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とある事務所の一室、朝早くから出勤した二人は、簡単に掃除をしながら談笑する。
「店長、結局山田さんって自分から辞めちゃったんですか?」
「そうそう、まぁ年度末まで居られても困ってたからね。良かったんだけど」
「でも最近、けっこう頑張ってたと思いますよ。ちゃんと就活もしてたみたいじゃないですか」
「あぁ、確かにね。色んなとこに面接行ったとかの報告もくれていたよ」
タレ目の女性は慣れた手つきでチラシをまとめ、大袈裟に驚いてみせた。
「あら、じゃあ新しいところに採用されたってことですか」
「違う違う。実家の方に戻ったんだよ」
店長と呼ばれた男性は窮屈そうに屈みながらゴミ袋を結ぶ。
「向こうで心機一転するってさ。仕事も親御さんの当てがあるとかで、帰るんだって」
「そうなのね。まぁそれがいいのかもしれないですねぇ。あら?このお菓子……」
女性は机に置かれた菓子折りに目を向ける。
従業員の人数より少し多めに用意された個包装のクッキー。その化粧箱には、簡単な挨拶とデフォルメされた店員のイラストが描かれた付箋が添えられていた。
「昨日挨拶と一緒に置いてってくれたよ」
「この付箋に描いてる絵、山田さんが?上手ね」
それを聞いた男性は後ろから覗き込み、感嘆の声を上げた。
「お、本当だ。なんだ、こんな描けるんだったらポップとか作ってもらえば良かったな」
「あの子あんまり自分のこと話さなかったものね」
少ししんみりとした空気が流れる。しかしその直後、続々と早番スタッフが出勤すると、沈黙はすぐに打ち破られた。
「ま、とにかく。これで万事解決ってことだね。さ、田辺さん開店準備!」
男性はそう締めると、彼らにとって何も変わらない一日がまた始まった。
通勤ラッシュが始まる前の駅は閑散としていた。
ぽつぽつと見えるスーツ姿の人たちは、これから出張だろうか。私服に身を包んでいる人はどこかへ遠征なのか、ウキウキとスマホを弄っている。
こんな何もない平日の始発組として、私と同じように故郷へ向かう人は一体どれほどいるのだろう。
冬の冷たい空気が身を引きしめる。左手をキャリーバッグから離し、トートバッグをかけている右側の手と合わせる。ハーッと息をかけるとほんの少しだけ温かくなったが、直後に両手は再び凍え始めた。
この時間からなら、お昼頃過ぎには実家へ着くだろう。腕時計で時刻を確認する。
そのタイミングで、アナウンスと共に遠くから電車が近づいてくるのが見えた。
車内に入ると暖房が効いていて、外との寒暖差に目眩を起こしそうになる。私は極力人が来なそうな隅の方へ行き、端の席に座った。荷物が邪魔にならないよう、なるべくコンパクトに自分のスペース内にまとめる。
そこでようやく一息つき、ゆっくり瞼を閉じた。そして、私は自然とあの日の回想をした。
もういっそ消えてしまおうか、と川に吸い込まれそうになった時、一通のメールが届いた。スマホを開くと、それは母からの連絡だった。
『芽生、元気ですか?この前のメールにも返事はくれませんでしたね。私たちはいつも心配しているんですよ。あなたが離れた場所でちゃんとやっているのか、少しは報告してください』
『……いつも言っているけど、もしうまくいってないのなら、いつでも帰ってきていいのよ。私たちを頼っていいの。あなたは大事な娘なのだから。』
「あ……っ」
私は我に返って川の側から離れた。慌てて、濡れた手とスマホをハンカチで拭く。気づくと涙が溢れ出して、それはいつまでもスマホを濡らし続けていた。
私が今まで執着していたものが、一度も得られなかったものが、両親と重ねて写った。ずっと自分のことを考えてくれていた人は確かにいたのに。どうして気づかなかったのだろう。
私はおそるおそる実家の番号へ電話をかけた。コール音が二回ほどしてから、懐かしい声が電話に出た。
私は名乗りすら忘れて勢いのまま、嗚咽混じりに呟いた。
「帰りたい」
いきなりそんな事を言われても戸惑うだろう。しかし、電話の向こうからは全てを察したように優しい声で「帰ってきなさい」とだけ返ってきた。
私はそこでやっと、安らぎを得たような気がした。
ふと視界に、いつかのスミレが映る。たくさんの小さな蕾と寄り添って、一輪返り咲きしている鮮やかな紫が見えた。
目を開けてスマホを取り出す。
私は自分のイラスト用アカウントを開いた。夏の投稿を最後に、何の音沙汰もなくなった抜け殻のアカウント。
花咲ちゃんにしてしまったことは消えない。たとえ彼女本人が気にしなかったとしても、いつか忘れ去られるようなことだとしても。
ブロックされ続けたのは、認知されていた証拠だから。不快な思いをさせていたのは、覆ることのない事実だから。
渡せなかった紙束は、引っ越しの時にまとめて処分した。
逃げてごめんね。ずるくてごめんね。あなたが私を忘れても、私は絶対に忘れない。一方的に感情任せに、大人気なく攻撃をしてしまった愚かな自分を。償うこともせず逃げた、弱い自分を。
人を傷つけた私にはもう絵を描く資格はない。努力の結晶、数百の「いいね」とフォロワー。上と比べればちっぽけな数字だ。だけど私にとっては大切だった。
私は目を細め、その景色をしっかり焼き付けた。そして自らの手で、唯一の小さな楽園を消去した。
鈍行に揺られながら、人生を見つめ直す。
この数年間、失ったものは大きい。幼稚な自尊心と肥大化したコンプレックスに囚われ、いつまでも中身は子供のままでいた。
彼女に憧れを持ったのは、きっと私なんかよりずっと大人だったからなのだろう。ハリボテの大人ごっこをしていた自分が痛々しい。
これから少しずつ変わっていけるだろうか。後悔と不安、様々な感情でまだ心は落ち着かない。だけどきっと、そう考えられるようになったことは一歩前進だ、と私は自分に言い聞かせる。
僅かに残った尊厳も、挫折も羞恥心も、全てを抱えて故郷に向かう。
数時間後、懐かしい景色が目の前に広がる。私はここでやり直すんだ。今はダサくて惨めで情けないけど、自分らしくいれるように。
いつかあなたみたいに、咲けますように。




