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06 それとも、君との再会を許してはもらえない?

 裏回廊は湿った空気に満ちていた。

 真斗はすぐに、それはこの回廊が、浴場と食堂をつないでいるからだと理解した。


 風呂上がりだった。

 ルーカスに案内されてたどり着いた公衆浴場には、幸いにも職員らしき姿はなく、真斗は一人で貸切の風呂を堪能せしめた。昼と午後の境目のような、半端な時間であったからだろう。何の気兼ねもなく、湯をかぶることができたのは幸いだった。

 しかし、風呂から上がる頃になると、公衆浴場には、どこからともなくまばらに人の影がちらつき始めた。そうして浴場を後にする頃には、真斗は裏回廊にて職員の多くとすれ違っていた。ルーカスに服を借りていなければ、〈信徒(トーチカ)の身なり〉はそれなりに目立っていたかもしれなかった。

 だから真斗は、ルーカスの気遣いに素直に感謝した。

 食堂へと続く職員用と思しき通路は、ゆるやかな上り坂になっていた。公衆浴場を離れ、真斗はルーカスに教わった道のりを、わずかに軽くなった足取りでたどっていた。

 通路の天井は低く、道幅は狭く、すれ違うのに壁に身体を押し付けねばならなかった。そこまで密着してもなお、誰一人、真斗が信徒(トーチカ)だと気づく者はいない。

 ふと、湿り気を帯びた空気の中に、ハーブのような香りが混ざり始めた。系統で言えば、タイムとかローリエとか、そういったものに近しい匂いだった。

 それを認識してすぐ、眼前に橙色の光が広がる。

 食堂に出た。

 アーチ状の入り口が大きく口を開けていた。

 木製の立派な扉が両脇についていたが、どちらも開け放たれたまま、使われた形跡はほとんどないようだった。扉の裏側に、いつのものかもわからない埃や食べかすが積みあがって層をなしている。

 真斗は、食堂に足を踏み入れた——と同時にツルッと滑って、あわやひっくり返りかけた。うお、と思わず間抜けな声が出た。


「ええ……?」


 両手を広げて、真斗はなんとかバランスを取った。石敷きの床は全体的に油を含んでいて、妙に光っている。慎重に下ろした二歩目は、無事に床へと着地した。


「あ! マナトさんっ」


 張りのある、よく通るアルトボイスが聞こえてきた。赤毛にそばかす顔の青年が、木製トレイを片手に、奥の席から走り寄ってきていた。


「ルーカス」


 ルーカスはツルツルの石床を難なく乗りこなしながら、真斗の側までものの数歩でたどり着いた。そして、


「どうだったっスか?」


 と屈託なく笑った。

 何のことを指しているのかは明白だったので、真斗も大きくうなずく。


「お風呂、大きいね」

「教会の職員がみんな使うとこっスからねえ。あんま新しい設備じゃないっスけど、気持ちよかったでしょ」

「うん、最高だったよ。貸切だったし」

「あの時間は、ちょうど昼職の担当が、みんな出払ってる頃合いなんスよ。タイミング良かったっスね、マナトさん! 今頃、浴場はごった返してるところっス」


 食堂には、それなりに人の影があった。ルーカスの話だと、この食堂は、職員も信徒(トーチカ)も共用らしく、それを裏付けるように数人の信徒(トーチカ)らしき服を着た男女が、壁際の席で静かに食事を取っていた。

 何気にこの時、真斗は自分とシアユン以外の信徒(トーチカ)の姿を初めて見た。

 普通の男女たちだった。少年少女くらいの年頃から、真斗の親世代くらいの年頃までの、どこにでもいる人たちだった。国籍は様々だったが、特別なところは何一つ見受けられなかった。

 真斗と、彼らの間には、少しの違いもないように思えた。

 真斗はそっと、視線を外した。


「そうだ、ルーカス。服、貸してくれてありがとう。これのおかげで目立たずに済んだよ」

「全然っスよ! つーかマナトさん、意外と上背あるっスよね……オレの服、大きいかと思ったんスけど、サイズピッタリじゃないっスか」

「そうかな? そこまで大きい方じゃないと思うけど……」


 真斗は自分を見下ろした。たしかに、着ているのはルーカスの服ではあるものの、変な生地の余りも、不自然な突っ張りもない。

 生成りのシャツだった。少しだけ草臥れた麻のシャツと、茶色のパンツを身にまとっていた。

 簡素な革のベルト。つま先の擦れた黒革靴。動きやすさを優先した、ラフな装いである。


「そうなんスか? でも、そんなヒョロっちい感じもしないし……なんか鍛えてたんスか? 地球(プルクラ)で」

「ううん。あ、でも、父さんに言われて合気道は習わされてたよ」

「アイキドー?」

「合気道。僕がいた国の武術だよ」


 おおーブジュツ、とわかっているんだかわかっていないんだかわからない可愛らしい反応に、真斗はニコニコとした。

 実際、真斗の合気道は県ではそこそこの腕前ではあったが、今の真斗は、それがこの世界では大して役に立たないだろうことを薄々予感しつつあった。


 何より、相手に〈触れていなす〉武術は、〈触れると発動する〉真斗の力とは相性が悪い。


「いつか見せてくださいっス! 地球(プルクラ)のブジュツ、オレ、興味ありますし!」

「うん、そうだね」


 真斗はうなずいた。


「また、いつか」


 その瞬間、ルーカスのヘーゼル色の瞳孔がほんの少し開いたような気がした。真斗は、え? と見返した。

 瞳が目に見えてわかるほど揺れていた。それはたぶん、動揺だった。急にどうしたのだろう。


「ルーカス?」

「……オレ、また無神経だったっスか?」


 なんて聞かれてしまったので、真斗はびっくりしてしまった。


「へ?」

「いや、だって、マナトさん、明日いなくなっちゃうんスよね? ……信徒(トーチカ)さんは、三日目までに教会を出なきゃいけないって聞きました。オレたち、もう会えないかもしれないって、ことっスよね?」


 真斗は唖然とした。本当に驚いていた。

 言葉を失うレベルで、ルーカスを見た。だって、そんな言葉が出てくるとは思わなかったのである。まるで真斗との別れを惜しむような、そんな言葉が。

 だから真斗は、思っていたよりもずっと自然に、それを口に出すことができた。自分でも信じきれていないその言葉を、それでも今、口に出せたのは、ひとえに真斗自身がそうであったらいいと祈っているからに他ならなかった。


「また会えるよ、ルーカス」


 真斗はルーカスの瞳を覗き込んだ。


「それとも、君との再会を許してはもらえない?」

「——っ、なあに言ってんスか、マナトさん! そんなわけないじゃないっスか! あーあ、クソ、腹減った! 早く食いましょ、置いていくっスよ」


 それが照れ隠しであることくらい容易にわかっていたので、真斗も口の端を上げて、


「はあい」


 と続いた。


 さて、食事である。

 真斗のここに来て初めての食事は、初日の朝のカサついたパン一枚だけであったので、先ほどから漂ってくるスープの匂いに、実は真斗は興味津々だった。

 ルーカスの後を追いながら、通路沿いのテーブルを横目に見る。

 硬木の長卓である。その卓上に、共用と思しきリネンの布切れと、木製のカトラリー、それから素焼きの器が置かれていた。

 陶器には、豆と肉を煮込んだようなスープが入っていた。裏回廊にまで漂ってきたハーブらしき香りは、このスープによるものらしい。


「この配膳台から、みんな好きなだけ持っていくんス。トレーはここ、皿はここ、匙はここっス。マナトさん、パン何個食べます?」


 ルーカスの肩越しに、真斗はその石造りの配膳台を見た。籠に積まれたパンと、木製食器たちが、まず目に入った。そしてその横に、丸い壁埋め式炉のようなものが三つ、等間隔に並んでいた。

 上の方で薪の燃える音がして、壁に手を当てるとほんのり温かい。


「上、厨房と繋がってるんスよ。上に煮込み用の大鍋があって、ここの給仕口と繋がってるとか、なんとか——あんま詳しくは知らないんスけどね。オレは食えれば何でも良いし」


 そんなことを言いながら、ルーカスは真斗の皿にパンを四つ盛った。真斗は無言で、その半分をルーカスの皿にこっそり移した。


「スープ、こっから貰えるっスよ。皿置いて、ここの取手握ってくださいっス。そう、そんでここを引くと、こう出てくるんス」


 真斗は、ルーカスの見様見真似で石蓋を引いた。

 すぐに汁が出てきた。汁は皿の底に少し溜まった。しばらく待ったが、出てきたのはそれだけだった。

 残念ながら具はなかった。

 こういうものか、と真斗はしゅんとした。そっと蓋を元の位置に戻す。それなりに美味しそうな匂いがしていたので結構楽しみにしていただけに、なかなかどうして残念感がすごかった。


「席、先輩らが取ってくれてるんスよ。マナトさんも嫌じゃなかったら一緒に——って、あ! またっスか⁉︎ このオンボロ施設めッ」


 ルーカスが石壁をドン、と叩いた。結構すごい音がした。叩いた手は大丈夫だろうかと心配になるレベルの勢いだった。

 そのままの勢いでルーカスは思いっきり蓋を引いた。肉の塊と細切れの根菜がゴロゴロ出てきた。


「ちょ、ルーカス!」

「いいんスよ、こうしないと出てこないことあるんス。先輩らもそうしてたし、ほら、誰も気にしてないでしょ?」


 と言われたので、真斗は思わず周囲を見回した。たしかに賑やかな談笑は途切れることなく続いていたし、それなりにすごい音がしたにも関わらず、こちらに目を遣る者は一人もいなかった。


 ——否、一人だけいた。


 角席に座っていた信徒(トーチカ)の一人だった。たぶん、真斗と同じくらいか、少し上の娘だった。

 病衣にも似た白くて腰丈までの簡素なシャツに、足首の詰まったボールパンツを履いていた。

 欧米系の顔立ちだった。キリリとした目尻と通った鼻筋が特徴的な娘である。

 そんな彼女の意志の強そうな瞳が、真斗を真っ直ぐに捉えていた。


(……?)


 視線はすぐに逸らされたが、真斗はなおも見続けた。娘のテーブルには、真斗たちと同じように、パンとスープが並べられていたが、手はつけられていないようだった。


「マナトさん? 何してるんスか、行くっスよ!」

「あ、待って、ルーカス!」

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