22 クソッ、がぁ‼︎
積み重なった灰の中はまだ赤かった。
呼吸のようにドクドクと脈打つ燃え残りを、オリバーがブーツのソールで平らにならす。真斗はそれに、汲んできた水をそっとかけた。ジュッという音がした。黒い炭はすぐさま白色化し、焦げた木屑と湿った土の匂いが立ちのぼる。くすぶっていた熱は、雲のような煙の中で徐々に小さくなっていった。
「おい、ボサっとしてないで行くぞ」
「あ、うん。今行く」
陽はすっかり昇りきったようだった。
外はずいぶんと明るかった。瓦礫をまたぎ、扉があったと思われる空間から出た瞬間、その光の眩しさに目を細めなければならないほどだった。
穀物倉庫を後にし、一行はひとまず水路に沿って更に南下することに決めた。教会から支給された地図の信憑性がいかほどかは知れないが——というのも、地図と言うには大変お粗末な品だったので——真斗は、広場の老人の言葉を頼りに進んだ。三人も異論はないようだったので、みんなで並んで、閑静なほとりをゆっくり下る。
「で、これが例の走り書き?」
「うん。机の隙間に挟まってて……」
「私たちの部屋にはなかったよね?」
「そこまで見てねえって」
話しながら真斗は、シエロがずいぶんと近い位置にいることに気がついた。気がついたのは、話す時に彼女の顔がよくよく見えたからだった。大きな瞳を細めて、眉を吊り上げる。ニヒルな表情。
これはつまり、シエロが真斗の真隣に並んでいる、ということに他ならなかった。シエラとシエロが並ぶことはあっても、真斗とシエロが横並びになったことは、今までで一度もない。
(やっぱり、さっきので……)
何かが決定的に変わってしまったのは間違いなかった。それはいいことなのか悪いことなのか、真斗にはよくわからなかった。わかるのは、現に今、シエロが真斗と並ぶことでシエラが押し出され、半歩後ろを付くように歩いていることだけだった。シエラの意外なモノを見るような顔が、真斗に刺さる。
「〈ネヘレムを目指せ〉、かあ」
「怪しすぎんだろ」
「それはそう」
「えー? でも、ここに何があるのか気にならない?」
「それもそう」
「あー、それが例の? お前が〈流れ樽〉で言ってたやつ?」
「そう。オリバーには話したでしょ」
見せて、と先導していたオリバーの太い腕が伸びてきたので、真斗は切れ端をそっと握らせた。骨ばった手のひらが薄い紙切れを陽にかざした。
それから、ふうん、と興味なさそうな相槌の後、
「これって、新世界語ってヤツなんだよな」
と独り言のように聞いてくるので、
「おじいさんはそう言ってたけど……それがどうかした?」
「いや……」
〈歯に衣着せぬ〉という言葉が服を着て歩いているようなオリバーにしては、どうにも歯切れの悪い言い方だった。
無言で突き返された走り書きを、真斗は眺めた。変わったところは何もない。何もないけれど、真斗は素人なのだ。真斗には何の変哲もない紙切れに見えるものが、警察官のオリバーには重大な手がかりになる可能性も否定できなかった。
真斗は少し考えた。少し考えて——それから拳を振りかぶった。
「心読むよ!」
「どんな脅し文句だよ、それ」
オリバーが呆れたように笑った。笑うと目の色が濃くなって、オリバーの瞳孔に刻まれた渦巻きの色も濃くなることを、真斗はこの時初めて知った。銀色のぐるぐる模様を見ていたら、読まれて困るようなモンねえわ、と続く。真斗はびっくりしてしまった。そんなこと言ってもらえるなんて、思っても見なかったから。
「何か気付いたのか?」
「新世界語が関係あるの?」
シエラが真斗の肩口越しに手元をのぞいてきた。シエロの目配せに、真斗も目配せで応える。
「別に、たいした話じゃねえよ。その書き方が、スクール時代の同級生に似てたから気になっただけ」
「書き方」
「あの堅物、すげえ神経質なくせにこういうところだけは雑だったからなあ。書いた後にペン先で紙を叩くから、ピリオドが二回打たれてるみたいに見えんの。ここ、こんなふうに」
「ほんとだ」
流れるような筆致の終わりについた黒いシミに向かって、真斗は同意した。インクがにじんだような点が二つあった。横並びに二つ。等間隔に。
「でもま、新世界語だもんな。珍しい癖でもねえし、十年前に死んだからここにいるわけもねえんだけど」
「死、——んえ?」
「はは、バーカ」
洋画のエンドロールで主人公がヒロインの前から立ち去るかのようなキザな仕草で、オリバーは踵をかえしてスタスタ歩き出した。アメリカ人って本当にそういう所作が様になる——ってそうじゃない。なんて? 真斗は口をあんぐり開けて立ち尽くした。
「ちょ、後ろつまってまーす」
「はいはい、進んだ進んだ」
「へえぇ……ちょ、ぶっこまないで……心の準備くらいさせてよお」
一時間ほど歩けば、変わり映えのしない風景にも変化が出るというもので、崩れた石畳の道はいつの間にか土道になっていた。ブーツの踏み抜きの音が響かなくなり、代わりに少しだけ歩きにくくなった。
舗装されていない度合いで言えば、それは〈獣道〉に遜色なかった。なかったが、明らかに人に踏み固められた形跡があって、この水路が旧交易路だったことを裏付けるようだった。
「曳舟道かもな。ほら、船着き場がある」
示された場所に目を向けると、そこには朽ちた木造りの小屋と、いくつかの舟留めがあった。足の長い雑草を掻き分けるようにして、丸い杭が等間隔に並んでいる。
だだ広い場所だった。一行はここでしばしの休息を取ることにした。
ほとんど湖のような水路のほとりで、杭に背を預けて真斗は座った。青臭い香りが鼻腔をくすぐり、編み目の荒い服の繊維の隙間から、草の葉がチクチクと肌を刺した。葉の上で羽を休めていたらしい蝶々が一匹、ヒラヒラと視界を横切っていく。
「ね、見て。鳥いる」
「鳥?」
袋から取り出したドライフルーツをシエロに横取りされて格闘していると、シエラがおもむろにそう言った。金色の印輝く瞳の先に、大きな鳥が一羽、ついと水面を泳いでいた。
「ほんとだ」
はじめ真斗は、それを〈白鳥〉か何かだと思った。それくらい優雅な出で立ちだったし、胸元と背の羽根が透きとおるような純白だったからである。しかし、岸に上がった姿を見れば、それが間違いであったことにすぐ気がついた。翼の先に青みがかった灰色の差しが入っているのである。
「鷺だ」
たぶん、青鷺だった。ゆうに百センチはあった。嘴は大きく、首は長く、その立派な上半身とは対照的な細っこい足で、すくっと立っていた。羽繕いをしている。美しい翼膜。広げたら二メートルはあるだろう。
「鷺? 何でこんなところに」
「つーか、この世界にもいるんだな」
シエロの言うことはもっともだった。実際、真斗もそう思った。新世界と呼ばれるココで、こんなふうに地球に棲まう生き物を見るのは不思議な気がしたから。
けれど、よくよく考えれば、それは何もおかしいことはないのかもしれなかった。
ちゃんと説明されたわけではないが、この世界にあるモノのほとんどが、地球のモノと大きくは変わらないことを、真斗は既に知っていた。例えるならば、〈異世界〉というより〈並行世界〉に近しいのかもしれなかった。
地球に似た、地球じゃない場所。地球と同じような文化圏で、地球のように様々な人たちが暮らしているけれど、一部の言葉に独特の訛りのような読み方があって、魔法や神やそれに近しい人智を超えた何かが跋扈している。
それがたぶん、新世界なのである。
「大きいね。私ちょっと怖いかも」
「なんかこっち見てね?」
シエラの言うとおり、青鷺は真斗たち三人をじっと見ていた。特徴的な黄色い強膜に、点と打たれた黒角膜がいやに目についた。目尻の青い羽根が風に揺れている。青鷺は緩慢な足取りで、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
野生じゃないのかな、と真斗は思った。それくらい、何の警戒も感じない堂に入った歩みだった。青鷺は、いつの間にかあと数メートルという距離まで近づいてきた。ここまで来ると、毛流れまで見えるようだった。
「ッ」
息を呑む気配と共に、双子が同時に立ち上がった。一人反応に遅れた真斗は、「えっ、え?」と様子をうかがった。
二人の顔色は悪かった。青鷺から目を逸らさずに、しかし何かに言葉を失ったように唇を震わせていた。細い二対の足が、一歩、また一歩、と青鷺から距離を取るように後ろに引かれた。並んで座っていたはずの二人との距離は、気づけばもう何歩分も開いていた。
「シエロ? シエラ?」
真斗の声に反応したのか、青鷺の動きが止まった。それと同時に、双子の動きも硬直したように停止した。シエロもシエラも顔面蒼白だった。額に冷や汗がにじみ、指先が小刻みに震えていた。明らかに何かに恐怖しているといった様子だった。
それが真斗なわけがないので、たぶん、青鷺を怖がっているのだった。たしかに大きいけれど、そこまでかな。正面から見ると、結構可愛い顔をしてるのに。
真斗は動物が好きだった。とりわけ、温かくてもふもふしている生き物は好きだった。目の前の青鷺もそうだ。柔らかそうな羽毛が呼吸と共に上下していて、緩やかな曲線を描く青い鶏冠が時折フルフルと震えていた。さすがにぎゅっとはさせてくれないだろうが、こんなに間近で見られるなんてなかなか機会があることじゃない。
(怖いなんて、もったいないなあ)
青鷺は長い首をもたげて真斗の方に伸ばしてきた。人懐っこい! と真斗は衝撃を受けた。触らしてくれるのだろうか。ペリカンのような硬くて大きな嘴が、するすると近づいてくる。真斗は身を乗り出した。青鷺は逃げない。
「真斗ッ‼︎」
ほとんど悲鳴に近い制止だった。さすがに驚いたのか、青鷺はよろめくように数歩後ろに下がった。手を伸ばしていた真斗も、びっくりして引っ込めた。心臓がバクバク言っている。
「ど、どうしたの、シエロ。大丈夫だよ。全然、敵意はないみたいだし」
可愛いよ、と振り向きながら真斗は言い含めるように言った。叫んだシエロは、それですべての体力を使い果たしたとでも言うように肩を上下させていて、彼女に身を寄せたシエラもまた、荒い息の中唖然としたようにこちらを見ていた。
「何だ、どうした。大声あげて」
ふいにオリバーの声がした。水を汲みにいっていたらしいオリバーが戻ってきたのだ。出会った頃のようにみちみちとくっついた二人の身体越しに、見慣れた大きな肉体が見えた。オリバーあのね、と真斗は説明しようとして——
「真斗‼︎」
持っていた鍋を放り投げて、オリバーが走り寄ってきた。宙を舞った水の粒が草の葉に当たって弾け飛んだ。バッシャン、と大きな音がした。ゴロン、と鈍い音を立てて鉄の手鍋が転がる。オリバーが駆けながら、腰からナイフを抜く。目にも止まらぬ速さで剥き出された刃先が、ギラギラと凶悪な光を放っている。
「ま、待って、オリ、」
ピュン、と耳元で風を切る音がした。オリバーが青鷺に向かってナイフを投げつけたのだ。直線に近い軌跡を持って、物凄い速度でナイフが突き刺さった。光の槍が、青鷺の背を深々と貫いた。
ギャァ、ギャァ、と地鳴りのような鳴き声が辺りに響き渡った。悶えるように、細い足がたたらを踏んだ。土に爪の跡が幾重にもついた。青鷺は喉を震わせて、羽根を大きくばたつかせた。
——痛い痛い痛い痛い痛い
真斗はそこで初めて青鷺の声を聞いた。反射的に耳を塞いだ。身体の芯から冷え上がるような身の毛のよだつ声だった。青鷺は苦しんでいた。
——喰いたい喰いたい、なぜ、痛い痛い痛い痛い痛い
何かがおかしかった。痛みにもんどり打つ声の中に悍ましい何かが混じっていた。悪意とも違う、純粋な欲求のようだった。その暴力的なまでの生理的欲求が、青鷺の体躯から漏れ出ていた。
真斗は震える手で耳を押さえながら、何かに強制されるように青鷺を見た。青鷺は、ギャァギャァと暴れていた。暴れながら、こちらを見ていた。
「ッ」
決して目を逸らしてはいなかった。攻撃してきたオリバーでなく、なぜか真斗だけを注視していた。獲物を狙う肉食獣のように、瞬きの一切ない視線が、真斗の全身を舐めるように見回していた。
「や、め——」
「クソッ、がぁ‼︎」
盛大な悪態と共に、辿り着いたオリバーの長い足がドウッと青鷺の腹を蹴った。空気が震えた。百八十センチ越えの長身に全力で足蹴にされた青鷺は、宙空をもんどり打って、水面に跳ねた。二度ほど跳躍した白い塊は、一度水中に沈み、それから間髪入れず飛び出てくる。穏やかな水面に大きな波紋。ザバァン! と水柱が立った。こちらを一瞥した青鷺が、悍ましい鳴き声をあげた。真斗は身を固くした。数回旋回する青鷺。それでもこちらに寄ってくる様子はなく、数瞬ののち、不自然な羽ばたきで空を飛び去っていった。
「な、なに……今の……」
シエラの問いに答えられる者はこの場に一人もいなかった。真斗でさえも、何かがおかしいと感じ始めていた。恐怖していた。
青鷺の姿はすでになかった。蒼穹に消えてもなお、真斗も、オリバーも、シエロも、シエラも、その場から誰一人動けずにいた。




