6
「芽生ちゃん、本当に上手。いいなぁ、私も上手くなりたい」
七月に入った頃、花咲ちゃんがぽつりと呟いた。夏の暑さは日に日に増し、私たちは汗を拭いながら会話を続ける。
私は絵に興味を持ってくれたことが嬉しくて、すっとノートを手渡した。
「試しに描いてみてよ。なんでもいいからさ」
花咲ちゃんは驚いた様子で受け取り、うーんと少し悩んでペンを走らせた。
彼女はその華奢な体に似つかわしくない大きな水筒を傍らに置いている。中身に余裕があるようで、こまめに水分補給をしていた。
私もペットボトルを持参しているが、今日の暑さを見誤り、ここに来るまでに飲み干してしまった。ジリジリと照りつける太陽に、身体中の水分はあっという間に奪われていく。そろそろまた喉が乾いてきた。
この真夏日続きに川はすっかり勢いをなくし、水量は少なくなっていた。これからは熱中症の危険も考えて、長居するのは良くないな。そう考えあぐねていると、隣から「完成」と声が聞こえた。
彼女の手にしたノートを覗き込む。できあがったものは、小学生らしい可愛い女の子のイラストだった。
「いいじゃん!すごく上手」
それは本心から出た言葉だった。確かにまだ拙い点は多々あるが、平均点な小学生の絵と比べたら、それは随分上手い部類に入っている。といっても、普段子供の絵を見る機会はないので、個人的なイメージからよるものだが。
「本当に?」
「うん。花咲ちゃん元々才能あるんじゃないかな?バランスも取れてるし、服の描き方とかもちゃんとしてる。観察眼があるんだね」
「へへ、嬉しいな。褒められちゃった」
花咲ちゃんは照れくさそうに笑った。その可愛らしい仕草に、私は身体だけでなく心も熱で満たされる。
「ねぇ、芽生ちゃんはイラストのプロなの?」
イラストとまじまじと見つめていると、唐突に花咲ちゃんが尋ねる。私はどきりとした。少しだけ間をおいて、ゆっくり口を開く。
「違うよ。そうなれたら良かったけどね。でもなかなか現実って……」
そこまで言って口を噤む。未来ある小学生に言うことではない。あまり後ろ暗いことなど話すべきではないだろう。私は言葉に詰まった。
同時に喉の渇きを思い出し、軽く咳をする。そして、自ら気まずくした空気から逃れるように、何か飲み物でも買おうかと立ち上がる直前、少女は無邪気に言い放つ。
「えー、こんなに上手いのに。絶対なれるよ!」
私は一瞬、目を見開き固まった。立ち上がろうとした力が自然に抜け、元の体勢に戻る。直射日光が照り付け、その身体をより一層乾燥させる。
そして、この無責任な言葉に、かつての同級生たちを思い出した。教室の中、自分の席を囲み持て囃してきたあの子達。誇らしげにノートの絵を見つめる幼い私。記憶のフラッシュバックと強い日差しで、目の前がチカチカし始める。
「芽生ちゃん、どうしたの?」
動揺した私に、不安そうな声が聞こえる。私は少し震えながら、それは自分の意に反しながらも、勝手に尋ねていた。
「……なれるかな?なれると、思う?」
私はすでに学んでいる。その重みのない、責任を負わない発言に委ねてはいけないということを。
なのになぜ、私は聞いてしまったのか。相手がどう答えるか、わかっていることを。
そう思いながら、裏腹に私の心は高揚していた。また同じ過ちを辿るわけにはいかないのに。
「うん!」
花咲ちゃんは間髪入れずに返事をした。屈託のない、悪気のない顔で。子供は残酷だ。軽はずみで言ったその言葉が、他人に大きな決断をさせてしまう要因にもなるのに。花咲ちゃんの期待に満ちた笑顔が頭に焼きつく。
しかし私はこの言葉を、誰かの後押しを待っていたのだ。とうに諦めたつもりだった、かつての夢。無理だと何度も言葉で言い聞かせた。だけど、心は変えられなかった。
いつまでも動き出せなかった、動き出さなかった答え。まだチャンスがある、今からでもなれる、という最後のひと押し。
そうだ、これがずっと欲しかったのだ。今まで逡巡して燻っている私が本当に選びたい、第三の道。
喉の渇きはいつの間にか感じなくなっていた。それよりも別の部分が満たされていくのを感じた。
私は呼吸を整え、花咲ちゃんに向き直った。彼女は不思議そうにこちらを見ていたが、私の調子が戻ったのを確認すると、再び自分のイラストへ視線を落とした。
「でも、どうしたら芽生ちゃんみたいにもっと上手くなれるかな?」
「だったら、これから少しずつ教えてあげるよ」
私の言葉に、彼女はぱぁっと目を輝かせた。いいの?という問いに、こちらも笑顔で頷き返す。
自分が専門学校で培った技術を簡単に他人に教えるなど、先程までの私では考えられなかった。
しかし、今はとても気分が良い。なぜなら新しい希望を見出したから、もう一度決意を固められたからだ。
それに彼女を前にすると、不思議と嫌ではなかった。たった今、この一人の少女の言葉が再度目標を掲げるきっかけとなったから、というだけではない。
いつの間にか、この子に頼ってほしい、笑って欲しい、そんな感情が芽生えていたのだ。
彼女を前にすると、惜しみなく全てを与えたくなる衝動に駆られる。自分が必要とされている、なんでも認めてくれる、そんな自己中心的な欲求を満たせることが、この上なく喜ばしかった。
これから少しずつ基礎を教えていく。そう約束し、今日はもう暑さに耐えられないからと早めに解散する。
その日の夜、私は日中の出来事を思い返した。もう一度、目指してみようかな。頭の中で花咲ちゃんが私を強く肯定する。私は机の上の履歴書をさっとどかし、ノートを広げた。
今からでも間に合うだろうか。いや、きっとこのタイミングだからこそ、決断すべきなのかもしれない。
こうやって再び夢を目指すために、闘志を呼び戻すために、この期間が与えられたのだろう。私は全ての偶然を都合のいいように解釈した。
目を閉じ、しばし空想の世界へ旅立つ。
いつの日か、プロになった時の自分の姿を思い浮かべる。
私の走らせたペンは思うまま、空に描いた鳥や星は自由に動き出す。お気に入りを迷いなく次から次へと描き続け、やがて世界はカラフルに彩られた。
その中心で誇らしげに構える自分の周りには、大勢の友達、両親。顔も知らない未来のファンに囲まれ、困ったように下を向くと、何かが足りないことに気づく。
私は微笑み、しゃがみ込むとすぐさま皆の足元に様々な花を生み出した。人々は感嘆し、かつてのように称賛する。
私はさらに空中にそれらの花を散らす。花舞う中で私はステップを踏む。不器用にくるくる周りながら、幸せを噛み締める。
ふと淡紫色の花と目が合う。その見慣れた花は、私を導くように人々の中心から遠ざかった。追いかけるように歩みを進めると、その先に一人佇む少女が見えた。
正体に気づいた私は、堂々と胸を張って彼女に夢の成果を報告しに向かう。そして少女は今までで一番喜んだ顔を見せた。
私はゆっくり目を開き、深呼吸した。こんな楽しい妄想をしたのは久しぶりだ。時刻は深夜を回る。ベッドに横になるも、どうしても気分が高揚してなかなか眠れなかった。
翌日、私は道中で鉛筆とスケッチブックを買って河川敷に訪れた。花咲ちゃんに渡すとニコニコと喜んで受け取り、一緒に描こうと誘ってくれた。
花咲ちゃんの学校の話の合間に、私は絵の描き方を教える。彼女は素早く反応し、改善を重ねていく。
その日から、私たちの時間はより一層充実したものになった。同時に、私は求人サイトを開くよりも、絵を描くことに重きを置くようになっていった。




