16
十二月某日。冷たい横風に顔をしかめる。皮膚の薄い耳が真っ赤に染まって痛い。
今日はいつもと違う気分で河川敷を通っていた。私は一息つこうと、流れるように土手の方へ向かう。川の前に腰掛け、先程自販機で買ったホットコーヒーを開けた。一口ゴクリと飲んで傍らに置く。
「もう少し着込めばよかった」
薄手のスーツに、コート一枚羽織っただけでは流石に冷えるようだ。後悔しつつも、緊張から解放されて心の内は穏やかだった。
ふと目に付いた川は、半年前と同じように、せらせらと流れ、光輝いていた。さほど時間は経っていないはずなのに、ずいぶん久しぶりに感じる。
私はボロボロの鞄から一冊のノートを取り出した。それは、以前あの子と過ごした証が残っているメモ帳でもあった。
私は一番最後のページを開く。そこには様々な企業の名前が箇条書きで記してある。
私は先程面接を終えた会社名にレ点チェックをした。合否の連絡は二日後。
「ここが駄目なら次は……」
独り言をこぼしながら、めぼしい企業リストをペン先で追う。
花咲ちゃんのアカウントが見れなくなってから、私は何かが吹っ切れたように彼女に執着することを辞めた。
一度気にしなくなると、自然と日常から彼女の影は消えていった。私は求人サイトに真剣に向き合うようになり、普段のパートも注意して行動できるようになった。
「ふぅ……」
軽く深呼吸して周りを見渡す。季節の変化とともに、以前の見慣れた景色とは少々違って見えた。
腕時計をチラリと見ると、そろそろ小学生の下校時間のようだった。そう気づいた直後、後ろからざわざわと子供たちの話し声が聞こえ始めた。
心臓が脈を打ち始める。どくどくと鼓動が鳴る音が、自身の中で響く。
私は何に怯えているのか。もう、あの子のことは忘れたじゃないか。今まで気にしないようにしてきたじゃないか。さっさとこの場から離れてしまおう。しかし、足は思うように動かなかった。
やがて聞き馴染みのある喧騒が聞こえ始めた。
「え〜、じゃあ今度みんなでゲーム持って行こうよ」
「賛成賛成!」
「ねぇ、花咲ちゃんも最新のやつ買ってもらったんだよね?」
彼女の名にどきり、とする。例のグループがすぐ近くまで来ている。ここで立ち上がったら逆に注目されてしまう。私は咄嗟に息を潜め、彼女達が通り過ぎるのを待った。
こちらの方などお構い無しに、彼女らは大声でおしゃべりを続ける。
「写真あげてたもんね。この前の誕生日の時だよね」
「そうそう」
彼女についての情報源がなくなった今、その生活を知ることはできなくなったが、案の定すでに新しいアカウントで友達と交流しているようだった。
「私も見たよー。あ、そういえばさ」
「何?」
友達の一人が思い出したように尋ねる。花咲ちゃんは相変わらず明るく元気な受け答えをしている。その言動に懐かしさを覚え、キュッと胸が締め付けられた。
「もう全然、絵あげなくなったね」
「あー、もう描いてないよ」
その言葉にビクッと体が跳ねる。
まさか、私が荒らしたせいだろうか。頭は瞬時に回転し始める。
もしかしたら例の最後の言葉は建前で、やはり私の嫌がらせが原因でイラストを辞めてしまったのだろうか。一気に不安と罪悪感が駆け巡り、寒さと合わせて全身が凍えそうになる。
彼女のアカウントに張り付いていた当時、確かにそのつもりで本気で恨んでいた。心の内から湧き上がる負の感情全てを彼女のせいにして、ひたすら傷つけることで憂さを晴らしていた。
しかし、それらをぶつける相手がいなくなり、いつしか時間と共に冷静さを取り戻していった。
今となっては、何と愚かなことだったのかと何度も心の中で謝罪を重ねた。届くはずのない懺悔を、虚空に向かってずっと続けていた。
それでも傷つけたことは事実だ。その事で彼女のイラストへの気持ちを壊してしまったのかと思うと、心底居た堪れなくなった。私はまるでかつての自分のような、純粋にお絵描きを楽しんでいた彼女を貶めてしまったのだろうか。
ズキズキと心臓が痛む。今すぐ飛び出して面と向かって謝りたい。
そうしたくても、弱くて臆病なまま変われない私の身体は、一歩も動けずにいた。やり場のない自責の念が込み上げてくる。
しかし、彼女の次の言葉は予想しなかったものだった。
「なんか、絵描くの飽きちゃって」
思考が止まる。飽きた?今、彼女はそう言ったのか?ただ飽きた、それだけの理由で、あんなに才能のあったイラストを辞めてしまったというのか。
それは私が何年もかけて努力して、ずっと追い求めていたものだったというのに。
花咲ちゃんはいつものように、移り気に、その手にあったペンを捨てた。あれだけ褒め称えられて、皆に認められても、その栄光にしがみつくことなく、あっさり捨てた。
そうか、所詮彼女にとってはその程度だったのか。
「なんだ〜、せっかく上手だったのに」
「また描いてよ」
「気が向いたらね。それより今はゲーム進めたくてさ」
彼女たちは無邪気に会話を続ける。次の瞬間にはもうゲームの話になっていて、そのまま騒がしく私の後ろを通り過ぎて行った。もちろん、こちら側に視線を送ることなど一度もなく。
全身から力が抜けた。今まで気負っていたものが一気に消滅したようだった。
私にとって一番譲れないものを易々と奪ったあの子は、そんなものなど気にも留めず、数ある趣味の一つであるように簡単に手放した。私が欲しかったものを、呆気なく。
私は何がしたかったのだろう。夢のためだと再熱したイラストを結局また放置して。何にムキになって、何が欲しかったのだろう。私は誰のために。
そこまで考えてやっと理解した。
そうだ、私の行動原理にはいつもあの子がいた。あの子の言葉に行動に、一喜一憂していた自分を思い出す。安心も高揚も焦燥も憤りも喪失感も、全ての芽生えた感情は自分自身ではなく、彼女のためにあったのだ。
彼女には私が必要だと思っていた。しかしそれは逆だった。私は、いつの間にか自分が思っていた以上に彼女に依存していたのだと、今更気がついた。
一人で平気だと思っていた。あの小さなSNSの世界で、少しでも自分を認めてもらえていれば良かった。なのにどうして、結局私は仮想でも現実でも存在価値を求めてしまった。
孤独にこんなにも飢えていたなんて、自分の心にすっかり鈍感になっていたようだ。今になって自分を顧みるだなんて、とことん哀れだ。
私にとって彼女は、高嶺の花なんかではなく、あのスミレみたいに手の届く距離にいたはずだったのに。
きっと彼女は私のことも忘れているのだろう。こんなひと夏の出来事など、彼女にとっては思い出すこともない些細なものだ。
あの子はきっとこの先も上手くやっていく。恵まれた環境で器用に、綺麗に咲き続けていくのだろう。
彼女たち四人の、カラフルなランドセルに太陽の光が反射する。寒さに負けないほど元気で朗らかな笑い声が、耳の奥に残響した。
滑稽だ。こんな小さな女の子に振り回されて、彼女の存在に全てを委ねてしまって。
思えば花咲ちゃんの苗字すら知らないままだった。私は一方的に自分を受け入れてくれる人が欲しかっただけなのだ。
私はいつまで幼く、青いままでいるのだろうか。こんな愚かな自分など、もういっそ要らないのかもしれない。
目の前の川に触れる。かじかんだ手は、すでに冷たさを感じないほど麻痺していた。今ここに落ちてしまったらどうなるのだろう。
私の体は、そうっと、ゆっくり前へかがみ始めていた。
あぁ、もう何もかもどうでもいい。どこで間違えたのかも分からない。今からやり直せるかも分からない。私には、誰もいない。
『ヴー、ヴー』
その時、ポケットへ入れていたスマホがバイブした。傾きかけた体が止まる。濡れた手でスマホを取りだし、ホーム画面を確認すると、一通のメールが届いていた。
私は冷たさからか緊張からか分からないまま、震える手でそれを開いた。




