悪魔に怒られました
「――――――――――――――、オリヴィエ」
肩を揺さぶられて、アスモデウスの声が遠くから聞こえてくる。意識が、まるで海の底から徐々に引き上げられていくような浮遊感を感じる。
そうして漸く目の焦点が合い、焦ったような顔をしたアスモデウスの顔を映し出した。意識が浮上してくると同時に、アスモデウスが私を強く抱きしめた。
「オリヴィエ、オリヴィエ」
アスモデウスが焦ったように私の名前を呼んでいた。私は鉛のように重い体を叱咤して、ゆっくりと起き上がろうとする。麻痺したように痺れた掌に何かを握っているのに気付いた。
それは短剣だった、炎のように熱いその剣は驚くほど手に馴染んでいた。
「大丈夫、私は大丈夫よ」
私のかすれた声が耳に届いたのか、アスモデウスは抱きしめていた力を緩めて、私の目を覗き込んだ。段々と体に力が戻ってくる、アスモデウに支えられて起き上がれば、頭が少しだけクラクラとする。
「オリヴィエ、大丈夫かい」
「多分大丈夫、でもびっくりしたわ。私どれくらい落ちてた?」
「ほんの少し、だけど突然倒れるから驚いた。無事で安心したよ」
アスモデウスは少しだけ泣きそうな顔をして、胸をなでおろしていた。どうやらとても心配させてしまったようだ。アスモデウスの冷たい指先が私の前髪を撫でていた。ひんやりとした指が額に触れて少しだけ気持ちがいい。
「アスモデウス、私、ソロモンに会ったよ」
アスモデウスの手が止まった。彼は目を見開いて、固まっていた。指先が少しだけ震えているのを、触れられている額の上で感じた。
あれ、これは言ってはいけない事だったんだろうか。アスモデウスの前では、まさかのソロモン禁句だったのか。言葉を失ったアスモデウスをしばらく黙って見つめていたのだが、先に口を開いたのは私でもなくアスモデウスでもなく、この店の主だった。
「へぇ、なるほどなるほど。アモンは貴方を本当に選んだのねぇ」
この空間にはいなかったはずの誰かの声だった。艶っぽい若々しい女性の声が、似つかわしくない部屋の中に響き渡った。誰だと思って部屋の中を見渡せば、顔まで黒いローブで覆っていた女性が立ち上がる。先ほどまでのしわがれた声も、曲がった背中も、しわしわの指も、そこには何もなかった。
出る所が出て締まる所が締まったなだらかな肢体と、長いローズピンク色の髪、そして豊満な唇を舌が舐めた。
「良いものが見れましたわぁ、流石はアスモデウス様が選んだ新しい王ですねぇ」
「グレモリー、お前、オリヴィエに何をした」
「私は何もしてはおりませんよぉ、アモンがオリヴィエ様を気に入っただけですから」
黒いベルベッドのローブを脱ぎ捨てた、そこには白いレースのドレスを着た長身の美女が立っていた。長い足には金のアンクルやレースで編んだガーターリングが巻き付いていて、肉感的なみずみずしい美しさを強調していた。
グレモリーと呼ばれたその美女は、私の前に跪いた。そうして私の顔に触れようとした瞬間、その腕が吹き飛んでいく。二の腕から先がくるくると回って、床に落ちていった。
「オリヴィエに触れないでくれないか」
地を這うように低い声でアスモデウスは、その女性に威嚇するように言った。その時私は、漸くアスモデウスがグレモリーと呼ばれた美女の腕を切り落としたことに気が付いた。
「あらあら、アスモデウス様酷いですわ、私を害虫の様に切り落とすなんて」
グレモリーは腕を切り落とされたというのに、微笑みを崩さない。切り落とされた腕からは血すら出ておらず、グレモリーはそれをもう片方の手で拾い上げてくっつけた。くっつけた腕の掌を開いて閉じてをしていたが、すぐに元に戻った様子で立ち上がった。
「アスモデウス、この人は?」
「人じゃない、こいつは悪魔だよ」
アスモデウスが私を庇うように、体を抱きしめた。そしてグレモリーに対して冷ややかな目線を向けて、怒ったようにそう告げた。
「オリヴィエ様、私はグレモリーですわ。ソロモン72柱の一人、公爵の位を持つ悪魔ですの」
グレモリーは豊満な体をくねらせて、私の前で優雅にお辞儀をした。私もそれに合わせて、ぺこりとお辞儀をする。正直展開の速さに付いていけていないのだが、先ほどのアモンの剣をくれたお婆さんがこのデカパイのお姉さんなのだろうか。
そして私が倒れたのは、このグレモリーさんのせいだから、アスモデウスは怒っているのだろうか。
「一つ弁解させて頂きたいんですが、オリヴィエ様が倒れたのは私のせいでは御座いませんわ」
「どの口が言うんだい?僕は君を信じないことにしているんだ」
「確かに、私がしたことを考えればそうかもしれませんわねぇ。でも本当ですわ、私は新たな王の誕生には賛成ですのよ」
アスモデウスとグレモリーはどうやらあまり仲が良くないようだ。しかしながら、やはりアスモデウスの方が地位としては高いようで、グレモリーは飄々としていながらもアスモデウスとの決定的な決別を避けようとしているのは分かった。
だが二人が一体何について話しているのかは理解できなかったし、アスモデウスに対してそれを聞くことも憚られた。新たな王って何の話だ、それにアモンが私を気に入ったとはどういうことなのだろう。
私はアスモデウスの怒気に押されじっと黙っていたが、湧いてきた疑問を手放すことはできなかった。言葉の続きを促す様にグレモリーを見つめれば、彼女は私の意図を理解したのか唇を開いた。
「アモンが新たな所有者としてオリヴィエ様を選び、彼の前の主であるソロモン王との記憶をオリヴィエ様に見せたのですわ」
「私を新たな所有者に選んだってどういうこと?」
「貴方をソロモン王に代わる新たな主人として選んだということですわ、貴方を認め、契約を超えた従属を選択されたのです」
「従属って何?契約とは違うの?というか私は…」
「グレモリー、君はもう黙れ。これは命令だよ」
アスモデウスはゾッとするほど低い声で、グレモリーに対してそう告げた。
言葉だけで気圧され、押しつぶされてしまうほどの圧が部屋の中を支配していた。飄々としていたグレモリーですら、その顔には畏怖と困惑が浮かんでいる。
アスモデウスの顔は見ることが出来なかった、いや顔を上げることすらできなかったのだ。それほどアスモデウスの発する圧力は尋常ではなかった。
これが悪魔の王だ、私たちなんて赤子の手をひねるほど簡単に殺せる力を持った悪魔。それを私は、今本当の意味で思い知った。
グレモリーはアスモデウスが発する圧力に耐えきれず、膝を付いて頭を押さえて悲鳴を上げた。彼女の体の輪郭が曖昧になり、髪の毛を振り乱しながらもがき始める。それはあまりにも狂気染みた光景だった。
アスモデウスは私を抱き上げて立ち上がると、冷ややかな目をして、叫び声を上げるグレモリーを踏みつけた。
「君は昔からそうだ、余計なことばかりする」
アスモデウスが足を動かすだけで、グレモリーの体がバラバラになっていく。血は出てはいないが、彼女の喉から悲鳴が止むことはない。
「君とはソロモン王に仕えた同士だからね、今まで君の行動には目を瞑っていたけれど」
恐る恐る私を抱き上げたアスモデウスの表情を見れば、彼を見た瞬間に息が止まった。表情が、ない。真っ白な顔の中に、赤い瞳だけが爛々と煌めいている。だが、そこに何の感情もなく、あるのは全てを引き裂くような殺意だけだ。
「もう殺してしまおうか」
アスモデウスは感情のない声で、そう呟いた。
何時ものような冗談ではないことが分かってしまうのが唯々恐ろしい。アスモデウスは本当にグレモリーを殺そうとしているのだ、跡形もなく消してしまおうとしていることを理解できてしまう。
このままでは駄目だ。私が止めなくては、止めなければグレモリーは消されてしまう。
「アスモデウス、止めて」
絞りだした声は、思ったよりも部屋の中で響いた。アスモデウスは私の方を見ないけれど、それでもグレモリーに伸ばそうとした手はピタリと止まった。部屋の中を支配していたアスモデウスの圧力が徐々に収まっていき、私はゆっくりと息を吸い込んだ。
「止めて、お願い。私はただソロモン王とアモンが契約を結ぶ所を見ただけだよ。グレモリーさんに悪意はないわ」
アスモデウスは相変わらず私のことを見ないが、それでも彼の怒気が収まっていくのを肌で感じた。グレモリーの表情は非常に辛そうだが、それでもバラバラになった肢体が徐々に繋がっていき一命はとりとめたようである。
アスモデウスと距離を置くように、グレモリーは店の端まで床にへばりつきながら逃げてった。彼女はアスモデウスの怒りを買わない様に部屋の隅にひっそりと隠れ、こちらを窺うようにじっと黙っていた。
「アスモデウス、私は大丈夫よ。大丈夫だから」
アスモデウスを落ち着かせるために、子供をあやす様に優しい声でそう言えば、アスモデウスが放っていた圧力が完全に消失した。
アスモデウスはゆっくりと私を床に降ろして、そうして私の顔を見つめた。私は漸く彼の表情を見て、あまりの衝撃に心臓が止まった。
「なんで、そんなに、寂しそうなの」
アスモデウスは置いて行かれた子供の様な、この世に誰も自分の理解者なんていないとでも言いたげな、そんな寂し気な瞳をしていた。
アスモデウスは何も言わずに黙ったままだ。
私はこれ以上彼に何かを言うことはできなかった。恐らく、アスモデウスも私が何か余計なことを言うのを望んでいないだろうことを理解していたからだ。手に持ったアモンの短剣は相も変わらず、その石の中に炎を揺らめかせ続けている。
アスモデウスは、何がそんなに怖いの。私に何を知られたくないの。
私はアスモデウスのことを何も知らない。彼のことも、彼の過去も、彼の元の主であるソロモン王のことも、彼がどうして私の魂を欲しているかも。
彼は何故私の呼びかけに答えたのだろう、どうして私の師となると言いながら何かを隠そうとするのだろう。どうして。
「君は知らなくて良いんだよ、何も」
アスモデウスは感情のない声で一言そう告げた。
それは私の勘違いであったかもしれないが、どこか祈り縋るような響きを帯びていた。私はアスモデウスのいつもの揶揄うような笑顔が唯々恋しかった。いつものように、冗談だよと言ってほしい。そうして無邪気に笑って、私の手を引いてほしかった。
でも現実はこうだ、これがどうしようもなく現実なのだ。
私とアスモデウスの間には、越えられないほど深い溝があった。私にはまだ、その溝を埋める方法も、飛び越える方法も持ち合わせてはいなかった。




