7,愛のままに我儘に私はシャンプーを入れ替えない
広めの2LDK。
通勤を重視した、最高の立地。
仕事の都合ですれ違う生活なんてしょっちゅうだった。
部屋に一人なんて珍しい事じゃないのに、『誰も帰ってこない』と意識した途端に寂しさを感じる。
久しぶりに湯船にお湯を溜める。
「そうだった……」
シャンプーが切れかけてて、予備のを買ってあったんだった。
洗面台の下からいつもの詰め替えを取り出す。
実は、このシャンプーが好きじゃなかった。
草みたいな香りがする。
私はもっと花みたいなのが好きなのに。
弘春がこっちがいいって言うから、これくらい好みに合わせてあげてもいいかなって、何となく同じものを買い続けていた。
「次は違うのを買おう……」
もこもこと泡立てて、頭を洗った。
***
出勤するなり、山室君と昴君が言い合いをしている。
「どうしたの?」
聞かないわけにはいかない。
「どうしたもこうしたも、昴がラテアートを教えろって直談判してくるんだよ。勘弁してくれよ。京介でいっぱいいっぱいだっての」
そういう事ね。
「昴君。勉強意欲があるのはいい事なんだけど、ハンドドリップが得意なあなたのセンスを伸ばし切る前に、マシーンを駆使するラテアートを教えるのは、もうちょっと待ちたいんだけど」
「は?」とパグ顔。
「ゆくゆくはタイプの異なる珈琲をどれも最上級に淹れられるようになるわよ。でも、私は昴君の特性を生かして、唯一無二の武器となる、あの最高のハンドドリップを極めて欲しい」
「極める?」
「そう。自分では気付いてないみたいだけど、本当に美味しいのよあなたの珈琲。どうしてかは私にもまだ分からないけど……山室君もそう感じてるよね?」
「ああ。瑠璃のいう通りだ」
分かって欲しい。
新しい事を学ぶのは楽しいし、挑戦のしがいがあるんだよね。
だけど、今はそのフェーズじゃない。
「店長は……」
珍しく昴君からしゃべりだした。
「砂糖、入れんのかよ?」
うーん……どうかなその言葉遣い……
「基本的にはブラックが好きだけど、たまに砂糖とミルクの入った珈琲も飲みたくなるかな。どうして?」
無視された。
まあ、今は業務時間内じゃないし、昼間の接客で昴君が慣れないことを頑張っている姿を見ているので、この言葉遣いについては大目に見ることにした。
「なんかさ、お前、昴に甘くない?」
(ギクッ……)
「そうかな?ほらあの子、ちょっと気難しいところあるし。でも真面目に頑張ってるみたいだから、あの子のペースに合わせてあげたいかなって」
苦しい言い訳だよね。
分かってる。でも、本当、母心ってこういうのかなって……
そんな感じなの。分かって。山室君。
「まあ、分からないでもないけど」
感謝しかない。
「実はね、今日は本店からの視察が入るっぽいの。スタッフには知らせないようにって言われてるんだけど、一応、山室君の耳には入れておこうかなって」
「お忍びな感じ?今までこんなことあったか?」
「そうそうお忍びだって。って、私に知らせるのもどうなの?思いながらも、こんなの初めてだし、驚いてるよ。昨日、いきなりメールがきてさ。何もしなくていいんだって」
「へえ。本社も暇なんだろうな」
ちょっと笑っちゃった。
***
7時の開店と同時に、店内で仕事をされる方と、テイクアウトのお客様でごった返す。
京介君と昴君はレジに立ち、注文をさばいてもらい、熟練のバイトさんたちにオーダーをこなしてもらう。
朝の2時間で、その日の売上の20%が決まるから気が抜けない。
まさか、こんな時間に本店のお忍び視察が来ることはないだろう。
と、気を抜いていた、8:50……
「おい!じじい、何しに来たんだよ!」
レジから昴君の悪態が聞こえてきた。
「申し訳ございません!」
慌てて駆け寄り、昴君の後頭部を押さえて、頭を下げる。
「はあ?」とんでもなくパグ顔に、私もパグ顔を返す。
(い・い・か・ら・謝・れ!)
口の動きだけで申し伝え、昴君の頭をぐいぐいと押し下げる。
「ま、まあまあ……」
パステルブルーのシャツに、ライトグレーのスラックス、整えられた髪の分け目……はて?どこかで?
「しゃ、社長!」
山室君が全速力でやって来て、腰を90度に折った。
(そうだ!思い出した!)
年に一度しかお会いする機会はないけど、全国区のコーヒーショップを展開してる、我が社の社長だった。
昴君ったら、寄りにも寄って、本社の社長に向かって悪態ついて……許さないぞ……頭を押す手に力が入る。
「いてえって!」
とうとう手を突っぱねられて、昴君が顔を上げてしまった。
(終わった……)
「コイツは客じゃないから」
確かにそうかもしれないけど!社内の人は身内って言えなくないけど!
「カウンターの向こう側にいれば、皆さま、お客様です!」
私は昴君のお尻を思いっきり引っ叩いた。
「……!なにすんだよ!」
歯向かってくる昴君をとっ捕まえて裏に連行する。
「いいって言うまで、ここにいなさい!」
怒鳴りつけてカウンターに引き返す。
社長は『本日の珈琲』をテーブル席でお召しになっていた。
「……あの……従業員が不手際を……申し訳ございません。今年入社したばかりでして、珈琲のセンスは抜群なんですが、接客態度が……壊滅的……ではないと思うんですが……その、ちょっと指導が至らず……本当に申し訳ございません!」
土下座したいくらいだった。
トラブルをこれ以上大きくしないために、謝罪を受け入れてください。
お願いですから、私の処分だけで済みますように。どうか穏便に……
「彼はいつもあんな調子なのか?」
「いいえ。まさか。若干、笑顔は引きつっていますが、あんな暴言は今日が初めてです」
「そうですか。店長さん、あんな人物は我が社の顔として相応しくないのでは?手に余るようなら本社に送り返してくれて構わないのですよ?」
そんな……そんなことしたら、昴君が解雇されちゃう!
「彼は会社に必要な人材です。彼のハンドドリップの珈琲は、どう申し上げたらいいか……控えめに言っても日本一でして……接客態度がよくなかったのは、私の指導が至らなかったせいですので、どうか……」
処罰するなら、私だけ。
「ほほう。それは……味わってみたい」
「はい?」
やば。ちょっとパグりかけちゃった。
「その『控えめに言っても日本一の珈琲』に私が納得できれば、彼の悪態は不問にしましょう。呼んできて、彼に珈琲を淹れさせなさい」
「は、はいっ!」
やむを得ず、裏に昴君を呼びに行く。
「ハンドドリップをお願いします」
「やだ」
ツンとそっぽを向いてる昴君のほっぺを摘まむ。
「やだじゃない!業務命令です!今すぐ行きなさいっ!」
こんなに大人気なくキレたのなんていつぶりだろう……と、冷静な私がどこかで見ている。
「従ったら?」
「は?」
「従ったら、何か貰える?」
「馬鹿言わないで、従わなかったらあなたの首を貰うわ。あなたが得るものはありません」
小さく溜め息をついて、上を向く昴君。
「え?まさか断らないよね?」
急に小心者になってしまった。
「断る」
「だめ、だめ、それはだめ。断るの禁止」
必死でくい止める。
「じゃ、メシ」
「は?」
「晩飯でいい」
そんなんでいいの?
「上手くやってよね」
なぜか握手を求められ、応じてしまった。
「交渉成立」
***
あれから昴君はいつも通り『完璧』な珈琲を淹れた。
社長のみならず、お付きの人、私、山室君、京介君、バイトも総勢で頂いたにも関わらず、それは誰一人として有無を言わさない圧倒的な旨さを証明した。
「よかったね。認められて」
昴君のリクエストで、『チーズダッカルビ』が人気の韓国料理レストランに来た。
「当たり前だ」
自信たっぷりな姿が、清々しく感じてしまう。
「どうしてあんな悪態ついたの?」
疑問に思っていたことを聞いた。
「じじいに、じじいっつって何がいけないんだよ」
肘ついて、お箸振り回して、お行儀が悪いぞ。
「そうは言ってもお客さんでしょ?」
「客じゃねえ、身内だよ」
「一応、社内の人ではあるから、言いたいことは分かるけど……」
「一緒に住んでるじじいに、じじいっつって何がいけないんだよ」
え……今、なんて言った?
「一緒に住んでるの?社長と?」
「そうだよ。この後、帰ったら顔合わせるんだよ。まじ、勘弁」




