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残暑の中、急いで街を駆け回る。銀行とスーパーで用事を済ますと、息も絶え絶えに最終目的の河川敷にたどり着く。もう小腹が空いたどころではなかった。
私は定位置に座ると、買ったばかりのパンを袋から取り出し、粗雑に頬張る。ものの数分で平らげると、熱気とパンに奪われた水分を取り返すように、お茶を一気に流し込む。
やっと落ち着くことができた私は、スマホで時間を確認した。と同時に、一番乗りで下校していく男児グループの話し声が背後から聞こえた。
私はそのままスマホをいじりながら、あらゆる可能性を考えた。
今日も四人で帰って来るかもしれない。その場合、なんとか引き留めて、このプレゼントだけでも渡せないだろうか。
休み明けからまだちゃんと話せていない。せめて少しでも、花咲ちゃんと二人で話す機会があれば……。
そう悩んでいると、突然肩をポンと叩かれ、私は思わず小さな悲鳴を上げた。
「芽生ちゃん!」
「えっ?花咲ちゃん……!」
そこには、今まさに願っていた状況で、少女が一人で立っていた。彼女は以前のように私の右隣へゆっくり腰掛け、ふぅと一息ついた。
「今日は一人なんだ?」
私は高揚を抑えながら問いかける。
「うん。教科当番はまだ一学期のままだから、他の三人は準備の手伝いで残ってるの」
「そうなんだ」
私は心から安心した。何に対してこれほど緊張していたのか自分でもわからなかった。
「でも明日変わるから、それからは四人で同じ担当グループになるの」
「あぁ、じゃあ帰るタイミングもみんな同じになるの?」
花咲ちゃんはとても嬉しそうに大きく頷いた。
その瞬間、放課後二人きりで居られるのはおそらくこれが最後なのだ、と直感的に悟った。
黒いモヤがまた心の奥から立ち込めてくる。なぜ私は、花咲ちゃんとの時間にこれほど固執してしまうのだろう。
「ねぇ、芽生ちゃんさ」
そんな私の気持ちなどつゆ知らず、彼女はマイペースに話しかけてくる。
「ん?なに?」
「まだ私のアカウント許可してない?フォロバしたんだけど」
「あっ、ごめんね。やっとくやっとく」
私は慌ててスマホを操作する。自分は花咲ちゃんの投稿が見れるため、うっかりしていた。
相手が鍵アカウントの場合、フォロー許可の設定をしてもらわなければ、一方通行でしか見られないのだった。
SNSを開くと、自動的におすすめされたタイムラインが表示された。フォローバックをしようとタブへ指先を向かわせたが、ある一つの投稿が目に留まる。
「え、これ……花咲ちゃんが?」
「へ?あぁ、それ?」
気の抜けた返事と対照的に、私の心は急激にざわつき始めた。そうだよ、と続けて花咲ちゃんは笑う。私は思わず息を飲んだ。
そこに見えたのは、一枚のイラストだった。「某作品キャラ描いてみたよー」というシンプルなキャプションとともに、茶髪の女の子が正面を向いて笑顔でポーズを取っている画像が添付されている。
最初に花咲ちゃんと会った時、私が描いてあげた作品のメインキャラクターの一人だ。それは誰が見ても判別できるほど、特徴をとらえられている。
そして何より、胸上までしか描かれていない構図だが、それだけでも十分に画力が高いことが分かる。全体の雰囲気がまとまっていて、髪の毛や服の皺、装飾など細かい部分もしっかり描き込まれている。さらに一番驚いたことは、デジタルで色塗りまでできているところだ。
自分の目に映っている、これは本当に彼女のイラストなのか?夏休み前と比べると、明らかに画力が上がっている。
目を見開き戸惑っている私を、花咲ちゃんは不思議そうに覗き込んだ。
「花咲ちゃん、いつの間にこんな……」
私の言いたいことを察したのか、花咲ちゃんは指を頬に添えながら簡単に説明し始めた。
「あのね、私イラスト描くのはまっちゃって、夏休みもずっと描いてたんだ。お母さんもお父さんも友達も褒めてくれるから。それでずっと練習してたら、お父さんがペンタブっていうのをプレゼントしてくれて」
淡々と話す花咲ちゃんの話を、必死に理解しようと頭を回転させる。
「それっていつ頃……?」
「うーん、八月の頭くらいかな。それでね、嬉しくなってネットで描き方とか勉強して……友達と遊ぶとき以外はだいたい描いてたかなぁ。パソコンは家族共有だからお父さんとか使ってないときにね」
「そう、なんだ……」
言いながら、私は自分の顔が引き攣っている事に気づく。
たった一ヶ月で?ここまで?にわかには信じられなかった。確かに元々花咲ちゃんには絵の才能はあると思っていた。しかしまさか、こんな短期間で大幅に技術が上がるとは考えられなかった。
粗探しをしようと思えば、まだ指摘できる箇所はいくつかある。しかし、彼女の年齢を考慮すれば、それは目を瞑れるほど些細なものであった。
パッと見た第一印象で、咄嗟に思ったことが全てだ。ただ『上手い』と。
「ね、どうかな?頑張って練習したんだよ」
「うん、すごく、上手」
平静を装いながら、なんとか言葉を紡ぐ。
「ほんと!?思い切って上げてよかった。昨日初めてイラストをアップしたんだけどさ」
花咲ちゃんは楽しそうにイラストの制作過程を語り始めた。
あまりにも親や友達が褒めるものだから、ネットにアップして他の人の反応も欲しくなったのだとか。そして勇気を出して、全体公開のままにしていた自分のアカウントに投稿してみたという。
「みてみて、こんなにいろんな人からの反応貰えたんだよ」
花咲ちゃんが指差した先を見てぎょっとした。それはその投稿に対する『いいね』の欄。その数はなんと五百を優に超えていた。
「友達しか見ないと思ってたんだけど、なんか急に知らない人たちから返信きてびっくりしたよ」
花咲ちゃんは、そのまま指先だけで私のスマホを操作し、リプライの欄をスクロールした。
『えっ、上手すぎ』
『小学生?レベル高っ!』
『私もこのキャラ好きです。上手ですね』
『フォローしました!また描いてほしいです』
ざっと見たところ、肯定的な反応が殆どだ。主に絵の上手さを褒める内容、彼女が小学生という事実に驚いている内容などだ。
そういえば、プロフィールには正直に年齢の表記をしていた。偶然イラストを見かけ、気になった人がホームまで飛んで確認したのだろう。そして、普段呟いている内容や写真から、正真正銘の子供だと判断したのだと思われる。
「突然通知がたくさん来て、寝る前だったから逆に目が覚めちゃった」
たった一枚投稿しただけで、これほどの反応があるとは彼女も予想していなかったようで、少々困惑気味に話した。
私は愛想笑いを返す。何故か言葉が詰まり、全身が徐々に冷えていくのを感じた。
「それにさ、嫌な言葉もあって」
花咲ちゃんは溜息をつきながら、ぽつりとこぼす。視線と画面へ戻すと、十数件来ていたコメントの中で、一部の心無いものが目についた。
『どこが上手いの?』
『小学生ならこんなもん』
よくある誹謗中傷だ。嫌いなものにわざわざ因縁をつけにいく、ネット弁慶たちの戯言だろう。
自分にはできない嫉妬心から、持て囃されている相手に攻撃してしまうのだ。全く情けないと思う。
突然ネットの暗い部分に触れてしまうなど、小学生の花咲ちゃんには辛いだろう。私は自身の異変を悟られぬよう、小さく深呼吸してから口を開く。
「ひどいね……あんまり気にしない方がいいよ」
気を遣って声を掛けたが、予想とは裏腹に明るい声が返ってきた。
「大丈夫!お母さんたちにも同じこと言われたから」
彼女はあっけらかんとしている。本当に気にしていないように見えた。
「え?親に見せてるんだね」
「うん。最初にアカウント作ったときに言ったよ。そしたら何かトラブルが起きたら危ないから、嫌なこととか変だと思ったら報告してって言われてさ」
どうやら花咲ちゃんのアカウントは、しっかり親が管理しているようだ。元々公開アカウントであったことは気がかりだったが、どうやら杞憂だった。両親の監視下にあるなら、変なことには巻き込まれないだろう。
「別に無視すればいいだけだし、どうでもいいよ。こんなの気にするより、他のことしてた方が楽しいし」
「……強いね」
私は本心から言った。本当にこの子は太陽みたいに、花みたいに明るくて綺麗な心の持ち主なんだと改めて感じられた。
「本当は秘密の話とかもしたいけど……」
そう言って苦笑いした花咲ちゃんを見て、ふと彼女の両親とのエピソードを思い出した。彼女なりに両親の気持ちを汲み取り、素直に従っているのだろう。
「あっ、でもね!普段の呟きは毎回チェックされてるわけじゃないよ。私が気になったときに報告するスタイルだからね」
両親をフォローするように、慌てて取り繕う。続けて、念の為ね、と照れ笑いした。私はそれに合わせて、空笑いをする。
「どうしたの?芽生ちゃん」
「え?何が?」
見透かしたように彼女がふと尋ねる。
「なんだか顔色悪そう。暑いの?」
「あぁ、うん。最近は九月でもまだまだ暑いよねぇ」
私は滲み出てくる汗を手で拭いながら笑顔を作る。
「ほら、蝉もまだ鳴いてる」
対岸に連ねられた並木たちを指差し、花咲ちゃんの視線を私から逸らす。蝉たちは周囲の喧騒に負けじと精一杯鳴いている。
普段気にならない音も、集中して聞くと耳から離れなくなる雑音と化す。ミーンミーン。その音は自ら誘導した私の鼓膜にも響き始めた。
「意識すると余計大きく聞こえる」
花咲ちゃんは眉間に皺を寄せこちらに向き直る。私はなるべく、さりげなく、問いかけた。
「ねぇ、これさ」
「うん?」
花咲ちゃんは片耳を寄せながら聞き返す。さらさらの髪が頬に触れそうになる。
「これからもイラスト、アップする感じ?」
絞り出した声は、自分が思っていたよりも小さかった。しかし、ちゃんと彼女には聞こえていたようで、定位置へ身体を戻すと
「うん!」
と眩しく笑った。
「……でも、また知らない人からたくさん連絡きちゃうよ?ほら、もしもっと多くの人の目に触れて、傷つくこと言われる数も増えたら嫌じゃない?」
私は先程の懸念を口にする。それは彼女の為、というよりは自分の為の助言だった。
「大丈夫だよ。なんかあったら親に言うし。私も気にならないし」
でも、と私はまたも反論の言葉を口に出す。しかし、その上からさらに花咲ちゃんが言葉を被せてきた。
「前までなら周りの目、気になってたかも。でもね、今は近くに友達がいる、お父さんとお母さんもずっと見守ってくれてる。私には味方がいるって分かってるから。それにね……」
花咲ちゃんは私の目をまっすぐ見つめながら言った。
「芽生ちゃんがイラストの楽しさを教えてくれたから。だからこんなに描けるようになったの。それでいろんな人に見てもらえて嬉しかったし、もっと描きたいって思ったから」
私は愕然とした。目の前にいるこの清らかで素直で心優しい少女に、ここまで言われて、これ以上私が何を言えよう。
太陽が反射した輝く瞳から、彼女の芯はブレることなどないのだと突きつけられた。
同時に我に返った私は、今何をさせようとしていたのか、自分の行動に戸惑った。
「そ、そう。ありがとう」
少し震えた声だったが、彼女はそれに気づかなかった。
「だから芽生ちゃんも見ててね。って、そういえば芽生ちゃんはネットにあげてるの?」
「ううん、私はネットには載せないんだ」
咄嗟に嘘をつく。
「えー意外だなぁ。芽生ちゃんくらい上手ければ、絶対もっと人気あるよね!」
悪気のない言葉が刃となって刺さる。私は引きつった笑顔で、彼女のお世辞を聞き流していた。
やがて、後ろから騒がしい集団の声が聞こえ始める。その声の正体たちは、一瞬ぴたりと止まってから意気揚々と叫んだ。
「花咲ちゃん!」
「あ、みんな!」
花咲ちゃんの嬉しそうな声が響く。すぐさますくっと立ち上がり、呼ばれた方へ駆けていく。当番が終わった友人らと合流した彼女は、笑顔で振り返った。
「じゃあね、芽生ちゃん。また会えたらねー」
そうして再び、彼女はあっさりと、明るく去っていった。
そこで初めて、私は時間を潰すために利用されていたのだと気づく。私は貼り付けた笑顔を崩せないまま、呆然と座り込んでいた。




