部屋に帰るには彼らの横を通らねばならないが、さっと立ち去れば大丈夫だろうか。真斗が一歩を踏み出した、その時だった。
ザッ、と射抜くような鋭い視線が、こちらに飛んできた。それはまるで、獲物をとらえた獣のような鋭利な眼光だった。ドゥルガの金茶の瞳が、まだ確実に距離のある真斗をはっきりととらえていた。
真斗は思わず、足を踏み出した不自然な体勢のまま硬直した。それからぎこちない仕草で、踏み出した一歩をそっと戻した。
「……木立」
すぐにその眼光は柔らかくなったが、真斗の心臓はとてつもなくバクバクとしていた。〈蛇ににらまれた蛙〉というのは、こういうことを言うのだと身をもって体感していた。
「こ、こんにちは」
と、どもりながら真斗は言った。
「……こんにちは。何だ、その格好」
「えっと、これは、ルーカスに借りて……」
そう言いながら真斗は、こちらを見つめてくる女に視線を遣った。彼女の切れ長の瞳は、まんまると見開かれていた。幽霊でも見たかのような驚きようだった。
「花の王……? まるで、」
「おい、アピオ」
「まさか、そういうことなの? ドゥルガ、貴方、まさか本気で——」
「こんなところでする話じゃねえだろ。場所を変えるぞ」
「…………」
下りる沈黙に、なんだか真斗はますます申し訳なくなってしまった。話の腰を折ってしまったのは確実だった。しかも、おそらく二人にとっては、とても大切であろう話の腰を。
食堂に戻ってた方が良かっただろうか。
「あの、僕——」
「じき暗くなる。明日に備えて早く寝た方がいい。飯は?」
「い、今、食べてきて」
「そうか、ならいい」
それからドゥルガは、考え込むように黙ってしまった女を連れて、礼拝堂の奥へと歩いていってしまった。変な緊張からようやく解放された真斗は、今度こそ一歩、宿舎への足を踏み出した。
信徒の宿舎は、横に長い平屋の構造をしていた。外からちゃんと見たのは初めてだったので、真斗は渡り廊下を外れて宿舎前の草地に足を踏み入れてみた。
カーテンの空いている部屋というのはあまりなかった。不在にしていた真斗の部屋くらいのものだった。とはいえ、人の気配がまったくないというわけでもない。小動物の巣穴のように、生き物の息づかいだけは布越しにもはっきり感知することができた。
自室に着いた。
真斗は薄いお飾りのような扉を開けて、中に入った。日没も近いのだろう。室内を照らす陽光はずいぶんと赤みを帯びていた。
さすがにまぶしかったので、真斗は他の部屋と同じように、窓に白い布を下ろそうとした。下ろそうとして——窓に面した机の上に、見慣れぬものが置いてあることに気がついた。
書簡だ。
「えっ」
封書だった。たぶん、というより、まず間違いなく真斗に宛てた書状だった。
象牙色のパーチメントに赤褐色の封蝋がされていた。押されているのは教会の印章だ。ぶ厚すぎず、かといって何も入っていないと判断できるほど薄くもない封筒だった。
真斗は部屋を見回した。
誰もいない。当然だ。ここに来るまでに誰ともすれ違っていないのだから。しかし、そうなると、これは真斗のいない間に置かれたことになる。何者かがこの部屋に侵入して。
まあ、扉に鍵などという高尚なものはないのだから、それが誰の仕業であろうと不可能ではなかった。
真斗は一度深呼吸をし、椅子を引いて、付け根がきしむ座面に尻を落ち着けた。封蝋の開け方など知らなかったので、真斗はまず、閉じ口の隙間に、そうと爪をかけてみた。そのまま印章の中心まで下に滑らせる。びくともしない。なので仕方なく力を入れてみた。
ベリ、という音と共に、存外あっけなく、蝋がはがれた。真斗は慎重に、中身を取り出した。
まあ、簡潔に言えば、それは教会から信徒に宛てた、最後通告のようなものだった。
周辺地図と、代理戦争の〈総則〉、名入りの通行許可証がひっそりと入れられていた。通達の終わりには、〈明朝、鐘の音と共に外門に集合すること〉〈同日日没までに街を発つこと〉の二点が念押しされていて、「神のご加護がありますように」という、ありきたりで非常に皮肉の効いた一言で締めくくられていた。
真斗は早々に、その一枚を封筒へ戻した。
そこでふと、真斗は机と壁の間に、紙の切れ端のような、生白いものが飛び出していることに気がついた。ちょうど真斗の目線の高さに。おそらくは、椅子に座らないと見えないであろう位置に。
(……?)
真斗は、その飛び出ている尖りの端をつまんだ。思っていたよりも、ずっとザラザラした手触りだった。真斗はそれをピッ、と上に引っ張った。それは思っていたよりも、するりと出てきた。本当に、羊皮紙の切れ端だった。
——ネヘレムを目指せ
荒れた字だった。
ただ一言、そう書いてあった。




