02 Eyes on Me, After the Night
朝が来た。
晴天だった。空には雲一つなかった。それはいっそ、清々しいほどに。
どこか冷えていた空気は陽光で温められ、街道はまばゆい光に包まれ始めていた。瓦礫の影が短くなり、石畳から日の匂いが立ち上る。もっと太陽が高くなれば、今真斗がいる路地裏も照らされて、明るくなるのかもしれなかった。
けれど、そんなことは大した問題ではなかった。冷たい地面に座り込み、足の太ももから下が血にまみれ、握り続ける彼女の細い手のひらが氷塊のように固くなっても、そんなこと、今の真斗にとってはどうでもいいことだった。ずっと寒くたって、別によかったのだ。彼女を置いて、一人でこの先を生きていける気がしなかったから。
どれくらい経ったか、雑踏に紛れ、遠くの方からふいに足音が聞こえてきた。たぶん、複数人だった。その歩調はやけに統一されていて、徐々に起き出す街並みの、その朝の喧騒の中でいやに耳につくほどだった。
「おーい。こっちだ」
「うわ、派手にやったなあ」
「この地区って誰の担当だっけ?」
「あれだよ。セオドール・ターナー。あの、例の」
「あー」
「あの人の後始末するの嫌なんだよな。すげえ散らかすし」
「相変わらずっスねえ」
沢山の声が近づいてきていた。全部、男の声だった。彼らは真斗には到底理解できないような、何だか意味のわからないことを口走っていた。音は聞こえているのに、まるで言語そのものが異なるかのような違和感が、そこにはあった。
理由のない不快感に、真斗はそっと両手を耳に当てた。内耳の奥で反響する、暖かで優しい、大好きな旋律がなくなってしまうと思ったからだ。
耳を塞いだ。目は閉じなかった。寄りかかれるものはなかったので、背中を丸めてぐらぐら揺れる身体を支えた。
「え」
「うわ、生きてる奴いるんスけど」
「は? んなわけねえだろ」
「いや、マジなんスって! うわー、すげえ。間引きって生き残る奴いるんスねえ」
「いや、ガチじゃん。ちょ、お前、回収担当に連絡した?」
「するわけねえだろ。いつも全員死ぬんだから」
「だよな。ヤベー、絶対怒られるだろうなあ、早く連絡しろって」
黒い革靴が三つ、遅れて一つ、真斗の眼前にそろった。四対の爪先が、バタバタと真斗の周りを忙しなく動く。能力を使った時とは違う、根拠のない悪感情に、真斗は吐き気が治らなかった。
「面倒くせー」
「どーするよ」
「とりあえず、先にコレ片しちまおうぜ。連絡なんて今したって後でしたって一緒だろ」
「りょーかい。おい、そっち、袋持って!」
あ、と真斗は思った。思った時には、もう遅かった。華奢で、可憐で、生命力に満ちていた小さな骸が——真っ二つになった肉塊が——夜を煮詰めて広げたような袋の中に、ドサリと投げ込まれていた。
それは、文字通りの〈後始末〉だった。
とっさに真斗は、自分が今、あの手を握っていなかったことを猛烈に後悔した。たぶん、手を繋いでいたとしても結果は変わらなかっただろうけれど、それでもそれは、今までの言いようのない不快感を凌駕するほどの衝撃だった。
己への嫌悪に、震えが止まらない。
「——おい」
手の甲に血がにじむほど爪を立てていた真斗を、凪いだ海のような平坦な声音が制止した。その制止が革靴の男たちに向けられていたことは分かっていたものの、真斗も反射で硬直する。見上げる。ドゥルガの表情は見えない。
「ドゥ、ドゥルガさん⁉︎」
「お疲れ様っス。いらしたんスね」
「うお、勇者様。俺生で話すの初めて」
「俺もー」
ドゥルガは男たちの囁きに顔色一つ変えなかった。能面のような無表情で、静かに続けた。
「いい、お前ら。ついでだ。コイツは俺が連れてってやる」
「うえっ、いや、マジっスか! 助かるっス」
「え、え? 本当に? 本当に良いんですか? お疲れじゃ——」
「帰投命令が出てる。ついでと言ったろ。——いいからお前らは、黙って役目を果たせ。現状復帰が役場との条件だ」
「はーい!」
「さっすが勇者様、太っ腹ぁ」
頭が痛い。ますます強くなる陽光に、真斗は眩暈がしてきた。とにかく頭がぐちゃぐちゃしていて、もう何も考えたくなかった。真斗は疲れていた。
ふと、一つの影が、路地裏に鋭く差し込む光をさえぎって真斗を覆った。真斗はその先を、事務的に目で追った。樹脂のような透明感のある瞳の奥に、青ざめた自分の姿が揺らいでいた。
「帰るぞ」
ドゥルガが言ったのは、その一言だけだった。真斗はとっさに、どこに、と思った。
そんなのは決まっていた。街の中央にそびえ立つ、あの忌まわしき教会に、だ。当たり前だった。今の真斗が行くところなど、そこしかない。
ドゥルガがきびすを返した。二歩進んで、それから立ち止まり、また真斗を見た。沈黙が流れた。座り込んだままの真斗を、ドゥルガは叱責するようなことはしなかった。
ただ、一言、
「立て」
とだけ言った。
「そこにはもう、何もない」
たしかに何もなかった。その通りだった。
音楽の信徒の亡骸は、男たちの背に積まれていた。石畳の隙間を埋めるほどのおびただしい血痕は、水で綺麗に洗い流されていた。そこにあったはずの夜は、もう明けていた。
真斗は震える足で立ち上がった。数歩たたらを踏んで、それから唇を噛み、拳を握り、歩き出した。ドゥルガの影を、一歩一歩踏み締めて歩いた。
真斗は振り返らなかった。振り返る理由がないことを、真斗はもう充分、思い知っていた。




