17 Cielo Maria dela Cruz
——何かはいた。
何かはいたが、結論から言えば、それは魔獣ではなかった。いや、魔獣を見たことがない身でそう断定するのはいささか早計なのかもしれないが、この時の真斗には、そう断定できるだけの確信があった。
つまりは、その〈何か〉の正体を、真斗は一度見たことがあったのである。
音の発生源は、真斗たちが根城にした廃棄倉庫から五分ほど北上した場所にあった。
星空のわずかな明かりを頼りに、真斗は暗闇に慣れ始めた瞳を懸命に凝らしながら、やっとこさ音の出どころまでたどり着いた。
道中、水路べりの雑草や砕けた石畳に何度も足を取られたし、変な緊張で身体に余計な力が入っていたのもあって、到着する頃にはヘトヘトになっていたが、まあ無事に着いたので上々ではある。
その水路に腰まで浸かりながら、〈何か〉——もとい少女がいた。
少女だった。
あたりは暗く、髪の色も瞳の色も肌の色も判別できなかったが、あのふぞろいのショートヘアに、真斗は覚えがあった。背が高いわりに痩せぎすで、信徒の格好をした少女。昼間〈流れ樽〉で出会った双子のうちの片割れ。
たぶん、シエロと呼ばれていた方の女の子だった。二人の顔つきはそっくりだったが、雰囲気は正反対だったので、二度目の真斗でも判別がついた。そのシエロは、バッシャンバッシャンと水面をひっくり返しながら、両の手を水の中に突っ込んで何かをしていた。
水を攫っているようだった。明らかに何かを探している挙動だった。
「あの、」
と真斗は慎重に声をかけた。それは弾け飛ぶ水の音でかき消えたらしかった。なので仕方なく、真斗もう一度、今度は大きめに、
「こんばんは」
バッと弾かれたように、シエロがこっちを見た。大きな瞳と目が合った。それから水の中とは思えない勢いでシエロが逃走しようとするので、「あ、待って!」と真斗も追いかけようとして——
「ぐえっ」
とすっ転んだ。たぶん、顔面からいった。
幸いにも生い茂る雑草のおかげで大事には至らなかった。至らなかったが、顔面は痛いし、いい歳してみっともないしで真斗は半泣きだった。
逃げようとしていたシエロの足音は途絶えていた。視線はまだ感じるので近くにはいるのだろうが、真斗はとてもじゃないが顔を上げられなかった。転んだ体勢のまま、真斗は心の中でしくしくと泣いていた。
「お、おい、大丈夫かよ……?」
なかなか起き上がらない真斗に、打ちどころが悪かったと思ったのかもしれなかった。ジャブジャブと水をかき分けて、シエロが初めてこっちに近づいてきた。呼びとめるという当初の目的は、真斗の醜態と引き換えに達成されたようだったが、はっきり言って、真斗は全然嬉しくなかった。
「死んだ?」
「死んでない……」
真斗はすんと鼻を鳴らしながら、ようやく起き上がった。地面がぬかるんでいたのか、泥だらけになった顔を服のそででぬぐう。そうして顔を上げれば、手を貸そうとしてくれたのか、シエロは思ったよりも近くにいた。
シエロもびしゃびしゃだった。水路の水をひっくり返していたのだから、それはそうなのかもしれないが、それにしたってずぶ濡れだった。濡れそぼって重たくなった生地と、すそからしたたり落ちる雫が、彼女の必死さを表していた。
必死さだ。それだけ必死に、何かを探していたのだ。だから真斗は、素直に聞いた。
「僕に手伝えることある?」
「は?」
「昼間もたふん、水路に入ろうとしてたよね? 何か、落としちゃったのかと思って」
「いやお前、何言ってんの?」
シエロは呆れたように片眉を上げた。
「自分の格好見てから言えや」
「え、恥ずかし……って、そうじゃなくて! もしそうなら、僕も一緒に探すよってこと! 二人で探したら見つかるかもしれないし」
そう言えば、シエロはグッと押し黙った。嫌がっているわけではなさそうだった。それはそうだ。大切なものなら尚更、人手は多い方がいいに決まっているのだから。
シエロはしばらく長考していた。真斗は辛抱強く待った。せっかく話をしてくれる気になったのに、また逃げられてはたまらない。
「つーかさ」
「うん」
「私が何してるとかお前に関係ねえよな」
「えっ、ええ……? そんなに悩んで言うことがそれ?」
真斗は天を仰いだ。たしかにそうだよ。そうなんだけど、そうじゃないじゃん。困っていそうだったから、手伝おうとしているだけなのだ。何か見返りを求めているとか、そういうことではない。
けれど、その辺の繊細な気持ちを、結局上手い言葉に変換できそうになかったので、仕方なく真斗は、言葉の代わりにズブズブと水に割って入った。さすがに夜中の水温は低く、一瞬、筋肉が収縮するのが如実に感じられるほどだった。それでも真斗は、無言で半身を水に沈めた。
水路の水嵩は太ももを少し越すくらいで、底は暗かった。水面は星屑のようにわずかにきらめいている。昼間街で見た時よりも、いささかゆるい流れが体表をなでて、下流へと過ぎていった。
「何を探してるの?」
「いや、だから」
「僕、何を見つけたらいい?」
「…………」
それから、また長い時間をかけて、シエロは小さく「金」と言った。
「お金?」
「そう。逃げてる時に、妹が落として……別になくてもどうにでもなるけど、アイツが、気にしてたから。街から水路をたどってきたら外に出て、ここは流れが遅いから、引っかかってんじゃないかと」
「なるほど」
たしかに水路は二メートルほど前方で湾曲し、一段低くなっているようだった。教会支給の麻袋を流してしまったとして、このあたりで滞留していても何も不思議ではない。
だからあれだけ必死に探してたのか。真斗は納得した。だって、稼ぎ口のない信徒には、この世界の通貨はあれしかない。
「よし、頑張ろう! おー!」
「…………」
それから真斗とシエロは、たぶん十分ほどは水を攫った。沈めた指先に触れるのは、泥とも石ともつかない感触ばかりだ。元よりシエロが探していた場所だというのもあり、収穫は何もない。
場所を変えた方がいいのかもしれなかった。実際真斗は、そう提案しようとした。そして、
「もういいって」
シエロにさえぎられる。
「え?」
真斗は目にかかった前髪を、濡れた手で耳にかけながら、首をかしげた。
「どうして? まだ見つかってないけど」
「そもそもここまで流れ着いてるかもわからねえだろ。ずっと、見てたわけじゃないし。別んとこ引っかかってたり、誰かに拾われてるかもしれねえし」
真斗はシエロの顔をうかがい見た。その瞳に少しでも未練のようなものが浮かんでいれば、励ましてでも捜索を続けようと思っていたのだ。しかし、彼女のその大きな二重目は何の感情も映してはいなかったので、これ以上は自己満足か、と真斗は思った。
「そっか」
「ああ、そういうことだから。じゃあな」
あっさりした別れだった。シエロは水から上がって、チュニックの長いすそをギュッとしぼった。ボタボタと大量の雫が滝のようにしたたり落ち、葉を伝って黒い大地に吸い込まれていった。
「またね」
真斗もあっさり別れを告げた。聞くや否や、シエロの痩躯はくるんとひるがえった。真斗もシエロから視線を外した。そうして再び身をかがめて、氷のような水面に、赤く染まっているであろう指をそっと浸した。
かがみながら真斗は考えた。水路の幅はそれなりにある。あとどれくらい下流に続いているのか知れないが、一人で見るならば工夫が必要だろう。
(昔やった……何だっけ? 田植え、みたいな……?)
一列攫ったら、一歩後ろに下がって、また一列。そうやって少しずつ南下していけば、一人でも広範囲を漏れなく見れる。そうしよう。
それから真斗は、ふふふ、としたり顔で笑った。何を隠そう、真斗は幼い頃、〈親子の田植え体験〉なるもので新聞にも載ったことのある実力なのである。まあね。どんと任せなさい。
「いやだから、何やってんだよ」
そんな誰にともなく胸を張っていた真斗は、去っていくはずの足音が聞こえなかったことにようやく気がついた。顔を上げれば、シエロはまだそこにいた。細くて長い柳眉を寄せて、肩をいからせていた。
「?」
「私、もういいって言ったよな?」
「あ、うん」
真斗はうなずいた。それから少し考えて、
「でももうちょっとで、見つかるかもしれないし」
と言ってみた。
「あ、違うよ! 横取りしようとしてるとかじゃないよ! 僕たちは、じゅうぶんすぎるくらいもらっちゃってるから、ほんと、全然、お金欲しいとかじゃなくて」
「…………」
「その、ほんとに、自己満足というか。怪しいのはわかってるんだけど、ええと」
チッ、と鋭い舌打ちが聞こえた。
「え、舌打ち……?」
「——お前、昼間、私たちを見たって言ってたよな?」
「え、うん」
「つまりあの時、地面で這いつくばってた奴ってことだよな?」
「いや、重ね重ね恥ずかしいな! それはそうなんだけど、それはできれば、忘れてもらえると嬉しいかも、なんて」
「お前、信徒じゃねえのかよ。いったい何が目的なんだ。こんなことして、お前に何かメリットあんのか?」
「メリット?」
真斗は身を起こした。メリットはあった。目的も。むしろそれは、一つしかないとも言えた。
真斗は別に〈親切な人間〉なのではなかった。むしろ自身のことを、結構利己的な人間だと評価していた。利己的な真斗は、こうするのが結果的に、この先の未来で一番いいと思っているだけなのだ。
「僕は、みんなと仲間になりたいだけだよ」
「は?」
「僕、弱い信徒だから。みんなの役に立てること、たぶん、そんなになくて。だからね、僕に出来ることがあるなら、それくらいは頑張りたいだけなんだ。本当に、自己満足なの」
へらり、と笑って真斗は続けた。
「だからメリットって言うなら、たぶんそれは、こうやって君が、僕と話をしてくれることなんじゃないかって思うんだ。僕はみんなで、生きて、地球に帰りたい。だって本当は、誰も死ぬ必要なんてないから」
「そんなこと、出来るわけがない」
「そうだね」
真斗は素直にうなずいた。
「そうかも。でもそれは、目指しちゃいけない理由には、ならないから」
痩身がわずかに前傾しているせいなのか、それとも敷道に傾斜がついているせいなのか、シエロが今どんな顔をしているのか真斗にはわからなかった。代わりに、雲間から隠れていた月が煌々と現れ、一面にいくつもの銀色の帯が、細く長くふりそそいだ。
沈黙だけがそこにあった。その重い沈黙をさえぎるように、シエロは言った。
「殺しに来た相手にも、お前は同じことを言うのかよ」
「え?」
「今まさに、腹を蹴り飛ばされて、腕を折られて、首を絞められてるって時に、お前は、ソイツに向かって、仲間になりたいって? ハッ、バッカじゃねえの? そんなの命乞いにすらなんねえよ」
視界にノイズが走る。薄暗い路地裏のゴミ捨て場で、今よりもずっと小さなシエロが、丸々と太った男に殴られている。
「日本人っつーのは、みんなお前みたいに頭がお花畑なのか? それともお前が特別バカなだけ? お前みたいにさ、僕はみんなに愛されて生きてきました、って顔してるヤツを見ると本当に反吐が出るんだよ」
「待って。違う、僕は」
「何が違うんだよ! ツヤツヤした髪も、白パンみたいな柔らかい肌も、花びらみたいに綺麗な爪も! 全部全部持ってるくせに‼︎ 温かい安全な寝床。お腹いっぱいになるだけの美味しいご飯。自分を無条件で守ってくれる誰か。私が、私たちが、喉から手が出るほど欲しいものを、お前はッ、最初から! 当たり前に持ってるくせに!!」
「違う、そうじゃない、ほんとうに」
「Ang galing mo talaga. お前みたいなヤツは、世界が自分を拒むことがあるなんて、きっと考えもしないんだろうな。お綺麗な顔で、お綺麗なことを言えば、みんなが愛してくれるもんな」
「……やめて、お願い」
「だからそんな甘いことが言えるんだ」
——まるで、愛玩動物だな
ああ、どこかで聞いた声がする。
真斗はうめいた。耳の奥で、かつて聞いた言葉たちが木霊する。
——エンゼルトランペットの花言葉はね、愛嬌、愛敬、偽りの魅力。そして、〈あなたを酔わせる〉
テーブルの上のラジオカセット。勝手にテープが回り、バチン、とスイッチが入る。馴染みのある声が、真斗をなじる。
——あなたはね、ここで座って微笑むだけでいいのよ。そう、手をそろえて、少しだけ首をかしげて。ああ、なんて美しい。やっぱりこの子は、神が与えたもうた〈奇跡の子〉なんだわ
「わかってる。僕が、みんなをおかしくしてるのは、全部わかって——」
まくし立てるようにふりそそいでいた言葉が、ふいにピタリと止んだ。真斗はハッとした。今、自分は何を口走っただろうか。回り続けるテープの音がうるさい。違う。こんなところにラジオはない。久しぶりに聞いた。もう、ずっと、こんなことなかったのに。いや違う。落ち着け。今は、僕が何であるかなんて、どうでもいいのだから。
真斗は顔を上げた。深呼吸をした。おかしくなった時の対処法はよく知っている。周りを見て、一つ一つ確認するだけ。
心臓の鼓動が落ち着くのに比例して、視界がクリアになった。風音が聞こえる。シエロはうつむいていた。枝毛だらけの髪の束が、一房、木枯らしに揺れていた。
「……君の言うとおり、僕は、本当は、何もわかってないのかも、しれないけれど」
真斗は慎重に言葉を選んだ。
「でも、戦いたくないって、死にたくないって思う気持ちは、僕たちは、同じじゃないの……?」
シエロは答えなかった。ただ地面の、欠けた石畳の残骸を、その暗い瞳に映していた。
「……妹と」
「うん」
「殺し合いたくないんだ。〈代理戦争〉で生き残れるのは、一人、なんだろ。本当は、二人で信徒に選ばれた時、私は死ぬべきだと思った。私は、シエラの、お姉ちゃんだから」
「……うん」
「でも、死ねないんだ。私の信仰神はヒュギエイアで、私は、健康の信徒だから」
「…………」
「私の〈王の特権〉は、〈不死〉なんだと。誰も私を、私自身ですら、殺せないんだとさ。あーあ、最悪だって思った。シエラのために、死のうと思ってたのにって」
「シエロ……」
「でもな。本当は、死ぬのが怖かっただけなんだ。シエラのために、死のう死のうと思ってたはずなのに、死なない身体になったって知った時、私、ほっとしちまった。この先何があっても、周りがどれだけ死のうとも、あんなに苦しくて、痛くて、辛い〈死〉というものは、私にだけは来ることはないんだなあって」
シエロは真斗を見た。真斗もシエロを見た。
「本当に、反吐が出るのは、私なのかもしれないな」




