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それからというもの、私の日常は以前のような、むしろ以前より悪化したような逆境に見舞われた。何をしてもうまくいかず、短いシフトの中でさえ失敗を繰り返し、周りの目はどんどん厳しくなっていった。
全身を包んだ黒いモヤはあっという間に部屋まで覆い尽くし、やがて生活も雑になり私の空間は汚れていく。そのやり場のない感情は、次第に別の対象へ向けられることとなった。
私は自分自身を放棄した代わりに、花咲ちゃんのアカウントを監視することが日課になった。
今日は学校で何をしただの、今流行っているアイドルだのダンスだの、日常のどうでもいいような呟きに紛れ、毎日決まった時間に投下される渾身のイラストたち。
アップするたびに増えていくインプレッション、拡散、「いいね」。比例してフォロワー数もどんどん伸びていく。
私は悶々としながら、ただそれを眺める。自分のアカウントとは雲泥の差となったそれを、ずっと見続けていた。
「山田さん!」
「は、はい!」
急に名前を呼ばれ、我に返る。スーパーの休憩室、店内BGMが耳に甦る。私は画面を見られないよう、サッとスマホを伏せた。
「ごめんね。ぼーっとしてたから大丈夫かなって」
「いえ、何でも……大丈夫ですよ」
「休憩中とはいえ、なんか心ここに在らずって感じだったからさぁ。今日そんな混んでないけど、疲れてるのかしらって」
そう言って笑ったのは、同じパート仲間の田辺さんだ。シフトの時間帯が変わってからよく一緒に入るようになった、明るくサバサバしている主婦だ。
私の待遇を知っても、態度を変えずフレンドリーに接してくれている。常に周りをよく見ているので、変化にすぐ気づけ、仕事もできるので皆から信頼されている人物だ。
ただ、その観察眼によってプライベートを探られることも多く、時々デリカシーに欠ける面もあり、私は苦手なタイプだった。
彼女は私に許可を取ることなく、当たり前のように向かいの席に腰をかけた。
「お昼はもう食べちゃった?」
「あんまりお腹空いてなくて……」
「あら、本当に大丈夫?」
「はい、ありがとうございます。今日たまたまなんで、平気です」
私は堂々と嘘をついた。近頃ずっと食欲はなく、最低限エネルギー補給としてパンやスープを一日一回摂取しているだけだった。
「何見てたの?」
田辺さんは持参した弁当を広げながら問いかけてきた。
「えっと、ちょっとSNSを……」
「あぁー、よくみんながやってるやつね」
「田辺さんはやってないんですか?」
「私はネットとかわからないから。でも子供達は今みんなそういうのできるでしょう?」
「まぁ、子供もやってる子多いですね」
そう言いながら、またあの子のアカウントが思い浮かんで胸がざわつく。
田辺さんは器用に弁当をつまみながら話し続ける。
「うちの百合……あ、娘もね、友達がやってるから自分もやりたい!ってせがんでね。でもほら、よくニュースで見るようなネット犯罪?とかに巻き込まれたら怖いじゃない?」
「えぇ」
「でもどうしてもっていうから、ルールとか決めてさ。まだ小学生なんだから危ないことだけはしないように、って口うるさく言ってるのよ」
「あはは、大変ですね」
「気苦労が絶えないわ。最近本当に物騒だし、普段から知らない人と関わっちゃダメ、お友達にも変な人と話してたら注意してあげなさいって伝えてるけどね。親は毎日不安を抱えてるのよ」
「そうですよね、お疲れ様です」
止まらぬマシンガントークに、私は適当に相槌を打つ。ここは私にとって淡々と仕事をするだけの場所だ。特別仲の良い人もおらず、会話もいつも必要最低限で済ましている。
専門学校での苦い経験から、コミュニケーション能力もすっかり衰えてしまったのだ。捲し立てるように話しかけられると、どう返事して良いのか分からなくなる。
花咲ちゃんとは違って、彼女には有無を言わさぬ圧がある。嫌いなわけではないが、彼女のようなタイプとは相性が合わない。
私と気軽に話せる間柄の人は、もうただ一人の少女だけだったのに。黒い感情がまた蠢き出す。
「ところで、少し気になってたんだけどね……」
「はい?」
「あなた、次の職場は決まってるの?」
「え……」
突然、私に関しての話題を振られ戸惑う。思わず田辺さんの顔を凝視してしまう。普段は親しみやすさを醸し出す彼女のタレ目が、キッと吊り上がる。これは注意をする時の合図だった。
「ごめんね。失礼とはわかってるんだけれど、もうすぐ十月になるじゃない?シフトも短時間のままだし、もう別のところで兼業でもしてるのかしらって」
「あ、えっと……」
「言わないけど、みんな心配してるのよ。あなた一人暮らしでしょう?私たちと同じ時間帯の収入でやっていけてるのかって。店長も何も報告がないって言ってたし。今はまだ入れてあげられるけど、来年また社員が来たらどうなるか分からない、って少し困ってるみたいでねぇ」
田辺さんの眼光が鋭く射抜く。私はまるで蛇に睨まれた蛙のように、身動きすらできず口籠る。
「なんだかあなた、最初の方はそんなに気にしてないように見えたけど。勤務終わりには何か楽しそうなことがあるような、そんな雰囲気で帰ってたから」
私は言葉に詰まる。店長からシフトカット宣言された、あの日を思い出す。
梅雨が明け、夏の匂いが漂う昼下がり、私は呆然としたままあの河原に座り込んで。そして、そこで。
「でも最近は元気がないみたいだから、ほらさっきも。だから気になっちゃってね。ごめんなさいね、お節介で」
「い、いえ。私の方こそ、ご迷惑をおかけしてばかりで……」
「それで仕事探しはうまくいってるの?私てっきり、新しい仕事と並行してるから疲れが溜まっているんじゃないかって……」
こちらの気持ちを汲み取ることなく、田辺さんはグイグイと問い詰めてくる。
「あ、すみません!もう休憩時間が……」
私は壁にかけられた時計を見ながら立ち上がった。そして、一刻も早く逃げるようにその場を去ろうとした。
「ちゃんと進捗を店長に報告してあげてね。私たちも心配してるからね!」
背後から田辺さんの声が聞こえた。私は早足で進みながら、いつもは短く感じる四十五分の休憩に感謝した。
持ち場に戻り、品出しをしつつ今の自分の状況を整理した。
遠回しに無能と言われ、実質のクビ宣言。今はまだお情けで、ずるずると短時間で働かせてもらっている。おそらく店長の一存で簡単に私を切れないのだろう。
あの脅しをされてもなお、私はここに居続けている。他者から見たらなんと図太い神経の持ち主だろう。なんせ次の仕事が見つかるまで、という名目で無期限の猶予をもらっているような状況だ。
何が『心配している』だ。本音は私をさっさと追い出したいのだろう。いつまでも辞めようとしない邪魔者に発破をかけにきたに違いない。
お前は今何をしているんだ、いつまでここにいるんだ、これからどうするんだ。そんな圧を田辺さんから感じた。一通り憤った後、品出しをしていた手がぴたりと止まる。
しかし、確かに。この期間、私は何をしていたのだろう。
あの後、花咲ちゃんと出会って毎日の楽しみが増えていた。諦めかけていた夢を、また希望を持つことができるようになった。
そう、確かに楽しかったのだ。仕事を探すふりをしながら、頭では別の妄想に浸っていたあの日々は。
彼女に褒められることで、認めてもらうことで、自分はまだ夢を見ていて良いのだと、そう思い込んでいた。だから私は、空いた時間をイラストに費やして、いつか大成して彼女にもっと見てもらいたくて。全てを捧げようと必死にやってきた。
そうして、この数ヶ月何を得たのか。あれだけ頑張ったイラストも、結果として多少の反応が増えただけだ。それを私は何を達成した気でいたのだろう。
すっかり活動しなくなったアカウント、私の小さな楽園。もう覗く気力もない。今はただ、その原因となった少女のことしか頭になかった。
あの日、あの子に出会っていなければ、夢なんてすっぱり諦めて正しい道に進めていたはずなのに。今頃は別の職場で、絵のことなど忘れて新しいスタートを切れていたはずなのに。
私の中で悶々としていた黒い感情が、みるみる憎悪に変わっていくのを感じた。
ふと花咲ちゃんの笑顔が浮かんだ。私の絵を褒めてくれたあの顔が、どうして。どうしてこんなにも憎らしく思ってしまうのだろう。
「……せん、すみません!」
突如、肩を触られビクッと跳ね上がる。振り向くと見知らぬ女性が立っていた。
「あの、これってどこに置いてます?」
女性は立て続けに話しながらスマホの画面を見せた。そこには有名メーカーの新商品である調味料の画像が映っていた。
「ご案内します」
私は仕事中だったことを思い出し、手に持っていた商品をカーゴに戻した。
仕事上がり、次の従業員に引き継ぎすると「全然終わってないじゃん」と小さく吐き捨てられた。同時刻に上がる田辺さんがこちらに迫ってくるのが見えて、私はすみませんとだけ謝り、足早に出口へ向かう。
帰り道、いつもの河原沿い。つい先月まで私はここで放課後を待っていた。形だけの仕事探しをしながら、時にスケッチをしながら。
川は相変わらず陽の光を受け、輝いている。秋風が静かに水面を揺らす。土手の上からその光景をしばし眺め、一縷の思いを馳せる。
だんだんと過去の自分の残像が浮かび上がってきた。ただ一人、背中を丸めて今か今かとあの子を待っている。その後ろ姿のなんと滑稽なことよ。
私はふっと鼻で笑う。次の瞬間に幻は消えていた。




