19 だから話を聞いてってば!
空の端はずいぶんと白くなっていた。
真斗とシエラは二人並んで、シエロは一歩後ろを遅れて、道なき道をゆっくり歩んだ。
水路べりにはあまりに多くの敷石片やら尖った石ころやらが転がっていたので、素足で歩くには、真斗は少し慎重にならざるをえなかった。それでも真斗の胸中は雨後の青空のように晴れやかだった。
初見の印象通りの性格らしく、シエラは非常に人好きのする女の子だった。無言で黙々と後をついてくるシエロとは対照的に、穀物倉庫へ戻る道中の十分弱を、シエラは小鳥がさえずるようにほがらかに話した。なので、初めは背後に気を取られて落ち着かなかった真斗も、数メートルも歩けばすっかり打ち解けてしまったものだった。
「真斗くんって大学生なんだ」
「うん。父さんが蒸発したあと、千草さん——叔母さんが引き取ってくれて、そのままお世話になってて」
「良い人なんだね」
「純粋な人だよ」
「私たちもね、親いないんだ。だから一緒」
「二人はどこの生まれなの?」
「セブ島。フィリピン中部の島……なんだけど、知ってる?」
「もちろん。僕たぶん行ったことあるよ。海がすごく綺麗な島だよね? 暖かくて、楽園のような場所だって特集でもやってた」
「——ハリボテの間違いだろ」
「シエロ」
「チッ」
「?」
「うん。セブ島は常夏リゾートだからね。島中、観光客でいつも賑わってたよ。真斗くんはいつ来たの? 最近?」
「ううん、ごめん。ずっと昔なんだ。まだ父さんも母さんもいた頃だから、たぶん小学生くらいの頃だとは思うんだけど……」
「じゃあ、私たちもきっともう生まれてるね。どこかで会ってたりして!」
水路は下流に行くにつれて、流れを緩く、幅を太くした。真斗は脇の崩れた石壁に指を這わせながら、この水路が交易路として使われていただろう過去に思いを馳せた。
この遺留航路の先は、海に続いているのかもしれなかった。二人の故郷であるセブ島も、歴史的に重要な交易拠点だったと聞く。ここは異世界だから、きっと地球の海とは繋がっていないだろうけれど、いつかみんなでこの世界の海も見てみたいなと、真斗は思った。
倉庫跡まで戻ってきた。
変わらず人気はなく、どこかで牛蛙の鳴き声がしていた。よく耳を澄ませば、いくつかの小さな足音も聞こえるようで、鼠でも棲みついているのかもしれなかった。
木骨を越えて、外れて朽ちた戸板を踏み抜き、三人は野営場所をのぞいた。真斗が出た頃にはまだ揺らめいていたはずの炎は、それこそさすがに燃え切ってはいたものの、抜けた屋根の隙間から白みはじめた空とわずかに残る星々の輝きが降りそそいでいたので、その場はそこまで暗くはなかった。真斗の目が暗闇に慣れたのもあるのかもしれない。
焚き火の煤炭を尻目に、四方を囲む崩れ残りの石壁の一画を真斗は見遣った。粗末な毛布に包まり、壁に背をあずけて横になるオリバーの姿も変わらずそこにあった。道中二人には、もう一人仲間がいることは伝えてあったので、背後に双子を立たせたまま、構わず真斗はオリバーを揺り起こした。
割とすんなりと瞼が上がった。オリバーは寝起きがいい方なのかもしれなかった。灰青色のぼんやりとした瞳が真斗を捉えた。オリバー? 小首を傾げる真斗の顔が、信徒の証を透過して瞳孔に映りこむ。
「——ッ」
ふと、背後で息を呑む気配がした。何かあっただろうか。真斗は振り返ろうとした。しかし結局、それがなされることはなかった。
——息をつく暇もなかった。
気づけば真斗は地面に引き倒されていた。文字にして、ダァン、だか、ドォン、だかいうような、ものすごい音が倉庫内に響き渡った。引っ張られて身体の下敷きになった右腕が脱臼するんじゃないかという勢いだった。
「っ」
声も出なかった。息が詰まった。真斗の身体は衝撃で軽くバウンドし、再び大きな手のひらに上から押し付けられて止まった。伏せさせられた倉庫の石床は、ほんのり温かく、体温の名残りがそこにあった。
そこは、先ほどまでオリバーが寝ていた場所だった。つまりはそういうことだ。寝起きのそのオリバーこそ、真斗を地面に叩きつけた張本人だったのだ。
「いた、い——オリバー!」
何が起きてるのかわからなかった。とにかく、オリバーに引き倒されたことだけ理解していた。寝ぼけているのだろうか。敵だと思われた? 真斗は抗議の声を上げた。何度もオリバーの名前を呼んでは手足をばたつかせた。
「離して! 僕だよ、オリバーッ」
返事はなかった。代わりに厚い質量が、覆い被さるように真斗の上に乗ってきた。うつ伏せの真斗の上に、更にうつ伏せるようにオリバーは膝をついていた。
——どこから。いや今はいい。武器。俺が上に。走らせて。他に仲間は
混乱しているようだった。背中に置かれた熱い手のひらから読み取れるオリバーの心中は、何だかゴチャゴチャとしていた。ぶつ切りになった言葉たちが、断片的に真斗に叩きつけられていた。
(庇、われてる……?)
真斗は徐々に抵抗を減らした。それから息を潜めるように、大人しく様子を伺った。どうにもオリバーが乱心したとは思えなかったからである。オリバーは真斗を自分の下敷きにしたが、それは真斗を守ろうとしての行動のようだった。
自分の身体を盾に、オリバーは何かを見据えていた。誰かが襲ってきたのだろうか。真斗は戦々恐々とした。全然気にもしていなかった。もしかしたら、真斗たちはつけられていたのかもしれなかった。オリバーの警察官らしい挙動が、更に真斗をドキドキとさせた。
ふと、真斗は押さえつけられた肩越しに、何かが視界の端をきらめいたのに気がついた。その流星のような軌跡は、オリバーの腰から顔前まで伸びて止まった。
ハンディナイフだった。折りたたみ式のその刃先が目にも止まらぬ速さで剥き出され、オリバーの眼前に掲げられていた。真斗からはこげちゃ色の樫のグリップの方が近かった。十センチほどの刃渡りは、真斗の背後にいた双子に向けられていた。
そこで初めて、真斗はとんでもない〈勘違い〉が生まれていることに気がついた。
「ちが、オリバー! その子たちは——」
「シエラ下がれ! 裏切ったな真斗‼︎」
「催眠の信徒……まさか今までも操られて」
「操られてない操られてない」
「は? 子ども?」
「そう! 二人は敵じゃない! だからナイフをおろしてよ、オリバーお願い!」
——敵じゃない? 嘘は言ってない。どういう状況だ? 何で他の信徒がここにいる。寝る前は確かに誰もいなかったはず
「僕が連れてきたの、危険はないよ!」
「それにしてはずいぶんと臨戦体勢に見えるがな。相手は信徒だ」
「僕も信徒だって!」
「こっちだって二対一だ。来るなら来い!」
「それよりも逃げた方がいいよ、シエロ! あのナイフの抜き方、絶対素人じゃない!」
「二人も待って! 話を聞いて——」
「真斗、いいからお前は頭下げてろ!」
もうめちゃくちゃだった。あまりの状況の手の負えなさに、真斗はわーっと叫び出したい状況に駆られた。だから真斗は、その衝動にあらがわず渾身の力でわーっと叫んだ。だから話を聞けってば!
その声は伽藍堂の倉庫の中に大きく反響し、寄せては返す波のようにさらなるボリュームで戻ってきた。さすがに一同は反動で口をつぐんだ。耳は逝った。
「うるさ……」
「いや叫んだのお前だから」
「びっくりしたぁ……気でも狂ったのかと思った」
「耳、痛ってえ」
「ご、ごめん」
非難轟々だった。一行を包んでいた一触即発の気配は、真斗の乱心が功を奏したのか、気づけばなりを顰めていた。代わりに何とも言えない微妙なムードが漂っていた。〈何この子。頭大丈夫?〉的な空気感だ。事実、オリバーなんかは、
——Have you lost your mind?
などと非常に失礼なことを考えていたので、
「別に僕のマインドはロストしてないから!」
と、真斗は憤慨したものだった。馬鹿力で押さえつけられて動けないし、誰も話聞かないし、唯一あの時自由になったのは声だけだったんだから、仕方ないだろ! と、そういう怒りだった。
「もーいいよ! どいて」
真斗は硬い口調でそう言った。
「おい、真斗」
「どいてってば、オリバー」
オリバーが、真斗の上からそっと退いた。
真斗は起き上がった。服はとっくに泥だらけだったが、反射的に土を払い、瞬間、手のひらのジクジクとした痛みに顔を顰めた。咄嗟についたらしい右手の母指球は、血でところどころ赤く滲んでいた。肘もピリピリとしていたので、そこも擦りむいているのかもしれなかった。
「僕、敵じゃないって言ったのに」
つい責める口調になった。真斗は手のひらに視線を落としたまま、項垂れて続けた。
「嘘じゃないって、わかってくれてたんじゃないの?」
「そりゃわかってたが、さすがに寝起きで後ろに敵かもしれない奴がいたらビビるだろ。しかも二人。お前、戦力にならねえんだから」
「…………」
「真斗」
たしかにそうだ、と真斗は思った。どうやら配慮が足りなかったのは、真斗の方らしかった。
オリバーは真斗を守ってくれただけなのだった。真斗はだんだん、彼を責めるのはお門違いなんじゃないかとも思い始めた。見上げたオリバーが、眉をハの字にしてこちらを見ていたので、余計にそう感じる。
「そうかも、ごめん」
「あーいや。……クソ、俺も寝ぼけてて悪かったな。手、大丈夫か? つーかお前、何でそんな泥だらけなの?」
それから真斗は、かくかくしかじかと、この半刻ほどであった出来事をかいつまんで話した。オリバーは「なるほどな」と言ったっきり黙りこみ、ナイフの刃先を静かに畳んだ。
続いて真斗は、すっかり息を潜めるようにして様子をうかがっていた双子にも「驚かせてごめん」と謝った。
「……信徒の仲間がいるとは聞いてたけど、こんな強い信徒だとは思わなかったから」
「ごめん」
「こちとらお前みたいに、平和ボケしてねえんだわ」
「……うん」
「その、……真斗くんは、本当に操られてないんだよね?」
「うん」
「操ってねえっての。そもそも、今は誰にも使えねえし」
火打石を打ちつけて火口に火をつけながら、オリバーが口を挟んできた。パチパチ燃える音と、たちまち明るくなる視界に、方々から息の抜ける音がする。
「催眠の神の権能が使えるのは、一度につき一人だけなんだよ。だから、それを解かない限り誰にも使えねえの」
「今誰かに使ってるってこと?」
「そういうこと」
「それがコイツでないっていう証拠は?」
「あるわけねえだろ、んなもん。信じる信じねえはお前らの勝手だしな。それより真斗、傷見せてみ。手当してやるから。いやその前に着替えか……?」
ドブ鼠のような有様だと表現されて、さっきの今で席を外すのに抵抗があった真斗も、さすがに着替えてくることに決めた。背負い袋の中から替えの服を取り出し、タオルを手に立ち上がる。一人と二人は向かい合って焚き火を囲んでいたが、その間、一切の会話はなかった。
「……もう、喧嘩しないでね?」
「いいからさっさと行ってこい、アホ」




