18 これは〈奇跡〉なんじゃないかと思ったのだ
地上を照らす銀テープは、いつの間にか短くなっていた。
月は再び、雲に隠れてしまったようだった。目を伏せるシエロの丸い頭越しに、大きな黒雲が西から東へ流れていくのが見えた。その動きはずいぶんと速いようだった。
何かの教育番組で見たセリフを、真斗は思い出した。雲が早く流れるのは、地上よりも強い風が吹いているからだと。
「シエロ」
「……何だよ」
「僕ね、あの日、一人の女の子に生かしてもらったから、今ここにいるんだ」
真斗は、自分の心のずっと深いところで、シアユンの絹のような長いポニーテールが風に揺れる姿を想起した。
シアユンは、とりわけ耳が良かった。それがシアユンの〈生来の才〉だったのか、それとも彼女が〈音楽の信徒〉だったからなのかは、もう今となってはわからないけれど、シアユンの耳が、追っ手の気配を常にとらえていたからこそ、真斗はあの長い間引きの儀を、夜明けまで生き残ることができたのだと思う。
「彼女は……僕が、この世界に来て、初めてできた友達だったんだ。みんなで生き残る方法はきっとあるよ、ってずっと励ましてくれてた。……あの間引きの夜、たぶん、たぶんね、僕がいなかったら、シアユンは死ななかったんじゃないかなって、ずっと、ずっと考えてて」
異様にのどが渇いていた。真斗は唇をしめらせて、つばを飲み込んで、そして続けた。
「この言葉が君にどう聞こえるのか、僕にはわからないけれど、君が〈死なない〉ことは、君を大切に思う人達にとって、とても嬉しいことなんじゃないのかな?」
「…………」
「それを、君の妹は、喜んでくれたんじゃないの?」
何かに押されるように、突如ザア、と風が吹き抜け、真斗は数歩よろめいた。
その動きに連動して、細かい水しぶきがいくつも上がった。舞い上がり逆立った髪の合間に、泣きながらシエロを抱きしめるシエラのイメージが見えた気がした。良かったぁ、良かったぁ、と泣いて笑う声がした——気がした。
真斗は身体の力を抜いた。肩を落として、口角を上げて、ゆっくり瞬きをした。
シエロは何も言わなかった。ただ、こぼれんばかりに、美しいダークブラウンの瞳を見開くだけだった。
「シエロ。死なないのはいいことなんだよ」
「お前……」
「人は死んだら、そこで終わりなんだもんね」
「そうだよ、シエロ!」
真斗はパッと目を開いた。シエロもバッと振り返った。
夜闇の奥からシエロと瓜二つの少女——もといシエラが、〈耐えきれない〉とでも言いたげに、大きな目をうるませてこちらに駆け寄ってきていた。いつからそこにいたのだろう。彼女はどうやら、水路脇の崩れた壁の裏で話を聞いていたらしかった。
シエラは、シエロを一度、ドン、と突き飛ばした。それから、それ以上の強さでシエロを引き寄せると、ぎゅうぎゅう抱きしめて言った。
「……聞いてたな、お前」
「シエロ! 何で自分のこと、そんな悪く言うの! シエロ、私に言ってくれたじゃん。死ぬのが怖いのは当たり前だって。シエロだってそうだよ。死にたくないのなんてみんな一緒じゃん! 死なない身体で安心するの、トーゼンじゃん!」
「おい、苦しいって。シエラ、」
「バカバカバカ、本っ当バカ! 私たちはずっと一緒なんでしょ? 二人で一人なんでしょ? 不安なことあるなら私に言ってよ。たった二人だけの家族なんだから」
「……シエラ」
こう見ると、よく似た外見とは裏腹に、二人から受ける印象はまったく違っていた。凛として落ち着いた言動が多く、内省的なシエロと、情緒豊かで表情の変化もわかりやすく、外交的なシエラ。二人が、これまでお互いを補い、支え合って生きてきたことがよくわかる光景だった。
心温まる光景とも言えた。言えたがいかんせん、あまりに仲睦まじい様子を見せつけられたせいで、真斗はだんだん、いたたまれなくなってきた。感覚的には、駅のホームで電車を待っていたら、向かいのホームでイチャつくカップルを目撃してしまったような感覚に近かった。
眼前の双子は、最初から一つであったとでも言うように——実際一つだったわけだが——お互いを、その骨と皮しかない細い腕でみちみちと抱きしめあっていた。
真斗は己を見下ろした。生活排水用の水路で棒立ちをしてそれを見ている真斗は、なかなかに滑稽に思えた。
(……うん。戻ろう)
馬に蹴られて何とやら、と言うのである。真斗は、そろりと音を立てないように後ずさりした。その慎重さのおかげでたしかに音は立たなかったが、水面は大きく波打って、水底の泥が浮き沈みを披露した。水と泥を含んだ両足は、ずいぶんと重かった。
だからそれは、ある意味では仕方のないことだと言えた。
そう、断じて真斗が迂闊だったというわけではなかった。後ずさりする中で、真斗は、自身のかかとに何かが当たったのを認識した。もうその時には、視界が反転していたので手遅れだったが。
「え、ちょっ、」
バッシャン、と高い水飛沫が上がった。真斗はそれを頭からかぶった。臀部が水底に叩きつけられた。頭を打たないよう、何とか身をよじった。無理やり背後についた手のひらがじんじんと熱を持つ。痛い。何かにつまづいた?
真斗はすっかり濡れそぼってしまった髪をかきあげて、顔を上げた。二対の瞳と目が合った。
シエロとシエラだ。それは当たり前だった。ここには、真斗の他には彼女たちしかいないのだから。
二人は何も言わなかった。身を寄せ合ったまま、水中にひっくり返った真斗を呆然と見ていた。真斗はすぐに視線を逸らした。膝を立てて座り込んだまま、腕の中に顔を埋めた。沈黙が痛い。
「ごめん、見ないでえ」
「おま、ええ?」
「だ、大丈夫……?」
「大丈夫です。お構いなく……」
かあと頬を赤らめて、真斗は言った。とはいえ暗かったので、その変化は二人にはわからなかったかもしれなかった。それはこの場で、唯一の救いとも言えた。
真斗は、未だにかかと付近で主張をしている硬い〈何か〉を確認するべく、左足をどけた。かかとにつっかかっていたのは、こぶし大ほどの石だった。
石だった。ゴツゴツとした凹凸と不自然な楕円形の、両手で抱えるには少し小さく、不注意な人間を転ばせるのにはじゅうぶんなサイズの石塊だった。
表面は固かった。それなりに重さもある。天然物の何の変哲もない石であることは間違いなかったが、真斗が思わず興味をそそられたのは、その石がこの暗闇の中で、鈍く光っていたからだった。
煌々と輝いていたわけではなかった。むしろ淡い月光にも負けてしまうような、くぐもった輝きだった。水中にあれば、波打つ水面と陰気な汚泥によって隠され、気がつかないのも無理はないほどだった。
真斗はその〈アクシデントの元凶〉を手に取った。石の内側から表面にかけて、虹色の光が放射状に広がっていた。シナプスのように表層へ向けて明滅している。生きているような脈動。まるで血管のような動き。
「おお……」
真斗は何となくその石をポケットに突っ込んだ。特別な意味はなかったが、理由をあえて挙げるならば、綺麗だと思ったからだった。と、そこで初めて、真斗は水底にまだ何か埋まっているのに気がついた。
ひものようなものと、寄せられた縛り口がぼんやり見えた。真斗は「まさか」と思った。ひもの輪っかに細い指を通す。一気に引き上げる。
大量の水と共に、石とほとんど同じ大きさの麻袋が釣り上げられた。
「あったー‼︎」
と思わず大きな声が出た。真斗の声は夜の静寂によくよく響いた。
真斗は、目詰まりしていた泥を慌ててすすいで、もう一度頭上にかかげた。袋には、どこか見覚えのある教会の紋章が、ちゃんと縫い付けられていた。
「あった! あったよ、二人とも!」
「な、何? 何があったって?」
「お金! これでしょ?」
真斗はバッシャンバッシャン水をかき分けて、思わずといった様子で差し出されたシエラの手のひらに、袋をぽとんと預けた。水のしたたり落ちる麻袋から、銀色が二枚、銅色が五枚、そっくりそのまま出てきた。
「マジか」
「よかったねえ」
「あ、ありがとう、お兄さん! お兄さんが転んでくれなかったら、私たち二人じゃきっと見つけられなかったよ」
「ドジが役に立ったな」
「ん? ちょっと待って? なんかその褒め方、全然嬉しくないんだけど」
二人は肩を震わせていた。ささやかながら、二人の笑顔をこの時真斗は初めて見たのだった。年相応の可愛らしい笑顔だ。ひとしおの感慨もあったが、それはそれとして、普通に笑われたのは恥ずかしかったので、真斗はプリプリしながら岸へと上がる。
上がると、大量の水を含んだ衣服の重みを如実に感じた。真斗はそでをまくり、ズボンのすそを絞った。
絞っても絞ってもキリがないほど、生地からはボタボタと疏水が落ちてきた。真斗は、おそらく三回ほどは、絞っては広げてを繰り返した。
そうして、あまりのキリのなさに真斗はいよいよ絞るのを諦めた。足元を見た。今度は、動く度に変な音のするブーツも思い切って脱ぎ捨てた。ブーツは重たい音を立てて、石畳に落ちた。
素足で踏みしめる大地は心なしか温かく、柔らかな雑草の葉先が足裏をくすぐるようだった。両の手のひらに靴紐を引っ掛け、ほおに張りついた横髪を肩で払ってから、真斗は視線を上げた。
月光に照らされた双子は、その美しい光に負けず劣らずのキラキラとした瞳で、無事に戻ってきた麻袋と硬貨をずっと眺めていた。そこに言葉はなかったが、その眼差しだけで、真斗には、彼女たちが心の底から喜んでいるのがわかったので、
(本当によかったなあ……)
自然と口角が上がるのを、真斗には止められそうになかった。ビシャビシャで、グチョグチョで、心なしか身体から変な匂いがする気がするが、二人のそんな顔を見たら、そんなの全部どうでも良くなってしまっていた。それくらいに、真斗も喜ばしい気持ちになったのだ。
硬貨袋を見つけられたのは本当に偶然だったが、気のよくなった今の真斗には、これは特別な、何かの啓示のようにも感じられていた。まあ、ありきたりな言葉で表現するならば、これは〈奇跡〉なんじゃないかと思ったのだ。
「あのさ」
「何だよ」
「やっぱり二人とも、僕と一緒に行かない? ……ううん。僕が、君たちと一緒に行きたいんだ。だって、せっかくこうして出会えたんだから」
「…………」
「絶対見つからないって思ってた落とし物も、今見つけられたみたいに——絶対全員では生き残れないと思っていたこの代理戦争も、もしかしたら何か抜け道があるのかもしれない。僕は、それを探さずに諦めたくないんだ」
額から垂れた雫が一粒、目尻に溜まった。真斗はその雫を、長いまつげで瞬きをして払ってから、
「それが、シアユンの望みでもあったから」
「……わかった」
「シエラ」
「行こう、シエロ。この人が目指していることは、私たちが目標としていることでもあるんだから。……私は、シエロと戦いたくない。シエロも、そうでしょ?」
「当たり前だ、そんなの。お前が一番大事に決まってる。だけど、こんな話、何か裏があるのかもしれねえだろ」
「そう、なんだとしても、この人ならたぶん、私たち逃げ切れるよ。なんかどんくさそうだしね。それにね、シエロ。私、これからどうしたらいいのか、わかんないんだ……すごく怖い人、教会にいっぱいいたじゃない。あんな人たちと戦って生き残れるなんて、とても思えない。だったらリスクがあっても、少しでも人数が多い方が安心だし、それに——」
あとの言葉は続かなかった。シエラの意味ありげな眼差しが、なでるように真斗に注がれた。その視線は、真斗の腰まわりを何かを探すようにくるりと一周した。真斗もつられて己の腰を見た。何かついてるのだろうか? 首を傾げる。何もない。
「……これは、いいチャンスだと思う」
「?」
真斗は、何が何やらわからぬまま、結局黙り込んでしまった双子の顔を見比べた。シエラは思案するようにうつむいたあと、ちらりとシエロを横目に見たようだった。
たぶん、それはアイコンタクトだった。どこか含みのあるシエラの意図に、シエロだけは何かを感じ取ったようだった。
双子特有の〈共感覚〉というべきものなのかもしれなかった。真斗には残念ながら兄弟はいなかったので、そういったものにはとんと縁がなかったが、まあ、説明がないということは自分は知らなくてもいいことなのだろう。真斗は無理矢理己を納得させる。
「えーと……?」
それから真斗はたとたどしく総括した。なんだか一箇所聞き捨てならないセリフが聞こえたような気がしたものの、それはそれとして、つまりはこういうことなんだろうか。
「……仲間に、なってくれるってこと?」
「そう」
色よい返事が一つ返ってきた。次いで、鋭い舌打ちが追い打ちをかけてきた。真斗は、真逆の表情を浮かべるよく似た双子の顔を交互に見比べて、それから「わあっ」と、声を上げた。
「ありがとう、二人とも! これからよろしくね!」




