16 確認、確認だけ
真斗、真斗、と身体を揺さぶられて真斗は目を覚ました。
どこか遠くで牛蛙が鳴いていた。隙間風のひゅーと抜ける音がする。あたりはすっかり真っ黒な夜闇に包まれていて、肩に置かれた手のひらの温かさと、真斗を呼ぶひかえめな低音がなければ、目の前の人影がオリバーだとわからないくらいの明度だった。
「オリバー……?」
「時間だぜ、相棒」
そうだった、と真斗は思った。二時間で交代なのだった。泥のように眠っていたからか、脳の起動は遅いものの、気分はずいぶんとすっきりしている。
——爆睡かよ。肝座りすぎじゃね? いや、平和ボケしてるだけか
(聞こえてますけどお)
と思いつつもオリバーの心の声を黙殺し、真斗は毛布の中からモゾモゾと這い出た。
気温はぐんと下がっていた。ぶるぶると震えるほどではなかったが、毛布から出るのが億劫になるくらいには外気が冷たかった。
オリバーがいなかったらどうなっていたのだろう、と真斗はふと思った。そうなっていたら、きっと真斗は南東の小門からは出ていなかったから、もしかしたらもう殺されていたかもしれなかった。万が一にも襲われなかったとしても、火は起こせなかっただろうから、寒くて凍えてしまっていたかも。こんなに安心して夜を眠れなかったのは間違いない。
だから、本当によかった。
真斗が脱ぎ捨てた毛布を頭から被りなおすのと、オリバーが火打石を打つのはほぼ同時だった。カン、と深い闇に甲高い音が木霊した。ふう、と息を吹きかける音。ぼうと明るくなる視界、パチパチと爆ぜる火の粉。
「じゃあ、寝るぞ」
じっと石壁に映る自分の影を眺めていた真斗は、その言葉に慌ててうなずいた。そんな真斗の様子に何を思ったのか、オリバーは少し考えた後、
「何かあったら起こしていいから」
などと殊勝なことを言ってきたので、思わず真斗は「ええ……?」と困惑してしまった。
「おい引くな! クソ、ほんとムカつくなお前!」
「ふふ、ごめん。ありがとう、オリバー。おやすみ」
「クソッ、おやすみ!」
座りのいい位置を探すように、しばらく動いていたオリバーは、壁に背をつけて目を閉じて、ようやく寝る体勢に入ったようだった。真斗はそれを、焚き火のあかり越しにずっと見ていた。寝づらいかも、と思いつつも、なぜかそうせざるにはいられなかった。
ほどなくして規則正しい寝息が聞こえてきた。
どこでも寝れる質なのは、オリバーも一緒らしかった。真斗は暗闇から逃れるように、ほんの少しだけ、寝ているオリバーに近寄ってみた。横たわった身体が、ゆるやかに上下している。もう少し、そばに寄ってみた。長く伸びた影が生き物のように揺らめいている。あとちょっとだけ、と思ってオリバーが身じろぎをしたので、真斗は動きを止めた。
今度はそこで、真斗は丸まった。丸まったが、何だかずっと落ち着かない気持ちでいる。そこでふと、思い出した。
(そうだ、シアユンの——)
ルーカスは、安全な場所で一人の時に、と言っていたが今ならいいだろうか。真斗は旅嚢の底にこっそり忍ばせていた、羊皮紙の束をいそいそと取り出してきた。チューニングフォークで空いた穴に、麻の紐が通されただけの素朴な手帳。シアユンが遺したもの。
真斗はシアユンの能力を何一つ知らなかった。これが彼女の力によるものだとは知っていても、内容まではわからない。
(何が、書いてあって——)
真斗は一ページ目をめくってみた。初めに大きく〈王 夏雲〉と銘打たれていた。シアユンの名前だ、と真斗は思った。その下に、文字がびっしり、数字がちょっぴり続いていた。
煤炭の字は細かかった。正直、小さな篝火だけでは読み取ることは不可能に近いほどだった。真斗はなんとか透かしたり角度を変えたりして可読を試みたが、とうとう諦めるに至った。まあ、これからもチャンスはあるだろう。
そうは思えども、落ち着かないのに変わりはなかったので、真斗は元の位置に丁寧に手帳をしまった後、布団をさらに深くかぶって歌を歌った。声は出せないので、心の中で。シアユンの歌をなぞって、時間をつぶした。
二回目の着火になんとか成功して、しばらくが経過していた。天井の抜けた向こうの夜空は変わらず広く、崩れた梁や石壁の縁は、星明かりか篝火かわからないもので、ぼんやりと縁取られていた。炎の勢いは少しずつ弱くなってきていた。もうすぐ約束の時間である。そのことに、何だか真斗は無性に安堵していた。
(あと、ちょっと)
ふと、何かが聞こえたような気がして、真斗は息を止めた。歌うのをやめて、耳を澄ませる。水路を流れる水の音。風にゆれる雑草の葉擦れ。牛蛙の鳴き声と、焚き火の破裂音。それ以外には、特に何も聞こえない。
思い過ごしに違いなかった。慣れない夜営に見張り役。警戒しすぎて、幻聴でも聞いたのかもしれなかった。
真斗は呪文のように、それを唱えた。気のせい、気のせい。気のせい、気のせ——
今度は確実に聞いた。
真斗は思わずビクリ、と身体を跳ねさせた。音にするならば、バシャ、とか、ジャブジャブ、とかそんな音だった。
水路に何かがいるのは間違いなかった。真斗は確信した。距離はどうだろうか。遠くにも近くにも聞こえる。夜の静寂に距離感がバカになりすぎて、判別がつかない。
真斗は焚き火の向こうの闇を凝視した。瞬きを二回。何もいない。いないけれど、音はしている。水をかき分ける音。結構大きい。
——まあ簡単に言えば、とある病気の〈末期症状〉だな
脳までバカになっているのかもしれなかった。変なタイミングで、真斗は変なことを思い出していた。
——その成れの果てが魔獣だ
いやいやまさか、と真斗は首を振った。そんな見事なフラグの回収があるだろうかと。魔獣など見たこともないが、いくら郊外とはいえ、こんな街のすぐ近くに出るとは思えない。
(でも、たいていは……家畜か野生動物、なんだよね……?)
真斗はうめいた。むしろこういった場所にこそ多いのは道理であるように思えた。だってここは旧穀物倉庫で、水場もあって、風もしのげるのである。それこそ、魔獣とっての〈おあつらえ向きな場所〉であって。
(オ、オリバー……)
真斗は、未だ規則正しい寝息を立てて横たわる相棒をうかがい見た。オリバーは、真斗の大荒れの心中などいざ知らず、すやすやと寝入っている。自分こそ爆睡じゃん、とツッコむ余裕すらない。有り体に言えば、真斗はめっちゃビビっていた。
(おこ、起こす……?)
オリバーは、何かあったら起こしていいと言ってくれていた。何かって何だ。これはその〈何か〉なのだろうか。真斗は混乱していた。思考がぐるぐるとして目が回りそうだった。
薪が燃え尽きるまでにはまだ時間がある。きっとオリバーだって疲れている。寝かせてあげたい。でも、本当に魔獣だったら? 起こして逃げないと。いや、まだそうと決まったわけではないし、ただ流木が引っかかっているだけだったら、それは真斗の勘違いで——
真斗は深呼吸をした。手を開いたり閉じたりしてみた。うーん、と唸ったりした。そうして立ち上がった。
(確認、確認だけ)
焚き火から一歩離れただけで、足元の闇は一気に濃くなった。石畳の欠けた部分に注意しながら、真斗は水路の続く先へと、慎重に歩を進めた。
水音はしていた。
間違いなく、何かはいた。




