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01 My last night here with you

 この場に〈時計〉はなかったが、夜が終わりかけていることだけは理解していた。

 空の端がわずかに白んでいるのだ。


 ——間引き(ハルモニア)は、一晩。


 教会職員が告げた規定が真斗(マナト)の脳裏で点滅する。一晩。日が沈んでから、再び昇るまで。

 あと数分。そう、あと数分である。ようやくここまで来た。あと数分、逃げきれれば、ひとまずこの先数日の命は保証される。大丈夫。大丈夫、あと少しなのだから。そう、


「大丈夫だって」


 背後からこの場には不釣り合いなほど明るい声がした。少女と女性の合いの子のような声だった。風鈴を風に転がすような涼やかな声。シアユンの声。


「夜が明けたら終わりじゃん。ほら、見て! もうすぐ」


 シアユンの言葉は、いつだって真斗に勇気をくれた。今もそうだ。いつの間にかうつむいていた顔を上げて、真斗は言われるがままに天を仰いだ。〈よく晴れた〉という表現がお手本のような空が、そこにはあった。白みが広がり、端から温かみのある橙色が滲んできている。黎明が近い。


「……シアユン」

「お腹すいたね、真斗。これって終わったら食事はちゃんと出るのかなあ」

「ふふ、へんなの。この状況でご飯の心配?」

「ご飯は大事でしょーが! 腹が減っては歌は歌えぬってね」

「そうだね。うん、そうかも」

「——真斗」

「なに?」


 シアユンは何かを言いかけたようだった。息を吸って不自然に止めた気配がした。なんだろう? なにか聞こえたのだろうか。シアユンは耳がいいから。

 しばらく待っても何の言葉も続かなかったので、真斗は身をよじった。振り向こうとして——すぐさま静止される。


「ごめん、何でもないよ! 前向いてて」

「? そお?」


 視界には煉瓦づくりの街並みが広がっていた。真斗は行ったことがないけれど、あえて例えるならば、それは〈西洋の街景〉というやつだった。石や煉瓦で出来た建物が隙間なく連続し、朝の冷えた空気と静寂に美しく溶けこんでいる。不規則で有機的な道。どこか整然さを感じる家々の配列。


「よし! 後方確認は私に任せなさーい。前方の警戒は頼むぞ、真斗隊員」

「ふふ、ラジャー」


 真斗は深呼吸をした。それから胸を数度さすった。わずかな息苦しさを感じたからだ。何かの予兆なのは間違いなかった。この世界に来てまだ初日だが、それでもこういうことは幾度となくあったから。

 けれど、これが何の予兆かは、考えたら動けなくなることが身に染みていたので、真斗はその気配から目を背けるように長い息を吐いた。ふー、と肩をおろす。唇をしめらせる。眉根を寄せる。


 ふと、歌が聞こえてきた。

 よく知らない、けれど知っている歌だった。何度もシアユンが歌ってくれた歌だ。夏の雲が流れるように、爽やかで、どこか穏やかな旋律。



 My last night here for you

 Same old songs, just once more



 少しだけ、その柔らかい歌声に真斗は寄りかかった。目は閉じられないので、耳を傾けるだけ。息苦しさがほんの少しマシになる。やっぱりシアユンはすごい。こんなにすごい女の子なのに、どうして歌手になれなかったんだろう。


 ふいに、不自然に歌が途切れた。シアユンはいつだって歌に真摯だったから、こんなふうに変に切ったりなんてしない。真斗は真っ先に追手の襲来を警戒した。素早く視線を走らせる。見える範囲に敵の姿はない。静かだ。この世界に一人になったみたいに。

 シアユンは何も言わない。首を傾げる。


「シアユン?」


 そこにシアユンはいなかった。

 ただ、〈シアユンだったもの〉だけが落ちていた。


 薄暗い視界を裂くように、大きな鎌の先だけがギラギラ光っていた。何かが、その刃先から、したたり落ちている。


「シ、アユ——」

「こんばんは。良い夜ですね、花の王」


 シアユンが居たはずの場所に、見知らぬ男が立っていた。真斗は一瞬で察した。コイツが、〈教会の追手〉だ。この間引き(ハルモニア)の儀の執行者なのだ。

 見上げるほど高い背丈だった。手足が異様に長く、ひょろりとして、裂けたような大きな口が、ニコニコと笑みを浮かべていた。

 男は笑っていた。それはそれは、お気に入りの玩具を目の前にしたような、無邪気な子供の笑みで。

 ゔぇ、と真斗は耐えきれず、地面にくずおれてえずいた。歓喜の声が脳内に響き、昂揚感と愉悦が、雷鳴のごとく真斗の身体を貫いていた。


(なんで。なんで、こんなに)


 嬉しそうなの。真斗はガクガクと震えた。男の心の声が、真斗にさらなる恐怖と絶望を与えていた。これが自身に与えられた力などと、真斗は到底信じたくはなかった。それくらい、衝撃的な感情の波動だった。

 真斗は動けなかった。男から流れ込んでくる感情に、ただただ溺れていた。あえいでいた。耳を塞いでも聞こえてくる声に、みっともなく身を震わせることしかできなかった。


「ああ、良い反応ですね」


 愉悦に満ちた声が、頭上から降ってくる。


「やはり人は、死ぬ時がいっとう、愛に満ちている」

「あ、い」


 ふふふ、とこの場に不釣り合いなほど穏やかな笑声が、路地の壁に木霊した。男はその長い背丈を折り曲げるようにして、這いつくばる真斗の首に鎌の刃を掛けていた。視界の端で、銀の刃先が煌めいている。激しく上下する肩の上で、その凶悪な光が反射している。


 背中が熱かった。それは曙光だった。とうとう日が昇ったのだ。既に手遅れだけれども。


(……どうして)


 どうしてこうなったのだろう。真斗は揺れる世界の中でそう思った。どうして、こんなことに僕らは巻き込まれているのだろう。なんで、こんなことをしなくちゃならない。もうその問いに返してくれる仲間もいなかった。じきに真斗も、彼女の元へ行く。

 朝日が当たり、真斗と男の影は、暗い路地裏に食いこむように引き伸ばされていた。静寂は変わらずそこにあった。

 この鎌が引かれて、真斗の命はここで終わるはずだった。けれど、どれだけ待ってもそうはならなかった。なぜなら、陽の光を背に、小さな影が真斗を覆うように現れたから。


「セオドール」


 その青年の来訪は唐突だった。いつのまにか、真斗の後ろに影のように立っていた。セオドールと呼ばれた執行者の動きが止まる。小さな影がゆっくりと前に出る。うずくまる真斗の視界に、泥に塗れたミリタリーブーツの分厚いソールが、割って入ってくる。


「セオドール」


 再度たしなめるように、青年は名前を呼んだ。〈セオドール〉は、とうとう鎌を引いて身を起こした。真斗は目の端で、呆然とその動きを追った。

 セオドール、と名前らしきものを呼んだ声は、低く、落ち着いていた。この状況でこの冷静さがかえって青年の異常さを際立たせていた。どこか深海を思わせる静けさで、青年は続けた。


「何してる」

「何? 何って何です?」


 セオドールと呼ばれた男の声に、初めて陶酔以外の感情が乗ったのがわかった。真斗は、砂に塗れた手で口を拭った。顔を上げた。

 にじんだ視界の向こうで、セオドールよりも一回りほど小さな背中が、怯むことなく真斗の前に立ち塞がっていた。

 小柄な体躯だ。もしかしたら、上背だけで言えば、真斗よりないかもしれなかった。それでもその真っ直ぐに伸びた背筋と、服の上からでもわかるしなやかな筋肉から、これが並外れた研鑽を積み鍛え上げた肉体であることは容易に想像がつく。

 セオドールが、構えていた鎌の刃先を完全に下ろした。そして腹立たしげに息を吐いた。


「これが、〈お仕事〉以外の何に見えるって言うんです、ドゥルガ。お前こそ、自分の仕事はどうしました? ちゃんと果たしたんでしょうね」

「……仕事、ね」


 青年——ドゥルガは、セオドールの問いには答えず、座り込んだままの真斗を横目に見た。その視線に呼応するように、真斗も思わず見返した。それしか出来なかったとも言えた。

 視線がかち合う。琥珀色の瞳がこちらを見つめている。

 それからドゥルガは、今度は、真斗を透かして、その向こうの空を見上げたようだった。そうして、片眉を上げた。


「規定では、間引き(ハルモニア)は、日没から夜明けまでと決められている」

「は? 何ですって?」

()()()()()、と言ったんだ。そうだよな?」


 セオドールは肩をすくめた。明らかに納得のいっていない態度だった。全身で〈つまらない〉を表現したような幼げな仕草だった。


「まだ生きてますよ、花の王は」

「規定は規定だ。時間外労働は、俺たちにだって認められていない。たとえ〈庭師(フーリエ)〉であっても、規定を守らなければ、処分は免れない」


 ジャリ、と一歩、茶けたブーツが前に出る。


「それとも、俺と()る気か? セオドール」


 パッと重い空気が霧散した、そんな気配がした。それが殺気だったことを、真斗は遅れて理解した。それから目を見張る。いつの間にか、脳みそを揺さぶっていたはずの歓喜の声は聞こえなくなっていた。


「はあー……」


 長いため息だった。それが答えだった。


「せっかく良いところだったのに残念ですね。でもまあ、いいでしょう。ここでお前と殺し合うのは骨が折れそうですし」

「…………」

「それにまあ、またいずれ、機会はあるでしょうから」


 黒いロングコートがひるがえった。それが終結の合図だった。

 真斗は、その影法師のような背が街角に消えるまで、セオドールの姿を目で追っていた。隣に立つドゥルガもそうしているようだった。見えなくなっても、静寂は、その場を支配し続けた。

 真斗は傍の物言わぬ少女にそっと触れた。触れても何も聞こえなかった。普段なら、望もうと望まざると強制的に聞かされる心の声が、そこにはなかった。

 何もなかった。空っぽだった。〈魂の器〉だけが、そこに転がっていた。


「立てるか?」


 それまで沈黙を保っていたドゥルガが、気づけば真斗の前で膝を折り、そっと手を差し出していた。真斗はその手を取らなかった。真斗の両手は、空っぽになってしまったシアユンの右手を握っていた。

 ドゥルガはその手を無理やり剥がそうとはせず——ただ、何の感情も浮かばない声音で、


「初日の間引き(ハルモニア)の儀式は、これで終わりだ」


 とだけ、言った。


「……おわり」

「ああ、終わりだ。お前は生き延びた」

「生き延びたって、——」


 その先の言葉は出なかった。真斗は口をつぐんだ。

 朝日が街を照らし始めていた。遠くで人々の動き出す気配がしていた。街が、世界が、息づいていく。


 —— My last night here with you?


「……Maybe yes, maybe no」


 真斗は生き残った。

 それが、この先十年に及ぶ〈代理戦争〉の始まりである。

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