20 Ciela Maria dela Cruz
ブーツの目詰まりのすごさというものを、真斗は思い知っていた。特にシューレースがすごい。何がすごいって、泥を落とすのが大変すぎるってことだ。もう二度と、調子に乗って靴のまま水には入らない。そう真斗は固く誓った。
綺麗な水源というものはなかったが、そこそこ濁りのない場所で真斗は身を清めた。
服を着替えて汚れ物を洗い、水気を絞る。髪を手櫛でとかして整えると湿っていることを除けばすっかり元通りになったので、タオルドライもそこそこに真斗は三人の元へ戻った。本当に大丈夫か気がかりだったのである。
「ただいま……?」
はたして、真斗の懸念していた〈血で血を洗う戦い〉とはなっていなかった。一人と二人は、真斗が離れる前と変わらず、一人と二人でそこにいた。
オリバーは無言で火の番をし、シエロとシエラもまた、無言でそれを眺めていた。謎の緊張感と鬱屈した空気がそこにはあった。裸足で歩くペタペタとした間抜けな足音が、浮いて聞こえるほどだった。
「真斗」
真斗は少し考えてから、オリバーとシエロの間におずおずと膝を差し込んだ。勝手な偏見だが、万が一にも争いごとになった時、たぶん主な対立は、オリバーとシエロの間で起こるんじゃないかなという考えからだった。ここに来るまでに、シエラの明朗さを知っていたのも大きい。
「替えがあってよかったな」
「ね。こんなに早く使うとは思ってなかったけど……」
それから真斗は、垂れてくる前髪を手持ち無沙汰にいじった。立てた膝に顎を乗せて、つま先をすり合わせた。
また静寂が落ちた。通夜もびっくりの重苦しさだった。
「あのさ、真斗くん」
と口火を切ったのはシエラだった。隣でモゾモゾと——何をやっているのかと思えば、旅嚢から医療キットを取り出そうとしてくれていたようだ——動くオリバーを制して、彼女は真斗に向き直って言った。
「少し試してみたいことがあるんだけど」
「試してみたいこと?」
「シエラ」
「いいじゃん、シエロ。私も把握しておきたいもん。あのね、真斗くん。その傷の手当て、私にさせてくれないかな?」
「?」
「どういうことだ、そりゃ」
「こういうこと」
シエラはくすんだ小さな爪で、トントンと己の瞳を指差した。
「私ね、医療の信徒なんだ。まだ能力は使ったことないけど」
「医療」
「……なんでかね、変な話なんだけど、わかるんだ。たぶん、私に治せないものはない」
その感覚は、真斗にも覚えがあった。
信徒には、世界転移時に三つの能力が与えられているのだ。そのうちの一つ、〈王の特権〉は、自身の信仰神の権能を借り受け、行使する力である。
オリバーが人に暗示をかけられるように、シエロがどんな攻撃を受けても絶命しないように、シエラや真斗にも同様の力はある。
「〈信徒は、信仰神の支配領域に絶対の特効を持つ〉……とか何とかだっけ? たしか」
「教会の連中が言ってたやつな」
「降臨の儀ね」
「なるほどお」
「どうかな? 真斗くん。私、やってみてもいい?」
「うん、もちろん。ありがとう、シエラ」
「失敗して腕とか爆発したらごめんね」
「え、怖い……」
とはいえ、そんなふうにはならないだろうということを、真斗もよくよく理解していた。
というのも、信徒の力は、使おうと思って〈学び練習するもの〉ではなく、どうやら、〈元々知っているもの〉を出力しているだけにすぎないようなのである。
真斗もそうなのである。真斗も最初から、この脳内に響く幾ばくかの声が、己の妄想などではなく、れっきとした誰かの心のうちなのだと知っていた。それに、未だ使ったことのない花の信徒の能力だって、使おうと思えばたぶん、今すぐにでも使えるのだった。
もっとも真斗の場合、〈花を咲かせるだけの力〉をどこで発揮するのかという話はおいておいて。
「じゃあ……お願いします」
「お願いしまーす」
シエラが腕まくりのジェスチャーをしたので、真斗はつられるように、右のそでをめくった。
血のにじむ擦過傷と赤あざが現れた。多少ひりつくくらいでたいした怪我でもなかったが、シエラはそれを壊れ物でも触るかのような慎重さでなぞった。
触れられたところがピリピリとした。ささくれ立った指が、小石のようなザラついた指腹が、何度も何度も傷をたどった。
——治れぇ……
と聞こえてきた心の声のゆるさに、真斗は思わず笑ってしまった。丁寧な仕草とは真反対の、雑にゆるいかけ声だった。
だから真斗も、一緒に「治れえ」と念じた。そうして二度目のかけ声を終えてすぐ、その願いは届いたようだった。
「シ、エラ」
ふいに患部が熱を持ち始めた。沸き立つような熱さだった。真斗は思わずシエラを呼んだ。火傷をするほどではないが、カッと火照りはするくらいの熱気。
身体の芯から這い上がるような熱に、真斗は身を震わせた。傷口を見た。光の粒子が群がるように集まっていて、それはまるで〈蛍の光〉のようだった。ぼやっとした光源が、真斗の腕にみちみちとくっついていた。
真斗はシエラを見た。シエラの瞳孔の奥底に、同じような光の揺らぎがあった。それは徐々に線を成して、シエラの瞳にギリギリと跡をつけ始めた。
刻印だった。信徒の証が、真斗の傷が癒えるのに比例して、シエラの茶眼にガリガリ刻まれていった。シエラのゆるい念は変わらず伝わってくるので、おそらく痛みはないのだろう。ただただ、瞳の奥に模様が彫られていく。
ほう、と誰かの息づかいが聞こえた。オリバーは、既にこの過程を身をもって知っているはずだから、それはシエロのものなのかもしれなかった。
あるいは、真斗なのかもしれなかった。真斗もいつの間にか息を呑み、その神秘的な光景に見入っていた。
「——はい、おしまい」
いつの間にか、シエラがポンと、真斗の手のひらを叩いていた。真斗はハッとして我に帰った。己の腕を見た。母指球も前腕も、つやつやとした皮膚が広がっている。擦りむいた痕跡は、跡形もなく消えていた。
「動かしてみて」
手のひらを開いたり閉じたりしてみた。腕をぶんぶん振ってみた。痛くない。
「痛くない!」
「よかった」
「すごいねえ、シエラ! これはすごいよ、ありがとう!」
「いえいえ」
「へえ……こういうのもあんのか」
「腕、爆発しなくてよかったじゃん、真斗」
「ちょっと待ってシエロ。それ、本気だったの?」
穴抜けの屋根から、朝日が差し込んできていた。いつの間にか、夜は明けたようだった。真斗はその温かな光の帯に右手を透かした。眩い光を、陶器のような柔い肌が反射していた。
「そういえば」
シエラの瞳はどうなったのだろう、と真斗は思った。顔をのぞきこんでみた。ダークブラウンに金色の印はよく映えていた。
蛇の模様だった。一本の縦棒に巻きつく蛇。たぶん杖だ。杖に蛇がとぐろを巻いている。
これがきっと医療の神の象徴なのだろう。
「あ、なんかなってる?」
「蛇になってる」
「蛇?」
「なんか見覚えあると思ったら、スターオブライフのモチーフだな」
「スター……なんて?」
「救急医療のシンボルマーク。見たことねえの? ギリシャ神話の医神にちなんでつけたとかいう」
「へえ。オリバー詳しいね」
「別に詳しかねえわ」
「初めて王の特権とやらを使うとこうなるんだな。……私たちも、何かしらあんのか」
「ね」
と同意したところで、真斗の腹の虫が盛大に鳴った。一同は黙った。黙らないでほしいところで静かになってしまったので、真斗は変に誤魔化すこともできなかった。
お腹がすきました、と真斗は謎の報告をした。呆れたようなため息のあとオリバーが肩をすくめる。
「まあたしかに朝食の時間だしな。メシにするか」




