8,愛のままに我儘に私はシャンプーを入れ替えない
まさか、まさかの昴君は社長のお孫さんだった。
『じじい』は見た目がそうだからというわけではなく、『おじいちゃん』と愛称で呼ぶようなものだったみたい。
「それにしても……」
昴君の食欲には圧倒された。
気持ち良いくらいによく食べてくれた。
はた目から見たら仏頂面なんだろうけど、もう私には分かる。
彼はご機嫌で、浮かれていた……と思う。
「お家でもよく珈琲を淹れるの?おじいさまに教わったって言ってたよね?社長でしょ?」
「淹れねえよ」
「あら。意外。でも、そっか、だからわざわざ店舗に飲みに来られたのかな?職場にちゃんと馴染めてるか心配されてたのかもね」
「知らねえよ」
気を遣って話を盛り上げようとしてるのに、ぶっきら棒な一言しか返ってこない。
でも、これが昴君らしくて、ほっこりしてしまう。
「さっき、叩いちゃったけど、ごめんね」
さすがにお尻を叩くなんて、店長が部下にやっていい事じゃなかったと反省している。
「いいよ。女アレルギー発動しねえし」
「あ。それなんだけど、私だからっていうんじゃなくて、『おばさん』のことは『女』認定してないだけなんじゃない?」
自分のことを『おばさん』って初めて言った。
少なからぬ衝撃を受けて……くらくらしてくる。
「年齢は関係ない」
「そうなの?じゃあ、目上の女性って言うか、親しくなり得ない関係の人にはアレルギー反応を起こさないとか……」
昴君は私の言葉を無視して、「すみません」と店員を呼んだ。
「トッポギ追加でお願いします。あと、ウーロン茶おかわり」
そう言って、空いたグラスを手渡した。
「あ、気が利かなくてごめんね……」
テーブルに残っているお皿をきれいに並べていた。
「ほら」
昴君がそう言って、Tシャツの首をグインと下げた。
「え……」
赤いポツポツが広がっている。
「あのおばちゃんと指が触れた」
「そうなの?こんな一瞬で?痛くない?大丈夫?」
昴君は黙ってニヤニヤしながらチキンを口に入れた。
***
昴君と別れて、一人帰路につく。
「まったくもう……」
あの若い男の子に振り回されて、疲れちゃったよ。
ふと、通りがかったドラッグストアでシャンプーの新商品が目に入る。
昨日、詰め替えたばかりだけど……
人の目を気にしない昴君に、私はある意味感銘を受けていた。
自分をしっかり持っていれば、他人の評価は気にならないのだと。
テレビコマーシャルで流れていた、フローラルのシャンプー&コンディショナーを買ってしまった。
ピンクのボトルをぶら下げて帰る。
もう誰に気遣う必要もない。
好きにさせてもらおう。
***
「おぉ!おぉ!」
小さく驚きの感嘆を漏らしながら、頭を洗った。
なんていい香り、なんて素晴らしい泡立ち……
これを今まで知らずに生きてたなんて、損した気分。
昨日は、一人でお風呂ではしゃいでしまった。
あまりにも気分が上がるので、今朝は朝シャンまでしてしまったくらいだ。
「おはよう、昴君」
「おはよう、店長」
『ございます』はまあいいか。
お客さんにはちゃんと挨拶してるし、私は『身内』ってことで。
「店長、匂い」
「え?」
「変えた」
私に近付いて、耳のあたりをくんくんと嗅いでいる。
「ああ、シャンプーをね……分かるんだ。さすが、鼻がいいんだね。あのさ、ちょっと、距離近くない?」
ふんっと振り返って行ってしまった。
昴君は私と身長が変わらない。
だからだろう……
ドキドキしてしまった。
「気を付けろよ」
声と同時に、背中にドンッと軽い衝撃があった。
「山室君、おはよう」
ドキドキしてたことを見抜かれてしまったようで恥ずかしい。
「息子だっておかしくない歳だぞ。いくら彼氏にフラれて寂しいからって、手を出していい相手じゃないだろ」
「そんなつもりじゃないよ。ちょっと距離感バグってるって、今、注意したところだし」
「ふーん。分かってるならいいけど」
意地悪な言い方するな。
山室君と睨み合っていたら、昴君がコーヒーカップを両手に持ってやって来た。
「はい」
私と山室君にひとつずつ。
「淹れてくれたの?」
カップを口まで持ってきたとき、鼻に通る華やかな香り……
(これ好き)
一般的に『美味しい珈琲』というのは存在する。
苦み・酸味・甘味・コク・後味とバランス、この味の構成が豆の産地や焙煎など様々な要素と絡み合って、最終的にはバリスタの抽出技術でどう引き立ってくるか……
この一杯は、これまでの昴君の珈琲とは少し違う。
でも、私はこっちの方が『好み』だった。
「昴、なに変えた?ずいぶんと……華やいだ……って言うか、お花畑みたいな香りだな。店の豆だろ?なんでこんな味出るんだよ」
山室君の言う通りだ。
やりたくて、やろうと思っても出来ない芸当を、昴君は無自覚にやっている。
「店長が好きかなって」
あ。シャンプー。
私が好きなフローラル……だよね……
さっき私の髪の匂いを嗅いで、インスピレーションでできちゃうわけ?この珈琲が?
「へえ。そういうこと」
じとっと目を細めて、こっちを睨む山室君。
「そんなんじゃないってば」
「あれ?好きじゃない?」
「あ。違う。昴君に言ったんじゃない。好きだよ。こういうのすごく好き。ありがとうね」
珈琲が好きだって言ってるのに、『好き』って言うのが恥ずかしくて、赤くなってしまった。
「さあ、店開けるぞ」
山室君の合図で、はっと我に返る。
飲みかけのマグカップを持って、更衣室に行く。
スツールに腰掛け、続きを堪能する。
舌に触る繊細なフレーバー、鼻から抜けるアロマ、その余韻に浸りきる。
(最高)
これは、私史上一番美味しい珈琲に違いない。
そして、これをおそらく私の為に淹れてくれた昴君を思い浮かべる。
胸がぎゅっと締め付けられる。
彼の根底にあるのは恋愛感情じゃないと思う。
ただ、アレルギー反応が起きない私を珍しいと思って接しているだけだ。
20歳も離れてるんだよ?
私が昴君の歳の頃には、もう弘春と付き合ってたんだよ?
非現実的な恋愛の年齢差に愕然としながら、自分の心の持って行く場所を探す。
彼は、美味しい珈琲を淹れたいだけ。
相手の好みを読み取る能力に長けていて、それを天性の才能で表現できるだけ。
勘違いするな、瑠璃。
万が一、勘違いじゃないとしても、勘違いを押し通せ。
……大人なんだから。
***
制服に着替えてカウンターに入った。
朝食を兼ねて来てくださるお客様のオーダーに、目まぐるしくスタッフが動く。
レジに立ち、違和感のない微笑みを浮かべて接客をしている昴君を見て、彼の方が大人かもって思った。
(ダメだダメだ)
あり得ない恋愛を妄想している暇なんてなかった。
ここは一等地のオフィス街にある店舗。
採算の取れない売上の店舗は容赦なく閉店させられてしまう。
全体の流れを読んで、足りないところへサポートに入る。
カウンターから出来上がったホットサンドを持って、テーブルのお客様に運ぶ。
戻るときに、空いたテーブルを片付け、ダスターでさっと拭く。
「いらっしゃいませ」声をかけつつ、お水を補充して歩く。
テイクアウトの袋詰めと手渡し……
やることは次から次へと湧いてくる。
「瑠璃、ちょっといいか?」
山室君に呼ばれる。
「『こだわりさん』が来てるんだけど、昴に淹れさせてもいいか?」
『こだわりさん』とは、黒縁メガネをかけた中年男性で、当店のメニューにある唯一の『ハンドドリップ』の注文をくださるお客様だ。
マシーンを使う珈琲がメインなので、ハンドドリップの注文は山室君がいつも淹れていた。
「昴君、大丈夫かな?」
「むしろ俺より喜ばれるだろ……」
すっかり自信を喪失してるっぽい同期の肩をポンポンと叩き、励ます。
「山室君が付いててあげてね。『こだわりさん』がお気に召さなければ、山室君が淹れ直して差し上げて」
「おう」
『こだわりさん』はいつも、カウンターの前に立ったまま、珈琲を淹れるところをじっと見てお待ちになる。
それは、手が震えるほどの緊張感があって、私には耐えられない。
昴君は大丈夫かな……
遠目でちらちらと確認しながら仕事をした。
昴君が淹れた珈琲を持って、『こだわりさん』がテーブルに着く。
口元にカップを持って来て、驚いたように一度離す、そして中を見つめて匂いを嗅ぎ直した。
いつもと違うって思われたんだな。
息を詰めて様子を見守る。
『こだわりさん』は珈琲を口にし、僅かに口角を上げた。
(おめでとう、昴君)
レジ打ちをしている男の子に、心の中で拍手を送った。




